202受難日礼拝「一度十字架に死なれたイエス ルカによる福音書233449

讃美歌257 (じゅうじかのうえに) 543番(主イエスのめぐみよ、ちちのあいよ)

イエス・キリストの受難とは、今から二千年前、あのゴルコタの丘の上で、二人の犯罪人の一緒に十字架刑に処せられた事を指します。この受難は、永遠の神の御子が負われた苦しみであり、神が定められた一つの死であった、その真意を神に聞かなけれならない、という意味で、神とキリストへの信仰理解を要するものです。

この受難を理解するために、イエス・キリストご自身が、多くの言葉を遺してくださいました。その一つが、聖餐制定の御言葉です。ここで、主イエスご自身「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない」(2216節)と言われたのです。

この「神の国で過越が成し遂げられるまで」との言葉こそ、わたしたちが、正しく十字架を理解する上で、決定的な、主ご自身の言葉なのです。なぜなら、この言葉を土台(神の定め)として、主イエスは、この時、杯を取り上げ、パンを取り、これをご自身の受難の記念(しるし)とされ、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約」と、いわば、十字架の上にささげられる体と血が、神の恵みによる贖いの契約の実現であることを告げられるのです。

過越とは、出エジプトにおいてイスラエルの民が初子の死という災いを過越されたことを指します。それでは、この時、災いとは何でしょうか。それは、「生の木」でいますイエスの受難です。神の定められた罪人の贖いを成し遂げることによって果たされる「救い」とは、実に、御子の命の犠牲ゆえに成し遂げられることです。

洗礼者ヨハネは、「自分の方でイエスが来られるのを見て言った」のです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」」(ヨハネ129節)。つまり、ひとたび、十字架の上に、ご自身の体が、神の御前にあって、罪人の負うべきわざわいを過ぎ越す宥めの供え物としてささげられる時、ついに、栄光の御国の支配が、「罪の赦し」の実現として、明らかにされるのです。

十字架の上にその身をささげられるイエスの姿を見るとき、時の多くの人々は、そこに、神の支配よりも、世の宗教とローマの支配を見ています。それは、ただ、無謀な罪なき人への侮辱と、時を特定の多数の声にゆだねる仕方で果たされた、宗教と国家の権力者たちと二人の犯罪人を含めた人々の成り行きでもあります。

この意味で、十字架の上で取り交わされた言葉の中で、イエスに赦しを求める一人の犯罪人の言葉が、心に迫ります。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」「イエスよ、あなたの御国においてになるときには、わたしを思い出してください」。

わたしたちが、この御方を信じるとは、実に、この御方こそが、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」であることを信じることです。この御方が、出エジプトの過ぎ越しを定め、イスラエルの民を苦難から救い出し、この御方が、新しい契約の実現として、真のイスラエル、契約の民を罪と滅びの中からすく出す、贖いの犠牲となられ、その身をささげられたことを信じること、そして、この御方が、再び来られる日まで、なお不信のイスラエルが、過ぎ越しを継続するところにはおられず、かえって、信仰によって、永遠の過ぎ越し(救い)を望む祈り(希望)と恵みの契約とその信仰に立つ者たち(愛)と共におられれるのです。

自らの命をご自身にゆだねた犯罪人に、主イエスは言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。この約束こそが、「生の木」のみならず、「命の木」でいます、イエス・キリストの幹につながる、永遠の命の約束です。それは、ただ、天国でいつまでも生きるということにとどまらず、神の栄光を表すものとして、永遠に、神の小羊、イエス・キリストをほめたたえる礼拝者とされる約束です。

わたしたち今、地上で生きる者たちにとって、受難の主を仰ぎ見るとは、じつに、このただ一度の死においても、神の恵みの支配を見ることです。そこで、成し遂げられた、主の贖いと永遠の過ぎ越しを信じることです。「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」ことに、「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこ(至聖所の垂れ幕の内側)へ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられた」(ヘブライ人への手紙6章20節)ことを信じ、この御方の執り成しによって、真に、神に近づく者とされた者として、一度、この世のただ中に来られ、再び来られる、キリストの御国の到来を信じ、すべての人々のために祈ることです。

そして、最後になりましたが、信仰者に心を留めたいと思います。それは、「ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた」ヨセフです。この人は、「議員」で、「善良な正しい人」で、「同僚の決議や行動には同意しなかった」のです。それは、イエスが、処刑された後も、あの者の味方、自分たちの敵とみなされることをその身に引き受けたこを証しています。

今、わたしたちが、十字架の主を証しするとは、少なくとも、多くの人々にとっては、キリスト教を信奉する人でしかないかもしれません。しかし、神の国を待ち望む者たちにとっては、永遠の過ぎ越しを、ご自身の贖いによって定められた御方を、主として生きることであって、それは、単なるキリスト教信奉者にとどまらず、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピの信徒への手紙1章21節)との使徒パウロの告白のように、十字架の死から三日目に復活し、天に上げられた、キリストと約束の聖霊の恵みによって、今日を、主と共に生き、主を望み、主を愛することです。

受難日礼拝をささげる今日、わたしたちの信仰は、ただ、キリストの贖われたもの(所有)であることを信じて、祈りましょう。