2020年4月19日から当面の間、教会学校休止のため、主日公同礼拝で、「子ども説教」がある関係で、ウェストミンスター小教理問答と使徒信条の解説はお休みします。

2020年4月12日 ウェストミンスター小教理問答 問100

主の祈りの序言は、私たちに何を教えていますか。

(「天にまします我らの父よ」という)主の祈りの序言が私たちに教えている事は、私たちを助ける力と志をもっておられる神に、全くきよい崇敬と確信とをもって、父に対する子のように近づくこと、また、私たちが他の人々と共に、他の人々のために祈らなければならない、ということです。

 「主の祈り」における、最初の呼びかけは、天にいます、神ご自身への崇敬と確信の思いを込めながら、とても親しく神との交わりを告白するものです。

 主イエスご自身、十字架の死から三日目に復活され、マグダラのマリヤに「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(ヨハネによる福音書20章17節)と、言われました。

 それは、御子と御父の関係と、御子の贖いにおいて神の子とされた者たちと御父の関係は区別されるものでありながら、決して切り離して考えられるものではありません。むしろ、主イエスは、「わたしたちの父よ」と神を呼ぶ祈りにおいて、「わたしたちの祈りの土台となるべき 神に対する子どものような畏れと信頼とを、わたしたちに思い起こさせようとなさ」っておられます。それは、ただ、「神がキリスト(御子)をとおしてわたしたちの父となられ」たゆえです(ハイデルベルク信仰問答120)。

 放蕩息子のたとえ話で、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカによる福音書15章20節)ように、神の愛は、罪と死への恐れに悩む、わたしたちに対して、御子の贖いにおいて、限りなく憐れみ深いものとして示されています。「わたしたちの父よ」と神を呼ぶ度毎に、全世界のすべての人々が、主のもとに来ることができるように、神の愛とまことの救いを求めて祈りましょう。

 聖書の言葉

 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。

                      ガラテヤの信徒への手紙4章6節

わたしたちの祈り 

 

 天にいます、わたしたちの父なる神さま、あなたは、この世のただ中に、愛する独り子を遣わしてくださり、その十字架の死と復活において、わたしたちに、御子の命と罪からの救いを与えてくださいました。この救いの命をもって、あなたのことを、わたしたちの父と呼ぶ、神の子とされたことを感謝いたします。どうか、御子の復活を信じ、あなたを父よ呼ぶ人びとが、あなたに信頼し絶えず祈る者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2020年4月5日 使徒信条

主は・・・苦しみを受け・・・

 イエス・キリストは、弟子のペトロの名前を呼んで「あなたはペトロ(岩という意味)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイによる福音書16章18節)と約束されました。

 それは、ご自身の教会が固い土台の上に建てられることを約束してくださったものです。この土台とは、神の言葉(御言葉:聖書)であり、キリストご自身のことです。わたしたちは、聖書に基づく、福音の真理であります、十字架と復活の主、イエス・キリストを、すべての人々に宣べ伝えています。

 主イエスがご自身の教会を、御言葉の上に建てられることを約束してくださったときから、「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められ」ました。

 「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始め」ました。「『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」(マタイによる福音書16章21~23節)

 このように、主イエスの苦しみを受け入れることは、弟子たちには到底考えられないことでした。しかし、主イエスは、陰府という死を恐れさせ、人々を不安に陥れる、悪魔的な勢力も、教会建設に対抗できないことを約束されたばかりでなく、エルサレムで、人々の手によって多くの苦しみを受けて殺されること、そして、十字架の死から三日目に復活することを、予告されました。

 主イエス・キリストが、「神の御前に罪を償う唯一の供え物として、その苦しみによって、わたしたちの体と魂を永遠の刑罰より贖い出し、わたしたちのために、神の恵みと義と永遠の命を得てくださった」(ハイデルベルク信仰問答35)と信じ、自分の十字架を負う者として、苦難を忍び、主に従っていきましょう。

 聖書の言葉

 (主よ、わたしの主よ、神よ)あなたは多くの災いと苦しみを わたしに思い知らせられましたが 再び命を得させてくださるでしょう。詩編71編20節

わたしたちの祈り 

 

 わたしたちの父なる神さま、わたしたちが、様々な災いと苦しみを思い知るとき、あなたはそのすべてを知っておられます。そればかりか、御子がなぜ、十字架の苦しみを受けられたのか、という御言葉の真理を明らかにしてくださることを感謝します。御子を救い主と信じることだけでなく、主のために苦しむことをも恵みとして与えられていることを信じ、人々のために執り成す者とならせてください。教会の頭、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2020年3月29日 ウェストミンスター小教理問99

神は、私たちに祈祷を教えるため、どんな基準を授けていてくださいますか。

神の御言葉全体が、私たちに祈祷を教えるのに役立ちます。しかし、その特別な指導基準は、キリストが弟子たちに教えられた祈祷文、いわゆる“主の祈り”です。

 神の御言葉である旧新約聖書の全体において、わたしたちは、祈ることを教えられます。そして、祈りを学ぶことによって、わたしたちは、神に定められたどのような時においても、神との自由な交わりの中で、自分の思いを押し殺したり、隠すことなく、むしろ、神の御心と御業を求めて祈るように導かれます。

 「あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね 火をもってわたしを試されますが 汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けてあなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます。」(詩編17編3~5節)と祈りは、高慢から出たものではなく、むしろ、真剣に神の前に自身の言動を吟味したときに、神に反抗する敵の前に自身の潔白を明らかにするものです。

 その目的は、自らを正しい者とすることではなく、かえって、「主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち わたしの魂を助け出してください」(詩編17編13節)との、神の裁きと救いを求めることにあります。

 主イエス・キリストが弟子たちに教えてくださった「主の祈り」は、主の十字架と復活が成し遂げられた、恵みの時、主に罪赦され、神の子された者たちにとっては、「キリストの救いに生きる祈り」であり、また、罪に堕落した全人類が求めるべき「神との和解を求める祈り」そのものです。

 今日、わたしたちの祈りが、御心に適って清められ、高められ、神の栄光をあらわすために、謙遜に、聖書の全体を学びつつ、とくに「主の祈り」を「わたし(たち)の心」、として、御心に適う祈りをささげ、求めましょう。

 聖書の言葉

 わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄え輝きますように あなたの慈しみとまことによって。 詩編115編1節

わたしたちの祈り 

 

 わたしたちの父なる神さま、今日、わたしたちが、あなたに信頼して祈ることの大切さを教えてくださり、感謝します。わたしたちは、ともすれば、自分の関心事を中心に祈りがちですが、あなたの御心を求めて祈ることを教えてください。そして、様々な危険を身に感じる時にも、真心からあなたに信頼しすること祈り求め、あなたの裁きと救いにすべてをゆだねていくことができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2020年3月22日 ウェストミンスター小教理問98

祈祷とは何ですか。

祈祷とは神の御意志に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。

 始祖アダムおいて罪に堕落した全人類にとって、本来、祈りは、まことの神に向かって祈ることであるのに反して、しばしば、偶像礼拝に陥っています。そこでは、人間本位の願望は求められても、神ご自身の御意志を尋ね求めることはありません。

 しかし、十字架の死から三日目に復活され、天に上げられた御方、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモテへの手紙一1章15節)という、福音を信じる時、主キリストのゆえに、わたしたちのささげる祈りは、確実に、神の約束のとおりに聞き届けられています。

 その時、わたしたちは、主イエスご自身、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書22章42節)と、十字架の死をその身に引き受けられる苦しみの中で、御父にすべてをゆだねて祈られたように祈る者とされます。

 ダニエルは、バビロンの地で、神の裁きのもとで、エルサレムの荒廃の時が終わるまで、主の預言によって七十年であることを知り、悔い改め、罪を告白してこう祈りました。「神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに伏して嘆願の祈りをささげます。」「主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。」(ダニエル書9章18、19節)

  今日、わたしたちも、ただ、心を注ぎだして、神の御心を求めて祈り、罪の赦しと罪からの救いを心から願い求め、主の深い憐れみを信じましょう。

聖書の言葉

 床に就くときにも御名を唱え あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。

                          詩編 63編7節

わたしたちの祈り 

 

 わたしたちの父なる神さま、御子の贖いのゆえに、今、あなたに信頼し、真心からあなたに近づくことをゆるしてくださり、感謝いたします。どうか、どのような境遇におかれても、あなたの御心を求めて祈り、あなたに望みを抱きつつ忍耐し、いつもあなたを喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して、歩むことができますように。そして、あなたが真実な方であることを「アーメン」と告白させてください。主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。アーメン。

 

 

2020年3月15日 ウェストミンスター小教理問97

主の晩餐をふさわしく受けるには、何が求められていますか。

主の晩餐にふさわしく参加したい人には、次の事が求められています。すなわち、主の御体をわきまえる自分の知識・キリストを糧とする自分の信仰・自分の悔い改めと愛と新しい服従について、自己吟味することです。それは、ふさわしくないままで来て、その飲み食いによって自分にさばきを招くといけないからです。

 主イエス・キリストが、十二弟子と過越の食事を共にし、主の晩餐(聖餐式)を制定された時、同席していた弟子の一人イスカリオテのユダは、その夜、イエスを敵の手に渡した後、自責の念にかられ、自ら命を絶ちました。

 しかし、主の晩餐にふさわしい人とは、神の前に罪を示されながらも、この罪のために、主イエスが身代わりとなって、神の前に裁きを自ら引き受けられたことを信じ、「悔い改めと愛と新しい服従」へと導かれるものです。

 それは、ちょうど、十一人の弟子たちが、十字架の死から三日目に復活し、弟子たちの間に現れた主を見て喜び、「わが主、わが神」と信じるように導かれたように、ただ、主の憐れみ深い導きと救いの御業によります。

 この意味で、「主の晩餐をふさわしく受ける」とは、ただ、礼拝の中で、聖餐式が執行されている時にまして、わたしたちの日常生活の中で、絶えず、この主の備えられた恵みの食卓が覚えられていることが大切です。

 そして、わたしたちの日常生活において、キリストを主とお迎えする時、同じ主を告白する教会の交わりにおいて、主の晩餐にあずかる時、わたしたちは、日常生活のすべてにおいて、主を証しする恵み深い、誓いの時を共にするのです。

 聖餐式において求められている自己吟味とは、自分で自分を正当化すること(罪の有無、自覚の程度においても)なく、むしろ、神がすべての罪を知っておられることを信じ、なお不十分な自覚であることを認めながら、キリストからの召しと選びを確かにし、自分のすべてを神とその裁きに委ねていくことです。

 

聖書の言葉

 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。           コリントの信徒への手紙二 13章4節

わたしたちの祈り 

 

 わたしたちの父なる神さま、あなたの深い憐れみによって、今、わたしたちを、あなたの御名において呼ばれる者としてくださったことを感謝します。どうか、わたしたちが、あなたの憐れみによって備えられた主の晩餐を共にする度ごとに、いよいよ、主の十字架と復活の恵みを感謝し、悔い改めと愛と新しい服従について、自己をよく確かめ、主にのみ希望を抱き、互いにゆるしあう者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。アーメン。

 

 

2020年3月8日 ウェストミンスター小教理問96

主の晩餐とは、何ですか。

主の晩餐も、ひとつの礼典です。そのとき、キリストの指定にしたがって、パンとぶどう酒を与え、また受けることによって、キリストの死が示されます。また、ふさわしい陪餐者が、身体的、肉的な仕方でではなく信仰によって、キリストの体と血を、キリストのあらゆる祝福もろとも分け与えられて、霊的に養われ恵みのうちに成長するのです。

 わたしたちが主日公同礼拝で守っている「聖餐式」(コミューニオン)は、宗教改革の時代作成されたこの教理問答のように、しばしば「主の晩餐」と呼ばれます。それは、十字架の死が近づいた時、弟子たちと最後の夜に、過越の食事をした時に、主イエス・キリストによって制定されたからです。

 主イエスは、わたしたちのために、ご自身の体にあずかることを示して、パンを食べ、ご自身の流された契約の血にあずかることを示して、ブドウ酒(汁)を飲むことを命じてくださいました。

 それは、神の義を満たす唯一の完全なキリストの犠牲とそのすべての賜物にあずかっていることを、わたしたちに思い起こさせ、確信させる、恵みの礼典です。

 そして、わたしたちは、ただ、信仰の心をもって、キリストの苦難と、死のすべてを受け入れ、それによって、罪の赦しを得ます。そればかりか、キリストの内にも、わたしたちの内にも、住んでおられる聖霊によって、ますます、十字架の死から三日目に復活され、天に上げられた、キリストの体と一つにされます。

 キリストは天におられ、わたしたちは地上にいるのですが、ちょうど、始祖アダムが、自分のあばら骨から造られたエバを「わたしの肉の肉、骨の骨」と呼び、神の定めにおいて、夫と妻とが、結婚の神聖さを知ることを表明したように、キリストと教会との霊的結合において、神の奥義を知り、世のただ中で、主の契約の祝福を証しするです(ハイデルベルク信仰問答 問76)。

聖書の言葉

 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

                    コリントの信徒への手紙一 1章9節

わたしたちの祈り 

 

 天の父なる神よ、あなたの恵みによって、わたしたち一人一人が、あなたの光の中に自分自身を見、また自分の罪深さを知ることができるように、真理の霊をわたしたちの内に住まわせてください。あなたの御言葉を信仰と生活の基準として、わたしたちの思いと言葉、隣人への振る舞い等において犯した罪を示してください。そして、主の十字架と復活を証しする聖餐の交わりにあずかるために、憐れんでください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2020年3月1日 使徒信条

我は・・・、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、・・・を信ず。

 わたしたちは、父なる神を「御父」(おんちち、みちち)また、子なる神を「御子」(みこ)と呼びます。この「御」という字は、古くは天皇や神々に用いられたものが転用されたもので、唯一まことの神への非常に高い尊敬を表すものです。この「御」の字のない、主イエスの御言葉において、子なる神と父なる神について、このように知ることができます。

 「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(マタイによる福音書11章27節)

 これは、子なるキリストが、ご自身が贖われた神の民、ご自身の体なる教会を治め、保たれ、ご自身の栄光に向かって、導いておられることを教えるものです。その教えは、神の御子の性質を明らかにし、神性と人性を一つの人格の中に持っておられることを示すものです。ただ、神お一人だけが、そのことを十分に知っておられます。もし、子なる神が、ただの人間であるなら、このように、父なる神との関係を密接に言い表すことはできるはずはありません。

 じつは、「子と、子とが示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とは、できるだけ原文に即して訳せば、「子のほかには、だれも、父を知る者はおらず、子は自ら父を示そうとします」です。つまり、ここで、主イエスが言われているのは、本来、御子ご自身お一人だけが、無限、永遠、不変の神を完全に知っておられるのであって、人間も天使も、それを知らない、ということです。

 ただ、御子だけが、神の存在と完全を知っておられます。そして、御子が自ら父を示そうとしてくださる者たちこそ、ご自身の民と言えます。そして、御子自ら御父を示してくださる事においてのみ、わたしたちは、神の存在と完全さを正しく認めるように導かれるのです。ここに、わたしたちのささげる礼拝の理由となる確かな神認識があります。

聖書の言葉

 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

                    コリントの信徒への手紙一 8章3節

わたしたちの祈り 

 

 天の父なる神さま、あなたは、愛する独り子をこの世のただ中にお遣わしくださり、御子自ら、わたしたちにあなたの事を明らかにしてくださることを感謝いたします。「何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」(コリント一8章2節)事を自覚し、あなたの愛と慈しみを知ることにおいて、ただ御言葉の上に、あなたの教会の建設に仕える者とならせてください。教会の頭、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2020年2月23日 ウェストミンスター小教理問95

洗礼は、だれに執行されるのですか。

洗礼は、可見的教会の外にいる人には、キリストへの信仰と服従とを告白するまでは、だれにも執行してはなりません。しかし、可見的教会の会員の幼児は、洗礼を受けなければなりません。

 洗礼の本質とその教育的伝道は、キリストの命を、教会自身の責任において、公的に証することです。ですから、第一に、教会が正しい教会であること、第二に、教会が洗礼を受ける者たちを正しく指導すること、でなければなりません。

 人の目に見える「可見的教会」は、いつの時代においても、すべてにおいて正しい教会であるとは限りません。事実、この教理問答が書かれた前、16世紀の宗教改革の時代、当時のローマ・カトリック教会は信仰的に腐敗していました。

 もちろん、「可見的教会の外にいる人」への教会の使命は、福音を伝えることであって、洗礼から除外されていることを訴えることではありません。ここで、教えられていることは、積極的に言えば、キリストを伝え、キリストへの信仰と服従とを告白する場合にのみ、洗礼を受けられることを意味します。

 警告されていることは、むしろ、キリストの救いについて、信仰も、悔い改めも必要としないような、誤った教えに便乗したような教会と洗礼の在り方です。

 そのような教会も洗礼も、キリストによって祝福されるはずはないのです。

 幼児洗礼の教えは、わたしたちに、洗礼が、主のものであることを明らかにします。つまり、罪人の救いの本質は、人の自覚にあるのではなく、神の契約とその実現の中にあります。もし、罪人の救いの本質が、人間の側にあるなら、わたしたちは、終始、自力で救いを完成させるために頑張る熱心を追い求めることになりかねなません。

 しかし、本当の信仰は、神の恵みによって救われることを告白し、罪から義への方向転換を伴うものです。聖霊の恵みによる新生と回心こそ、すべての洗礼においてしるされている神の業です。主イエスの恵みの中に洗礼を信じましょう。

聖書の言葉

 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。                ローマの信徒への手紙 6章4節

わたしたちの祈り 

 

 天の父なる神さま、あなたは、愛する独り子の命をもって、わたしたちの罪を贖ってくださり、復活の主イエスは、この世のただ中で、この救いを証印し、見える教会の一員とする、洗礼を命じてくださいました。福音を宣べ伝える、世界の公同教会において、同じ洗礼が執行されます。どうか、この洗礼の恵みが正しく覚えられ、一度洗礼を受けた兄弟姉妹を信じ、互いに愛し合う者とならせてください。教会の頭、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2020年2月16日 ウェストミンスター小教理問94

洗礼とは、何ですか。

洗礼とは、ひとつの礼典です。そのとき、父と子と聖霊の御名によって水で洗うことが、私たちがキリストにつぎ木され、恵みの契約の祝福を分け与えられ、主のものとなると約束することを、表わし証印するのです。

 洗礼は、聖餐式とともに、主イエス・キリストが制定された礼典です。それは、主イエス・キリストが、十字架の死から三日目に復活された後、ガリラヤで十一人の弟子たちに命じられたものです。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって(の中に)洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章18~20節)

 このように洗礼は初めから、全世界の人びとが、見える教会の一員とされ、主イエスに従う弟子となることをしるすものです。洗礼を授けられた者たちは、皆、主イエスの命じることをすべて守るように、また、それを、人びとに教えるように命じられているのです。

 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマの信徒への手紙6章4節)と教えられるとおりに、洗礼は、わたしたちを、主イエス・キリストの死の中に招き入れ、復活の命に生きる者とされたことを表します。

 水が注がれることにおいて、罪の洗い清めが示され、三位一体の神の御名において洗礼が確証されます。それは、洗礼は、このように、信者が、確実に、主のものとされ、恵みの契約の祝福を分け与えられたことを証印する「盾」です。

 信仰の試練の中で、絶えず、洗礼の恵みを思い起こし、キリストの命を証する御言葉と祈りを求めつつ、信仰の戦いを新たにしていきましょう。

聖書の言葉

 「・・・わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」     ヨハネによる福音書7章38節

わたしたちの祈り 

 

 天の父なる神さま、わたしたちが一度、洗礼を授けられたことにおいて、あなたの御名において呼ばれる者としてくださり、キリストの命において、死から命へと救いの中に招き入れられたことを感謝いたします。聖霊の恵みによって、一度、新しく生まれた者として、あなたの命令と約束を信じ、従う者とならせてください。教会の頭、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2020年2月9日 ウェストミンスター小教理問93

新約の礼典は、どれですか。 

新約の礼典は、洗礼と主の晩餐です。

 

 新約とは旧約と対の言葉で、新しい契約と旧(ふる)い契約という意味です。しかし、旧いとは言っても、新しい契約は、旧い契約の上に成り立っています。

 旧約における二つの礼典(サクラメント:誓約のしるし)は、割礼と過越祭であり、新約における二つの礼典は、洗礼と主の晩餐です。

 主なる神から、アブラハムと後の子孫との間に契約が立てられた時、「いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。」(創世記17章12節)と命じられました。

 また、出エジプトの時には、「あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」(出エジプト記12章26、27節)との命令のとおり、主の過越における犠牲の必要が示されました。

 主イエス・キリストによって、父・子・聖霊の御名の中に命じられた洗礼は、恵みの契約において、新しい命をしるします。そして、十字架に掛けられる前に、過越の食事において、主イエス・キリストによって、命じられた、主の晩餐(聖餐)は、「新しい契約」が、唯一の完全な犠牲、世の罪を取り除く神の小羊でいます、キリストの命をしるすのです。

 それは、この世において、何かと迷いやすく、さまよいやすい、主に贖われた群れが、いつも、主イエスに結び合わされて、新しい命を与えられた者として、契約の祝福を受けつぐ共同体とされていることを証しするのです。

聖書の言葉

 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。         ペトロの手紙 一 3章21節

わたしたちの祈り 

 

 わたしたちの父なる神さま、御子の唯一の犠牲によって、今、わたしたちが、罪を贖われ、あなたのものとされて、永遠の命を与えられていることを感謝いたします。どうか、洗礼の時を共にし、聖餐にあずかる度毎に、主が、ご自身の命をもって、新しい契約を立てられた、救いの恵みを感謝し、誓いと志を、新たにさせてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2020年2月2日 使徒信条

主は・・・三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、 

 主イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活され、天に上られました。この復活と昇天を、キリストの「高挙」と呼びます。それは、すでに、復活において、キリストご自身が、十字架の死という、神の御前にある永遠の呪いと裁きをその身に負ってくださったことに打ち勝って余りある勝利を成し遂げてくださったことを意味します。

 つまり、十字架が復活に至る道であったように、復活は、昇天に備えるものでした。ですから、主イエスご自身、すでに、十字架にかけられる前に、十二人弟子の足を洗われた時、このように、ご自身の道を知っておられました。

 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(ヨハネによる福音書13章1、3節)

 このように、主イエスにとって、十字架の死は、いわば、ひとつの通過点(しかし、それは十字架の上の苦難を伴うものでしたが)であり、その目的地は、復活の後に、天に帰られることにありました。

 この主イエス・キリストが、天において、神の面前で、わたしたちのために執り成しておられること、そして、父なる神の右の座にお着きくださり、ご自身の体なる教会の頭として、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

 わたしたちがささげる礼拝も、生活のすべて、どの領域においても、このキリストが主権者であり、すべては、この方のご支配の中にあります。きよい畏れを敬虔、信仰の良心と誠実さをもって、この“主”のみを礼拝しましょう。

 

聖書の言葉

 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。      フィリピの信徒への手紙2章10,11節

わたしたちの祈り 

 

 天の父なる神さま、御子の命によって、今、わたしたちが、罪を赦されたばかりでなかく、あなたに属する者とされ、教会の頭でいます主にしっかりと結び合わされていますことを感謝します。どうか、どのような試練の中でも、固く主に結ばれている者として、あなたに深い信頼をささげることができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

 

