2024年5月12日 子どもと親のカテキズム問87
この世の人たちもお祈りをしますが、神さまの子どもたちのお祈りと、どうちがうのですか。
この世の人たちのお祈りは、神さまのことではなく、自分の益のためだけの願いごとです。神さまの子どもである私たちは、神さまをあがめ、神さまの御心を求めて祈ります。ですから、聖書の言葉に耳を傾けつつ、祈ることが大切です。
イエスさまは、どんなときでも、よわりはてないで、おいのりするように、ひとびとにたとえばなしでおしえられました。
あるまちに、かみさまをおそれず、ひとをひともおもわないさいばんかんがいました。そのまちに、ひとりぐらしのおんなのひとがきて、さいばんかんにもとめづづけました。「どうか、わたしをつみにさだめるものをさばいて、わたしをまもってください」。さいばんかんは、しばらくのあいだ、このおんなのひとのねがいをきこうとしませんでしたが、そのうち、こころのなかでかんがえました。「わたしはかみさまをおそれず、ひとをひとともおもわないが、このおんなのひとが、わたしにめんどうをかけるから、このひとのためになるさいばんをしよう。そうしたら、しつこくやってきてわたしをなやますこともなくなるだろう」。
そこで、イエスさまはいいました。「この、かみさまをおそれない、つみぶかい、さいばんかんのいっていることをききましたか。それならば、どうして、ひとびとをただしくさばかれるかみさまは、ひるも、よるも、さけびもとめている、かみさまのこどもたちのために、ただしくそのもとめていることをききいれてくださらないで、ながくそのままにしておかれることがあるでしょうか。わたしはあなたがたにいいますが、てんとちをつくられたかみさまは、すぐに、ちのうえにすむひとびとをさばいてくださいます。けれども、わたしが、ふたたびくるとき、ちのうえに、わたしのやくそくをしんじてまっているひとがいるでしょうか。」
イエスさま、すぐにきてください。わたしたちは、あなたのやくそくをしんじて、すべてのひとのために、おいのりします。アーメン
2024年5月5日 子どもと親のカテキズム問86
私たちは罪人なのに、神さまと交わり、神さまとお話しすることができるのですか。
はい、できます。私たちは、イエスさまによって罪を赦され、神さまの子どもとされ、神さまと交わり、お話しできるようにされています。ですから、私たちはイエスさまのお名前によって、子どもらしく素直になんでもお祈りします。
いのちのみなもとでいます、「しゅ」であるかみさまは、かみさまのすばらしさをほめたたえるために、つくってくださいました。けれども、まいしゅう、にちようびに、せかいじゅうのひとたちが、みんな、れいはいをささげているわけではありません。それは、すべてのひとが、はじめのひと、アダムにおいて、かみさまのめいれいにそむいたために、「つみ」がにんげんのなかにはいったからです。ですから、いま、わたしたちが、れいはいをまもり、かみさまのことばである「せいしょ」をよみ、「せいしょ」のおはなしをきくとき、「ほんとうに、イエスさまは、じゅうじかのうえにしんでくださり、みっかめにふっかつされて、てんにあげられ、いまも、いきておられる」とことをしんじるようにみちびかれます。
それは、イエスさまのめぐみによって、「つみ」のこころかかえられて、かみさまをよろこんでいきるようになることです。わたしたちが、かみさまをよろこんでいきるようにかえられると、「かみさまともっとおはなししたい」というおもいにみちびかれます。それは、かみさまのめぐみをひとつひとつおぼえて、「かみさま、ひとつひとつのめぐみをありがとうございます」とおはなしするようになるからです。
イエスさまは、わたしたちの「つみ」のために、じゅうじかにかけられたとき、「わたしのかみさま、わたしのかみさま、どうして、わたしをおみすてになられたのですか」とさけばれました。それは、かみさまにそむいた、つみびとのみがわりとなって、さけばられこえです。「わたしはあなたのけっしてみすてない」とやくそくされる、イエスさまのおなまえによって、てんのかみさま、イエスさまといつもおはなしするように、おいのりしましょう。
イエスさまをあたえてくださった、てんのおとうさま、じぶんのつみをゆるされて、あなたをいつもよび、おはなしします。アーメン
2024年4月28日 子どもと親のカテキズム問85
それでは、祈りとは何ですか。
祈りとは、まことの神さまに私たちの心を向け、神さまとの交わりの中で神さまとお話しすることです。
