2024428日 礼拝説教 中心聖句

 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。         ヨハネによる福音書2124

 わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。                                 詩編119109

                                

はじめに・聖書による訓育は、主イエスの言葉を聞くことから。親しく主の愛を求めたい。

1・「ペトロが振り向くと」とは、イエスとペトロが、他の弟子たちと少し離れたところにいたことを証しする。そこに「イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」。もちろん、ペトロも「イエスの愛しておられた弟子」の一人。あえて名を伏せて書く理由は、ペトロにイエスがとくに向き合われて「わたしを愛しているか」と問われたことについて、この弟子も無関係ではないことを証しするため。つまり、それは、特定の弟子への問いというよりも、イエスの愛しておられた弟子、皆に妥当する問い。ここで、「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」と言われる(ヨハネ1325節)。この弟子は、イエスのそばで重いことを尋ねた。主イエスの召天の後、ペトロは、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」(使徒117節)と言う。「めいめいが、自分の重荷を担うべき」(ガラテヤ65節)。ペトロの再献身は、一使徒の、主の教会の一人の献身。

2・「ペトロは彼を見て」とは、彼の心境から出る言葉をつなぐ。ペトロは、この弟子に何を言うことなく、イエスに「主よ、この人はどうなるのでしょうか」とたずねた。「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい。』」先に、主イエスご自身、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたの互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ1314節)と言われた。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになる」(ガラテヤ62節)。わたしたちは、めいめいが、自分の重荷を担う。それは、主が分け与えられた重荷ゆえに、互いに担い合うもの。自分の責務を果たすことを、独善的に果たすことはあり得ない。また、他者の責務について、無関心であることもあり得ない。それは、はじめから共同的な責務であり、主の召命に共に応えていくこと(ヨハネ138節「わたしとのかかわり」=「わたしの部分」)。主イエスはこのとき、ペトロが問う心を知っておられ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われた。主のものとされた者たち、一人一人に与えられた召命と生涯がある。「わたしの目にあなたは価高く、貴」い。(イザヤ434節)。ただ、主の贖いの尊さゆえ。

3・「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子」。「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。先の、この書物(福音書)についての言及は、その目的を明らかにした(2030,31節)。ここでは、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と言う。「わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」。人の目は、今、膨大な情報に向かう。しかし、肝心の情報、否、命の言葉に聞く者はだれか。今、福音書、聖書全体の証しする、イエスの名により命を受ける者はさいわい。それは、ほかでもない、あなた自身が、信じる御方。

おわりに・聖書の真価は、救い主キリストにある。「わたしの魂は常にわたしの手」に。苦難の時、「私の心をあなたにささげます。主よ、即座に、まごころから」(カルヴァン)。

 

 

2024421日 礼拝説教 中心聖句

 ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです」 ヨハネによる福音書2117

 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。         詩編232,3

                                

はじめに・事が起こった時、主が共におられると信じるか、否か、その後の道は、いかに。

1・「食事が終わると」とは、復活の後三度目に弟子たちに現れた主イエスが備えられた朝の食事の時間。主イエスは、日々の糧を備えられるお方。「主の祈り」においても、わたしたちは「罪の赦し」を乞い求める前に、「日々の糧」を求めて祈るように教えられる。「聖名の賛美」「御国の到来」「御心の実現」は、日々の生活において、神の栄光をたたえること。「イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」。この問答が、二度繰り返される。受難の時、三度となくイエスを否認したペトロにとって、イエスの問いは、自身の心を疑うものように受けとめられたかもしれない。しかし、主イエスの問いは、疑いから出たものというよりも、ご自身の愛における再献身を促すものであり、ペトロ自身の献身を根底から支えるもの。ペトロ自身を愛し、養い、導いておられるのは、主ご自身である。とくに、群れを養うために、主の召しを与えられた、牧師たち、長老たちにおいて、大切なことは、絶えず、この主キリストの愛からすべてを始めること。

2・「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』」このとき、ペトロはこれまでも違う感情を表す。『ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」。三度聞かれから、悲しくなった、というよりも、ペトロの心情においては、受難の時の痛みは、今日の痛み。主イエスは、否認の前に「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ2232節)と言われた。主イエスは、二度は、「愛するか(アガペー:無償の愛)」と言われ、三度目は、ペトロと同じ言葉で、「愛するか(フィレオ―:友なる愛)」と言われた。ペトロの負い目か、イエスの譲歩か、いずれにしても、わたしたちは、主イエスがわたしたちを愛されたように、愛することが求められている。主イエスご自身が「まことのパン」(ヨハネ632節)である。そして、「良い羊飼い」(ヨハネ1011節)である。じつに、ご自身の群れを養うお方が、ご自身の命を与えてくださったほどに、無条件の愛をもって、愛しておられる。「イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい』」。

3・「はっきり言っておく(アーメン、わたしは言う)」と、主イエスは、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして言われた」。主イエスは、ペトロの否認を予告された時、すでに、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(ヨハネ1336節)と言われた。十字架の死についていくことのできる人は一人もいない。しかし、死ぬことはキリストと信じる者たちは、主のために自分の十字架を負う道を進むことはできる。それは、聖霊の恵みによる、悔い改めと、日々、新たな献身の道であり、御国に凱旋する道。自分に頼らず、主にすべてを明け渡して歩むとき、わたしたちの献身は、ただ、主の愛と真実のゆえに、確かなものとされる。