2019年12月8日 ウェストミンスター小教理問答86
イエス・キリストへの信仰とは、何ですか。
イエス・キリストへの信仰は、救いの恵みです。それによって私たちは、救いのために、福音において提供されているままにキリストのみを受け入れ、彼にのみ寄り頼むのです。
 キリスト教信仰の本質は、人間の情緒や心情、熱心や努力、ある種の信心や確信に求められるものではなく、むしろ、神の言葉である聖書の真理に求められるものです。聖書全体が証しするイエス・キリスト(命の言葉)を信じる信仰は、堕落ゆえに神との交わりを失った罪人が救われることをもたらす神の恵みです。
 この信仰は、教会の教えに対する単なる知的同意(ローマ・カトリック教会)ではなく、むしろ、キリストご自身への人格的信頼そのものです。わたしたちは、教会(の教え)ではなく、むしろ、聖霊の恵みによって、直接、キリストに信頼することによって、罪から救われるのです。
 それは、具体的には、「福音において提供されているままにキリストのみを受け入れる」ことです。この「福音」は、十字架の言葉であり、神の義が啓示されています。自分の力で救いを得られると自負している人にとっては、つまづきを与えるものです。なぜなら、それは、かえって、神の前に、人間の無力さを明らかにするばかりでなく、永遠の断罪と滅びを受け入れることを強いるからです。
 わたしたちが、十字架の死から三日目に復活され、天に上げられたキリストを信じなければ救われないことを認め、キリストの救い(神の義)に自分をゆだね、信頼するためには、聖霊の恵みによる再生と回心が必要です。
 また、この神の恵みによる再生と信仰は、たとえ自覚的に信仰が告白された状態でなくても、幼子の内に種として与えられ、芽生え得るものです。契約信仰の恵みはここにあります。今日も、子どもたちも、大人たちも、キリストの恵みによって、御子に関する福音を信じる信仰に生きることを求めて歩みましょう。
聖書の言葉
 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。                   ローマの信徒への手紙1章17節
わたしたちの祈り 
 天の父なる神さま、あなたは、愛する独り子を、ご自身の栄光のために、十字架の死に引き渡してくださいました。今、わたしたちは、御子の十字架の内に示されたあなたの義と愛を覚え、あなたの救いに対して、自分のすべてを明け渡します。どうか、あなたの恵みと御力によって、救いに至る信仰を与えられたことを感謝し、あなたの教会をあなたのもとに召し出された契約の家としてください。わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年12月1日 使徒信条
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
 わたしたちは、この一つの箇条の中に、イエス・キリストについて正統的信仰告白についての全面的な内容を、聖書の真理として、認めることができます。
 第一に、イエス・キリストは、永遠の神の御子であり、三位一体の第二位格であること。第二に、イエス・キリストは、アブラハム、ヤコブ、イサクの神である「主」(ヤハウェ)において、ご自身の啓示された契約の神、「主」ご自身であり、キリストの到来以前、旧約の時代において、まことの預言者たちにおいて神が約束された、永遠の救い主、まことの王、油注がれた方であることです。
 神と人間(罪人)の仲保者として、イエス・キリストは、人間の本性が神の無限の怒りと死の力の下に沈んでしまわないように支えるため、御自身の苦難と服従と執り成しを価値ある有効なものとするため、神の義を満足させ、神の好意を獲得し、ご自身の選びの民を買い取り、その民に御自身の御霊(聖霊)を授け、彼らの敵を残らず、征服して、彼らを永遠の救いに導くために、神でなければなりませんでした。
 また、仲保者(イエス・キリスト)は、私たちの本性を向上させ、律法への服従を果たし、私たちのために、私たちの本性において苦しみ、執り成し、私たちの弱さに同情することがおできになるために、私たちが神の子としての身分を授けられ、慰めを受け、大胆に恵みの座に近づくこと(神礼拝)ができるために、人(人間)でなければなりませんした。
 そして、この神性と人性に固有の御業が一人格全体の御業として、私たちのために神に受け入れられ、また私たちがその御業により頼む者となるために、御自身、神でありつつ人であり、しかも一人格においてそうでなければならなかったのです(『ウェストミンスター大教理問答』38~40)。
 このイエス・キリストの二性一人格を信じるとき、御子の降誕のみならず、十字架と復活における神の御業(義)を信じ、永遠の命を持つ者とされます。
聖書の言葉
 まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。            ヘブライ人への手紙9章14節 聖書協会共同訳
わたしたちの祈り 
 天の父なる神さま、あなたは愛する独り子の命をもって、わたしたちに、救いの御名を明らかにしてくださったばかりでなく、今、聖霊によって、御子の命にあずかる者としてくださり、キリストのきずなで結ばれた一つの神の家族としてくださったことを感謝いたします。福音の真理に立つ教会として、絶えず御言葉を学び、すべての人びとと隣人に福音をあまねく宣べ伝える者とならせてください。わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

20191124日 ウェストミンスター小教理 問85

罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れるために、神は、私たちに何を求めておられますか。

罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れるために、神が私たちに求めておられる事は、キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられるすべての外的手段を、忠実に用いて、イエス・キリストを信じ、命に至る悔い改めをすることです。

 聖書において、信仰とは、神の義に適うことであり、悔い改めとは、罪から方向転換することです。イエス・キリストを信じることが、神の義に適うことであり、この信仰に伴う悔い改めが、キリストの命の中に生きる方向に向き直るとき、わたしたちにとって、信仰の道を歩んでいくことは、後ろ向きに、罪を悲しんでばかりいることではなく、むしろ、罪赦された者として、絶えざる悔い改めの道を、前向きに歩んでいくことを目指すものです。

 ですから、十字架と復活・昇天の主の御声の中で、主の贖いと罪の赦しを信じ、キリスト信仰とまことの悔い改めに導かれた、パウロは、「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と言いました。

 さらに、「・・・自分がキリスト・イエスに捕らえられているから」「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(フィリピの信徒への手紙3914節)と、ただキリストに捕らえられ、ひたすらにキリストを求めていく、聖霊の恵みによる聖化と完全な向上の道を告白しました。わたしたちも、同じ信仰と悔い改めの道を求めつつ、福音の宣教という神の恵みによる救いの手段(手立て)を忠実に用いましょう。

聖書の言葉

 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。コリントの信徒への手紙一245

わたしたちの祈り 

 天の父なる神さま、あなたは、罪のために当然なあなたの怒りとのろいを免れるために、愛する独り子の命を身代わりにお与えくださり、わたしたちを、ただ御子を信じる信仰によって、まことの悔い改めへと導き、救いの道を歩ませてくださることを感謝いたします。どうか、わたしたちが、なおも、死を恐れ、罪ゆえの後悔や責めを覚えるときも、十字架の主を仰がせてくださり、信仰から信仰へと、あなたのそなえられた義の道をひたすらに歩ませてください。聖なる義の僕、まことの救い主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

20191117日 ウェストミンスター小教理 問84

罪は、みな、何に相当しますか。

罪は、みな、この世でも来るべき世でも、神の怒りとのろいに相当します。

 あらゆる罪が何に値するか、ということは、わたしたちが、罪を正しく自覚するためにとても大切な問いです。

 なぜなら、「全人類は堕落によって神との交わりを失い」「今は神の怒りとのろいの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責めを負わされてい」(ウェストミンスター小教理問19)るからです。

 このことは、だれ一人として、罪の代償を神に対して支払える人はいないことを意味します。そればかりか、皆、神の前に、罪の責め苦を負っていると言えるでしょう。しかも、「この世でも、来るべき世でも」、罪ゆえの、神の怒りとのろいは消え去ることがありません。

 それでは一体、だれが、この神の怒りとのろいのもとから救われるのでしょうか。それは、ただ、永遠の神のひとり子イエス・キリストが、十字架の死において、神の目において、「この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責め」を身代わりに負ってくださったと信じる、神の選びの子たちのみです。

 ゴルコタの丘の上で、「人々はイエスを十字架につけ」「犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけ」ました。そのとき、主イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られました(ルカによる福音書233334節)。

 それは、今の世の同じです。ただ神の恵みによって、主イエスのもとに来るとき、わたしたちは、神の前に、罪の赦しを宣言され、神の子とされるのです。

 聖書の言葉

 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちは律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。              ガラテヤの信徒への手紙313

わたしたちの祈り 

 天の父なる神さま、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書2746節)と十字架の上で叫ばれた、御子の贖いを信じることにおいて、わたしたちが、あなたの怒りと呪いを免れるばかりでなく、あなたの憐れみと慰めをすべての人びとに宣べ伝える使命をご自身の教会に与えてくださっていることを感謝いたします。どうか、十字架と復活の主イエス・キリストの主権のもとで、あなたの慈しみと清さに適う者とならせてください。信仰の創始者であり完成者でいます主イエスを見つめつつ、歩ませてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

20191110日 ウェストミンスター小教理 問83

律法違反の罪は、みな同じ重さですか。

ある罪は、それ自体で、またいくつかの加重によって、他の罪よりも神の目に重罪です。

 聖書において、罪とは、「神の律法に、少しでも一致しないこと、あるいは、神の律法の違反」(ウェストミンスター小教理問14)です。社会的犯罪においても、その軽重等が考慮・吟味され、事後の対処がなされますが、聖書の教える「罪」とは、生けるまことの神の律法への違反であるかぎり、相対的な軽さを理由として裁きを免れるものは存在しません。

 だれを神として拝んだかということを、戦時中には、第一に問われました。現人神・天皇にまさって、キリストを拝むことは官憲において罪とされたのです。教会でも、天皇を先に拝む儀式を終えてから、教会の礼拝が始められました。むしろ、このような罪の方が、神の目に重い罪なのです。

 この意味で、今日の天皇代替わりにおける国事行事・国費の支出や、国旗国歌法とその教育現場における問題も根が深いのです。そこでは、じつは、単なる国家権力による実行、事実上の強制か否かという問題にまさって、何を神としているか、何を正義としているのか、という、罪の本質が問われているのです。

 国家権力による罪のみならず、キリスト教会、諸宗教団体、役所、会社、学校、家庭、個人等、社会のあらゆる領域において、神の目には神の律法に反する罪があるのです。それらをたとえ社会的法が裁くことがなくとも、ひとしく、神の目には、罪の重みのとおりに裁かれるのです。

 御子イエス・キリストの負われた十字架は、当時のローマ法における極刑でしたが、神の目には、ご自身の民の身代わりの死、永遠の断罪であり、滅びの死を負うものでした。わたしたちが、このただ一つの十字架を仰ぐとき、ただ一人の神のみを畏れる者として、罪の赦しをただキリストの贖いにのみ求めるのです。

聖書の言葉

 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。

                             詩編516

わたしたちの祈り 

 天の父なる神さま、わたしたちは、あなたの豊かな慈しみを知りながら、なお、日ごと、罪を重ねるものです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。」「しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。」どうか、わたしたちの罪を、御子イエス・キリストが十字架の上で身代わりに負ってくださったことを信じ、この神の真実の中に、わたしたちの信仰の歩みを固く据え、隣人のため執り成して祈ることができますように。救い主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

2019113日 使徒信条

我は聖霊を信ず、・・罪の赦し、・・を信ず、

 主イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活された、週の初めの日のの夕方、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、十字架の上で受けられた手とわき腹の傷跡をお見せになりました。

 さらに、主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と重ねて言われ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言い、十二弟子・使徒たちにご自身の命の息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。だれの罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがた赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われました(ヨハネによる福音書201923節)

 このように、復活の主イエスは、使徒たちに、聖霊によって、ご自身の贖いの命を弟子たちにお与えになり、罪の赦しの福音を宣べ伝える者として、世のただ中に派遣することを命じてくださいました。

 聖書が教える「平和」とは、ただ単に争いがない状態ということにとどまらず、使徒たち同様に、わたしたち一人一人に、神との完全な和解を与えられ、主イエスを「わが主、わが神」と告白し、真実の礼拝をささげる喜びを与えられることです。

 そして、わたしたちは、このキリストの福音を、ただ一つの救いに入る鍵、天の国に入る鍵として忠実に管理する権能を、主イエスから託されています。ですから、わたしたちと共におられる神の召しに応えて、福音を人々に告げる度毎に、聖霊は、ご自身の御心の内に、主イエスのもとに、すべての人びとを招き、唯一の完全な贖いの命を与え、救いの道を歩ませてくださいます。

 

聖書の言葉

 その日、その時には、と主は言われる。イスラエルの咎を探しても見当たらず、ユダの罪も見いだされない。わたしが、生き残らせる人々の罪を赦すからである。                      エレミヤ書5020

 

わたしたちの祈り 

 天の父なる神さま、あなたは愛する独り子の命をもって、わたしたちの罪と咎を赦してくださったばかりでなく、この世のただ中で、わたしたちをあらゆる誘惑から守ってくださり、あなたの福音を宣べ伝え、真実に証しする器としてくださっていることを感謝いたします。どうか、絶えず、あなたの与えてくださった罪の赦しの恵みを感謝し、日本と世界の諸教会と分かち合う者とならせてください。わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

2019年10月27日 ウェストミンスター小教理問答 問82

神の戒めを完全に守れる人が、だれかいますか。

ただの人は、堕落以来、この世では、だれも神の戒めを完全には守れず、日ごとに思いと言葉と行ないにおいて破っています。

 主イエス・キリストに、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」主イエスは答えられました。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」するとこの人は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言いました。

 しかし、主イエスは、この青年を見つめ、慈しんで言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」すると、この人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去りました。たくさんの財産を持っていたからでした(マルコによる福音書10章17~22節)。

 このように、わたしたちが神の戒めを守っていると思うとき、それがなお不十分であることを物語っています。主イエスは、わたしたちが、貧しい人びとに施す財産をもっていながら、深い同情心を持ち合わせていなければ、それを戒められるほどに、真実の愛を求められる御方です。このような神の要求を、だれ一人として、生まれながらの人は守ることができないのです。

 永遠の神の御子でありながら、罪をほかにしては、まことの人間となられた、イエス・キリストこそ、まことの大祭司として、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されませんでしたが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた御方です(ヘブライ人への手紙4章15節)。

 わたしたちは、主イエスの十字架の上に示された神の愛を知るとき、主の慰めの中に、思いと言葉と行いを、ただ「主を喜ぶために」にささげるのです。

 聖書の言葉

 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

                    ヘブライ人への手紙4章16節

わたしたちの祈り 

 

 天の父なる神さま、あなたは、愛する独り子を、この罪の世のただ中にお遣わしくださり、わたしたちの罪と弱さに深い同情をもって、わたしたちが裁かれるべき十字架の死を身代わりに負ってくださったことを、心から感謝いたします。どうか、あなたの深い慰めの中に、わたしたちの思いと言葉と行いを清め、あなたの栄光をあらわし、真実の愛に適う者とならせてください。わたしたちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年10月20日  ウェストミンスター小教理問答  問81 

第十戒では、何が禁じられていますか。 

第十戒が禁じている事は、すべて私たち自身の身分に満足せずに、隣人のしあわ

せをねたんだり恨んだりすること、またすべて、隣人の所有するどのようなもの

にでも法外な意向や愛着を寄せることです。 

 

  第十戒、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」の「むさぼる」とは、

「むやみにほしがる、欲しくてたまらない」という欲望のことであり、自分に与

えられているもに満足しないことです。   

  日本語の「貪欲」(どんよく)は、もともと同じ字を書いて「とんよく」「た

んよく」と読み、仏教に由来し、十悪の一を指します。しかし、主なる神の律法

における「貪欲」とは、ただ悪しき欲望を指しているだけでなく、万物の造主で

ある神が、すべての良きものの源であるだけでなく、それを適切に分け与えてお

られることを軽んじ、不平不満をもち、どのような小さな事でも、それに満足し

ないことを、神の御心に反し、裁かれるべき「罪」として明らかにするのです。 

  使徒パウロは、「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼり

を知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類の

むさぼりをわたしの内に起こしました。」(ローマの信徒への手紙7章7,8節)

と言い、「あらゆる種類のむさぼり」が自分の内に起こっていることを認めてい

ます。 

  人間の罪の傾向として、禁じられることを嫌うということがあります。じっさ

い、エデンの園で、アダムとエバが犯した罪も、禁断の木の実を食べたことでし

た。「むさぼるな」と言われて、わたしたちの罪の思いはかえって、自分の貪欲

を正当化し、あるいは、ことさらに軽いものとして扱うことにとって、神の御心

に反する「罪」を認めることを避ける傾向すらあるのです。 

  聖霊の御力によって、この罪を認め、悔い改めに導かれるとき、わたしたち

は、皆、心から、神をあがめ、賛美することに尽きない喜びと慰めを覚え、それ

を願い求めるように変えられます。貪欲の罪からの本当の救いを求めましょう。 

  聖書の言葉 

  この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と

言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。    ヨハネによる福音書19章28節 

わたしたちの祈り   

  天の父なる神さま、あなたの愛する独り子は、十字架に至るその生涯において

完全にあなたの義に適う道を歩んでくださいました。そして、十字架の上で、わ

たしたちの罪の身代わりの死をもって、わたしたちの罪をあがなってくださった

ことを感謝します。どうか、聖霊を満たしてくださり、わたしたちが、むさぼり

の罪を犯すことなく、かえって、あなたの御名を慕い求め、あなたの御心を求め

 

る者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

20191013日 ウェストミンスター小教理問答 問1

人の主な目的は何ですか。

人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。

 ここにある、教理問答の最初の言葉は、聖書の真理に立ち続けることを求める信仰の戦いにおいて、勝ち取られた人生の目的を表明するものです。

 それは、始祖アダムにおいて罪に堕落した人間のために、愛する独り子イエス・キリストを遣わされた神を知ることをもって、すべての人間が救われることを望んでおられる神を礼拝する自由と喜びを指し示しています。

 「聖書の啓示は、神がわたしたちの天の父であり、イエスがわたしたちの救い主であり、また、聖霊が真理の霊であると語」り、また、「人間が神のかたちに造られたものであって、人間としての尊厳をもったものであると語」(『台湾基督長老教会説教集』 人間の尊厳と聖書 19781210日)っています。

 つまり、この聖書の啓示による人生の目的は、はじめから、わたしたち神に造られた人間が人間らしく生きるために必要であり、あらゆる抑圧や虐げから、守られるべき、本当の権利と自由を明らかにしているのです。

 この世のただ中に、まことの神でありながら、罪をほかにしては、わたしたちと同じ、まことの人間となられた、イエス・キリストは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになり」「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピの信徒への手紙2811節)

 このキリスト告白に至る礼拝の喜びこそ、何ものにも妨げられることのない、聖霊の自由な働きによるものです。今日も、御言葉と聖霊によって、神の栄光をあらわし、永遠の神、主キリストをほめたたえる礼拝を共にささげましょう。

 聖書の言葉

 しかし、主の方に向き直れば、(礼拝を妨げる心の)覆いは取り去られます。

                    コリントの信徒への手紙二317

わたしたちの祈り 

 天の父なる神さま、十字架の上にささげられた、御子の命をもって、わたしたちが、あなたを本当の神として賛美・告白する恵みを与えてくださり、感謝します。どうか、イエス・キリストの霊(聖霊)の確かな導きの中に、礼拝の心を妨げるものが取り去られ、心が新しく造り変えられて、あなたの栄光をあらわす、人生の本当の目的をいつも心に留めて歩むことができますように。栄光の主、まことの王でいます主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

2019106日 使徒信条

主は、・・・三日目に死人のうちよりよみがえり

 主イエス・キリストは、聖書に書いてあるとおり、十字架上に命の息をなげうたれた後、葬られた墓の中、死者のうちより、三日目に復活されました。

 復活の日の夕方、主イエスは、弟子たちを祝福し、十字架の上で受けた傷跡を見せつつ、こう言われました。

 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカによる福音書2444節)。

 復活の主を見た十二人の一人ペトロは、神の豊かな憐れみによって、主イエスの復活を信じる者たちに、新しい命が与えられて、生き生きとした希望を抱く者とされたことを感謝して、アジアの諸教会に手紙で伝えました。

 そして、この救いの希望について、「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのかを調べたのです」(ペトロの手紙一111節)と伝え、キリストの復活はあらかじめ、キリストの霊によって預言者たちの内に証しされていたことを明らかにします。

 事実、預言者イザヤは「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書535節)「わたし(主なる神)の僕は、多くの人を正しい者とするために彼らの罪を自ら負った」(イザヤ書5311節)と預言しました。

 主イエスの復活が、神の約束の実現であったことを信じるとき、わたしたちは、信仰の確信を深められ、神の言葉とその力を信頼するように導かれます。

聖書の言葉

 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。                         イザヤ書553

 

わたしたちの祈り 

 天にいます父なる神さま、あなたの愛する独り子、イエス・キリストは、「アブラハムの子、ダビデの子」としてこの世に来られ、あなたの永遠の約束を実現してくださいました。今、わたしたちは、ただ、あなたの豊かな憐れみによって、十字架と復活の主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、あなたの御言葉によって、信仰をいよいよ確かなものとされていることを感謝いたします。どうか、どのような試練の中でも、復活の主によって望みを抱きつ、福音に生きる者とならせてください。キリストの聖なる御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

 

 

2019年9月29日 ウェストミンスター小教理問答 問80

第十戒では、何が求められていますか。

第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、それも隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持をもって満足することです。

 第十戒について、この教理問答が教える、「正しい愛の気持ち」とは、「正しい愛の心の感じ方」あるいは「正しい心の状態」という意味です。

 創造主である神は、人間を、善く、また、ご自身の像(かたち)に似せて、真(まこと)の義と聖とにおいて創造されたのですが、わたしたちの最初の祖先、アダムとエバの堕落と不従順から来た、人間の腐敗した性質のゆえに、生来、神と隣人を憎む傾向をもつほどに、人間の心は捻れたもの、顛倒(てんとう)、倒錯した状態に陥っています(ハイデルベルク信仰問答問5~問7)。

 ですから、主なる神に従う者たちの思いに入り来るかもしれない、最も小さい誘惑でも罪であり、これに抵抗することが求められます。

 そして、少しも誘惑に屈することのない場合でさえも、わたしたちの肉の弱さから、誘惑を招いていることを認め、まだ熟慮の上の決意とまではいかずに、人の心をくすぐりとらえるものもろの貪欲の情についても、罪の性質とその傾向について、よく注意して見るのです(ジュネーブ教会信仰問答「第十戒についての教師への生徒の返答」)。

 隣人愛のすべてにおいて、神の愛に適うためには、聖霊によって、生来の心の状態が、神に向き直ることを要します。贖い主でいます、イエス・キリストご自身が、最も小さい者の一人となられて、十字架の死に引き渡されたように、わたしたちも、自分の目よりも、神の目に適う、本当の感謝の生活を求めましょう。

 

聖書の言葉

 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。

                   ローマの信徒への手紙12910

わたしたちの祈り 

 天にいます父なる神さま、「わたしの目の覆いを払ってください」。そうすれば、「あなたの律法の驚くべき力に、わたしは目を注ぎます」(詩編11918節)。どうか、自分の目と判断に頼るよりも、むしろ、あなたの御心に適うことを祈り求める信仰と従順を求めることができますように。そして、あなたの求めておられる神礼拝と隣人愛のすべてにおいて、あなたの愛と真実が明らかにされて、御名を知る人びとが新たに起こされていくことができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの聖なる御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2019年9月22日 ウェストミンスター小教理問答 問79

第十戒は、どれですか。

第十戒はこれです。「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

 

 第十戒は、第五戒「あなたは盗んではならない」、第七戒「あなたは姦淫してはならない」と同様に、他人のものを不正な手段をもちいて自分のものにしようとする「むさぼり」の罪を犯すことを、義なる神の前に、戒めるものです。

 詩編103では、「神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。」と言われるように、神を知っていると言いながら、なお、わたしたちは、自分の欲望を誇るほどに、むさぼりの罪を重ねている者です。

 わたしたちの救い主イエス・キリストは、弟子たちに、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネによる福音書434節)と言われました。それは、キリストの内にある命こそが、むさぼりの罪を重ねる罪人に「神の御心を行いたい」「神の業を成し遂げたい」との清い願望を与えるものであることを教えるものです。

 わたしたちが、聖霊と御言葉によって、むさぼりの罪を自覚するとき、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマの信徒への手紙715節)とのパウロの告白のように、神の御心を望みつつ、実行できない、自分を認めつつ、絶えざる祈りの中で、キリストの救いを真実に求め始めるのです。

聖書の言葉

 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。ローマの信徒への手紙724

                       

わたしたちの祈り 

 天にいます父なる神さま、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えて」(ローマの信徒への手紙725節)ます。肉の弱さのために、律法がなしえなかったことを、わたしたちの罪のために、身代わりとして御子を十字架刑において断罪されたことによって、あなたの義を満たしてくださったことを信じ、あなたの栄光と御心を慕い求める者としてください。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの尊い御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

 

2019年9月15日 ウェストミンスター小教理問答 問78
第九戒では、何が禁じられていますか。
第九戒が禁じている事は、何事であれ、真実を損なう事、あるいは私たち自身や隣人の名声を傷つける事です。
 主イエス・キリストが十字架につけられた時のことを、聖書はこのように伝えています。
 「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
 これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある。」(ヨハネによる福音書19章31~37節)
 イエス・キリストの十字架の死は、神の真実を証ししています。聖書は、このイエス・キリストが、真実の神の御子であり、まことの救い主であることを証ししています。
 偽りのない神の真実をわたしたちが信じるとき、わたしたちは、信仰の良心において、隣人に偽りを語らず、かえって、神の真実を証しする者に変えられます。わたしたちの言動のすべてにおいて、神の真実を尊ぶ者となりましょう。
聖書の言葉
 わたしこそ、わたし自身のために あなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。          イザヤ書43章25節 口語訳
                       