むかし、サムエルというしょうねんがいました。サムエルは、エリというさいしのもとで、いっしょにくらしながら、「しゅ」であるかみさまにおつかえていました。
あるよるのことです。サムエルが、「しゅ」のしんでんでねていたとき、「しゅ」であるかみさまは、「サムエルよ、サムエルよ」とよばれました。サムエルは、「はい、ここにおります」といって、エリのところへはしっていきました。「あなたがおよびになったので、ここにおります」。でも、エリはいいました。「わたしはよんでないよ。かえっておやすみ」。サムエルはかえってねました。また、かみさまは、「サムエルよ、サムエルよ」とよばれました。サムエルは、おきて、エリのもとへいっていいました。「あなたがおよびになったので、ここにおります」。エリはいいました。「わたしはよんでいないよ。またかえっておやすみ」。また、かみさまは、さんどめに、サムエルをよばれました。サムエルは、おきてエリのもとにいっていいました。「あなたがおよびなったので、ここにおります」。このとき、エリは、「しゅ」であるかみさまが、サムエルをよんだことにきづきました。そこで、エリは、サムエルにいいました。「いっておやすみ。でも、もしあなたはをよばれたら、「しもべはききます。しゅよ、おはなしください」といいなさい。かみさまは、「サムエルよ、サムエルよ」とよばれました。サムエルは、いいました。「しもべはききます。おはなしください」。そのとき、「しゅ」であるかみさまは、サムエルにいわれました。「みなさい。わたしはイスラエルのうちにひとつのことをします。それをきくものは、みみがずきずきするような、いたみをかんじるでしょう」。じゅうじかにかけられた、イエスさまは、わたしたちの「しゅ」です。イエスさまのおまえによって、おいのりするとき、わたしたちは、サムエルのように、「しゅ」であるイエスさま、かみさまのこえをよくきいて、おなはししましょう。
イエスさま、あなたはわたしたちの「しゅ」です。いつも、あなたからのことばをよくきいて、しんじて、おはなしします。アーメン
2024年4月21日 子どもと親のカテキズム問84
神さまが聖書を通して示された祈りの規準はどこにありますか。
イエスさまが祈りの手本として教えてくださった「主の祈り」の中にあります。
イエスさまは、よくおいのりをしました。ヨルダンがわで、せんれいしゃヨハネからせんれいをうけたとき、あらので、あくまのゆうわくをうけられたとき、また、でしたちをえらぶときにも、おいのりをしました。また、くらいよるにも、やまにいって、ひとりで、ひとばんじゅうおいのりすることもありました。
あるひにことです。イエスさまが、あるところで、いのっておられました。おいのりがおわると、でしのひとりがイエスさまにいいました。「イエスさま、せんれいをうけられた、ヨハネがでしたちにおしえたように、わたしたちにもおいのりをおしえてください」。そこで、イエスさまは、でしたちにいわれました。「おいのりするときは、こういいなさい。『おとうさま、あなたをせいなるかたとしてさんびできますように』『イエスさまが、おさめておられるえいこうのくにがきますように』『わたしたちがいただくたべものを、まいにちあたえてください』『わたしたちにつみのおいめのあるひとたちを、みんな、ゆるすことができますように、わたしたちのつみもゆるしてください。』『わたしたちをあくまのゆうわくからまもってください』」。 このおいのりは、すくいぬしでいます、イエスさまが、でしたちをとおして、わたしたちにおしえてくださったので、「しゅ(イエスさまのこと)のいのり」をよばれます。このおいのりを、いつもこころにおぼえながら、ひらがなやかんじをおぼえるようにおてほんにしておいのりするうちに、イエスさまのようにどんなときにもおいのりするようにかえられます。
いつもイエスさまがいっしょにおられることをしんじておいのりしましょう。
イエスさま、わたしたちにいつもおいのりすることをおしえてください。どんなときもイエスさまをあいして、いのります。アーメン
2024年4月14日 子どもと親のカテキズム問83
問83 「十戒」は、罪を気づかせるためだけにあるのですか。
いいえ、「十戒」は、父なる神さまの愛の親心です。私たちは、救いの完成に向かって、祈りつつ、聖霊に助けられながら、光の子どもらしく、喜んで「十戒」を守って歩みます。