おわりに・「主はわたしの羊飼い」への深い信頼を告白し、共に、主の栄光をたたえたい。

 

 

2024414日 礼拝説教 中心聖句

 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。  ヨハネによる福音書2112

 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。

                                 詩編10428

 

はじめに・情報洪水の中で、今日、復活の主キリストの平安の中に、神の言葉に聞きたい。

1・「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさった」とは、まぎれもなく弟子たちが見たことの証言はたくさんあることを証しする。「弟子たちの前で」とは、弟子たちが本当に見、聞いたことがどれほどの深い記憶と慰めに満ちているかを物語る。「多くのしるし」とは、いわゆる奇跡に限らず、イエスご自身が、神の子にして安息日の主であり、当時の神殿にまさって、三日目に復活されたお方であることを告げる御業。「それはこの書物に書かれていない」とは、福音書自体がもつ目的を示唆する。それでは、福音書の目的は何か、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシア[キリスト]であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」。福音書は、単なる伝記・証言集ではなく、神自ら、「受肉」された、永遠の「言」、神の独り子イエスを啓示する「神の言葉」。その目的は、神とキリストの栄光(114節)。聖書信仰は、その栄光を見、復活のイエス・キリストを「わが主、わが神」と告白する。

2・「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された」。それは、「死者の中から復活た後」「三度目」のこと。そこには、「 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル(多分バルトロマイと同じ)、ゼベダイの子たち(ヨハネとヤコブ)」「ほかの二人の弟子が一緒にいた」。

  シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」弟子たちは日常の働きで糧を求めて生きる。夜明けで、霧か何かで、岸に立っておられたイエスの姿を確認できなかった。岸から「イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』」と呼びかけると、「彼らは、「ありません」と答えた」「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキス(約90m)ばかりしか離れていなかった」。ペトロの、主への愛は、不器用ながらも、誠実に示された(!?)。

 3.「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった」。「その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた」。「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』」と尋ねようよしなかった。「主であることを知っていたから」。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与え」「魚も同じようにされた」。弟子たちは大きな感動の中、主イエスの備えられた朝の食事の時をともにした。主の全面的な愛は、その日の糧を与え、今日の生活に備える。

おわりに・神に造られた生き物は、神に自分の食物を求める。人は自分の仕事をし、生き物にまさって、食卓を整える。主の御手が開かれているなら、今日、その中で共に憩いたい。

 

 

202447日 礼拝説教 中心聖句

 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」                    ヨハネによる福音書2029

 「シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。               詩編875

 

はじめに・主の復活節第二週の今日、「八日目」の復活の主との顕現から真の信仰を問う。

1・「十二人の一人」とは、人数としては、イスカリオテのユダ一人を欠く11人。十二使徒の一人「ディディモ(双子)と呼ばれるトマス」とは、トマス自身が双子の一人であったのか、あるいは、その性格が、だれかと瓜二つであったのか。相反する性格を顕にする人とも。このトマスが、「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。 そこで、他の弟子たちは、「わたしたちは主を見た」と言った。この時、トマスが言ったことばは、しばしば、「疑い」として理解される。あの十字架から十日、他の弟子たち同様、トマスには不安と恐れ、痛みと絶望があった。トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。ならば、わたしたちの信仰は「疑い」のないものか。そうではないのでは。

2・「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」 詩編133編において「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と賛美される。主が、「祝福と、とこしえの命」を告げられる日、一人ももれなく、皆(全教会員、地上の全教会のそれぞれの群れ、ときに一同が集うこと)が、一つの礼拝の交わりをささげることは、このうえない喜び。この時、十字架において離散した弟子が再び相集う恵み。また、堕落した全人類からすれば、礼拝は、苦難と試練の中、神の憐れみによる集会。最初に主イエスが弟子たちに現れた日同様、「戸にみな鍵がかけてあった」。そこにイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和』」と言われた」。その時、イエスはトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

3.「トマスは彼に答えて言った、『わたしの主、わたしの神』」と。トマスは、あなたを見たので信じます、とは言っていない。むしろ、深い畏れと感動の中で、ただ、イエスを「わたしの主、わたしの神」と呼ぶ。それは、イエスご自身が、まことの神、主であることを信じ、告白する。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中から復活によって力ある神の子と定められた」「この方が、わたしたちの主イエス・キリスト」(ローマ1章3,4節)。じつに、イエスは、永遠の神の御子でありつつ、罪をほかにしては、まことの人間となられ、復活によって、力ある神の子であると宣言された。神がイエスに与えてくださった子らと同様に、「血と肉を備えられた」イエスは、「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」(ヘブライ2章15節)された。トマスの信仰告白は、その場限りのものではなく、復活の主、勝利の主、生けるキリストにおいてゆるぎないものとされた確信。

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。ただ、主の恵みの中に「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」る(ペトロ一1章8節)。

おわりに・詩編87編は、かつての敵が、神から生まれる民に変えられることを預言する。今日続く種々の争いを鎮め、本当の平和が実現する日、この日こそ、復活の主の再臨の日。