わたしたちの祈り 
 天にいます父なる神さま、あなたは、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」(出エジプト記34章6節)ておられる御方です。そして、愛する独り子の命をもって、わたしたちの身代わりの命としてくださり、十字架の死に引き渡してくださいました。わたしたちが、絶えず、この十字架の死において明らかにされた、あなたの真実を信じ、思いと言葉と行いにおいて、わたしたちと隣人の名声を尊ぶことできますように。わたしたちの真実の救い主、教会の頭、イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2019年8月11日 ウェストミンスター小教理問答 問74
第八戒では、何が求められていますか。
第八戒が求めている事は、私たち自身と他人との富や生活状態を正当に確保し、向上させることです。
 主イエス・キリストは、あるとき、ご自身を陥れようとする人たちに「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」との質問を受けました。しかし、主イエスは、「彼らのたくらみを見抜いて」こう言われました。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」。彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスはこう言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(ルカによる福音書20章22~25節)
 この問答から教えられる事の一つは、神は、すべての人の主であり、世界の国々を治める為政者を立て、それによって人々の生活の秩序を守っておられることです。そして、納税義務(神の前に罪のない国家は一つもありませんが)も、本来、神の御心に適う、正しいことであることです。
 「今日、世界の一握りの先進国とその国民が富とエネルギーの大部分を独占し、大部分の国々とその国民は残りのごく僅かな部分を分け合っている」(春名純人)という、罪とその結果としての飢餓、貧困、戦争等が生じます。
 「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。・・これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ記19章9、10)と、すべての所有を与えておられる、主なる神は命じておられます。
 すべての所有とその分配における罪を皆が負い合いつつ、今日、主に贖われた者には、他者に施し、執り成していく、献身の質と目的が問われています。
 聖書の言葉
 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。             フィリピの信徒への手紙2章3,4節
わたしたちの祈り 
 天にいます父なる神さま、あなたは愛する独り子の命をお与えになったほどに世を愛し、すべての人に、あなたの共に生きる命を与えることを望んでおられます。しかし、なお、世界中の多くの人が、あなたからの救いを拒み、お互いに罪を負っています。どうか、イエス・キリストが、わたしたちの罪のために、ご自身の栄光を捨てて、十字架の死を負ってくださったように、わたしたちも、自分を捨て、あなたから与えられた召しに忠実に応え、他者を愛し尊び、施す者とならせてください。主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年8月4日 使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず

 聖書の啓示は、第一に、天地を造られた神であること、第二に、御子イエス・キリストをこの世に遣わされた神であること、第三に、御子イエス・キリストの十字架と復活・昇天の後、聖霊を与えられた神であることを、神が共におられた契約の民の歴史において物語つつ、明らかにしています。
 わたしたちは、御子イエス・キリストにおいて、御父を知り、御父と御子において約束された、聖霊を知ることにおいて、父・子・聖霊なる神、三位一体の神を知ることへと導かれています。 
 宗教改革の時代、さまざまな苦難の中で、ハイデルベルク信仰問答(問26)は、この箇条を告白してこのように言っています。「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、ということです。」
 御子キリストを信じ、「父よ」と神を呼ぶとき、わたしたちは、「この方が体と魂に必要なすべてをわたし(たち)に備えてくださること」を信じ、「たとえこの涙の谷間(悩み多き生涯)へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたし(たち)のために益としてくださることを信じて疑わないのです。」
 「なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか 真実の父としてそれを望んでもおられるからです。」
 このように、「天地の造り主、全能の父なる神を信じる」とは、どのような時にも、信仰の試練において、神と共に生き、日々の祈りを、全能の父なる神にゆだねることそのものです。今日も、この真実の祈りと共にささげましょう。
 聖書の言葉 
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
                     ガラテヤの信徒への手紙4章6節
わたしたちの祈り 
 天にいます父なる神さま、あなたは愛する独り子の命を惜しまずに与えてくださったほどに、わたしたち一人一人の体と魂を慈しんでおられる御方です。どうか、「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」(詩編23編2節)御方であることを信じ、いつも、あなたの備えられた体と魂の休息と回復を見ることができますように。神の御心によって苦しみを受けるときも、あなたの義を行い、真実であられる創造主に魂をゆだねる者としてください。主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年7月28日 ウェストミンスター小教理問答 問73
第八戒は、どれですか。
第八戒はこれです。「あなたは盗んではならない」。
 第八戒は、天地の主である神の御顔の前にあって、わたしたちの隣人の所有(物)について教えるものです。「天は主のもの、地は人への賜物」(詩編115編16節)と賛美されるように、本来、神のかたちにかたどって造られた人間は、この地にあって、主なる神からの賜物を分かち合いつつ、神の栄光をあらわす者として、使命を与えられています。
 主なる神から与えられた使命を果たすために不可欠なことは、造り主なる神から与えられたすべての良きものを忠実に管理するだけでなく、絶えず、それらを主との生きた関係の中で顧みることです。
 「盗人と見ればこれにくみし 姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ 欺きが舌を御している」(詩編50編19節)と、世の罪が明らかにされているように、「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生」(ヤコブの手紙1章15節)みます。しかし、「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(ヤコブの手紙1章17節)。
 そこで、求められることは、「むなしいもの、偽りの言葉を わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。」との、まことの飼い主でいます、主なる神、主キリストへの祈りです。
 また、「飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」との主なる神、主キリストへの清い畏れの中で、自分の言動をよく吟味することです。
 今日も、主の恵みによる救いを告白しつつ、すべての良き物の源でいます、まことの神に栄光をあらわす者として、共に、主の良い備え道を歩みましょう。
 聖書の言葉
 異なる二種類の重りは主に忌み嫌われる。欺きの秤は良くない。
                        箴言20章23節 新改訳2017
わたしたちの祈り 
 天にいます父なる神さま、あなたはすべての良きものの源である御方です。そして、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。どうか、わたしたちが、絶えず、愛に根ざして、真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していくことができますように。そして、わたしたちが、互いに、キリストの体としての分を果たし、地の塩、世の光として、あなたの救いを証しし、わたしたちの隣人があなたを知る者としてください。すべての人の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年7月21日 ウェストミンスター小教理問答 問72
 第七戒では、何が禁じられていますか。
 第七戒が禁じている事は、すべてのみだらな思い、言葉、行動です。
 主イエス・キリストは、カナの婚礼において、葡萄酒が足りなくなったときに、六つの大きな水がめにためた水が全部葡萄酒に変えられました。これは、最初の奇跡と呼ばれる、神の栄光をあらわす一つの「しるし」でした。
 この「しるし」は、主イエス御自身、神の子であることをしるすものでした。そして、主イエスが神の子であることをここで示された理由は、わたしたちが、ちょうど、水が葡萄酒に変えられたように、罪が贖われて、罪の子、闇の子から神の子、光の子に変えられる神の力を示すことでもありました。
 第七戒を守るために、不可欠なことは、わたしたち自身の霊的変革です。それは、わたしたちの努力、信念、意志によって成し遂げられるものではなく、聖霊によるものです。
 主イエスが悪魔の誘惑を受けられた時、「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言」いました。「すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(マタイによる福音書4章8~10節)と言われ、悪魔の誘惑を退けられました。
 第七戒は、正しい結婚関係に反する罪のみならず、霊的姦淫という偶像礼拝の罪を明らかにしています。それは、人間の罪の心から出たあらゆる形(世俗・拝金・享楽主義等)をとりながら、わたしたちの住む世界に蔓延にしています。
 愛する独り子イエス・キリストを遣わされた、ただお一人の神を愛することを求めるとき、わたしたちは、ただ、主を喜びつつ、聖なる生活に生きるように変えられていきます。今日も、聖霊によって、心を新しくされ、主をほめたたえましょう。
 聖書の言葉
 何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。曲がった言葉をあなたの口から退け ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。 箴言4章23、24節
わたしたちの祈り 
 天にいます父なる神さま、あなたは、愛する独り子イエス・キリストの尊い血によって、わたしたちの罪を贖い、聖霊によって、清い心を新しく造り出してくださることを感謝いたします。どうか、わたしたちが、あらゆる悪魔の誘惑の中で、目を覚まして祈りつつ、ただ、御自身の御名と御業を持って、御自身の栄光をあらわしておられるただお一人の神、主を愛し、主を喜ぶ者とならせてください。わたしたちの愛する主イエス・キリスト御名によって祈ります。アーメン。

 

6月分が後日記載予定です。

 

2019年5月26日  ウェストミンスター小教理問66 

第五戒に加えられている理由は、何ですか。
第五戒に加えられている理由は、この戒めを守るすべての人に対する、(神の栄光とその人自身の益になるかぎり)長寿と繁栄の約束です。

 第五戒には、「これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(口語訳)との理由が加えられています。
 アダムにおいて堕落した全人類にとって、生きることは、罪の結果である死といつも隣り合わせです。ですから、長寿と繁栄の約束は、神の憐れみによるものであり、命の祝福であることを信じることが大事です。
 父ダビデに代わって王として立てられたソロモンは、「自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた」(列王記上3章10節)ので、主なる神は、ソロモンの願いを喜ばれました。
 ヨブは、主を畏れる者でありながら、神からの祝福を奪われ、非常な病苦をも経験しながら、「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ 年を重ねてなお、力を増し加えるのか。子孫は彼らを囲んで確かに続き その末を目の前に見ることができる。その家は平和で、何の恐れもなく 神の鞭が彼らに下ることはない。」(ヨブ記21章7~9節)と言います。
 このことは、神を畏れる者であっても、命の危険を経験したり、非常な苦しみを経験することもあることを教えています。また、神の憐れみの中で、長寿と繁栄を与えられている人も多い中で、わたしたちが、それをうらやむのではなく、むしろ、神を畏れることの中で、信仰によって、長寿と繁栄を求めることの意味を問い直すことへと導かれます。
 そして、独り子の命をも惜しまず、わたしたちに与えてくださった、御父の愛の大きさを知るとき、わたしたちは、人の長寿と繁栄にまさる、天の喜びをもって、神の栄光をほめたたえる者とされることを感謝したいと願います。 

聖書の言葉
 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
                      ヨハネの手紙一2章25節
                          
わたしたちの祈り
 天にいます父なる神さま、あなたは、わたしたち一人一人に、かけがえのない命をお与えくださいました。罪ゆえに、わたしたちは、一度死ぬことを定められたものですが、御子の贖いを信じる者たちに、あなたは、永遠の滅びを免れるばかりでなく、永遠の命を約束してくださいました。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩編119編71節)との告白を、十字架の主キリストの謙遜と従順に学ぶ者としてください。主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年5月19日  ウェストミンスター小教理問65 

第五戒では、何が禁じられていますか。
第五戒が禁じている事は、あらゆる人がそのいろいろの地位と関係において持つ名誉と義務を、無視したり、それに反する何かを行なうことです。

 主イエス・キリストは、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタイによる福音書10章34~38節)と言われました。
 この言葉は、世の中でイメージされる理想的な家族像とは全く異質なものではないでしょうか。とすれば、この世のただ中で、主イエスが明らかにしておられる、家族の罪と救いを、わたしたちはどのように理解できるでしょうか。 
 それは、キリストおいて、神との関係を回復するとき、家族皆が、神を畏れ、互いに愛し合うことに導かれる過程において、家族相互の罪と弱さゆえの、敵対関係や、誤解は、むしろ当然であることを明らかにしています。そして、わたしたちが、「自分の十字架を担って」主に従うとき、主の憐れみの中で、神との和解を見ることを信じて、祈り求めることが、神の権威に服する家族を御心とする道であることを教えるものです。
 「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソの信徒への手紙5章1節)との主の命令に従うことこそ、まず、御子の命をも惜しまず、わたしたちの罪の贖いと赦しのために、与えてくださった、御父の愛を知ることこそ、世と家族と社会の先決なのです。主の愛を知るとき、親子の情が清められ、義と聖とされること、罪の赦しを求めましょう。

聖書の言葉
 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。            コロサイの信徒への手紙1章17節
                          
わたしたちの祈り
 天にいます父なる神さま、あなたは、愛する独り子の命をもって、わたしたちの罪を贖い、今、神の家族の一人としてくださったことを感謝いたします。どうか、あなたの憐れみによって、わたしたちに与えられている家族を隣人として尊び、互いに愛し合うことができますように。そして、「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23編6節)との、主の約束を信じ、主の愛と真実に生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年5月12日  ウェストミンスター小教理問64 

第五戒では、何が求められていますか。
第五戒が求めている事は、あらゆる人が、目上、目下、対等といういろいろの地位と関係において持つ名誉を守り、義務を果たすことです。

 主イエス・キリストは、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い(忙しくしている)者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言(聖書の全体)者である。」(マタイによる福音書7章9~12節)と、隣人愛における黄金律を、世の中の親と子の間柄を示しながら、命じ、与えてくださいました。
 「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節)との主イエスの言葉が思い起こされたように、隣人愛は、命をも惜しまずに与えてくださった、主イエスの愛にならうことにおいて果たされるものです。
 今日、おそらくは、この教理問答の時代背景(17世紀の英国)よりも、複雑で多様化した社会であっても、本当の優先順位を間違えないことが大事です。それは、御子イエス・キリストの贖いにおいて、神を父と呼ぶことへと導かれるとき、わたしたちは、どのような困難な人間関係の中でも、神の愛を知ることによって、本当の隣人愛を実現していく道を与えられる、と言えます。
 主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13章34節)と弟子たちに命じられました。それは、主イエスの愛を知ることによって、わたしたちは、隣人相互の愛に導かれることを教えています。教会は、主に贖われた新しい神の家族です。ここから、世の社会と家庭の改革が始まることを信じ、罪の赦しを祈りましょう。

聖書の言葉
 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。                 テモテの信徒への手紙一2章4節
                          
わたしたちの祈り
 天にいます父なる神さま、あなたは、わたしたちに、家庭においては両親を、国家において為政者を、学校において先生方を、また良き隣人を与えてくださいました。そのすべての隣人が、救われて真理を知ることを、あなたは望んでおられます。どうか、わたしたちが、あなたの与えてくださっている隣人一人一人を愛し、尊敬し、義務を果たすために、まず、あなたが、御子の内に示されたあなたの愛がどれほど大きく豊かなものであるかを知ることができますように。教会の頭、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年5月5日 使徒信条

主は、…天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、

 主イエス・キリストは、昇天されたことによって、世から離れ去り、もはやわたしたちとともにおられないのでしょうか。そうではなく、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章30節)と約束されたとおりに、今、聖霊によって、わたしたちと共におられる御方です。
 神の御前に失われた罪人は、自ら、死後の行き先を「天国」と決めることはだれもできません。しかし、十字架の死から三日目に復活され、昇天されたイエス・キリストを主と信じる者は皆、主のおられるところに、死の時、ただちに召し入れられるのです。つまり、本当の天国とは、キリストのおられるところなのです。
 イエス・キリストは、十字架の死において負われた御傷とその肉体をもって、天に上げられました。そして、全能の父なる神の右の座にお着きくださり、ご自身が教会の頭のみならず、全世界の、すべての人の主、まことの王として即位・着座してくださったのです。それは、詩編110編「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」(詩編110編1節)の御言葉の実現でした。
 このキリストについて、神の約束(契約)の実現を物語つつ、エルサレムの人々に説教したステファノは、人々が石を投げつけている間、「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』」(使徒言行録7章56節)と言いました。そして、主イエスを見つめ、人々のために執り成し祈りつつ、殉教したのです。このように、キリストの昇天・着座を信じることは、どの時代に生きるキリスト者(教会)においても、ただ一つの希望と祈りの理由を与えるものです。今日も、主の栄光ため確かな望みを抱いて祈りましょう。

聖書の言葉
 あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。
                   コロサイの信徒への手紙1章5節
                          
わたしたちの祈り
 天にいます父なる神さま、今、わたしたちが、あなたと御子イエス・キリストがおられるところを、本当の天として知ることができますことを感謝いたします。どうか、生きる時も、死ぬ時も、わたしたちの唯一の慰め主でいます、イエス・キリストにおいて、わたしたちの贖われた命をささげて歩むことができますように。そして、まことの王でいます、キリストの支配と導きの中に、世界のすべての人々が、十字架の言葉、命の言葉を信じることができるように導いてください。主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年4月28日 ウェストミンスター小教理問答問63

第五戒は、どれですか。
第五戒はこれです。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」。

 第五戒は、レビ記19章で「父と母(母と父)を敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である」(レビ記19章3節)と繰り返して教えられるとおりに、十戒における十の言葉の言葉の順序とは無関係に、たんなる親孝行の教えではなく、主を畏れ敬うこととの結びつきの中で、正しく理解されるものです。
 つまり、第一に、主を畏れる家庭が社会の基礎であることを教えます。詩編127編に「主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。」(詩編127編1節)と教えられるとおりに、家庭において第一に覚えられなければならないのは、主なる神御自身による家庭建設です。
 キリストのために投獄されたパウロとシラスが、真夜中ごろ、賛美の歌をうたって神に祈っていると、大地震が起こり、牢の戸がみんな開いてしまいました。しかし、牢から逃げ出さなかったパウロとシラスを見た、牢の看守は、震えながらひれ伏し、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と言いました。二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と言い、「看守と家の人たち全部に主の言葉を語った」のです。
 そして、「まだ真夜中であった」のですが、「看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆洗礼を受け」「二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」(使徒言行録16章31節)のです。
 今日、わたしたちが、この第五戒に生きるために、第一に求めるべきものは、
主の言葉、福音、いのちの言葉です。家族のため、主の言葉を求めましょう。
キリストの教会という新しい神の家族の一人とされて、生き始めましょう。

 聖書の言葉
 「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。  コリントの信徒への手紙一2章16節
                          
わたしたちの祈り
 天にいます父なる神さま、あなたを「アッバ、父よ」と呼ぶ、祈りの霊を、わたしたち一人一人に与えてくださいました。どうか、御子イエス・キリストが、絶えず、あなたの子として十字架の死に向かって歩まれたように、わたしたちも、御子の贖いのゆえに、あなたの愛しておられる霊の家族の一人とされている幸いを感謝し、あなたの御言葉を求めて、家族の救いのために祈る者としてください。そして、この生きづらい世の中で、あなたの御名を賛美させてください。教会の頭、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年4月21日 ウェストミンスター小教理問答問62

第四戒に加えられている理由は、何ですか。
第四戒に加えられている理由は、神が週の六日を私たち自身の職のために使わせてくださること、神が第七日には特別の所有権を主張されること、神御自身が模範を示されたこと、神が安息日を祝福しておられることです。

 第四戒(安息日を心に留め、これを聖別せよ。)には、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」との理由が添えられています。
 「もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。」(ヘブライ人への手紙4章3節)と教えられるとおりに、すでに、わたしたちは、大いなる神の安息の中に、「日々」「生涯」が置かれているのです。
 イエス・キリストは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である」(マルコによる福音書2章27,28節)と、ご自身の定められた、「安息日」について、その最も大切な目的と理由を教えられました。
 それは、当時の宗教が、神の戒めを人のきまり事にして教える罪(律法主義)にに陥り、安息日の本当の意味を知らないままに、神の業を信じる礼拝と憐れみの心がなおざりにされていたからです。
 今日、わたしたちが、神の安息の中に、心安んじて、大いなる平安の中に共に憩うことができるために、御子イエス・キリストの十字架の死からの復活において、死を打ちのめし、永遠の安息に至る道を開いてくだったのです。
 「神の安息にあずかった者は、神の御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだ」(ヘブライ人への手紙4章10節)との霊的休息こそ、安息日律法の約束している、本当の安息なのです。復活の日、主イエスが、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書20章19節)と言われた、主の安息の実現を信じ、主を喜びましょう。
 
 聖書の言葉
 主において常に喜びなさい。・・・どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。              フィリピの信徒への手紙4章4、6節
                          
わたしたちの祈り
 天にいます、わたしたちの父なる神さま、あなたは、愛する独り子イエス・キリストの命をも惜しまず、わたしたちのために与えてくださいました。今、わたしたちは、御子の血による贖いによって、礼拝の喜びと慰めをともにし、罪の赦しとあなたの安息の実現を信じます。どうか、いつも主を喜び、あらゆる思い煩いをやめて、何事につけ感謝を込めて祈りと願いをささげ、わたしたちを、心のすべてを知っておられる神を信じて祈る群れ、祈りの家としてください。わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年4月14日 ウェストミンスター小教理問答問61

第四戒では、何が禁じられていますか。
第四戒が禁じている事は、求められている義務を怠るか不注意に果たすこと、この日を、怠惰により・それ自体罪あることを犯すことにより・または私たちの世俗の職や娯楽を必要もなく思い語り行うことによって、汚すことです。

 主イエス・キリストは、預言者イザヤの言葉をもって、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」と戒められました。かりにも、第四戒が、ただ、日曜日に教会の礼拝を守ることについての、人の、ただのきまり事に陥ってしまったら、同じ罪を犯していることになりかねません。
 なぜなら、安息日律法を正しく守ることは、ただ、主日(日曜日)において教会の礼拝を守れば、それで十分とは決して言えないからです。
 聖書はかえって、「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです。」(ペトロの手紙一1章14~16節)と命じるように、聖なる神にかなって、わたしたちのすべての生活が聖とされることが求められています。
 それでは、わたしたちが、生活のすべてにわたって、聖なる生活を送るためにはどうしたら良いのでしょうか。
 それは、主日公同礼拝を毎日覚える生活をすることです。具体的には、わたしたちの罪が、神の御前に明らかであることを認め、神とキリストとの人格的な交わりの中で、祈りの応答関係を絶えず持つことです。そして、日々、主から与えられた兄弟姉妹とすべての人々のために執り成しの祈りをささげること、神礼拝(個人・家庭・公同)を、怠らずに、守り、主を喜ぶことです。

 聖書の言葉
 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
                  フィリピの信徒への手紙4章4、5節
                          
わたしたちの祈り
 天にいます、わたしたちの父なる神さま、あなたは、わたしたちの罪のために、御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡してくださいました。今、わたしたちは、御子の血による贖いによって、罪赦され、あなたの御前に出て祈ることができますことを感謝いたします。どうか、わたしたちが、いつも主を喜びつ、罪を離れ、あなたの聖と義に適う、献身と生活へと導いてください。そして、主日公同礼拝をささげている心をいつも絶やさずに抱き続けることができますように。主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年4月7日 使徒信条

 主は、…苦しみを受け…

 主イエス・キリストは、わたしたちの罪のために十字架の苦しみを負ってくださいました。使徒信条は、もとのラテン語の原文の語順では、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しむを受け」ではなく、「苦しみを受けられた・ポンテオ・ピラトのもとに、十字架につけられ」と続きます。
 この語順どおりに、ハイデルベルク信仰問答では、苦しみを受けられた「キリストがその地上での御生涯のすべての時、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。」と、キリストの負われた苦しみが、地上の全生涯に及ぶこと、そして、十字架の死の苦しみを明らかにします。そして、「それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。」(問37)と、キリストが負われた「苦しみ」の目的を明らかにします。
 じつは、イエス・キリストの苦しみは、十字架の死から三日目に復活し、天に上げられた後も、続いています。それは、贖いのための苦しみではなく、世との戦いのための苦しみです。キリスト教会を迫害していたサウロ(後のパウロ)への「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒言行録9章4節、22章7節、26章14節)との主イエスの声こそ、今、この世のただ中に立つ教会への慰めと良き励ましの声でもあります。
 なぜなら、主イエスは、教会の負っている世の試練、迫害、危険のすべてを、ご自身のものとして負っておられるからです。すべての人の罪ゆえの苦しみを主イエスにゆだねて祈りましょう。そして、この世のただ中で、主の十字架の苦しみゆえに、主と共に忍耐し、主を望み、主を喜びつつ、歩みましょう。

 聖書の言葉
 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。                イザヤ書53章4節
 
                         
わたしたちの祈り
 父なる神さま、十字架の死から三日目に復活され、天に上げられた御子、主イエス・キリストにおいて、今、わたしたちを、どのような苦しみの中でも、主の負われた苦しみとして忍耐しつつ、あなたの備えられた道を共に歩むことへと導いておられることを感謝いたします。どうか、あなたの福音のために、苦しむことをも恵みとして与えられていることを感謝し、絶えず祈り、すべてを望みつつ、自分を捨て、主の十字架を負う献身へと進ませてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

2019年3月31日 ウェストミンスター小教理問答問60

安息日は、どのように聖別すべきですか。
安息日は、次のようにして聖別すべきです。その日は終日きよく休むこと。他の日なら正当な世俗の職や娯楽さえもやめること。すべての時間を公私の神礼拝を守るのに費やすこと。ただし、必要やむを得ない業とあわれみの業にとられる時間は別です。  

 十戒の第四戒は、わたしたちの実生活の中で、正しく理解するためには、歴史的な背景に注意することが大切です。最初に、この十戒が、モーセをとおして、イスラエルの民に命じられた時、イスラエルの民は長い間の奴隷生活から解放されたばかりでした。ですから、日常生活の中で、七日間という一週間と、一日を「安息日を聖として覚えよ」「守れ」ということは、過労と無関心と忘恩の罪に陥りやすい人びとにとって、とても恵み深い戒めであったのです。
 また、この教理問答が書かれた、ピューリタンの時代(17世紀のイングランド)、日曜日の礼拝が済んだ後には、「いかがわしい劇場に足しげく行くこと・・五月祭遊戯(ゆうぎ)、教会祭日、祝祭や徹夜祭、笛吹き、ダンス、さいころ賭博、トランプ遊び、玉ころがし、テニス、あるいは熊いじめ、闘鶏、鷹狩、狐狩り、・・縁日、市場を開くこと」(ジェームズ・I・パッカー著『ピューリタン神学序説』299頁)のような、大がかりな慣習化した祭や娯楽、商売に時間を大半の費やす、大衆の、世俗の習わしがあったようです。
 ですから、具体的に、「他の日なら正当な世俗の職や娯楽さえもやめること」と言われます。むしろ、安息日は、空しく時を費やす日ではなく、礼拝と憐れみの業において、恵み深い主の御業を喜び楽しむ、霊的活動の日です。とくに、主の御言葉と礼典と祈祷において、教会と家庭での礼拝を守る日です。
 今日、「イエスは生きておられる」(ルカによる福音書24章23節)との、復活信仰において、主の安息にあずかり、主を共に喜びつつ、時を聖別します。