イエスさまは、じゅうじかのうえに、そのいのちをささげられ、てんにあげられました。そして、きょうも、わたしたちをまもり、わたしたちのためにいのっておられます。イエスさまは、じゅうじかにかけられるまえに、せいなるちちであるかみさまをよんでこのようにおいのりされました。「せいなるおとうさま、わたしにあたえてくださった、あなたのおなまえによって、わたしにあたえてくださったひとびとをまもってください。わたしたち(イエスさまとてんのおとうさま)のように、あなたにあいされているひとびともひとつとなるためです。」
「じっかい」は、かみさまのあいのおきてです。それは、かみさまをあいすること、そして、わたしたちのとなりびとをあいすることをめいじ、おしえています。わたしたちは、かみさまととなりびとをあいすることよりも、にくしみ、きうらう、つみのこころをもっています。そのつみのこころを、せいれいは、きよめて、わたしたちのこころをつくりかえてくださいます。
イエスさまは、「すべてのひとびとが、わたしにしたがうように、わたしのなまえによってせんれいをさずけ、あなたがたにめいじておいたことをすべてまもるようにおしえなさい。わたしは、せかいのおわりまで、いつもあなたがたといっしょにいます」とめいじ、やくそくしてくださいました。これからも、いつも、イエスさまが、いっしょにおられます。イエスさまをあたえてくださった、てんのおとうさまのあいのこころをもとめておいのりしましょう。
イエスさま、じゅうじかのいのちを、ぜんぶあたえてくださった、てんのおとうさまのあいをしんじて、おいのりします。アーメン
2024年4月7日 子どもと親のカテキズム問82
問82 あなたは、このような神さまの戒めを完全に守れますか。
いいえ、それどころか、毎日思いと言葉と行いにおいて神さまの戒めを破っています。私たちはイエスさまによって罪が赦されていますが、今も罪を犯してしまいます。ですから、いよいよイエスさまにより頼み、罪の赦しときよめを求めます。
イエスさまは、あるとき、たとえをはなされました。「あなたは、きょうだいのめにある、ちいさなおがくずはみえるのに、どうして、じぶんのめのなかにあるおおきなきにきづかないのですか。じぶんのめのなかにあるをおおきなきをみないで、どうして、いつもいっしょにいるきょうだいにむかって、『きょうだいよ、あなたのめにあるちいさなちりをとらせてください』ということができるでしょうか。」「ほんとうのことをみていないひとたち、まず、じぶんのめから、おおきなきをとりのけなさい。そうすれば、はっきりみえるようになって、きょうだいのめにある、ちいさなちりをとりのけることができるでしょう。」
それから、イエスさまは、このようにいわれました。「わるいみのなるよいきはありません。また、よいみのなるわるいきもありません。どんなきも、それぞれ、そのきにどんなみがなるかでわかるのです。いばらからいちじくをとることはなく、のばらからぶどうをつみこともありません。よいひとは、よいこころのくらから、よいものをとりだし、わるいひとは、わるいくらから、わるいものをとりだします。こころからあふれでることを、くちがかたるのです。」
イエスさまは、じゅうじかのうえにしなれ、みっかめにふっかつされて、てんにあげられ、やくそくのせいれいをわたしたちにあたえてくださいます。わたしたちは、うまれながら、つみのために、そのこころのめで、かみさまのすばらしさをみとめることができません。でも、せいれいによって、つみをきよめられて、こころからいえすさまをほめたたえることができるように、こころをかえられます。あたらしいこころで、いつもイエスさまのように、ひとびとのためによいことばをはなして、よいことをおこないましょう。
イエスさま、わたしたちのこころをきよめて、あなたをほめたたえることばと、ひとびとをあいするよいことばをください。アーメン
2024年3月31日 子どもと親のカテキズム問81
問81 第十戒で神さまは私たちに何を求めておられますか。
神さまは、私たちにすべて必要なものを与えてくださいます。むさぼりは、この世 のものを神とする偶像礼拝です。神さまは、私たちが、ほかの人のものをねたまず、自分の持ち物に感謝し、満足し、人の幸せを願うことを求めておられます。
イエスさまは、じゅうじかにかけられて、そのいのちをささげられましたが、それからみっかめに、ほうむられたおはかのなかからよみがえられました。でしたちにあらわれ、てんにあげられた、イエスさまは、いま、やくそくされた、せいれいをあたえてくださり、わたしたちといつもいっしょにおられます。