 聖書の言葉
 …安息日を喜びの日と呼び 主の聖日を尊ぶべき日と呼び これを尊び、旅をするのをやめ したいことをし続けず、取り引きを慎むなら そのとき、あなたは主を喜びとする。             イザヤ書58章13、14節
                          
わたしたちの祈り
 天にいます、わたしたちの父なる神さま、あなたは、わたしたちのために、今日も、生きておられる御子イエスを主と呼び、共に礼拝する日として定めてくださったことを感謝いたします。わたしたちが、あなたの憐れみによって、いよいよ、主の安息日を覚えて、守り、憐れみの業に尽くすことができますように。どうか、過労と怠惰と無関心に陥ることなく、あなたの恵みを深く思いめぐらすことができますように、わたしたちの心の目を覚まし、魂を守ってください。愛する主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年3月24日 ウェストミンスター小教理問答問59

七日のうちのどの日を、神は週ごとの安息日と指定されましたか。
神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日と指定されました。そして、キリストの復活からは、週の第一日を世の終わりまで続けるように指定されました。これがキリスト教安息日です。

 イエス・キリストは安息日の前日(金曜日)に十字架刑に処せられ、一週の始めの日(日曜日)に、イエス・キリストは十字架の死から三日目に復活されました。さらには、聖霊降臨の日も、この日から50日目、七週の祭りの日、一週の始めの日(日曜日)でした。
 神の民の安息について、ヘブライ人への手紙において、「実際、神の安息に入った者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだのです。だから、私たちはこの安息に入れるように努めようではありませんか。」(ヘブライ人への手紙4章10,11節)と呼びかけられています。
 聖霊降臨の日の「翌日」(月曜日)、議会で取り調べを受けたペトロとヨハネは、聖霊に満たされて、十字架につけた、イエスをおいてほかに救いはないことを、大胆に宣べ伝えました。釈放された二人が、取り調べのことを残らず仲間のところで報告した時、これを聞いた人たちは心を一つし、神に向かって声を上げて、「聖なる僕イエスの名によって」(使徒言行録4章30節)祈りました。この時、「祈りが終わると、一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語り出した」(使徒言行録4章31節)のです。
 このように、神の安息にあずかるとは、具体的には、神の言葉とその恵みを共にすることであり、聖霊の導きによる祈りにおいて、神の言葉を語る器とされることです。週の第一日を週ごとの安息日と指定された神でいます主イエス・キリストは、主日礼拝を守る、週の第一日のみならず、週日においても、ご自身の群れを執り成しておられます。主の声に「今日」聞き従いましょう。

  聖書の言葉
 神はある日を「今日」と決めて、・・「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」と・・語られたのです。
                     ヘブライ人への手紙4章7節
                          
わたしたちの祈り
 天にいます、わたしたちの父なる神さま、あなたは、わたしたちのために、一週の始めの日を、復活の主の御業において、神の声を聞く日としてくださったことを感謝いたします。どうか、「今日」も、あなたの御声を聞くことにいて、かたくなな心が、柔和な心に変えられて、御声に聞き従う者としてください。そして、わたしたちが、信仰によって、キリストの言葉を、すべての人々に、神の定められた時に、御言葉と祈りにおいて、復活の主を証しする者としてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年3月17日 ウェストミンスター小教理問答問58

第四戒では、何が求められていますか。
(答え)第四戒が求めている事は、神が御言葉において、はっきりと七日のうち丸一日をご自身のための聖安息日にすると指定されたとおりに、その定めの時を神に対してきよく守ることです。

 十戒の第四戒は、安息日律法とも呼ばれる、礼拝の日を規定する戒めですが、旧約の時代、イスラエルの民は、しばしば、この戒めのとおりに、安息日をきよく守ることができませんでした。
 異教国バビロンに連行され、イスラエルの民が、捕囚の民とされた時、預言者エゼキエルは、このように民に、主の御言葉を教え、命じました。「おのおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって自分を汚してはならない。わたしはお前たちの主である。」(エゼキエル書20章7節)、「わたしは、彼ら(エジプトの地から荒れ野に導いた人びと)にわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らとの間のしるしとなり、わたしは彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった。しかし、イスラエルの家は荒れ野でわたしに背き、人がそれを行えば生きることができるわたしの掟に歩まず、わたしの裁きを退け、更に、わたしの安息日を甚だしく汚した。」(エゼキエル書20章13節)
 このように、安息日とは、主のもの(所有)であり、それを守るとは、主の清さにかなって守ることであって、主の掟に歩まないことを、主のきよさを「汚す」と言います。
 つまり、安息日律法の正しい理解における一つの要点は、聖なる神の御前にある聖別です。この教理問答が、安息日を「聖安息日」と呼ぶ理由もここにあります。主日公同礼拝は、しばしば、聖日礼拝と呼ばれます。呼称はともかく、大切なことは、ただ、キリストの贖いのゆえに、聖別された者が、復活の主イエスを知るために定められた時を、聖なる「神に対してきよく守ること」です。

  聖書の言葉
 それは、わたしの掟に従って歩まず、わたしの安息日を汚したからだ。彼らの心は、自分たちの偶像にひかれていたのである。エゼキエル書20章16節

 わたしたちの祈り
 天にいます、わたしたちの父なる神さま、わたしたちは自分の偶像にひかれ、あなたの安息日を汚す罪を犯してきました。そのような、わたしたちをあなたは憐れんでくださり、滅ぼすことなく、御子の命において贖い、主を喜ぶ日として安息日を与えてくださったことを感謝します。どうか、この計り知れない、あなたの愛と慈しみのゆえに、主の安息日を守ることができますように、助けてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年3月10日 ウェストミンスター小教理問答問57

第四戒は、どれですか。
第四戒はこれです。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門の内にいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」。
 
 十戒は、出エジプト記20章では、基本の箇条は、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」ですが、申命記5章では、「安息日を守ってこれを聖別せよ」です。同じ十戒が命じられ、教えられる時に、「心に留める」と「守る」の二つの言葉が用いられています。今、わたしたちにとって、安息日を「心に留め」「守る」とはどういうことでしょうか。
 それは、十字架の死から三日目に復活された、イエス・キリストを主と信じ、告白する日を大切にすることであると信じます。それは、イエス・キリストが十字架の死から三日目に復活された、一週の始めの日を指し示し、天地創造の第一日、そして、聖霊降臨の日を思い起こす日です。
 じつは、天地創造の第七日をもって、安息された日の中に、主の御手の働きにおいて、日々の、すべての人の歩みが置かれています。現代日本の日常生活の中で、人の仕事の多くが休止するのは、日曜日ではなく元日でしょう。忙しい今日でも、工場が停止し、車が走らず、人間活動が休止すると、かえって、都会地においても、普段より空気は澄み、一時の静けさが取り戻されます。
 この不変の神の安息の中に生かされながら、その安息を創造主でいますまことの神のもの(所有)として感謝することが、すべての人に命じられる礼拝の日の意味なのです。安息日の主が、イエス・キリストであることを思い起こし、真実の礼拝を守ること、ここに、第四戒を「守る」、今日的意味があります。

  聖書の言葉
 こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。              歴代誌下36章21節    

 わたしたちの祈り
 天にいます、わたしたちの父なる神さま、あなたは、天地万物を創造し、出エジプトの時、イスラエルの民を導き、あなたの御心に適って、愛する独り子を、わたしたちのために遣わしてくださいました。安息日の主は、あなたの御子イエス・キリストです。どうか、わたしたちが、主日公同礼拝を守る度毎に、十戒を唱える時、十字架と復活の主と共にある、真実の礼拝をささげる者としてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年3月3日 使徒信条

 我は、…永遠の命を信ず。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネによる福音書20章31節)と福音書が伝えるとおりに、「永遠の命」とは、救い主イエスの名という、救いの命を受けることです。
 それは、主の復活を信じ、弟子たち同様に、永遠の神の喜びが満ちあふれることです。
 ウェストミンスター大小教理問答は、人生の目的は、「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」と言いました。それは、ただ、主イエス・キリストの贖いを信じて、聖霊の恵みによって生きるときに、与えられる、礼拝の喜びであり、慰めです。
 使徒ヨハネは、新しいエルサレムの幻を見てこう言いました。「わたしは都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」(ヨハネの黙示録21章22、23節)
 それは、昔、神殿に契約の箱が安置され、神の臨在が現され、そこで祭司が執り成しの祈りと動物犠牲をささげたように、十字架の死から三日目に復活され、天に上げられた、イエス・キリストこそが、神にささげられた小羊であり、にその贖いの御業が、天上において完成されることを意味しています。
 このキリストが備えておられる、天上の喜びを、今、ここで信じることこそ、「永遠の命」を信じること、つまり、永遠の喜び、慰めを信じることです。
 それは、「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(フィリピの信徒への手紙1章20節)との祈りに至るほどに、真剣に、地上の生涯を生きることと一つです。今日も、キリストに贖われた命をもって、皆共に、永遠の喜びと神の栄光をあらわしましょう。

  聖書の言葉
 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 
                   ヘブライ人への手紙13章8節    
 わたしたちの祈り
 天にいますわたしたちの父なる神さま、あなたの愛する独り子の名をもって、わたしたちをあなたの命にあずかる道を開いてくださり、感謝します。どうか、いつも喜び、どんなことにも感謝し、絶えず祈ることへと、わたしたちを導いてください。そして、この喜びと感謝と祈りこそが、御子の贖いによってわたしたちに与えられた救いの喜びであることを信じる者としてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年2月24日 ウェストミンスター小教理問答 問56

第三戒に加えられている理由は、何ですか。
第三戒に加えられている理由は、この戒めを破る者がどんなに人々からの罰を免れても、私たちの神、主は、御自身の正しい審判を免れさせはなさらない、ということです。

 十戒の第三戒には、「主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない」(出エジプト記20章7節聖書協会共同訳)との理由が付いています。これは、とくに、祈り、讃美、告白、誓いという、真心が求められている礼拝のすべてを、主なる神御自身が、それを正しく裁かれることを教えるものです。
 その一方で、多くの人々にとって、主の律法は、厳しい戒律を命じるもの、到底、自分にはついて行けないとの印象も与えているかもしれません。
 しかしながら、「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え 主の戒めは清らかで、目に光(ひかり)を与える。」(詩編19編8、9節)と教えられるとおりに、本来、主の律法は、人間にとって、心の喜びから出て来る聖なる神礼拝また神讃美と等しいものです。
 つまり、主の律法がしばしな心情的に忌み嫌われる根源的理由は、人間自身の内にある罪と心の頑なさです。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられる」とき、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、(主の律法に適う)義という平和に満ちた実を結ばせる」(ヘブライ人への手紙12章11節)と、聖書は、主の律法に従う過程における、悲しみから真実の平和に至る道を約束します。
 主の律法に従うことには鍛錬が伴いますが、主の霊によって、神と和解し、救いの恵みと良心の平和によって生きることそのものです。主イエスの負われた重い罪の軛(くびき)のゆえに、互いに重荷を担い合い、主に従いましょう。

 聖書の言葉
 わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。        ローマの信徒への手紙5章21節    
      
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、御子の十字架の死に至る生涯において、あなたの律法の要求を満たしてくださり、御子を律法の目標、終わりとしてくださいました。どうか、わたしたちが、あらゆる苦難の中でも、主の御言葉と律法を求めて忍耐しつつ、真心から礼拝をささげつつ練達し、あなたの御名によって絶えず祈り、献身する者とならせてください。わたしたちの愛する主、教会の頭、すべての人の主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2019年2月17日 ウェストミンスター小教理問答 問55

第三戒では、何が禁じられていますか。
第三戒が禁じている事は、神が御自身を知らせるのに用いておられるどんなものをも、汚したり濫用するすべてのことです。

 この「神が御自身を知らせるのに用いておられるどんなもの」のうち、最も大切なものは、神の言葉である聖書です。
 イエス・キリストが、悪魔から三度、誘惑を受けられた時のことです。その二度目の時、「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて」言いました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないよに、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」と聖書の言葉を悪用して、命をねらいました。このとき、主イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われ、悪魔の誘惑を退けました(マタイによる福音書4章5~7節)。
 このように、たとえ、聖書の言葉が正しくても、それを悪用する時、それは、神を試みる罪を犯すことになります。現代社会において日常的に犯されている罪の一つが、聖書やその登場人物などをキャラクターにして商業用に使ったり、人の御利益のための単なる宗教書に利用したりしていることにあります。
 主イエスは、「聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(ヨハネによる福音書5章40節)と言われました。
 また、イザヤ書53章を読んでいた、エチオピア人の宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(使徒言行録8章31節)と言い、フィリポからイエスについて聖書の説き明かしを聞いて、主を信じ、洗礼を受けました。今日も、聖書の言葉の説き明かしを聞き、主イエスを信じましょう。

 聖書の言葉
 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。                 ヤコブの手紙1章21節    
      
 わたしたちの祈り
 恵み深い父なる神よ、あなたは、ご自身と救いの御業を、聖書の御言葉によって啓示してくだいました。そして、聖書の全体が、御子イエス・キリストが、本当に、神の独り子であり、十字架の死と復活が、神の約束の御業であることを証しています。どうか、聖霊の導きによって、御言葉を信じ、あなたの御前に自分の罪を認めつつ、御子の成し遂げられた贖罪の御業を信じ、あなたとの和解の道を歩みつつ、あなたの御名にふさわしく導きいてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの聖なる御名によって、祈ります。アーメン。
 

 

2019年2月10日 ウェストミンスター小教理問答 問54

第三戒では、何が求められていますか。
第三戒が求めている事は、神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業を、きよく敬虔に用いることです。

 わたしたちの教会生活において、神の御名をきよく敬虔に用いるときとは、主日公同礼拝の時であり、また、家庭・個人礼拝の時です。とくに、神の御前における誓約と、讃美と祈りにおいて、御名は正しく用いられなくてはなりません。
 洗礼式においては、信者もしくは、信者の親が、神と教会の前に誓約します。また、信仰告白式、教師任職式、牧師就職式、治会長老及び執事任職式、転入式、加入式等も同様です。
 そこで誓約されることは、神の御前にある、真心からなる信仰告白でなければなりません。小会・中会・大会は、絶えず、そのことを吟味し、確かめながら、主の召しに応える教会であることを祈り求めています。
 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマの信徒への手紙10章17節)と教えられるとおりに、わたしたちの信仰は、十字架の死から三日目に復活されて、天に上げられた、イエス・キリストの御業を、神の約束の実現と証しする、神の言葉である聖書の言葉をもって、告げられるものです。
 主イエス・キリストが、「一切誓いを立ててはならない」(マタイによる福音書5章34節)と命じられたとき、「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という聖書に反する教えが、人々に教えられていました。それは、絶対に失敗をゆるさない教えであり、自他を裁くに早い教えでした。聖書の教えは、むしろ、
罪の赦しの福音であり、罪を内面的な、頑固なもの、人間の力では解決できないものと教えます。本当の誓いは、ただ、神の力に依りすがるものであって、
神の憐れみによって、御子の命を信じてなされる誓いこそ、真実の誓約です。

 聖書の言葉
 神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。             ヘブライ人への手紙6章17節    
      
 わたしたちの祈り
 主イエス・キリストの父なる神よ、あなたは、ご自身の約束と誓いにおいて、あなたの契約が変わらないものであることを示してくださり、感謝します。どう、わたしたちが、あなたの約束と誓いという、二つの不変の事柄を心に留めて、わたしたちが誠実でなくても、あなたが常に真実であられることを信じ、あなたの御名による誓約に恥じることない、聖なる生活へと絶えず導いてください。わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2019年2月3日 使徒信条

 主は、…天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり、…

 主イエス・キリストは、十字架の死から三日目に復活され、弟子たちが見ているうちに天に上げられました。この時、弟子たちが、天を見つめていると、白い服を着た二人の人(御使い)がそばに立って言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあながたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章11節)
 主イエス御自身、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」「行ってあながたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書14章2,3節)と約束されたとおりに、天に上げられた一つの目的は、ご自身の贖われた民のために、天の住まいを準備するためです。
 もう一つの目的は、主が再び来られる日まで、御自身がキリスト教会の頭(かしら)であることをお示しになり、御子によって御父が万物を統治するためです(ハイデルベル信仰問答問50)。
 今、この恵みの時代、救いの日に、主イエス・キリストの御名によって祈るとは、じつに、ただ、キリストの贖いのゆえに、神との和解をいただいている者として祈ることにほかなりません。 
 御子は、約束の聖霊を通して、ご自身の体としてくださった、わたしたちのうちに、ご自身の賜物のはかりに従って恵みを与えてくださっています。教会の霊的成長は、ただ、このキリストの執り成しと恵みによります。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において、一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」こと、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長」(エフェソの信徒への手紙4章14、15節)をもたらしている聖霊の働きを信じ、共に、仕え合いましょう。

 聖書の言葉
 それでまた、この方(御子、イエス・キリスト)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。      

                                 ヘブライ人への手紙7章25節    
      
 わたしたちの祈り
 主イエス・キリストの父なる神さま、今、わたしたちが、ただ、あなたの愛する独り子の名をもって、あなたに近づく、まことの祈りへと導いてくださり感謝いたします。どうか、主イエスを死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことを、イエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものを備えてくださいますように。永遠の契約の血による大牧者イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年1月27日 ウェストミンスター小教理問答 問53

第三戒は、どれですか。
第三戒はこれです。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主はみ名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」。

 十戒の第三戒は、わたしたちに、礼拝の心と態度を教えています。それは、じっさいに、唯一まことの神の名(名前、御名)を敬虔に用いることの大切さを教えるものです。
 人間同士であっても、名前は大切なものです。単なる他の人と区別して用いるための記号ではなく、人格を指し、また、その人自身を指します。ですから、名前は呼び、呼ばれることにおいて、意味を持ちます。
 そして、聖書の神の特徴は、特定の人間と恵みの契約を結んでくださることにあります。実に、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という名こそ、契約の神の名にふさわしい呼び名です。
 モーセがイスラエルの民の指導者として召されたとき、神は、「わたしはあなたの父の神である。」と言われ、この契約の名を示されました。そして、モーセが、「「あなたたちの先祖の神が、わたしをここ(エジプト)に遣わされたのです」と言えば、イスラエルの人々が、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」との問いに答えて示された名が、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(しゅ)」「わたしはある」という名です(出エジプト記3章14節)。
 わたしたちは、今、イエス・キリストを「アブラハムの子、ダビデの子」として知り、そして、十字架の死から復活され、天にあげられたこの方を、「主」とあがめる、神礼拝に導かれています。
 それは、父・子・聖霊という三位一体の神から示された、御子の名であり、また、その存在は、歴史の神・主であり、同時に、永遠の神・主であることを示しています。この神の名において成り立っている礼拝を大切にしましょう。

 聖書の言葉
 神よ、あなたの名によって私(わたし)を救い あなたの力によって私(わたし)を裁いてください。神よ、祈りを聞いてください。この口の言葉に耳を傾けてください。             詩編54編3,4節聖書協会共同訳    
      
 わたしたちの祈り
 わたしたちの主、イエス・キリストの父なる神さま、わたしたちをあなたの名において、呼んでくださり、感謝いたします。どうか、わたしたちが祈りと賛美と感謝をささげる度毎に、わたしたちの罪をあなたの御前に悔い改めつつ、あなたの名によって救われ、あなたの力によって義とされた者として、清い畏れと敬虔な心をもって、あなたの名を呼ぶことができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。
 

 

2019年1月20日  ウェストミンスター小教理問答  問51
 
第二戒では、何が禁じられていますか。
第二戒が禁じている事は、像による神礼拝、または神の御言葉に指定されていないあらゆる他の方法による神礼拝です。
 
  旧約時代において,神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒は、イエス・キリストが来られたこの新約の終わりの時代においても、神の真実を証ししています。
  使徒パウロは、「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来
た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」(コリントの信徒への手紙一10章1~4節)と言いました。
  ここで、コリント教会の皆が、「兄弟たち」と呼びかけられ、モーセの時代のイスラエルを指して、「わたしたちの先祖」と呼ばれています。このことは、ユダヤ人、異邦人を問わず、キリストを主と信じる者たちは、イスラエルの子孫であり、旧約のイスラエルから続く、「主の民」であることを意味していま
す。
  そして、明らかに、ここで、この霊的な岩たる御方、主こそ、「キリストだった」と告白されています。永遠の神でありながら、まことの人となられた、キキリスト御自身が、旧約の時代においても、イスラエルの民を養うために生きて働いておられたのです。
  今、わたしたちがささげる礼拝において、偶像とは、このキリストを主とあがめることを妨げるものすべてです。ですから、偶像を通して礼拝することも、キリストの代わりに偶像を礼拝することも、あってはなりません。神の恵みに満ち足りることを知らない、空しい貪欲、量と数の追求も、偶像礼拝です。
 
  聖書の言葉
  主よ、まことの神よ  私(わたし)の霊を御手に委ねます。あなたは私(わたし)を贖(あがな)われた。
  私は空しい偶像を守る者を憎み  主に信頼します。詩編31編6節 聖書協会共同訳        
            
  わたしたちの祈り
  天にいます、わたしたちの父なる神さま、わたしたちの罪を、ただ、御子の血によって贖ってくださり、感謝いたします。そして、今、わたしたちを、御子を教会の隅の親石としてくださり、わたしたちを生きた石として聖別してくださっていることを感謝いたします。どうか、主の贖いによって、聖と義され
た者にふさわしく、御言葉と聖霊によって清め、主に信頼する者としてください。教会の頭、主、イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年1月13日 ウェストミンスター小教理問答 問52

 第二戒に加えられている理由は何ですか。
 第二戒に加えられている理由は、神が私たちに君臨する主権者であられるこ と、神が私たちの所有者であられること、神が御自身への礼拝に熱心をもっておられることです。

 十戒の第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト記20章4節)は、さらに、「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなる形をも造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と命じられ、それに加えて、「①わたしは主、②あなたの神、③わたしは熱情の神である」との三つの理由が、ここに教えられています。
 それは、第一に、天地万物を造り、エジプトからイスラエルの民を導き出された神が、わたしたちの主であり、主権者であり、統治者であること。第二に、この主なる神がわたしたちの所有者であり、支配者であること、第三に、このわたしたちの主である御方が、自ら、真実の礼拝を与え、その礼拝に熱心をお持ちである嫉む神であるということです。
 礼拝は、創造者であり、立法者でいます、神の主権と権威のもとにあります。また、わたしたちが、神を、わたしたちの主と呼ぶことができるのは、ただ、御子イエス・キリストの尊い血をもって、わたしたちの罪の代価を完全に支払ってくださり、神ご自身の所有(もの)としてくださったからです。そして、神は、わたしたちが、神のかたちに造られ、罪贖われた者として、恵みの契約の仲保者イエス・キリストにおける、契約の民として、霊と真理によって、神自ら命じ、規定された、礼拝の心と態度と方法において、礼拝のすべてにおいて、ご自身の栄光があらわれることを求めておられるのです。なおむなしいものを慕う、肉の思いを清められて、一途に主を愛し、礼拝しましょう。

 聖書の言葉
 主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください。
                          詩編86編11節    
      
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは愛する独り子をお遣わしくださり、わたしたちのために救いの門を開いてくださり、今、あなたと顔を合わせる礼拝の恵みをお与えくださり、感謝いたします。どうか、御子の尊い血によって贖われた群れであるわたしたちが、御子を頭とする一つのからだとして、いよいよ、一つの心で、主の勝利と平和を、この世のただ中で、証しする者としてください。
わたしたちの愛する主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年1月6日 使徒信条

我は、…聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず。

 使徒信条において、わたしたちが、「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白するとき、三位一体の神の御業の中に、キリストの救いの実りとして、この世のただ中に、その姿を表している、神の真実を告白します。
 御言葉と聖霊の導きの中に、恵みの契約における礼拝共同体としてわたしたちは、キリストにおいて、「永遠の命へと選ばれた一つの群れ」であることを、「まことの信仰の一致において」告白します(ハイデルベル信仰問答 問54)。
 それは、主イエス・キリストご自身、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネによる福音書15章5節)と約束されたとおりに、イエスを主と告白する、兄弟姉妹たちは、「わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける」(ハイデルベルク信仰問答 問54)との信仰理解に導かれます。
 しばしば、この生命的な教会理解よりも、教会が有機的に組織されることについての誤解や無理解があります。しかし、まことの教会には、本来、神とキリストにおいて召し集められた群れ(エクレシア)以外の信仰理解はあり得ないのです。
 そして、十字架の死から三日目に復活し、もろもろの天よりも高く昇られた主は、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与え」てくださっています。それは、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされ」る御言葉の奉仕に仕えるものです。  
 この意味で、教会役員(牧師・治会長老・執事)は、群れと区別された上級管理者ではなく、群れの中の、皆と同じ、主の僕、主の奉仕者に過ぎません。
そして、わたしたちは、真実の愛において、「頭であるキリストにむかって成長し」「おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく」(エフェソの信徒への手紙4章7,15,16節)のです。

 聖書の言葉
 キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた 
                      テモテへの手紙一3章16節
      
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストの十字架の死からの復活と昇天において、あなたは、わたしたちをあなたのもとに一つとするために、召し集めてくださったことを感謝いたします。どうか、「真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築く」(テモテ一6章19節)者として、互いに、主の恵みによって生かされ、執り成す者としてください。祝福に満ちた唯一の主権者でいます主イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2019年1月1日 ウェストミンスター小教理問1

人の主な目的は何ですか。
人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

 御言葉の奉仕者のための、教理問答では、「人間の第一の、最高の目的は、神の栄光を現し、神を永遠に、この上なく喜ぶことです。」(ウェストミンスター大教理問答問1)と、この第一の問いをより丁寧に告白しています。
 神が約束された救い主、イエス・キリストの誕生の夜、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2章14節)と、天の大軍は、神を賛美しました。
 それは、当時、神とされ、絶対的権威をもつ者とされていた、ローマ皇帝に着せられていた栄光を、まことの神、まことの王でいます、主キリストに帰することを意味しました。
 そして、「その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(イザヤ書9章5節)、キリストの十字架の上において成し遂げられた、贖いと罪の赦しの御業において、わたしたちは、国家権力、軍隊、武力によらない、神との和解において、お互いの間に平和を創り出す、神の子とされます。
 「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟(きょうだい)と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名を わたしの兄弟(きょうだい)たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』」(ヘブライ人への手紙2章11、12節)と証しされているとおりに、ただ、主イエス・キリストの御名において、祈りと賛美と感謝を、神にささげる、礼拝の交わりを共にしています。
 この人生第一の目的を、わたしたちがいつも心に留めて歩むとき、わたしたちは、「腹を神とし、恥ずべきものを誇り」(フィリピの信徒への手紙3章29節)とする罪を悔い改め、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すために」(コリントの信徒への手紙一10章31節)するのです。

 聖書の言葉
 しかし私には、神に近くあることこそが幸い。私は主なる神を逃れ場とし あなたの業をことごとく語り伝えよう。   詩編73章28節 聖書協会共同訳
      
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、人生の第一の目的は、わたしたちではなく、あなたの栄光をあらわすことであることを示してくださり、感謝いたします。どうか、わたしたちが、この人生第一の目的に向かって、キリスト・イエスによって捕らえられて、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神が与えてくださる賞を得るために、目標を目指して、ひたすらに走らせてください。祝福に満ちた唯一の主、イエス・キリストの栄光の御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年12月30日  ウェストミンスター小教理問50
 
第二戒では、何が求められていますか。
第二戒が求めている事は、神が御言葉のうちに指定されたとおりの宗教的礼拝と規定のすべてを、受けいれ、実行し、純正完全に保つことです。
 
  わたしたちのささげている礼拝は、人間本位の選択的理由によるものではなく、はじめから、神の栄光を第一とし、神の御言葉において指定されたとおりの宗教的礼拝を求めるものです。
  それは、「具体的には、キリストの御名による祈りと感謝、御言葉を朗読すること、説教すること、聴くこと、礼典を執行し、これを受領すること、教会政治と戒規(教会訓練)、牧師職とその維持、宗教的断食、神の御名による誓約と神への誓願」「あらゆる偽りの礼拝を認めず、嫌悪し、反対すること、各自の立場と召しに応じて、あらゆる偽りの礼拝を排し、偶像崇拝に関わる像を残らず取り除くこと」(ウェストミンスター大教理問答 問108)です。
  宗教(religion)とは、神と再び結びつくという意味があります。つまり、わたしたちのささげる礼拝の要は、ただ、キリストの贖いのゆえに、罪赦され、聖霊によって、直接、神を礼拝する自由を与えられたことにあります。ここに、わたしたちが守るべき、本当の宗教的自由があります。
  この宗教的自由は、信仰の自由であり、礼拝の自由、そして、福音宣教の自由です。そして、この自由を、わたしたちは、「きょうだい(兄弟・姉妹)たち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤの信徒への手紙5章13
節  聖書協会共同訳)と命じられるとおりに、外面的な儀式、律法主義によらず、今、ただ、キリストの御名において、信仰によって義とされる希望と、愛によって働く信仰という、真実の敬虔と実践を求めることが、肝心です。
  今日、ただ、主イエスが「あながたがに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイによる福音書28章20節)と弟子たちに命じられたように、礼拝のすべてにおいて、主の救いが告白されることを求めて祈りましょう。
 
  聖書の言葉
  「あなたがたは、私(わたし)を誰に似せるのか。私(わたし)が誰と等しいというのか」と聖なる方は言われる。  イザヤ書40章25節  聖書協会共同訳
            
  わたしたちの祈り
  天の父なる神さま、愛する独り子を十字架の上にかけられたほどに、この世の罪は、あなたの命じられる礼拝に背を向け、むなしい偶像を神としています。
どうか、キリストの贖いによる神礼拝を求めつつ、真心から神に近づくことができますように。そして、互いに、キリストにおいて救われた自由と恵みによる信仰によって、執り成す者としてください。わたしたちの愛する主、教会の頭でいます、主イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年12月23日  ウェストミンスター小教理問49
 
第二戒は、どれですか。
第二戒はこれです。「あなたは自分のために刻んだ像(彫像)を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは(わたしは主、あなたの神)、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、
わたしの戒めを守るものには、恵みを施して(慈しみを示して)千代に至るであろう」。
 
  十戒の第一戒は、どなたを神として礼拝しなければならないか、という、礼拝の対象が、わたしたちに告げられています。そして、第二戒は、どのようにして神を礼拝しなければならないか、という、礼拝の方法が、命じられています。それは、わたしたちの心において、どのような形であれ、神に代わるものを想像し、それを造って、拝んではいけないこと教えています。

  主イエス・キリストは、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネによる福音書4章24節)と命じられました。それは、聖霊と御言葉による、神の真実を証しする礼拝を命じるものです。
  旧約時代、幕屋にも、神殿にも、周囲の国々のような、拝むための彫像(偶像)はありませんでした。調度品は、いずれも、主なる神が命じられた、神礼拝に仕える象徴的器具であり、それ自体を拝むことはあり得ませんでした。
  しかし、主イエスは、その時代、動物犠牲売買において、主の戒めに背く悪事をお怒りになり、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と言われました。実際に、そこでささげられていた礼拝は、形ばかりのもので、その心は、真実の神に背き、偶像礼拝の罪を重ねていたのです(ルカによる福音書19章46節)。主の降誕節の今日、神の愛とその真実を知り、偶像礼拝の罪を告白し、「アーメン」まことに、復活の主は真実な方です、と、告白しましょう。
 
  聖書の言葉
  主よ、いつまでなのですか。あなたは永遠にお怒りになるのでしょうか。あなたの妬(ねた)みは火のように燃え続くのでしょうか。 詩編79編5節  聖書協会共同訳
 
  わたしたちの祈り
  天の父なる神さま、あなたは、人々が誇っていた、エルサレム神殿を滅ぼされた御方です。今、わたしたちは、十字架と復活の主、御子の贖いのゆえに、あなたの子とされ、聖霊の宿る、霊の神殿、神の宮とされています。どうか、日毎に、わたしたちのなお残る、様々な偶像を慕う、悪しき感情と汚れた心を
捨て、一つの心で、あなたを真実に、礼拝する者として導いてください。罪からの救い主、主イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 2018年12月16日  ウェストミンスター小教理問48
 
第一戒の「わたしのほか(面前)に」という言葉で、わたしたちは特に何を教えられていますか。
第一戒の「わたしのほか(面前)に」という言葉が私たちに教える事は、万事を見ておられる神が、他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いにきらわれる、ということです。
 
  聖書において啓示されている、生けるまことの唯一の神は、わたしたちに顔を向けられています。
  「どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。どこに逃れれば、御顔を避けられよう。天に登ろうとも、あなたはそこにおられ  陰府(よみ)に身を横たえようとも  あなたはそこにおられます。」(詩編139編7、8節  聖書協会共同訳)と、創造主なる神の御顔が、どこにおいても、わたしたちを見ておられる
こと、しかも、注意深く、熱心に、わたしたちを心に留めておられることを、一人の信仰者は、全能の神が、すべてを知っておられること(全知)と、どこにでもおられること(遍在)を告白します。
  また、「もし私(わたし)たちが我(われ)らの神の名を忘れ  他の神に向かって両手を広げることがあるならば  神はそれを探り出さないでしょうか。」と訴え、「心に隠していることを神は知っておられます」(詩編44編21、22節 聖書協会共同訳)と告白します。
  それは、神が、わたしたち一人一人のどのような罪と咎(とが)をも知っておられることを認めているだけではなく、神がご自身の義に従って、わたしたちを裁かれることを畏れつつ、なおも、神のみが知っておられる真実に身をゆだねようとする者の心から注ぎ出された、祈りの言葉です。
  今、わたしたちは、御子イエス・キリストの十字架と復活を知るとき、神の義は、十字架を要求するほどに峻厳なものであり、御子の命を身代わりとするほどに、憐れみ深いものであることを認め、深い感謝と賛美と告白をささげます。他の神々を慕う罪から離れ、まことの神のみを愛し、礼拝しましょう。
 
  聖書の言葉
  御覧ください  私の内に偶像礼拝の道(痛みの道)があるかどうかを。とこしえの道に私(わたし)を導いてください。  詩編139編24節  聖書協会共同訳
 
  わたしたちの祈り
  天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの背信と罪と過ちを宥める献げ物としてくださり、感謝いたします。どうか、わたしたちが日毎に、あなたが御顔を向けておられることを知り、心からの悔い改めに導かれ、あなたへの信頼を深め、心を注ぎ出して祈る者としてください。わたしたちの礼拝の主でいます、イエス・キリストの栄光の御名によって祈ります。アーメン。  

 

2018年12月9日 ウェストミンスター小教理問47

第一戒では、何が禁じられていますか。
第一戒が禁じている事は、まことの神を否定するか、神また私たちの神として礼拝せず栄光をあらわさないこと、神だけにふさわしい礼拝と栄光を他の何ものにでもささげることです。

「あなたは、私(わたし)をおいてほかに神々があってはならない」(出エジプト記20章3節 聖書協会共同訳)と、主なる神は、わたしたちに、唯一まことの神以外の神々があってはならない、と禁じておられます。
 それは、ただ、祈祷行為、礼拝行為だけが禁じられているのではなく、わたしたちの心と言葉と行いのすべてにおいて、まことの神を否定することが禁じられています。
 昔も、今も、しばしば、「○○の神様」と人間の手で造ったもの(偶像)や、ある人の比較的優れた能力を指して、自然の偉大さを指して呼ぶこともって、まことの神を否定しています。それらも、神が禁じておられる罪です。
 御子の降誕を伝える福音書においては、はっきりと、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところ(懐)にいる独り子である神(イエス・キリスト)、この方が神を示された」(ヨハネによる福音書1章18節)と教えられています。
 この意味で、キリスト教は、イスラム教やユダヤ教と同じ一神教で、同じ神を拝んでいると言うことはできません。キリストにおいて、わたしたちは、本当の神を知り、認め、父・子・聖霊[三位一体]の神のみを礼拝するのです。
 また、「あなたの贖い主 あなたを母の胎にいる時から形づくられた方 主はこう言われる。 私(わたし)は主、万物を造った者。独りで天を広げ、自ら地を踏み広げた者」(イザヤ書44章24節 聖書協会共同訳)と、まことの神は、わたしたちに、その贖いと創造の御業を示しておられます。この神の偉大さと栄光をほかのむなしいものに取り替えることは決してできません。目を覚まして、ただお一人の神を礼拝しましょう。

 聖書の言葉
 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。          イザヤ書44章6節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちに愛する独り子の命を与えてくださり、感謝します。わたしたちが、日毎に、御子の命において、罪贖われた者として、あなたを愛し、信頼しつつ、あなたのみに、礼拝をささげ、栄光をあらわすことができますように。隠れた罪ととが(咎)と過ちを赦し、わたしたちの心を清めてください。主イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2018年12月2日 使徒信条

主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、…

 イエス・キリストの誕生は、降誕(こうたん)、受肉(じゅにく)、派遣(はけん)、顕現(けんげん)等と呼ばれます。それは、イエス・キリストの誕生が、ただの人間の誕生ではなく、永遠の神の独り子が人間となられたという、神の御業とその真実を証しするものです。
 使徒信条は、とくに、御子イエス・キリストが、聖霊によって、受胎したこと、そして、処女マリヤより生まれたことを教えています。
 それは、御子が、わたしたちと同じ人間としてお生まれになりながら、堕落したアダムゆえの罪の性質を受け継がず、罪がないという仕方で宿り、生まれたことを意味します。
 洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と、イエスを指して声を上げました。それは、いつの時代、いつの世においても、すべての人が、すでに一度来られたイエスを知るときに、心を向けるべき御言葉であり、神の声です。
 なぜなら、御子イエス・キリストのお生まれになった目的は、わたしたちの罪を贖うためであり、それによって、神との交わりを失い、罪とその責任を増し加えている罪人の負うべき罪責と滅びの死を負ってくださったばかりでなく、神との交わりを回復し、神の義を目指して生きる命を与えてくださるためであったからです。
 「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章5節)と御言葉のとおりに、待降節を迎える今日、わたしたちの罪のために死んでくださるために生まれた御子と神の約束を思い起こし、十字架の死から三日目に復活された主の再び来られる日を待ち望みましょう。

 聖書の言葉
 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
                      ルカによる福音書1章35節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、永遠の神でいます、御子イエス・キリストが、罪を贖うために、罪のない第二のアダムとなられた、あなたの計り知れない救いの御業を賛美します。どうか、罪のない御方が罪ある者とされ、十字架の上に裁かれた、あなたの真実に心を向けつつ、あなたの与えてくださった救いの道をともに歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2018年11月25日 ウェストミンスター小教理問46

第一戒では、何が求められていますか。
第一戒が私たちに求めている事は、神を唯一のまことの神また私たちの神として知り、認めること、またそれにふさわしく神を礼拝し、神の栄光をあらわすことです。

 わたしたちが、唯一まことの神のみを対象として礼拝することは、表面的に儀式を行うことではなく、むしろ、神からの語りかけに人格的に応答することです。ですから、祈りと賛美も口先だけのものはなく、心からささげられるものでなければなりません。 
 じっさいに、モーセをとおして十戒を与えられたイスラエルの民は、シナイ契約を結びながらも、個人においても、共同体においても、偶像礼拝を繰り返し、そのために二王国分裂、バビロン捕囚などのさばきを自ら招きました。
 それは、戒めが与えられても、その罪の心が変わらなければならないこと、また、あらゆる罪の誘惑から心が守られなければならないことを教えています。
 まことの預言者エレミヤは、「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる」と言い、「わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心をそれに記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」(エレミヤ書31章33、34節)と言いました。
 それは、第一戒を守るために、主なる神自ら、わたしたちの心にこの戒めを聖霊によって書き記してくださるという、恵みによる礼拝を約束します。
 恵みの契約の仲保者として、イエス・キリストは、この礼拝の心をわたしたちに与えてくださるために、十字架の上に死に、その身をささげてくださり、三日目に復活されました。ここに、礼拝の心が回復する力の源があります。

 聖書の言葉
 二人は、「(十字架の死から三日目の、復活の日、イエスが)道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。        ルカによる福音書24章32節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちの罪の身代わりに御子イエス・キリストの命をお与えくださり、感謝いたします。どうか、復活の主、御子の命によって贖われた心と魂において、わたしたちがあなたを知ることへと導かれた恵みによって、生き生きと、心を尽くして、あなたをほめたたえ、御名を呼び求める者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2018年11月18日 ウェストミンスター小教理問45

第一戒は、どれですか。
第一戒はこれです。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。

 十戒の序言は、主なる神が、イスラエルの民との契約の関係の中で、ご自身を啓示された、主であり、あがない主であることを示された、救いの歴史を物語るものです。
 そして、この第一戒は、じっさいに、わたしたちがどなたを神として礼拝することが、本来の正しい務め(義務)であるか、ということ、礼拝の対象が、ただお一人の神、主であることを明確に命じます。
 主なる神は、繰り返して、ご自身が、あなたがたの神、主であることを告げながら、エジプトの苦役の中から救い出された、イスラエルの民を、荒野の中で導いていかれました。
 そのとき、主なる神は、幕屋の祭壇において、毎日絶やすことなく、雄羊二匹、穀物のささげ物、ぶどう酒の献げ物をささげるように命じられ、このように約束されました。
 「わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う。そこは、わたしの栄光によって聖別される。わたしは臨在の幕屋と祭壇を聖別し、またアロンとその子らをわたしに仕える祭司として聖別する。また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である。」(出エジプト記29章46節)
 このように、十戒の序言において告げられたことが、繰り返して、イスラエルの民に思い起こされながら、ただ一人の神である、主を礼拝することにおいて、わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、わたしたちと会見してくださるのです。今日も、主の御声を聞き、主の御顔を仰ぎ見ましょう。

 聖書の言葉
 しかし、主の方に向き直れば、(心の)覆いは取り去られます。…主の霊(聖霊)のおられるところに自由があります。コリントの信徒への手紙二3章17節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは罪深く頑な心を抱く、わたしたちに、絶えず、「わたしが、あなたがたの神、主である」とご自身を明らかにしてくださいます。聖霊の導きの内に、心の覆いと取り去られ、あなたに向き直って、あなたのみを礼拝し、日毎に悔い改めつつ、全生活においてただあなたにのみ栄光を帰させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2018年11月11日 ウェストミンスター小教理問44

十戒の序言は、私たちに何を教えていますか。
十戒の序言が私たちに教えている事は、神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられるので、私たちはそのすべての戒めを守る義務がある、ということです。

 今日、義務という言葉を聞くと、多くの人は、色々なきまりやルールを守らねばならない、という自分の意に反して、あるいは、それとは関係なく、とても強制的で否定的な響きを感じるかもしれません。しかし、義務とは、本来、ただしい務めのことで、それ自体は、義務だからする、というよりも、果たして当然の事であり、むしろ、それは、本当の自由と喜びをもたらすものです。
 しかし、この当然の事が守られず、かえって、それに反することするばかりでなく、罪そのものに気づかないという、罪を皆、負っています。
 ですから、そのような罪を罪とも思わず、義務と義務とも思わない、無感覚と背信を重ねる罪人のために与えられたのが、十戒であり、その序言なのです。
 神が「主」であるとは、モーセに、神自らその名を明らかにしてくださった名です。「わたしある」という方、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」という、契約の神の名こそ、「とこしえにわたしの名」「世々にわたしの呼び名」であり、わたしたちが礼拝をささげるただ一人の神、主です。
 また、神は、「わたしたちの神」です。それは、イエス・キリストが、インマヌエル、「神は我々と共におられる」という意味の名をもって、お生まれになったように、今、わたしたちは、イエス・キリストを知ることにおいて、神が、わたしたちと愛の関係をもってくださるお方であることを知ります。
 そして、この愛の関係こそ、罪とは正反対の、本来の神との関係そのものです。じつに、神の愛する独り子(御子)、イエス・キリストが、自ら、十字架の上にご自身をささげられたことによって、わたしたちの罪の身代わりの犠牲、贖いとなってくださったのです。これこそ、今、わたしたちが、十戒を、主の掟として尊び、イエスを主と告白する礼拝をささげる義務の理由です。

 聖書の言葉
 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉でいきる』と書いてある。」
                    マタイによる福音書4章4節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の血と命をもって、わたしたちの罪を贖い、あなたの契約の中に入れてくださり、感謝いたします。いつも、主イエス・キリストこそ、わたしたちの道であり、真理であり、命であることを信じ、あなたを真心から礼拝・賛美・告白しつつ、あなたから与えられた愛の義務を全うさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

 

2018年11月4日 使徒信条

我は、…キリストを信ず。

 わたしたちの信仰は、聖書信仰とも、キリスト信仰とも呼ばれます。いずれにしても、信仰の根拠、対象、内容を問わない、信仰らしきもの(?)は、本来、存在しないでしょう。
 とすれば、わたしたちの信仰の根拠は、聖書にあります。それは、旧新両約聖書は、天地を造られた神を啓示し、全人類の堕落を教え、神と人間(堕落した罪人)との間の仲保者として、イエス・キリストの生涯とその福音を伝え、聖霊による神の国の進展と教会建設の御業を証ししています。そして、キリストの再び来られる日を待ち望みつつ、生きるように、命じ、励ましています。
 使徒信条において、告白されている、福音の中心は、三位一体の神と主イエス・キリストであり、その救いの御業であることが明らかにされています。
 聖書に書いてあるとおり、イエス・キリストが、十字架の死から三日目に復活し、天に上げられ、約束の聖霊がエルサレムで、心を合わせて祈っていた使徒たちの内にくだりました。
 そして、エルサレムから伝道がなされていく中で、ステファノの殉教の後、「…散らされた人々(の中に)は、‥アンティオキアへ行き、ギリシャ語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」「二人(バルナバとサウロ(パウロ)は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めて(伝えられた福音のとおりに)キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒言行録11章19~26節)のです。
 わたしたちが、「キリストを信ず」と告白とき、わたしたちは、他の神々でもなく、むなしいものでもなく、目の欲、肉の欲でもなく、ただ、この御方のみに従うことを告白しています。そして、それによって、わたしたち自身も、「キリスト者」(クリスチャン)と呼ばれる身、見える教会の一員とされていることを恥じることなく、聖なる神、主の御前に献身しましょう。

  聖書の言葉
 ひたすらキリストの福音(喜びの知らせ)にふさわしい生活を送りなさい。
                    フィリピの信徒への手紙1章27節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちを、御子イエス・キリストと固く結び合わせて下さる、まことの信仰へと導いてくださり、感謝します。どうか、わたしたちに与えられた信仰を、絶えず、聖書の言葉によって検討・吟味しつつ、キリストの御名において呼ばれている教会の群れとして、あなたの栄光をあらわす者としてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年10月28日 ウェストミンスター小教理問43

十戒の序言は、何ですか。
十戒の序言は、次の言葉にあります。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。

 十戒は、もともと、天地を造られ、イスラエル民をエジプトから導き出された主なる神自ら、二枚の掟の板に書かれたものです。
 それは、出エジプト記において、モーセがシナイ山で最初にこの板を神から直接与えられながら、「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て」(出エジプト32章1節)、イスラエルの民が、アロンに懇願して、まことの神、主を知りながら、「我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」とがアロンに頼んで、金の子牛を作って拝むという偶像礼拝の罪を犯したときを思い起こさせます。
 「モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた「その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた」(出エジプト記32章16節)とあるとおりに、一度は、破壊されました。しかし、「主はモーセに言われました。『前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう』」(出エジプト記34章1節)と言われます。
 そして、主なる神は、「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。」「あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。」「これらの言葉(『あなたは鋳造の神々を造ってはならない』『あなたは除酵祭を守りなさい』など、十戒の具体的な適用)を書き記しなさい。わたしは、これらの言葉に基づいてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ。」(出エジプト記34章10~28節)と言われ、契約を更新してくださいました。・・・これほどに、十戒は、人の教えではなく、神の言葉であることを、その序言は、今、わたしたちに思い起こさせるのです。

 聖書の言葉
 わたし(イエス・キリスト)が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
                    マタイによる福音書5章17節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、イスラエルの民を愛して、モーセをとおして、契約を更新し、十戒を再び与えてくださいました。どうか、あなたの慈しみをもって、わたしたちを憐れんでくださり、わたしたち一人一人の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。そして、ただあなたののみを礼拝できますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。

 

2018年10月21日 ウェストミンスター小教理問42

十戒の要約は、何ですか。
(答え)十戒の要約は、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです。

 十戒の要約は、わたしたちに、一つの言葉、“愛すること”において神の律法の全体が要約されることを教えています。
 そして、「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(ヨハネの手紙一4章7,8節)と教えられるとおりに、ほんとうの愛は、
ただ、神の愛を正しく知ることにおいて、適切に、ふるまわれるものです。
 まことの預言者ホセアは、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて 歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを 彼らは知らなかった。」(ホセア書11章1~3節)と言い、ご自身の契約と誓いにおいて、出エジプトの御業をなしてくださった、主なる神の愛と憐れみを忘れて、偶像礼拝を重ねた、イスラエルの忘恩と背信と無知の罪を、主なる神のまなざしにおいて、明らかにします。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)において示された“神の愛”は、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」(ヨハネによる福音書3章14節)との御言葉のとおりに、十字架の上に上げられ、ご自身を罪の身代わりの犠牲とされた、永遠の神の独り子の、唯一の犠牲において示された、神の愛においてのみ、正しく知ることができます。「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(コリントの信徒への手紙一13章6節)、ただ一つの、本当の愛に生きましょう。