せいれいは、わたしたちのこころにすんでくださり、わたしたちがいつもイエスさまといっしょにいることをしんじるようにみちびいてくださいます。そして、わたしたちが、イエスさまのめぐみによって、おいのりすることができるようにまもっておられます。ですから、わたしたちは、どんなときにも、イエスさまがいつもいっしょにおられることをしんじて、「かみさま、イエスさま、ありがとうございます」とかんしゃのおいのりをすることができるのです。
イエスさまのすくいを、せかいのひとびとにつたえた、パウロさんは、きょうかいにおくったてがみでこのようにつたえました。「いつもよろこんでいなさい。たえずいのりなさい。どんなことにもかんしゃしなさい。これこそ、じゅうじかのうえにしなれ、みっかめにふっかつされ、てんにあげられた、すくいぬし、イエスさまのめぐみによって、かみさまが、あなたがたにのぞんでおられることです。」わたしたちのこころをまもり、おさめておられる、すくいぬし、イエスさまのめぐみによって、かなしいときにも、うれしいときにも、かみさまにかんしゃしておいのりしましょう。
イエスさま、じゅうじかのしからみっかめにふっかつされた、あなたによっていつもまもられていることをかんしゃします。アーメン
2024年3月24日 子どもと親のカテキズム問80
問80 第十戒は何ですか。
「隣人の家を欲してはならない」です。
イエスさまは、ごじしんが、じゅうじかにかけられるときがつかづいてきたとき、「こころをさわがせないで、てんのおとうさまとわたしをしんじなさい。わたしのちち、てんのおとうさまのいえには、すむところがたくさんあります。そして、あなたがたのために、すむところがよういできたら、また、やってきて、あなたがたをわたしのところにむかえます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。そして、わたしがどこへいくのか、そのみちをあなたがたはしっています。」
すると、でしのトマスは、イエスさまにいいました。「イエスさま、あなたがたどこへいくのか、わたしたちにはわかりません。どうしてそのみちがわかるのでしょうか。」イエスさまは、トマスにいわれました。「わたしが、そのみちであり、そのみちをただしくみちびく、いのちです。だれでも、わたしによらないでは、わたしのちち、てんのおとうさまのもとにいくことはできません。もし、あなたがたが、わたしをしったなら、わたしのちち、てんのおとうさまをもしったでしょう。しかし、いまは、わたしのちち、てんのおとうさまをしっており、またすでに、てんのおとうさまをみたのです。」こんどは、でしのフィリポがいいました。「イエスさま、わたしたちに、てんのおとうさまをみせてください。そうすれば、わたしたちはまんぞくします。」イエスさまは、フィリポにいいました。「フィリポ、わたしをみたものは、わたしのちち、てんのおとうさまをみたのです。」イエスさまをしんじるとき、わたしたちは、いちばんたいせつなねがいをしります。それは、イエスさまをしんじて、まんぞくすること、イエスさまをよろこぶことです。
イエスさま、わたしたちのこころを、あなたのあいでみたしてください。てんのすまいにはいるすくいのみちをあゆみます。アーメン
2024年3月17日 子どもと親のカテキズム問79
問79 第九戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。
答 神さまは真実な方ですから、私たちにも真実をお求めになります。悪いうわさを流したり、うそをついて、友だちを傷つけてはいけません。いつも愛のうちに真実を語りましょう。
イエスさまは、やまのうえで、ひとびとに、ごじしのこられたことをつたえてこういわれました。「わたしがきたのは、りっぽうのことばや、よげんのことばを、すてるためだとおもってはいけません。すてるためではなく、そのことばをなしとげるためにきたのです」。そして、こういわれました。「アーメン、あながたに、ほんとうのことをいいます。てんとちが、ほろびるまでは、りっぽうのことばの、ちいさないってん、ちいさないっかくも、ほろびることなく、すべてが、おこるのです」。
イエスさまは、さらにこういわれました。「それだから、これらももっともちいさないましめのことばのひとつでもやぶり、またそうするようにひとにおしえるひとは、てんのおうこくで、もっともちいさいものとよばれます。しかし、これをおこない、おしえるものは、てんのおうこくで、おおきいものとよばれます」。