 聖書の言葉
 あなたがたは、わたし(主イエス)を愛しているならば、わたしの掟を守る。
                   ヨハネによる福音書14章15節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、十字架の上において、わたしたちの贖いとしてくださり、感謝いたします。どうか、ここに示された、あなたの真実の愛を信じ、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけた者として、日毎に悔い改めと献身を新たにしつつ、霊の導きに従って生き、前進していく者とならせてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年10月14日 ウェストミンスター小教理問41

道徳律法は、どこに要約的に含まれていますか。
道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれています。

 「十戒は、シナイ山で神の声によって交付され、神によって二枚の石の板に書き記されて、出エジプト記20章に記録されています。初めの四つの戒めは、神に対する私たちの義務を、続く六つの戒めは、人に対する私たちの義務を、その内容としています。」(ウェストミンスター大教理問答問98)
 この出エジプト記20章に記録されている十戒は、申命(主の命令を再び告げるの意味)記5章において、再び、記録されています。そこでは、モーセが、全イスラエルを呼び集めてこう言いいました。
 「イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。主は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである。主は言われた。」
(申命記5章1~5節)と言い、シナイ契約において、主なる神が言われた言葉として、十戒(十の言葉)告げられます。
 そして、そこで思い起こされることは、出エジプト記においては、天地創造の御業と七日目の安息でしたが、申命記においては、それを土台として、出エジプトの御業が加えられます。
 つまり、十戒における礼拝の日であり、時である、安息日とは、神の御業を思い起こすために、命じられているものなのです。
 今、わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活、聖霊降臨の御業を思い起こしつつ、主日礼拝を守っています。道徳律法における愛の初め、善悪の初めに、十字架の上に示された神の愛があることを、まず覚えましょう。

 聖書の言葉
 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
                      ヨハネの手紙一4章9節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの罪の身代わりの犠牲としてくださり、感謝いたします。どうか、十戒の中に要約的に示されているあなたの掟を守るために、第一に、あなたの愛を深く心に留めることができますように。そして、ただ、あなたの栄光をあらわし、神礼拝と隣人愛に生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年10月7日 使徒信条

我は・・聖なる公同の教会・・を信ず、

 わたしたちの主イエス・キリストは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイによる福音書16章18節)また、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネによる福音書15章4節)と言われました。
 それは、キリストの教会とは、はじめから、主イエス・キリスト御自身が建てられるものであって、教会は、その体制・本質において、維持・運営されるものではなく、むしろ、健全かつ霊的に、建設・成長するもの、神の恵みによって豊かな祝福の実を結ぶものであることを意味しています。
 それでは、この教会建設の土台、成長の地盤は、何でしょうか。それは、「この岩」という、神の啓示であり、キリストを証しする聖書の言葉であり、キリストを主と告白する信仰告白であり、それを宣べ伝える使徒的つとめです。
 ですから、主イエス・キリストは、この大切な約束を、使徒としての召命を与え、みずから、ペトロという名を付けられた弟子の一人の名をもって、わかりやすく、教会の唯一の土台をここに明らかにしてくださったのです。
 カトリック教会では、これを、ペトロ自身と解釈し、ペトロの首位性と使徒伝承を重んじ、“教会の外に救いはない”と、教会の権威を主張します。しかし、わたしたちプロテスタント教会は、権威の土台は、教会に帰属するものではなく、あくまでも、聖書のみであり、それは、キリストのみによる救いに至る道、そのものであると、聖書信仰そのものを教会理解として告白します。
 教会(エクレシア)とは、はじめから、神自ら召し出された群れという意味を持っています。「主イエス・キリストが、御自身の民を集め、これを全うするために、この地上に建てられた公同の教会は、見える恩寵の王国であり、いつの時代にも同一である」(日本キリスト改革派教会政治規準第二条:教会)ことを信じるとき、主に贖われた群れの一人であることを自覚するのです。
 
 聖書の言葉
 こうして、わたしたちは、…愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。エフェソの信徒への手紙4章15節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、わたしたちを、御子イエス・キリストの召し集めれた群れとしてくださり、感謝いたします。どうか、あなたの愛に根ざして福音の真理を人々に告げ、また、主イエスが、わたしたちを愛してくださったように、互いに愛し合いつつ、あなたのこの上ない愛を表す者としてください。わたしたちの主、教会の頭、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2018年9月30日 ウェストミンスター小教理問40

神は、人の服従の基準として、何を最初に啓示されましたか。
神が人の服従のために最初に啓示された基準は、道徳律法でした。

 世の多くの人々は、宗教と言えば、何らかの特定の規則に従う規律を課することを第一とすること思っているかもしれません。事実、多くの宗教は、自分を律する苦行を課し、また、様々な根本的な教え(たとえ、それが、神ではないものを神とする偶像であったとしても)をもとにしています。
 ですから、とりわけ、聖書信仰(キリスト教有神論)における、道徳律法の理解において大切な事は、創造主でいます、神御自身が、人間の服従のために初めから、一つのルール(原理・規則・規準)を示されたという事実です。
 それは、人間の心からの服従を求めるものです。しかし、初めに、業の契約において、始祖アダムは、神の啓示されたルールに背き、罪が世に入りました。
 しかし、「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマの信徒への手紙2章14,15節)と教えられるとおりに、聖書も知らず、十戒を知らない者でも、その心に、道徳律法が書き記されているので、その良心的働きにおいて、人間は、物事の善悪を判断をしながら、神の与えられた道徳律(良心的規律)を基とする生活をしています。
 堕落と罪のために、かえって、その思いは暗くなり、また、善を知りながら、悪をなしてしまう、肉の弱さと痛みを身に負い、争いと悲惨を繰り返しながらも、道徳的社会が破綻していない理由は、ただ、神の憐れみによります。
 今、わたしたちは、「律法の目標(終わり)」(ローマの信徒への手紙10章4節)となられた、十字架の主、キリストの心をわたしの心とする道を与えられました。それは、神の完全な愛に適う道そのものであり、聖霊の賜物です。

 聖書の言葉
「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」
 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
                コリントの信徒への手紙二2章16節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストが、律法の終わりとなってくださり、あなたの義を完全に満たしてくださったことを感謝いたします。どうか、あなたの契約と律法において、わたしたちが、いよいよ、聖霊の恵みによって、日々、あなたの示された道徳律法のすべてに聞き従うことができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年9月23日 ウェストミンスター小教理問39

神が人に求めておられる義務は、何ですか。
神が人に求めておられる義務は、神の啓示された御意志に服従することです。

 わたしたちは、数多くの規則、きまりの中で、ある秩序を重んじる生活しています。それらに慣例的に、あるいは、とくに、自分の意志に反して強制的に従うことは、ここで教えられている「神の啓示された御意志への服従」とは、その根本的原則・領域・方向が異なります。 
 「神の啓示された御意志」とは、具体的には、旧新両約聖書66巻のことを指しています。そして、そこで、神が啓示された御意志は、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4節)と命じられているように、求められていることは、わたしたちの「心」「魂」「力」を尽くすことであり、神である主を「愛する」という、霊的で、一途なものです。
 しかし、そこには、始祖アダムにおいて堕落した人間においては、罪ゆえの心の覆いが除かれることが不可欠であり、かたくなな思いが、柔和な思いに変えられなければなりません。それは、ただ、聖霊の働きによることです。
 主イエス・キリストは、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネによる福音書5章25節)と言われました。また、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネによる福音書18章37節)とも言われ、神の子の声、キリストの御声を聞く者こそ、聖書の言葉を、本当に心から従うべき信仰原理のみならず、生活原理であり、正しい規準そのもの、まさに真理であると信じて生きる者であることを明らかにしてくださいました。
 聖霊の恵みによる信仰の従順と良心的平和を求めつつ、人生の原理・規準・義務を、御子を証する聖書に求めつつ、真心から、主にのみ服従しましょう。

 聖書の言葉
…永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。ヘブライ人への手紙9章14節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の受肉と十字架の死と復活において、あなたの真実と愛を示してくださり、感謝いたします。どうか、聖書の御言葉を真実に開いてくださる御子の命をわたしたちの救いの命としてくださり、あなたが、わたしたちに命じておられる霊的義務を心を尽くして守り、あなたを愛する者としてください。愛する主イエスの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2018年9月16日 ウェストミンスター小教理問38

信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか
信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受けいれられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。

 わたしたち人間は、始祖アダムおいて罪に堕落し、神の御前に、永遠の死という罪の刑罰としての死を負う者となりました。聖書は、霊魂不滅説のように、漠然と生きることを救いのように教えているのでなく、むしろ、神の永遠の裁きを、御子イエス・キリストが十字架の死において身代わりに負ってくださったゆえに、信じる者たちが、三日目に復活され、天に上げられた、キリスト共に生きることこそ、救いの道、永遠の命、と教えています。
 このように、キリストを主と告白する信者たちが、「復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され」る
ことは、ほんとうに、キリストと結び合わされた者たちが、享受する、神とキリストから与えられた恵みであることを、心から感謝して告白することです。
 さらに、わたしたちが、キリストにおいて、罪贖われた者とされる目的は、神を礼拝することです。それは、「永遠に全く神を喜ぶ」という神の与えてくださる恵みを感謝し、その救いの恵みと賜物を受け入れ、神をほめたたえることです。
 「審判の日」は、滅びに定められた者と救いに定められた者が明らかになる日ではありますが、聖書の力点は、あくまでも、滅んで当然であった者が、キリストのゆえに、救われ、永遠に神を賛美することに定められることにあります。両者は、けっして、同じ度合いで物語られていないのです。
 今日、わたしたちは、「キリストの日」を共に待ち望みつつ、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリピの信徒への手紙3章21節)ことを、ほんとうに信じます。この信仰にこそ、神の恵みと力が現れています。
 
 聖書の言葉
死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みか(完全な復活体)を上に着たいからです。コリントの信徒への手紙二5章4節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の十字架の死からの復活の御業において、今、御子を信じる者たちを、死から命へと、日々、新しくされていることを感謝いたします。どうか、あなたの与えてくださる新しい体を着る日まで、なお罪のゆえにうめきつつ、すでに死に勝って余りあることを、ほんとうに信じて、主と共に歩ませてください。主イエスの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年9月9日 ウェストミンスター小教理問37

信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。

 ウェストミンスター小教理問答は、その第一問において、人生の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと[字義的には「享受すること」、つまり、神からあたえられた賜物をそのままに喜ぶ、霊的自由]と教えています。
 わたしたちが、ほんとうに、神の恵みを確かに受けた者として感謝を告白し、また、これから受けるものを信じて、望みをいだくことであり、そのすべてが、神を、どんな時にも、喜び、感謝し、祈る、霊的な生活そのものです。
 イエス・キリストが、神の御前に、身代わりの刑罰としての死を負ってくださったと信じる者にとって、もはや、刑罰としての死は、存在しません。なぜなら、神は、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、ご自身の選びの民を死に断罪する根拠をもはや持っていないからです。
 「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光には入る」とは、十字架の死から三日目に復活され、天にあげられたキリストの内に「入る」ことを意味します。わたしたちが、地上の生涯において、このことを「信じる」とき、迫害の中で、ステファノが、イエス・キリストが神の右に立っておられるのが見えると言って、主のもとに召されたように、わたしたちも、イエス・キリストに、生かされている存在であることを受け入れるように変えられます。
 それは、ただ、聖書が教えていることをそのままに受け入れるだけでなく、イエス・キリスト御自身への信頼を深くしていく道です。
 「信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休む」とは、復活の日を待つ「永遠の休息、眠り」のことを意味します。
 そうです。わたしたちは、この卑しい体が変えられて、キリストの栄光に似る新しい体において復活するのです。今、このことを信じるとき、肉体の弱さを覚え、死を恐れる時にも、復活のキリストを喜び、その日を待つのです。
 
 聖書の言葉
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
                  マルコによる福音書15章39節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの身代わりの命としてくださり、十字架の上で、あなたの怒りと呪いという永遠の裁きを引き受けてくださったことを、深い畏れをもって信じます。どうか、日毎に、キリストにおいて、あなたからの恵みと平安の中に、憩い、復活の日をほんとうに信じて歩ませてください。イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年9月2日 使徒信条

我は、・・罪の赦し、・・を信ず、

 「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり 奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた」(イザヤ64章6節)と、主なる神の御前にあるイスラエルの民の罪を預言者イザヤは、告白しました。
 それは、主の御名を知りながら、礼拝せず、御力を求めず、そのゆえに、神と礼拝生活から遠ざかっている、人びとの「罪」の有様を物語っています。
 「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。」(イザヤ書33章22節)と告げるように、罪を正しく裁かれる方は、神のみであり、その唯一の基準は、神の法(律法)です。この神の裁きを御子が身代わりとなって負ってくださったのです。
 使徒パウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章24節)と、「わたしの内に住んでいる罪」(7章17節)を自覚し、救いを求めて叫び、罪贖われた者として、「心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている」(7章25節)という良心的矛盾をはらむ人間性を告白します。
 今、わたしたちが、主イエス・キリストに命じられたとおりに、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と祈るとき、パウロ同様に、聖霊に導かれながらも、なお残る内なる罪を自覚しつつ(罪人)、キリストにおいて罪赦された者として、わたしたちに対して罪を犯す者たちのために執り成して祈る者(義人)とされたことを日々告白します。
 それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書15章12節)と主イエスの掟に適うことでもあります。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマの信徒への手紙12章21節)との御言葉に聞き従って歩みましょう。
 
 聖書の言葉
 しかし、赦しはあなたのものにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。
                         詩編130編4節

 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの義と聖と贖いとしてくださり、心から感謝いたします。どうか、今、あなたの深い憐れみによって、罪赦され、あなたを畏れ敬い、礼拝することへと導かれたことを感謝し、主が与えてくださった兄弟姉妹と人々のために執り成して祈る者としてください。わたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月26日 ウェストミンスター小教理問36

この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、何ですか。
この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍することです。

 主イエス・キリストの十字架の血によって、贖われ、神の子とされた者たちは、「万軍の主よ、あなたのいますところは どれほど愛されていることでしょう。」(詩編84編2節)との告白に連なる群れの一人とされた者です。
 それは、時には、「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」(詩編13編2節)と思う時にも、変わることない、神の不変の愛です。
 そして、わたしたちを贖い、神に近づく生きた道を開かれたイエス・キリストが、「神の家を支配する偉大な祭司」であることを信じ、「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこう」(ヘブライ人への手紙10章21,22節)と招かれ、奨励されています。
 さらに、「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ人への手紙10章36節)と命じられています。
 このように、わたしたちがささげる礼拝こそ、イエス・キリストの贖いの目的である、神に近づく最高の機会です。そして、神と共に生きる道を備えられた者たちは、決して、自分に与えられた確信を捨てることなく、忍耐しつつ、主イエスの再び来られる日を待ち望むのです。
 この「確信」も「忍耐」も、人の信念や我慢ではなく、キリストの恵みであり、聖霊の賜物です。ですから、どのような時にも、失望落胆することなく、
主とその恵みの御言葉によって、日々、内なる霊において新たに歩みましょう。
 
 聖書の言葉
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
                   ローマの信徒への手紙5章5節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子の命を、わたしたちの罪のために唯一完全な身代わりの犠牲(いけにえ)としてくださり、感謝いたします。わたしたちが、キリストの血によって贖われた者として、いよいよ、あなたの栄光をあらわすにふさわしい者として、内なる思いを清められ、主を喜ぶ礼拝へと絶えず導いてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月19日 ウェストミンスター小教理問35

聖化とは、何ですか。
聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです。

 神に造られながら、始祖アダムにおいて、罪に堕落した人間が、神の栄光をあらわすために、創造の目的にかなって、本来の人間らしさを取り戻すために不可欠なことは、第一に、その罪が赦され、神の子とされること(義認と子とされること(養子))、第二に、罪赦され、神の子とされた者として、その身分にふさわしい状態に造り変えられることです。
 「聖化」の御業は、御子イエス・キリストの唯一にして完全な、贖いの犠牲ゆえに、神のものとして聖別された者が、ただ、神の無償の恵みによって、聖霊によって、キリストに似た者に変えられていく道のりの全体に及びます。
 「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」(コロサイの信徒への手紙3章9,10節 口語訳)と教えられているとおりに、キリスト・イエスの内に、聖霊の恵みによって、日々、わたしたちは、造り主である神のかたちに従って、その霊と心と考え、人格と全身のすべてを、新しくされつつ、地上の生涯において、完成に向けて歩んでいきます。
 それは、聖霊の恵みによる(受け身)でありながら、同時に、自分自身の知性と感情と意志を新しくされる(主体的)な行動を、わたしたちの内にもたらす仕方で明らかにされるものです。
 そして、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音書5章17節)と、主イエス・キリストが、十字架とその道において、ご自身の約束を成し遂げてくださったとおりに、わたしたちも、自分を捨て、自分の十字架を負いつつ、聖霊の御力によって、信仰と従順の道を共にしていくのです。

 聖書の言葉
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
                   ローマの信徒への手紙6章22節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、御子イエス・キリストにおいて約束してくださいました、聖霊をお与えくださり、わたしたちを、義と認め、神の子としてくださったばかりでなく、救いの命と聖なる生活に導いてくださっていることを感謝します。どうか、あなたの御言葉と聖霊によって、日々、霊肉に共、新しくされますように。愛する主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月12日 ウェストミンスター小教理問34

子とされることとは何ですか。
子とされることも、神の一方的恵みによる決定です。それによって私たちは、神の子らの数に入れられ、神の子らのあらゆる特権に権利を持つものになるのです。

 「子とされること」と言う言葉は、もともと「養子とされること(adoption)
」と訳される言葉で、血縁関係でなく、法的関係において、子とされることを意味します。
 つまり、神と人間はもともと創造主と被造物の関係でありながら、ただ、神の恵みによって、神を父と呼ぶ子としての間柄を与えられるという事です。
 新約聖書の冒頭に、「アブラハム子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイによる福音書1章1節)とあるように、もう一つの驚くべき関係は、永遠の神の御子である御方が、人の子としての御名をお持ちになったという事実です。
 そして、わたしたちが、神の子とされるためにこそ、御子イエス・キリストは、人の子として、その肉においては、罪をほかにしては、わたしたちと同じように、ヨセフの子として、契約の子の代表としてお生まれになりました。
 今、わたしたちは、「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤの信徒への手紙4章6節)と証言されているとおりに、御子の霊、聖霊が、神を父と呼び求める霊を、わたしたちの心に送られている恵みの事実を認めることができます。なんと、感謝なことでしょうか。
 「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書43章1節)と言われるとおりに、贖い主である神、キリストが、ご自身の贖われた民、一人一人の名を呼ばれていることに応えつつ、救いの命を子としてあらわして歩みましょう。
  
 聖書の言葉
 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。
                    ヘブライ人への手紙3章6節
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストの命を、わたしたちの身代わりの命としてお与えくださり、感謝します。今、あなたの子とされ、キリストの治めておられる神の家族の一人とされた者として、いよいよ、あなたを「父」と呼び求めつつ、あなたの御心に適う歩みの中に、わたしたち一人一人を導いてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年8月5日 使徒信条

 主は・・三日目に死人のうちよりよみがえり、・・。

 主イエス・キリストが、十字架の死から三日目に復活されたことを信じるとき、わたしたちは、弟子たちと同じように、復活の主がいつも共におられることを信じて歩むように変えられます。それは、主イエス・キリストが、今、ここで、復活の後、天に昇られた御方が、霊において、生きて働いておられる、まことの神であることを物語っています。
 使徒ペトロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と賛美し、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産(=神と共に歩むという希望、神が御自身の民のために確かに保持してくださる契約的祝福)を受け継ぐ者としてくださいました」と言いました。
 それは、主イエス・キリストの復活が、わたしたちにとって、この地上の生涯を歩む、忍耐と希望の源であることを証しするものです。
 そして、イエス・キリストが再び来られるとき、皆、「朽ちるもの」(死ぬべき、はかないもの)であっても、「朽ちないものに復活する」約束をいただいています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(コリントの信徒への手紙一15章56節)と叫ばれるほどに、神の律法は、わたしたちの罪を明らかにして責め立て、また、罪の結果としての死を指し示します。しかし、主の再び来られる日には、「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(15章52、53節)との御言葉が実現するのです。
 「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝」し、「主の業に常に励み」ましょう(15章57、58節)。

  聖書の言葉 
 兄弟たちは、小羊(イエス・キリスト)の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
                    ヨハネの黙示録12章11節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子が、わたしたちのすべての罪と滅びの死を負ってくださり、十字架の死から三日目に復活されたことを信じ、御名をほめたたえます。どうか、罪の責め苦や、死への恐れを感じるときにも、主が最も近い御方であること信じ、絶えず、忍耐と希望をもって、歩ませてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2018年7月29日 ウェストミンスター小教理問33

義認とは何ですか。
義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受け入れてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され信仰によってだけ受け取るキリストの義のゆえです。

 義認とは、無罪宣告です。それは、神の無条件の恵みによる一回的決定であり、神の働きによるものであって、人間の側には、一点もその功績の余地は残されていません。
 なぜなら、人間は生まれながら、アダムの堕落において、皆、原罪を負っており、その本性において、神に敵対する罪を負い、神の御前に最も善いことであっても、なお罪汚れている者であるからです。
 このように、罪は、外面的なものでなく、一時的なものでもなく、心と言葉と行いのすべてにおいて、全面的に神と隣人を愛することに適うためには、皆、聖霊の独占的で主権的な支配によるしかないのです。
 聖霊は、イエス・キリストが、ただ一度、十字架の上で成し遂げられた、完全な贖いを、わたしたちに有効に適用してくださり、信じる者すべてに、キリストの義を転嫁してくださいます。そして、「私たちすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しい(罪赦された者)と受け入れて」くださるのです。なんと、驚くべき、神の憐れみでしょうか。
 アブラハムが、妻のサラ共々老齢になり、人の目には子宿すことができないことを知りながらも、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在される神」を信じ、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信し」「それが(神によって)彼の義と認められた」と、使徒パウロ言い、(ローマの信徒への手紙4章17、21、23節)ます。
 そして、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められ」(ローマの信徒への手紙4章24節)るのです。
このただ一度の、神による義認こそ、神との和解であり、神の救いです。  

 聖書の言葉
 いかに幸いなことでしょう。主に咎(とが)を数えられず、心に欺(あざむ)きのない人は。                    詩編32編2節
 
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストが、十字架の死と復活において成し遂げられた、唯一の贖いの犠牲のゆえに、信じる者を罪赦された者とし、あなたの恵みの契約とその祝福を受け継ぐ者としてくださり、感謝します。どうか、神の御力を信じ、信仰によって生きることができますように、助け導いてください。主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年7月22日 ウェストミンスター小教理問32

有効召命されている者は、この世で、どんな祝福を分け与えられますか。
有効召命されている者は、この世で、義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます。

 聖霊なる神の御業によって、御言葉の力のとおりに、わたしたちが、心を開かれ、自分の罪と悲惨とを自覚し、キリストを知るように心を照らされ、その意志をも新しくされるとき、十字架につけられ三日目に復活されたイエスこそ、神が約束されたキリスト、救い主であると、御子に関する、神の福音(よきおとずれ、良き知らせ、勝利宣言)を信じるように、有効に導かれます。
 そればかりでなく、この聖霊の御業によって救いに対して有効に召し出された者たちには、この世で、「義認、子とされること、聖化」と、「それらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます」。
 イエス・キリストは、「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章14節)と約束してくださいました。
 聖霊なる神の恵みが、イエス・キリストの福音を通して注がれるとき、その恵みにあずかる者たちの内から、救いの恵みとその祝福の豊かさが分かち合われることを意味しています。
 主イエス・キリストの福音は、罪人を救うだけではなく、救われた者たちを、ただキリストの贖いのゆえに、罪赦された者、義人と認めてくださり、神の子として愛ししてくださり、永遠の御国を受け継ぐ者としてくださいます。そして、主の霊によって、「わたしたちは皆、顔(もしくは心)の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます。」(コリントの信徒への手紙二3章18節)
 今日も、主イエス・キリストの霊(聖霊)に導かれつつ、主の御業において、主の御心を求めて祈る者とされた祝福を共にし、御名をほめたたえましょう。 

 聖書の言葉
 救いは主にあります。あなたの民に あなたの祝福がありますように。                         
             詩篇3編8節 新改訳[3編9節:新共同訳]
 
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストの十字架上で成し遂げられた贖いの御業において、今、わたしたちを聖霊の恵みによって、そのすべての祝福にあずからせてくださり、感謝いたします。どうか、心の罪が打ち砕かれ、全能の神の御力と、御子の復活の命を信じ、聖霊の喜びに生かしてください。教会の頭、主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年7月15日 ウェストミンスター小教理問31

有効召命とは、何ですか。
有効召命とは、神の御霊の御業です。これによって御霊は、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ・私たちの心をキリストを知る知識に明るくし・私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです。

 主イエス・キリストは、種まきのたとえ話において、同じ御言葉の種が蒔かれても、道ばたに落ちて鳥が食べてしまったり、石だらけで土の少ない所に落ちて枯れてしまったり、茨の間に落ちてふさがれてしまったりすることがあることを教えてくださいました。良い土地に落ち、実を結ぶことができるのが、この教理問答の教える、「有効召命」であり、聖霊による救いの御業です。
 聖霊なる神(御霊)は、第一に、わたしたちに、聖なる神の御前に、罪ある者であることを自覚させてくださり、その罪を神が悲しまれているように、悲しむ感情を起こしてくださいます。第二に、わたしたちの心を、御言葉によって、照らしてくださり、キリストを知るように導き、わたしたちの意志を新たにしてくださいます。そして、第三に、キリストの十字架と復活において示された神の福音(良き知らせ、勝利宣言)を受け入れさせてくださり、イエスこそ、神の約束のキリスト、救い主であることを告白させてくださるのです。
 使徒パウロは、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソの信徒への手紙5章8、10、15、17節)と命じます。
 それは、キリストの救いに導き入れられながら、なお残る罪と闇につく思いとの戦いの中で、十字架の死から三日目に復活されたイエス・キリストが、わたしたちを照らしておられることを信じつつ、命じられる、聖潔の道です。
 主の霊に導かれつつ、キリストの命を喜ぶ道を共に歩んでいきましょう。

 聖書の言葉
 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。    エフェソの信徒への手紙4章30節  
 
 わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音」(エフェソ1章13節)を聞くために、聖霊の御業を有効に働かせてくださり、感謝します。どうか、わたしたちが、共に、あなたの御声を聞きつつ、生きた石として用いられ、互いのために執り成して祈る、霊的な家につくり上げられますように。愛する主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

2018年7月8日 ウェストミンスター小教理問30

御霊は、キリストの手に入れたあがないを、どのようにして私たちに当てはめてくださるのですか。
(答え)御霊が、キリストの手に入れたあがないを私たちに当てはめてくださるのは、わたしたちの中に信仰を働かせ、それによって私たちを有効召命においてキリストに結びつけることによってです。

 キリスト教信仰において、大切な教理理解の一つは、わたしたちの救いは、わたしたちの信心・自由意志・自己努力によるのではなく、ただ、神の恵みによるのであり、聖霊なる神の全面的かつ独占的な働きによることです。
 そのように聖霊なる神の働きを認識することにおいて、わたしたちは、救いを人の栄光に帰することなく、ただ、神の栄光を現すものとして信じます。
 この教理問答で用いられる「有効召命」とは、ただ、外面的に、御言葉に聞いていることを指して用いられる「外的召命」と区別して、内面的に、聖霊が働いて、確実に、わたしたちをキリストと結合させてくださること、救いに導き入れることを指しています。 
 聖霊が、キリストの獲得された贖いそのものを、わたしたちに適用してくださるとき、わたしたちの心の中に、信仰(心からなる信頼)を起こしてくださり、それによって、わたしたちを、霊的かつ生命的に、キリストのもとに呼び起こしてくださって、確実に、キリストの結合してくださるのです。
 「主(イエス・キリストご自身、じっさいに、聖霊)が彼女(リディア)の心を開かれたので、彼女はパウロの話(キリストの福音:良き知らせ)を注意深く聞いた」(使徒言行録16章14節)のです。 
 また、イエス・キリストは、「わたしの話した言葉によって、あなたがはすでに清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつなっている」(ヨハネによる福音書15章3,4節)と命じ、約束されました。
 今日も、聖書と説教において、キリストの言葉を聞き、キリストの救いの恵みを共にし、キリストの体なる教会の一員として、主をほめたたえましょう。

 聖書の言葉 
 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
                エフェソの信徒への手紙1章14節
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、聖霊の恵みによって、あなたの愛する独り子、イエス・キリストを信じ、心からなる信頼をお与えくださり、感謝いたします。どうか、日々、あなたの御言葉を聞く度毎に、聖霊によって、わたしたちの心が開かれ、「内なる人」が新たにされ、ただ、あなたの栄光を、ほめたたえるものとならせてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。


2018年7月1日 使徒信条

 我は、・・我らの主、イエス・キリストを信ず。(とくに「イエス」の御名)

 この「イエス」という名前は、当時のユダヤ社会では特別珍しい名前であった訳ではなく、旧約の時代においては、ヘブライ語で、「主は救い」を意味する、「ヨシュア」「イエシュア」に相当する名前が、ギリシャ語で、「イエス(音:イエスース)」と呼ばれるものです。
 それは、「主は救い」というその名のとおりに、「この子は自分の民を罪から救う」という約束の名前でした。
 ちなみに、ヨシュアとは、モーセの後継者です。神の御子でありながら、後継者の名を取られた理由は、謙遜であり、「イエスは彼ら(聖なる者とされる人たち)を兄弟と呼ぶことを恥じとない」(ヘブライ人への手紙2章11節)ためです。
 それは、イエス・キリスト自ら、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを讃美します」と言い、また「わたしは神に信頼します」と言い、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」(ヘブライ人への手紙1章12,13節)言われるとおりに、永遠の神の御子でありなりながら、父なる神に祈る者となられ、愛する者たちを、神の家族:兄弟姉妹として、一人一人、その名を呼んでくださるためです。
 実に、イエス・キリストも、わたしたちと同じように、血と肉を備えられて、死をつかさどる者、悪魔をご自分の死(十字架の死)をもって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷の状態にあった者たちを解放してくださいました。
 このように、十字架の死から三日目に復活された、イエス・キリストは、今も、ご自身が受けられた試練と苦しみをもって、試練を受けている者たちを助けてくださいます。主キリストが御子として神の家(教会)を忠実に治めておられることを信じ、御言葉を信じて祈りつつ、主をほめたたえて歩みましょう。
(ヘブライ人への手紙2章11~18節を参照:奨励)

  聖書の言葉 
 わたしたちが救われるべき名は、天下にこの(イエス・キリスト)名のほか、人間には与えられていないのです。  
                       使徒言行録4章12節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子を、わたしたちの罪の身代わりとするために、お遣わしくださり、感謝します。今、ただ、キリストの贖いのゆえに、お互いを兄弟姉妹として与えられたことを感謝し、あなたの愛しておられる、一つの神の家族として、御名と御心に適って、共に讃美し、共に祈る群れとしてください。唯一の救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 

 

 

2018年6月24日 ウェストミンスター小教理問29

キリストが手に入れたあがないは、どのようにして私たちに分け与えられますか。
キリストの手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊がそれを私たちに有効に当てはめてくださることによってです。

 キリストが十字架の上でその身をささげられたことは、人々の罪によるものでありながら、神の御心においては、唯一の完全な犠牲(いけにえ)であり、神の義を満たす完全な贖いでした。
 贖うとは、買い戻すという意味で、キリストにおいては、罪の奴隷下にある者たちを、ご自身の血の代価をもって、必要な身代金を支払ってくださり、神のものとして買い戻してくださったという事です。
 ですから、キリスト教信仰とは、単に、正しい教えを理念的に信じ込むことではなく、神が成し遂げられた救いの御業をあるがままに信じることであり、聖霊は、キリストの贖いの恵みを、わたしたちに有効に当てはめ、適用してくださるのです。
 イエス・キリストは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイによる福音書16章26節)と問いかけられます。
 堕落ゆえに、永遠の滅びを招来した罪人は、ただ、キリストの贖いゆえに、永遠のいのちに至る救いを与えられ、聖霊によって、神の所有とされることにいて確実に救われます。
 また、イエス・キリストは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12章24節)と言われました。わたしたちは、皆、聖霊の恵みによって、罪に死に義に生きる者とされます。そして、わたしたちは、自己本位の人生から、神の栄光を第一とする人生への転換され、キリストが治める神の家族の一員とされるのです。今日も、聖霊の結ぶ実を感謝しましょう。

 聖書の言葉 
 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子する霊を受けたのです。          ローマの信徒への手紙8章15節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたの愛する独り子、イエス・キリストの成し遂げられた、十字架の贖いを、今、聖霊によって、わたしたちの命として適用してくださり、感謝いたします。どうか、日々、ただ、恵みによって、あなたの所有(もの)とされたことを感謝し、あなたの栄光を、御心にかなってあらわす者としてください。主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

 

 

2017日 使徒信条

 

 

 

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、・・を信ず。

 

 

 

 神の救いのご計画は、御子、主イエス・キリストの降誕・受難・復活・昇天において、御子の約束された、(三位一体の神の第三位格であります、)聖霊の導きの中に、今、福音宣教と教会建設の御業において、実現しつつあります。

 

 それは、神の計画においては、神の選びの民の一員として、一人一人が、召し出されるという、神の主権的な選びと召しを覚えるものです。

 

 この神の主権的な選びと召しを覚えて、使徒パウロはこのように言いました。「神は、モーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」(ローマの信徒への手紙9章1516節)

 

 聖霊は、神の言葉、キリストの福音が語られ、聞かれるところに、働いておられます。そして、この神の選びと召しを、聞く者の内に確かにしてくださるのです。

 

 聖霊に導かれている、真の教会は、第一に、十字架の死から三日目に復活された、イエス・キリストを、神の御子と信じ、唯一の贖い主と信じ、告白する霊的共同体です。第二に、ただ、キリストの血によって、洗い清められた群れであるゆえに、聖なる生活を求める、祈りの群れです。そして、第三に、キリストの教会は、世の始めから終わりに至るまで、永遠の、まことの王でいます、キリストのご支配のもとで、その公同性を保持し、信仰を育成する、生命的共同体です。そして、第四に、キリストの教会は、十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝える使命を帯びた、世のただ中で、福音に生きる、使徒的共同体です。

 

 このように、わたしたちが、聖霊の働きにおける、個人の救いと、教会の使命と交わりは、始めから一つのものです。祈りと礼拝と愛の交わりにおいて、共に、福音に生かされている教会の一員であることを覚えて告白しましょう。 

 

 

 

聖書の言葉

 

 神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神(キリスト)の教会です。

 

                    テモテへの手紙一3章15節

 

 

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、わたしたち一人一人を、御子イエス・キリストの贖いにおいて、御子の命にあずかるものしてくださり、感謝します。どうか、日々、あなたの御言葉と聖霊に守られて、あなたの選びと召しを信じ、教会の一致と聖さを信じて、祈ることができますように。十字架の死から三日目に復活され、天に上げられた、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

2017年5月28日 ウェストミンスター小教理問93

新約の礼典は、どれですか。
新約の礼典は、洗礼と主の晩餐です。

 礼典(サクラメント:聖なる誓いの意味)は、「キリストが制定されたきよい規定であり、そこでは、キリストと新しい契約の祝福とが、感覚的なしるしによって信者たちに示され、証印され、当てはめられ」ます(ウェストミンスター小教理問92)。それは、「ただ、キリストが祝福してくださることと、信仰によって礼典を受ける人々にキリストの御霊(聖霊)が働いてくださることとに」よります(ウェストミンスター小教理問91)です。
 新しい契約:恵みの契約の仲保者でいます、主イエス・キリストは、ご自身の到来において告げられた新約の時代において、「洗礼と主の晩餐(聖餐)」という二つの礼典を制定してくださり、信仰によって、洗礼と聖餐を受ける者たちを、御自身のもの(所有)してくださったことを、「約束された聖霊」(エフェソの信徒への手紙1章12節)によって、証印してくださっています。
 この洗礼と聖餐は、旧約の時代における割礼と過越を土台としています。割礼は、生まれて八日目に男子はすべて受けなければならないもので、主イエス御自身、罪なき御方にもかかわらず、割礼を受けられました(ルカによる福音書2章21節)、また、過越は、イスラエルの民の子供たちが、「この儀式にはどういう意味があるのですか」と尋ねるときには、「これが主の過越である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」と伝える目的を持っていました(出エジプト記12章26,27節)。
 キリストの到来において更新された割礼は、男子女子の別なく「キリストの死にあずかるために」(ローマの信徒への手紙6章3節)受ける洗礼とされ、
過越は、「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」(コリントの信徒への手紙一11章26節)「主の晩餐」(聖餐)とされました。復活・昇天された、主イエス・キリストの執り成しの内に、恵みの礼典をささげましょう。 
 
聖書の言葉
 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。ローマの信徒への手紙6章10節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、今、わたしたちに、御子イエス・キリストの贖いと救いの恵みをしるす礼典、洗礼と聖餐を定めてくださり、感謝します。どうか、恵みの礼典を共に守り、信仰が強められますように。そして、主の霊に日々生かされ、罪の赦しと悔い改めに至る、神の福音を宣べ伝える者としてください。わたしたちの愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2017年5月21日 ウェストミンスター小教理問92

礼典とは、何ですか。
礼典とは、キリストが制定されたきよい規定です。そこでは、キリストと新しい契約の祝福とが、感覚的なしるしによって信者たちに示され、証印され、当てはめられるのです。

 礼典(サクラメント:聖なる誓約の意味)は、第一に、キリストによって命じられた規定です。そこにおいて、キリストと、新しい契約の祝福、つまり、罪の赦しと永遠の命の祝福が、「外的な」「感覚的なしるし」によって、キリストに結び合わされた者たちに示されます。
 この「新しい契約の祝福」は、エデンの園において約束された「命の契約」または、「業の契約」と呼ばれる、主なる神からアダムを代表とする全人類への命令の約束をもとにするものです。始祖アダムにおいて、罪が世に入り、堕落した全人類にとって、その「新しさ」は、神と人間(罪人)の間に仲保者として与えられたイエス・キリストの内、唯一の犠牲、贖いに基づきます。。
 十字架の死から三日目に復活され、天に上げられた、イエス・キリストは、「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(ヘブライ人への手紙7章26節)として、礼典において、わたしたちの罪を執り成し、聖なる誓いに適う生活へと導いておられます。
 洗礼(式)における水のしるしも、聖餐(式)におけるパンと杯のしるしも、
肉において弱いわたしたちのために備えられたものであり、これによって、確かに、キリストによって罪洗い清められた者とされ、キリストの体なる教会の枝、一員として、キリストの命(パン:キリストの体、杯:キリストの血)にをしるす恵みの礼典を共にするのです。
 それは、旧約の時代のアブラハム契約における「割礼」と同様に、今、「恵みの日、救いの日」(コリント第二6章2節)に、神の恵みの契約と祝福を確かに覚えつつ、「礼典」を聖なる誓いをささげるしるしとし、皆、契約の子とされた者として、従順と感謝と献身を新たにしていきます。

聖書の言葉
わたし(主)は、・・あなた(僕ヤコブ:神の契約)の子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。     イザヤ書44章3節

わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、罪と汚れと弱さを負うわたしたちために、ただ御子イエス・キリストのゆえに、新しい契約とその祝福をしるす二つの聖なる礼典を命じ、定めてくださり、感謝します。どうか、洗礼と聖餐の恵みにあずかる度ごとに、御言葉によって誓いを新たにし、神の祝福を受け継ぐ者として、守り導いてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2017年5月14日 ウェストミンスター小教理問91

礼典は、どのようにして救いの有効な手段となるのですか。

礼典が救いの有効な手段となるのは、礼典そのものや礼典執行者の中にあるどのような力によるものでもありません。ただ、キリストが祝福してくださることと、信仰によって礼典を受ける人々にキリストの御霊が働いてくださることとによるのです。

「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたとき、ユダヤの全地方とエルサレムの住民な皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受け」ました(マルコによる福音書1章4,5節)。そして、「わたしは水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」と、神の約束を告げました(同1章8節)。
 この聖霊による洗礼こそ、今、終わりの時に、わたしたちが受ける洗礼です。ですから、洗礼の効力は、水で洗う行為や、洗礼執行者の中にあるのではなく、キリストの霊が働くことにあります。
 ですから、使徒ペトロも、「洗礼は、(外面的に)肉の汚れを取り除くことではなくて、(内面的に)神に正しい良心を願い求めること」(ペトロの手紙一3章21節)と言います。それは、①外面的な儀式によって救われるのではなく、主イエス・キリストの復活による超自然的な力(聖霊の恵み)による救いによること、②神の契約の中にあって、御子イエス・キリストの贖いによる罪の洗い清めそのものが、受洗者の良心(全人格)に神の霊が生きて働くこと、を明確にするものです。
 聖餐(式)も、これと同様に、キリストの霊の支配の中で、陪餐者一人一人の信仰の良心において、「自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲む」(コリントの信徒への手紙一11章28節)ように、導かれ、キリストの体なる教会の交わりを、確かにし、告白を新たにするのです。

 聖書の言葉
 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。              コリントの信徒への手紙一3章6節
                                                                   
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、聖霊の恵みによって、わたしたち一人一人に信仰が与えられ、キリストの命を共にしていますことを、感謝いたします。どうか、洗礼と聖餐の二つの礼典において、ただ、キリストの霊によって、礼典の表している、キリストの救いの恵みとその確かさが、わたしたちの良心に明らかにされますように愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2017年5月7日 使徒信条

主は、‥天にのぼり、・・・

 すべての人の救い主イエス・キリストは、十字架の死という「苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国ついて話されました」(使徒言行録1章3節)。そして、使徒たちの上に、聖霊が降ることと、そして、その力を受けて、地の果てまで、ご自身の証人として遣わされていくことを話終えられると、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(使徒言行録1章9節)のでした。それは、使徒たちを「ベタニアの辺りまで連れて」、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカによる福音書24章50、51節)とも伝えられる、一つの場所でじっさいに起こった歴史的事実(神の真実)です。
 この主の昇天をわたしたちが信じるとは、ただその歴史的事実を認めるだけでなく、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネによる福音書14章2節)と、主イエスご自身が約束されるとおりに、天の住まいを、一つの場所として信じることです。
 主イエスの肉体は、復活体といえども、遍在ではなく、天の住まいにあります。しかしながら、わたしたちは、聖霊の恵みによって、いついかなる時と場所においても、天におられる主と共に生かされ、主と共に歩む者とされて、主の栄光をあらわすように、導かれていきます。
 使徒パウロは、「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(コリントの信徒への手紙二5章2節)と言い、主イエスのおられる天の住まいを信じ、栄光の体に変えられる日を望み、この地上の仮住まいの日々の中で、キリストゆえの苦しみを告白しました。わたしたちも、日々、キリストのおられる天の祝福に覆われつつ、苦難を忍び、キリストの再び来られる日を待ち望みましょう。

 聖書の言葉
 それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。        テサロニケの信徒への手紙一5章10節
                                                                   
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたの愛する独り子イエス・キリストが天に上げられたことにおいて、わたしたちは、天の住まいを信じつつ、この地上の生涯を共に歩んでいます。どうか、どのような苦難の中でも、主イエス御自身が、聖霊の恵みによって、共におられることを信じ、主イエスの約束を待ち望む者としてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2017年4月30日 ウェストミンスター小教理 問90

御言葉が救いに有効になるには、御言葉をどのように読み、また聞かなかればなりませんか。

御言葉が救いに有効となるには、私たちは、勤勉、準備、祈祷をもってこれに傾聴し、信仰と愛をもって受けいれ、私たちの心のうちに蓄え、私たちの生活の中で実践しなければなりません。

 キリストの命に至る悔い改めは、救いの恵みです。そして、それは、聖霊の御業によって導かれるものです。聖書朗読と説教は、すべての人に、キリストの福音を伝え、教会を建て上げる有効な手立てとして、生けるキリスト御自身が豊かに用いてくださるものです。
 聖書は、聖霊に導かれた人自身が、御言葉に従って生きることの中で、書かれたものです。ですから、聞く者たちも、聖霊に導かれて、御言葉に従って生きる用意を持つことが大事です。
 具体的には、「勤勉、準備、祈祷もって、これに傾聴し、信仰と愛をもって受けいれ」ること、そして、「私たちの心のうちに蓄え、私たちの生活の中で実践」することです。
 それは、そうしなければ救いに有効となることは決してない、と戒律的に断言しようとしているのではなく、むしろ、聖霊の導きの中で、御言葉が読まれ、説教が聞かれていくながら、そこには、御言葉に聞く姿勢が備えられていく、聖霊の恵みによる必然的な導きを確信し、それを告白・表明するものです。
 エチオピア人の宦官は、エルサレムに礼拝にて帰る道で、馬車に乗って、イザヤ書53章を朗読していました。そこに、主の天使に命じられたフィリポが、走りより、「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ね、宦官は、「手引きしてくれる人がなければどうして分かりましょう」と応え、にわかに、聖書学習会が始まり、説き明かされた、主の福音を聞き、宦官は救われ、洗礼を受けるのです(使徒言行録8章26~40節)。今、ここで、聖霊は同じように、適切な準備を与えておられます。

 聖書の言葉
 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
                        イザヤ書55章6節
                                                                   
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、聖霊の導きによって、わたしたち一人一人に、イエス・キリストの復活という喜ばしい知らせ(福音)を伝えてくださいます。どうか、わたしたちの心に、御言葉を求める熱心とともに、適切な準備をお与えくださり、御言葉に聞き従う心と、キリストの心を心とする従順の道を与えてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2017年4月23日 ウェストミンスター小教理 問89

御言葉は、どのようにして救いに有効とされますか。

神の御霊が、御言葉を読むこと、特に説教を、罪人に罪を自覚させて回心させるため、また信仰によってきよめと慰めのうちに救いに至るまで建て上げるために、有効な手段とされます。

 わたしたちのささげる礼拝は、御言葉が語られ、聞かれるところに、その成立の根拠があります。じっさいには、聖書朗読と説教において、御言葉が語られ、聖霊の導きによって、わたしたちは、心を開かれ、御言葉を御言葉として聞くように導かれます。
 説教の目的は、伝道と教育です。伝道はまさしく、罪人(すべての人)が、神の御前に罪を認めて、イエス・キリストの贖いを受け入れ、神に立ち帰ることを目差します。また、教育は、キリストの命と救いに至る信仰を与え、洗礼を授けられた教会員の聖化と慰めの道を提示し、完全な救いに至る道をともにしていくものです。
 この伝道と教育は、また、単純に分けられるものではなく、むしろ、主の言葉の重みのバランスを配慮しながら、一体的に実行されていくものです。しばしば、「教育的伝道」「伝道的教育」と呼ばれるのもそのためです。
 そして、大切なことは、わたしたちは、御言葉に聞くという貴重な経験をともにしていくとき、それを、観念的な理解にとどめないで、それを実体験において、絶えず、実践していくことです。
 ベレヤの教会のユダヤ人たちは、「テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(使徒言行録17章11節)と証言されています。「そこで、そのうちに多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」(同12節)のです。それは、教育と伝道が一つであることの実践例と言えます。
 今日も、聖霊の導きの中で、御言葉に進み、心開かれていきましょう。

 聖書の言葉
 御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。
                       詩編119編130節
                                                                   
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、聖書の御言葉によって、御自身とその救いの御業とを明らかにし、わたしたちに、御子イエス・キリストの成し遂げられた贖いの御業を指し示しておられます。どうか、日々、聖霊に導かれつつ、聖書とその教えに聞き従う者としてください。わたしたちの心に、御言葉の光と導きを与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 

 

 

 

 

 

2017年4月16日 ウェストミンスター小教理 問88

キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な手段とは、何ですか。

キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられる外的な普通の手段とは、キリストの規定、特に御言葉、礼典、祈祷です。このすべてが、選民にとって救いのために有効とされます。

 わたしたちの救い主、教会の頭でいます、主イエス・キリストは、十字架のから三日目に復活され、弟子たちに現れ、天に上げられました。そして、今も、わたしたち一人一人に、聖霊を注ぎ、ご自身の成し遂げられた、十字架における贖いの「祝福」をわたしたちに伝え、分け与えてくださっています。
 そして、生けるキリストは、この救いの実り(内的な祝福)を、わたしたちに与えてくださるとき、外的な、普通の、手段を用いられます。それは、キリストの規定、特に、①御言葉(聖書)、②礼典(洗礼と聖餐)、③祈祷です。
 イエス・キリストへの信仰と、キリストの命に至る悔い改めにとって必要な手立ては、この三つの手段を忠実に用いることです。
 「聖書は、わたし(イエス・キリスト)について証しをするもの」(ヨハネによる福音書5章39節)であり、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるもの」(ローマの信徒への手紙6章4節)とされたことをしるします。 また、「だれでも、自分をよく確かめたうえで(自己吟味)、(御言葉に従って、キリストを記念する)そのパンを食べ、その杯から飲む」(コリントの信徒への手紙一11章28節)度ごとに、聖餐におけるキリストにある霊的交わりを新たにします。そして、「二人または三人がわたし(イエス・キリスト)の名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイによる福音書18章20節)ことを信じて、祈りを合わせるのです。聖霊の導きと助けを祈り求めつつ、これらのすべてが、キリストのあがないの祝福という「真の救い」のために有効とされることを祈り求めましょう。
 
聖書の言葉
 主よ、御言葉のとおり 命を得させてください。
                       詩編119編107節
                                                                   
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、愛する独り子イエス・キリストの命をもって、わたしたちのあがないとしてくださいました。どうか、御子の命から流れ出る祝福の命を、わたしたちの内にお与えくださり、すべての人が、キリストのもとに立ち帰り、生けるキリストを、真実に、礼拝することへとお導きください。十字架と復活の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