「わたしはいいます。あなたがたのただしさが、りっぽうがくしゃや、ファリサイひとのただしさにまさっていなければ、けっして、てんのおうこくに、はいることはできません」。
りっぽうがくしゃや、ファイサイびとたちのただしさは、ひとよりもじぶんをたかくするただしさで、かみさまのまえにへりくださるものではありませんでした。けれども、イエスさまは、つみびとであるわたしたちのために、へりくだって、じゅうじかのうえに、みがわりとなって、ごじしんのいのちをぎせいとされ、かみさまのやくそくのことばをみたしてくださいました。イエスさまは、うそやいつわりのないおかたであり、また、ごじしんのことば、りっぽうとよげんのことばをぜんぶおこなってくださったおかたです。
イエスさまが、わたしたちをつみからすくう、いのちのことばとしんじ、あゆみましょう。
イエスさま、あなたのじゅうじかは、わたしたちのすくいです。いつも、あなたのじゅうじかのことばにいかしてください。アーメン
2024年3月10日 子どもと親のカテキズム問78
問78 第九戒は何ですか。
「隣人に関して偽証してはならない」です。
イエスさまは、いま、どこにおられるでしょうか。そうですね。じゅうじかのうえに、ごじしんをささげられて、しなれましたが、みっかめにふっかつされて、てんにあげられました。いま、わたしたちは、イエスさまのことを、みたり、きいたりしたひとがかいた、「せいしょ」の「ふくいんしょ」や「てがみ」のことばをしんじて、れいはいをささげています。 わたしたちが、イエスさまをしんじ、「せいしょ」のことばが、かみさまのことばであるとしんじるとき、わたしたちは、こころからよろこびがあふれてきます。
わたしたちが、イエスさまからきいたことは、ぜんぶただしいこと、うそやいつわりのないことです。うそやいつわりのない、ただしく、きよいことばをたいせいにするとき、わたしたちは、じぶんのこころで、はっきりと、かみさまをいちばんたいせつにできないこと、つみのこころにきづきます。かみさまをさんびするとは、かみさまをいちばんにいきることをあらわすことです。けれども、そうできない、こころのつみにきづくことがたいせつです。わたしたちが、じぶんのつみをこころからいいあらわすとき、かみさまが、ただしいかたですから、ひとりごイエスさまのじゅうじかのぎせいによって、わたしたちのこころと、ことばと、おこないのつみをゆるして、きよめてくださいます。
イエスさまが、じゅうじかにつけられたときのことです。ひとびとは、イエスさまをじゅうじかにつけて、はんざいにんも、ひとりはみぎに、もうひとりはひだりに、じゅうじかにつけました。このとき、イエスさまはいわれました。「おとうさま、ひとびとをゆるしてください。じぶんたちが、なにをしているのか、しらないのです」。わたしたちも、じぶんでなにをしているのか、しらないままに、つみをおかしています。うそをいっていなければすくわれるのではなく、かえって、イエスさまのことをしりながら、イエスさまをこころからよろこぶことができない、つみぶかいこころをみとめ、イエスさまのじゅうじかをしんじていのりましょう。
イエスさま、あなたは、ひかりのなかにおられます。どうか、わたしたちのつみふかいこころをゆるし、きよめてください。アーメン
2024年3月3日 子どもと親のカテキズム問77
問77 第八戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。
私たちの持ち物は、私たちの体もお金も時間も、すべて神さまからの贈り物です。神さまは、それらを感謝し、ふさわしく管理し、神さまの栄光のために用いることを求めておられます。神さまの贈り物を自分勝手に使ったり、他の人のものを盗んだりしてはいけません。
イエスさまのもとに、かぞえきれないほどの、たくさんの、ひとびとがあつまってきて、あしをふみあるほどになったときのことです。たくさんのひとたちのなかから、ひとりのひとがいいました。「せんせい、わたしにも、しんだかぞくのこされたざいさんをわけてくれるように、きょうだいにいってください」。イエスさまは、いいました。「だれがわたしを、ざいさんについて、もめないように、きめてあげたりするひとにしたのですか」。そして、そこいるひとたちみんなにいいました。「もっとほしいとおもうこころにちゅうをはらい、きをつけなさい。ありあまるほど、いっぱい、ものをもっていても、にんげんのいのちは、たくさんおかねをもっているから、なりたっているのではないからです」。そして、ひとつのたとえをはなされました。「あるおかねもちのはたけで、たくさんのみのりがありました。そこでこのひとは、こころのなかでいいました。『どうしよう、おれのさくもつをしまっておくところがないのだが。そうだこうしよう。くらをこわしてとりこわし、もっとおおきいのをたて、そこにとれたくだものや、こむぎをぜんぶしまいこもう。そして、おれのたましいにいおう。たましいよ、おまえには、いつまでもいきられるたべものがたくさんたくわえてある。あんしんだ、たべて、のんで、たのしめ。』すると、かみさまが、おかねもちにいいました。『おろかなものよ、あなたのたましいは、きょうのよるのうちにとりさられる。そうしたら、あなたがたがよういしたものは、だれのものになるのか』」。イエスさまが、
あたえてくださっているすべてのものをたいせつにいきましょう。
イエスさま、たましいも、いのちも、からだも、おかねも、あなたのものです。となりびとに、かんしゃして、あたえます。アーメン
2024年2月25日 子どもと親のカテキズム問76
問76 第八戒は何ですか。
「盗んではならない」です。
イエスさまが、エリコのまちをとおっておられたときのことです。そこに、ザアカイというひとがいました。このひとは、ひとびとから、ぜいきんをあつめるしごとをしていたひとで、とてもおかねもちでした。イエスさまが、どんなひとかみようとしましたが、こがらなひとで、ひとびとにさえぎられてみることができませんでした。それで、ザアカイさんは、イエスさまをみるために、まえのほうにはしっていて、いちじくぐわのきにのぼりました。そこを、イエスさまがとおられるところだったからです。イエスさまは、いちじくぐわのきのところにくると、うえをみあがていいました。「ザアカイさんよ、いそいでおりてきなさい。きょう、あなたのおうちにとまることにしていますよ」。そこで、ザアカイさんは、いそいでおりてきて、よろこんでイエスさまをむかえいれました。
ひとびとは、みんな、ザアカイさんが、イエスさまをむかえいれたのをみて、つぶやきました。「あのひとは、つみびとのいえにはいっておきゃくさんになった」。それは、ひとびとのぜいきんをおさめるしごとをしていたひとたちは、あつめたおかねをそのまま、ローマのくににおさめることをしないで、よけいにおかねをあつめて、おかねもうけをしていたからです。また、ローマのくにとかかわっているので、きびしいユダヤのひとたちは、ぜいきんをあつめるしごとをしているひとたちを、けがれたひと、つみびとよばわりしていたのです。ところが、イエスさまをむかいれた、ザアカイさんはいいました。「イエスさま、わたしは、じぶんのもっているおかねのはんぶんをまずしいひとびとにあげます。また、だれかから、よけいにおかねをとっていたら、それをよんばいにしてかえします。」イエスさまは、ザアカイさんにいいました。「きょう、すくいが、ザアカイさんのいえにきました。このひとも、かみさまのめぐみのやくそくによってすくわれた、アブラハムのこです」。
イエスさまのすくいをかんしゃして、かみさまがくださった、よいものを、ただしく、きよいこころで、わかちあいましょう。
イエスさま、じゅうじかのうえで、ささげてくださった、つみのだいかは、はかりしれません。かんしゃして、ささげます。アーメン
2024年2月18日 子どもと親のカテキズム問75
問75 第七戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。
男の人と女の人との関係は、神さまの創造の祝福です。神さまは、思いと言葉と体をきよく保つことを求めておられます。また、結婚生活においては、結婚の誓いを守り、きよい家庭を築くことを求めておられます。
イエスさまは、わたしたちをひとつのかみさまのかぞくとしてくださるために、じゅうじかのうえに、しんでくださり、いのちをかみさまにささげてくださいました。
ですから、イエスさまは、ごじしんが、わたしたちをあいしてくださったように、おたがいに、たいせつにして、あいしあうようにめいじておられます。そして、イエスさまは、ごじしんのもとにきて、すくわれたひとびとを、ひとつにしてくださいます。このイエスさまが、ひとつとしてくださるために、イエスさまのいのちにあずかっているひとびとを「きょうかい」とよびます。
「きょうかい」は、イエスさまのきょうだい、しまいですから、イエスさまのきよいあいをもって、おたがいにおもいやり、やさしいことばをかけることにおいても、からだをつかってなにをすることにおいても、かみさまのしゅくふくをいっしょにわかちあうことがたいせつです。