2017年4月9日 ウェストミンスター小教理 問87

命に至る悔い改めとは、何ですか。

命に至る悔い改めも、救いの恵みです。それによって罪人は、自分の罪をほんとうに自覚しキリストにある神の憐れみを理解して、自分の罪を嘆き悲しみつつ、罪から神へと立ち帰り、新しい服従をはっきりと目差し努力するようになるのです。

 「命に至る悔い改める」とは、キリストの命に向かう方向転換ということであり、人の栄誉のためではなく、神の栄光をあらわすように向き直ることです。この「命に至る悔い改め」も、イエス・キリストへの信仰と同様に、「救いの恵み」であり、神の恵みによって与えられる賜物です。
 そして、多くの場合、この悔い改めは、深い悲しみを伴います。なぜなら、本当に、罪を悲しむとき、わたしたちは、その罪を、ただ自分のために悲しむ者から、「神が悲しまれる」ゆえに、心から悲しむように導かれるからです。さらには、その悲しみを、御子イエス・キリストが負ってくださったことを信じるとき、「神が喜ぶ」道を目差して方向転換するのです。
 主イエス・キリストは、「ファイサイ(パリサイ)派の人と徴税人」のたとえ話で、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言って、真心から、一途に、ただ悔い改めの祈りをささげた者こそ、「義とされて家に帰った」と呼んでくださいました(ルカによる福音書18章14節)。
 伝道者パウロは、コリントの教会の罪ゆえの悲しみを共に悲しみつつ、「たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。・・神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ・・ます」(コリントの信徒への手紙二7章8、9,10節)、と伝えました。「神の御心に適う悲しみ」こそ、聖霊が与えてくださる、救いの恵みであることを感謝しましょう。
 
 聖書の言葉
 主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。
                          詩編34編19節
                                                                   
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、愛する独り子イエス・キリストを、十字架の上にささげてくださいました。それは、わたしたちの罪の身代わりとされるためでした。どうか、この御子の命を、わたしたちの命として、日々、あなたの命に向かって悔い改めの道を歩ませてくださり、あなたの栄光をあらわす者としてしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 

 

2017日 使徒信条

 

 

 

主は、・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、・・・ 

 

 

 

 主イエス・キリストは、使徒信条において、「我らの主」と告白される御方です。なぜなら、この御方は、「わたしたちの罪のために死に渡された」御方(ローマの信徒への手紙4章25節)であるからです。

 

 このイエス・キリストの死は、一人の人の死という、わたしたちと同じように、その生涯の死を負ってくださったのみならず、「ポンテオ・ピラトのもと」で死なれた、公然と、当時の極刑である、十字架刑を負われたものです。

 

 そして、聖書が語るとおりに、イエス・キリストの生涯と死について、使徒信条は、特に、「苦しみを受け」という小さな一句に言い表しています。それは、「主が、この世のご生涯において、ことに、その終わりにおいて、絶えず、全人類の罪に対する、神の怒りを、身と魂とをもって受けて、その御苦しみを、唯一の宥(なだ)めの供え物として、われわれの魂を、永遠の刑罰より救い、われわれのために、神の恵みと義と永遠の命とを、得て下さるにいたったこと、であります。」(ハイデルベルク信仰問答 問37)

 

 それは、「キリストは、・・・死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2章8節)、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」(ヘブライ人への手紙9章28節)と証しされるとおりに、わたしたちの罪のために苦しみを負うとは、神の御子でありながら、まことの人となられた、罪のない御方の「従順」と「献身」によるものでした。

 

 この聖書の真理に照らして、十字架の死を知るとき、わたしたちは、御子イエス・キリストの死が、ただの人の死ではなく、わたしたちの身代わりとしての死であり、それは、この御方お一人にしかなしえない、神の義の要求を完全に満たす、贖罪の死の絶大な恵みに、ただ深い感謝の告白に導かれるのです。

 

 

 

 聖書の言葉

 

 百人隊長はこの出来事(イエスの死の有様)を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。ルカによる福音書23章47節

 

                                                                   

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、あなたは、愛する独り子イエス・キリストの生涯と十字架の死を、わたしたちの罪ための供え物としてくださいました。このただ一度成し遂げられた、御子イエス・キリストの贖いの御業を信じ、わたしたち一人一人に与えられた恵みの生涯を感謝してささげることができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

201726日 ウェストミンスター小教理 問86

 

 

 

イエス・キリストへの信仰とは、何ですか。

 

 

 

イエス・キリストへの信仰は、救いの恵みです。それによって私たちは、救いのために、福音において提供されているままにキリストのみを受けいれ、彼にのみ寄り頼むのです。

 

 

 

 キリスト教信仰を理解する鍵は、イエス・キリストへの信仰が、「救いの恵み」であることを受け入れることです。ここには、わたしたちの信仰の旅路には、試練が多いことが示唆されています。なぜなら、「わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者」(ヘブライ人への手紙10章39節)と教えられるとおりに、わたしたちは、信仰によって、神と共に生きる命を確保し、その中を生き、生かされる者であるからです。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)との、神の福音を、真心から受け入れるとき、わたしたちは、罪ゆえの神の怒りと呪いを免れるだけでなく、神と共に生きる命(永遠の命)を与えられて、この地上の生涯のみならず、天上においても、主イエス・キリストを賛美しつつ、「卑しい体を、御自分(キリスト)の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリピの信徒への手紙3章21節)日を待つのです。

 

 聖霊降臨の後、使徒たちは、どのような脅しや迫害の中でも、「イエス・キリストの名」を大胆に宣べ伝えました。イエス・キリスト以外の「ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)とのユダヤの最高議会(サンへドリン)での証言のとおりに、「主は、・・一人も滅びないで皆が悔い改めるように・・忍耐しておられるのです。」(ペトロの手紙 二 3章9節)

 

 

 

 聖書の言葉

 

  どうか主よ、わたしたちに救いを。

 

  どうか主よ、わたしたちに栄えを。     詩編118編25節

 

  

 

                                                                 

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストを、私たちの義、また命としてお与えくださり、感謝いたします。御子の命と贖いの他に、私たちの救いはありません。どうか、この御子イエス・キリストの救いを、すべての人びとに宣べ伝えつつ、あなたの救いと栄光を、人々に証しする者とならせてください。唯一の主、イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

201719日 ウェストミンスター小教理 問85

 

罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れるために、神は、私たちに何を求めておられますか。

 

 

 

罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れるために、神が私たちに求めておられる事は、キリストがあがないの祝福を私たちに伝えるのに用いられるすべての外的手段を、忠実に用いて、イエス・キリストを信じ、命に至る悔い改めをすることです。

 

 

 

 主イエス・キリストは、「神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」(マルコによる福音書1章15節)と命じられました。それは、「罪のため私たちに当然な神の怒りとのろいとを免れる」道を、イエス・キリスト自ら開いてくださる、十字架に至る道に進まれること、そして、十字架の死から復活において、死に打ち勝って余りある勝利という、「神の福音」を宣べ伝える時が来たことを告げるものです。

 

 じつに、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださ」(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)ったのです。

 

 このように、キリストが、罪の奴隷下にある人たちを、ご自身の十字架において、神の呪いと怒りをなだめ、ご自身のもとに買い戻されること(あがない)によって、今、わたしたちは、神に近づく礼拝をささげることができます。

 

 それは、礼拝(公同・家庭・個人)において、聖書(御言葉)と礼典(洗礼と聖餐)と祈祷という「外的手段」を忠実に用いることにおいて、イエス・キリストへの信仰と、キリストの救いと命に至る悔い改め(方向転換)に導かれることにおいて、わたしたちの「内に」満たされる、神の祝福です。

 

 今日も、神の御前に静まり、神の御声を聞きつつ、神の御言葉に応答する礼拝を共にささげ、キリストのあがないの祝福を分かち合いましょう。そして、「神の福音(喜びの知らせ)」をすべての人びとに宣べ伝えていきましょう。

 

 

 

 聖書の言葉

 

 わたしたちは、この御子(イエス・キリスト)によって、贖(あがな)い、すなわち、罪の赦しを得ているのです。 

 

                  コロサイの信徒への手紙1章14節

 

                                                                   

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、愛する独り子イエス・キリストを、私たちの罪を贖い、ご自身のものとするために、お与えくださり、感謝します。どうか、日々、あなたの御前に静まって、御声に聞きつつ、絶えず祈りつつ、あなたの福音を人びとに宣べ伝え、証する器として、私たち一人一人を豊かにお用いください。まことの救い主、イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

201712日 ウェストミンスター小教理 問84

 

 

 

罪は、みな、何に相当しますか。

 

 

 

罪は、みな、この世でも来るべき世でも、神の怒りとのろいに相当します。

 

 

 

 聖書の教える「罪」とは、神の律法に反することです。そして、この罪には、軽重の相違があるだけではなく、いずれも、神の御心を悲しませるだけでななく、「神の怒りとのろい」に値するものです。

 

 「罪が支払う報酬は死です。・・」(ローマの信徒への手紙6章23節前半)との御言葉のとおりに、人間の死は自然的なものではなく、罪は、死をもって処罰されねばならないほどに、重い代価を要求されるものなのです。

 

 主イエス・キリストは、ご自身の再び来られる日のことを羊と山羊のたとえ話で明らかにされ、そこで、救われる者たち(羊)は、「わたしの父に祝福された人たち」と呼び、裁かれる者たち(山羊)は、「呪われた者ども」と呼び、永遠の滅び(地獄)を示しました(マタイによる福音書25章41節)。

 

 しかしながら、ここで、主イエスが教えておられることは、人間の側がお互いに裁き合うことではなく、むしろ、主イエスの救いにあずかっていると自負する者たちの方が、主イエスの救いと裁きに対して、絶えず、深い畏れと感謝の思いを抱くことです。

 

 「まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの業を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」(ヘブライ人への手紙10章29節)と、警告されているとおりです。

 

 主イエス・キリストの負われた十字架の死を、唯一の身代わりの贖罪の死と信じ、告白するとき、私たちは、皆、「・・しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」(ローマの信徒への手紙6章23節後半)と告白へと導かれます。主の憐れみを感謝して歩みましょう。

 

 

 

  聖書の言葉

 

 あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。            ペトロの手紙一1章18節

 

                                                                   

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、御子イエス・キリストの十字架の上で成し遂げられた、贖いの代価は、ただ、私たちの負うべき罪の代価であり、神の怒りと呪いに値するものです。どうか、御子イエス・キリスト負われた贖罪の重みをいつもよく覚え、罪赦された者として、永遠の命に至る道を共に歩ませてください。まことの救い主、イエス・キリストの聖なる御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

2017日 使徒信条

 

 

 

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

 

 

 

 キリスト教信仰の固有の中心であり、土台であり、対象は、神の独り子、イエス・キリストご自身です。それは、わたしたちは、この神の独り子(御子)を、「イエス・キリスト」と呼びますが、これは、聖書において示された御名です。

 

 「イエス」とは、「自分の民を罪から救うから」(マタイによる福音書1章21節)との理由により、聖霊によって、母マリヤの胎内に宿った時に、神の啓示によって名付けられた名前です。

 

 「キリスト」とは、「油注がれた者(メシア)」という意味であり、それは、イエス・キリストが到来する前の時代(旧約時代)に王の任職に際して、注がれた油を指しています(サムエル記上10章1節、16章13節)。

 

 そして、「主」とは、エジプトの苦役の中からイスラエルの民が脱出する時に立てられたモーセに示された「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」という御名であり、契約の神であり、「わたしはある」という、本当におられる生ける真の神であって、他の神々(偶像)はいない、唯一の神であることを示します(出エジプト記3章14、15節)。

 

 このイエス・キリストが洗礼を受けて、祈っておられるときの事です。「天が開き、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(ルカによる福音書3章21,22節)のです。

 

 じつに、聖書の神は、このイエス・キリストにおいて、父、子、聖霊なる神であることを啓示してくださった神であり、この神以外には、本当の神はいないのです。じつに、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(テモテへの手紙一 2章5節)。

 

 このイエス・キリストの十字架による贖いのゆえに、わたしたちは、ただ、イエス・キリストの御名によって、祈りを、真の唯一の神に、ささげるのです。

 

 

 

 聖書の言葉

 

 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」      ヨハネによる福音書20章29節

 

                                                                   

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、あなたは、愛する独り子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。今、この御子イエス・キリストの贖いのゆえに、あなたのもとに近づき、祈ることができますことを、感謝いたします。どうか、いつも、父・子・聖霊なる神の導きの中で、祈りと信仰を守り、助け、導いてください。私たちの愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

201726日 ウェストミンスター小教理 問83

 

 

 

律法違反の罪は、みな同じ重さですか。

 

 

 

ある罪は、それ自体で、またいくつかの加重によって、他の罪よりも神の目には重罪です。

 

 

 

 神の律法への違反である罪は、すべて神の御心を悲しませるものであり、邪悪な性質をはらんでいます。しかしながら、この問答が教えているように、ある罪は、その罪自身の性質と理由によって、軽重の区別はあり得るのです。

 

 じっさいに、人間に対する罪よりも、神に対する罪の方が重く、短絡的に犯された罪よりも、周到な準備の上で犯された罪の方が重いのです。

 

 しかしながら、主イエス・キリストは、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(ルカによる福音書12章47節)と言われました。

 

 ある説教者の祖母は、この御言葉を幼い頃から与えて、あなたの家族、あなたの教会、あなたの能力、あなたの教育、それらを神から、多く与えられた者は、神から、多くを求められると、教えたそうです。そして、今、この説教者は、どのような時代になっても、神が自分に求めているものについて、神がどれほど大きな恵みを与えてくださっているかを思い起こしつつ、一人の奉仕者としての召しを感謝して覚えています(フィリップ・グラハム・ライケン)。

 

 わたしたちも、決して、神から与えられている賜物は小さくはなく、むしろ、大きいものがあります。それは、「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を与える」(ヨハネによる福音書5章21節)と、主イエスが約束されるとおりに、あらゆる罪の贖い主であるイエス・キリストのもとに来て、罪赦された者たちは、新しい命を与えられて、神の要求される義に適う道を、神と共に、歩み始めているからです。 

 

 

 

  聖書の言葉

 

 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。   コリントの信徒への手紙二4章17節

 

                                                                   

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、御子イエス・キリストの十字架の上で成し遂げられた、贖いの重さゆえに、私たちの罪の重さを軽んじることなく、救いの、永遠の栄光の大きさと重みを受け入れることができますように。隠れた罪とがから、わたしたちを解き放ち、あなたの尊い御名をほめたたえる者としてください。唯一の真の救い主、主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

201719日 ウェストミンスター小教理 問82

 

 

 神の戒めを完全に守れる人が、だれかいますか。

 

 

ただの人は、堕落以来、この世では、だれも神の戒めを完全に守れず、日ごとに思いと言葉と行いにおいて破っています。

 

 

 

 この問答で、「ただの人」とは、(人間の正しい意味での神の御前における平等と尊厳を軽視する言葉ではなく)、罪のない御方、イエス・キリストを除く、すべての「単なる人間」という意味です。ただ、イエス・キリストお一人だけが、神の戒めを完全に守ってくださったばかりでなく、唯一の犠牲を十字架の上でささげ、すべての人の罪の償いを成し遂げてくださったのです。

 

 ハイデルベルク信仰問答でも、「神へと立ち帰った人たちは、このような戒め(十戒)を完全に守ることができるのですか」と問い、「いいえ。それどこか最も聖なる人々でさえ、この世にある間はこの服従をわずかばかり始めたにすぎません。」(問114)と教えます。

 

 それは、わたしたちに、信仰によって誇ることの何のないことを示し、また、わたしたちのどれほど熟慮を尽くした考えであり、発言であり、行動であっても、なお、神の戒めの完全さには適わないことを認めるものです。

 

 しかしながら、十字架の死から三日目に復活された、主イエス・キリストに捕らえられて生きるとき、「真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけでなくそのすべてに従って、現に生き始める」(同)備えを与えられます。

 

 堕落以前のアダムにまさる罪のない状態を、主イエス・キリストの救いは、わたしたちの内に、実現するものです。それは、この地上においては、未完成ですが、死の時に、ただちに、わたしたちは、罪から完全に清められて、神の戒めと罪の縄目から解放されます。 

 

 そのことを信じる時、わたしたちは、どのような罪ゆえの悲惨を身に帯びていても、神の霊と慰めの宿る魂と体をもって、神の栄光を日々新たにしつつ、神の戒め(神礼拝と隣人愛)に生きるのです。

 

 

 

  聖書の言葉

 

 善のみ行って罪を犯さないような人間は この地上にはいない。

 

                     コへレトの言葉7章20節

 

                                                                   

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、わたしたちの思いではなく、あなたの御心に適う完全さに適わない罪を、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、お赦しください。そして、あなたの御心を悲しませる罪から離れ、聖霊に満たされて、日々、あなたの栄光をあらわす者へと造り変えてください。わたしたちの罪からの唯一の救い主でいます、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

201712日 ウェストミンスター小教理 問81

 

 

 

第十戒では、何が禁じられていますか。

 

 

 

第十戒が禁じている事は、すべて私たち自身の身分に満足せずに、隣人のしあわせをねたんだり恨んだりすること、またすべて、隣人の所有するどのようなものにでも法外な意向や愛着を寄せることです。

 

 

 

 

 

 第十戒は、私たちの心の願い、欲求、が、絶えず、神の与えてくださる、すべての良きものを尊び、感謝する思いに導かれることを教えています。ですから、その反対は、神の与えてくださる、すべての良きものに感謝せず、不平・不満を抱いている心のあり方です。

 

 隣人の「しあわせ(長所、美点、とりえ)」は、本来、皆がともに喜び、分かち合うものですが、それは、自分の欲求ゆえの、「ねたみ」、また、「恨み」、もしくは、恨み、ねたみゆえの「深い悲しみ」、痛みの対象にすらなり得ます。罪人の感情の複雑さと言えます。それは、問答で、「法外な意向や愛着」と教えられているように、常軌を逸した行動や、感情の動きを生じるものです。

 

 ヨブは、「七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人の非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった」(ヨブ記1章2節)と物語られる、神を畏れる人でした。

 

 そして、息子たちが順番で自分の家で開く宴会が一巡りするごとに、「ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげ」(5節)ました。それは、「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」(5節)と思ったからでした。「ヨブはいつもこのようにした」(5節)のです。 

 

 私たちの普段の暮らしも、ヨブと同じ様に、心の中の罪を知っておられる神の御前にあります。それは、神から分け与えられた自分の賜物、財産等を、神と隣人のために正しく用いつつ、神への感謝の実を結ぶ、聖なる生活です。

 

 

 

 聖書の言葉

 

 人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる。

 

                          箴言21章2節

 

                                                                   

 

わたしたちの祈り

 

 天の父なる神さま、あなたは、わたしたちの心の中を測られる御方です。わたしたちの古き人は、なおも、神の知恵に逆らいがちですから、あなたの御前に、心の底から新たにされて、あなたがわたしたちに分け与えてくださっている良きものを尊び、感謝することができますように。わたしたちに贖いの命を与えてくださった、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

2017年2月5日 使徒信条

我は天地の造り主・・を信ず。

「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)の御言葉のとおりに、神の創造の御業を信じるとき、神のかたちにかたどって造られた人間は、神の創造の目的に適って生きることができます。
 詩編104篇では、「わたしの魂よ、主をたたえよ。」と、自分自身に対して、神讃美を鼓舞します。そして、「主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい 光を衣として身を被っておられる。」と告白します。そして、「天を幕のように張り 天上の宮の梁を水の中にわたされた。」と、その信仰の根拠を、ここに、明らかにします。
 始祖アダムにおいて罪が世に入り、わたしたちの生まれながらの信仰の良心は、このように率直に、神を讃美することよりも、自意識の中で、神を想像しがちです。しかしながら、神が、自分の魂を造られた目的が、神賛美にあることを知るとき、この詩編の信仰者と同じように、わたしたちが、自分の魂に向かって、「わたしの魂よ、主をたたえよ」と呼びかけ、天地創造の御業そのものを喜び、告白するように変えられるのです。
 ヨブは苦難の中で、友人たちにその苦難の原因を自分の罪に言及されます。しかしながら、そのような試練と誘惑の中で、神に向かって、弱い心情を露わにしながら、真剣に、苦難の理由を問い続けます。しかしながら、主なる神は、「わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。」(ヨブ記38章4節)と問いかけられるのです。
 また、モーセは、その祈りにおいて、「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」(詩編90篇1,2節)と祈りました。それは、約束の地カナンに入るのを前にして、人生の本当の目的地は、神のおられる天であり、帰るべき故郷のあることを告白するものです。

 聖書の言葉
 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。

                                ヘブライ人への手紙11章10節
                                                                   
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、あなたは、わたしたち人間を、天地を造られた、あなたを賛美するために、造ってくださいました。どのような苦難や試練の中でも、神の言葉に固く立って、自分の信仰の根拠を、絶えずよく確かめ、天の都を備えておられるあなたのもとに帰る日まで、あなたへの賛美を魂に呼び起こしてください。愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2017年1月29日 ウェストミンスター小教理問80

第十戒では、何が求められていますか。
第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです。。

 創造主であり、私たち人間を造られた神は、ご自身のかたちにかたどって人間を造られ、人間に、欲し、願う、求める、気持ちを与えてくださいました。それは、本来、神を喜ぶことにおいて、正しく用いられるものです。
 しかしながら、始祖アダムにおいて、神から離れた全人類にとって、この神からの賜物を健全に用いることよりも、人間中心の願望、欲望、あるいは、宗教的祈願においても、神を喜ぶことではなく、人間の気持ちを満たすことに重くようになりました。
 しかしながら、神から離れたままで、人間の気持ちを満たすことはできないばかりでなく、一時的にその願いが満たされたように思われても、正しく満足することはできず、かえって、むさぼりの罪を重ねることになります。
 主イエス・キリストは、まことの神と、そのような神から離れた罪人との間の仲介者・仲保者として、この世に来られ、人間のむさぼりの罪を贖い、神を喜ぶ者へと造り変える、聖霊を与えてくださることを、約束してくださいました。
 わたしたちは、聖霊によって、主イエス・キリストの命の幹にしっかりと結び合わされます。そして、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネによる福音書15章9節)と、主イエスが命じられるように、わたしたちは、キリストの愛にとどまり、神とキリストの掟を守り、互いに愛し合い、神とキリストの選びと召命に応えつつ、キリストの御名によって、祈り求めるのです。
 実に、私たち自身と隣人とそのすべての所有物とに対してもつ「正しい愛の気持ち」とは、神の愛において、良き「備え」「用意」をすることです。 

 聖書の言葉
 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実とに満ちています。  ヤコブの手紙3章17節
                                                                   
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子を、わたしたちにお与えくださり、感謝します。あなたの愛の大きさをいつも心に留めつつ、わたしたちに与えられた賜物を感謝してささげることができますように。そして、主イエスの愛において、自分と隣人のすべての必要に、備えることができますように。わたしたちの愛する主イエス・キリストの聖なる御名によって祈り願います。アーメン。

 

 

 

2017年1月22日 ウェストミンスター小教理問79

 

第十戒は、どれですか。
第十戒はこれです。「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

 

 主イエス・キリストは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と命じられ、「そうすれば、これらのもの」つまり、「食べもの、衣服」などは、「みな加えて与えられる」と約束してくださいました(マタイによる福音書6章33節)。
 この「神の国と神の義」とは、もう少し具体的に言えば、神がわたしたち一人一人を守り導いておられることと、神との正しい関係、あるいは、神の御心に適う正しい生活ということできます。
 詩編119編では、「何事にも終わりと果てがあるのをわたしは見ます。広大なのはあなたの戒めです。」(96節)、また、「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力に わたしは目を注ぎます。」(18節)と告白されています。
 わたしたちが、神を望み、神の支配を見ようとするならば、神の戒めの広がりに目を留めることが大切なのです。また、その広がりを認めることのできない目の覆いを、神は、その御力によって払ってくださるのです。そのとき、わたしたちは、神の戒めの広がりとともに、その力に目を注ぐように変えられます。
 「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」との戒めは、言わば、神の国と神の義を求めることとは正反対の生き方が戒められています。それは、人の欲から出てくるあらゆる羨望、ねたみ、優越感、劣等感、自己満足、自己卑下等について、神の御前における、注意深い自己吟味へと導く戒めと言えます。戒めの広がりからすれば、個人の問題を越えた社会的・国際的問題を問うこともできるでしょう。目の覆いを払い、祈りを新たにしましょう。 

 

 聖書の言葉
 わたしの口は大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。
                       詩編119編131節
                                              
わたしたちの祈り
 天の父なる神さま、愛する独り子、わたしたちのためにお与えくださり、感謝します。わたしたちの心の目が明らかにされ、あなたの喜ばれる道を尊び、求め、歩むことができますように。主イエス・キリストが、十字架の上で、罪を負い、「渇く」と叫ばれた思いに近づくことができますように。わたしたちの愛する主、イエス・キリストの聖なる御名によって祈り願います。アーメン。