そして、おうちでも、おとうさんとおかあさんが、イエスさまがあいされているように、おたがいにあいしあい、こどもたちをたいせつにしているところに、きよいあいがはぐくまれ、わかちあわれていきます。
このようなきよいあいをこわそうとしているのが、あくまです。でも、たとえあくまがいろいろなゆうわくをしてきても、イエスさまのきよいあいにしっかりたって、みことばをしんじて、いのっていくときに、あくまはにげていきます。そのためには、いつも、こころのめをさましていることがたいせつです。なにをみているときも、きいているときも、そのこころがなにをもとめているのか、ほんとうに、イエスさまがよろこばれることなのかをすこしでもかんがえらながら、すこしのことばでもおいのりをささげましょう。
イエスさま、わたしたちのこころ、みるめ、きくみみ、はなすことばをまもってください。いつもきよいあいをつくします。アーメン
2024年2月11日 子どもと親のカテキズム問74
問74 第七戒は何ですか。
「姦淫(かんいん)してはならない」です。
イエスさまは、じゅうじかのうえに、ごじしんのいのちをささげて、しんでくださいました。わたしたちは、いま、イエスさまが、かみさまのめぐみによって、すえてのひとたちのためにしんでくださり、みっかめにふっかつされ、てんにあげられ、えいこうのかんむりをかぶせられた、ほんとうのおうさまとして、てんのくににおられることをしんじるようにみちびかれています。
つみぶかいにんげんをきよめてくださるおかたも、きよいものとされるひとたちも、すべてひとつのみなもとからでています。このひとつのみなもとは、つみのないおかたです。また、さいしょのひとアダムが、かみさまにそむいてつみをおかしたために、にんげんは、みんな、ただおひとりのかみさまにそむいて、たくさんのかみがみをおがみ、また、ただしいけっこんをけがすようになりました。
そのような、つみふかいにんげんを、かみさまはあわれんでくださって、イエスさまをしんじるひとたちを、ひとつのかみさまのかぞくとしてくださるのです。
イエスさまは、わたしたちを、「きょうだい」とよんでくださいます。それは、かみさまのいのちによって、あたらしくうまれた、かみさまのこどもだからです。つみのないイエスさまが、わたしたちのつみのために、じゅうじかのうえで、そのからだをみがわりにささげてださったので、わたしたちのつみをきよめて、かみさまのこどもとしてくださるのです。わたしたちは、おたがいに、かみさまにあいされている、きょうだいとして、しまいとして、いつもあいしあいましょう。そして、きよいけっこんをたいせつにしましょう。こどもたちも、おとうさんとおかあさんが、いつも、きよいあいにいきることをいのりましょう。イエスさまのあいされいてる、きょうかいは、きよいあいにいきるかみさまのかぞくです。
イエスさま、きよいあいでわたしたちをみたしてください。いつもおたがいに、あなたのあいをよろこんで、さんびします。アーメン
2024年2月4日 子どもと親のカテキズム問73
問73 第六戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。
神さまは、人間をご自分のかたちに似せて造られたので、他の人の命も、自分の命も大切にすることを求めておられます。人をにくむこと、無視すること、いじわるをすることは心の中の人殺しです。私たちは、自分のように他の人をも愛します。
イエスさまは、こういわれました。「はっきりいいます。ひつじのかこいにはいるのに、もんをはいらないで、ほかのところからのぼってはいるひとは、ぬすびとであり、ごうとうです。もんからはいるひとが、ひつじかいです。もんばんは、ひつじかいにはもんをひらき、ひつじはそのこえをききわけます。ひつじかいは、じぶんのひつじのなまえをよんで、つれだします。じぶんのひつじをぜんぶつれだすと、いちばんさきにたっていきます。ひつじはそのこえをしっているので、ついていきます。でも、ほかのひとにはけっしてついてつかないで、にげさります。ほかのひとびとのこえをしらないからです」イエスさまは、このたとえをファリサイはのひとびとにはなされましたが、ファイサイはのひとびとは、イエスさまが、ひつじかいとひつじのはなしに、どれほどたいせつなことがいわれているのか、わかりませんでした。
イエスさまは、それからこういわれました。「はっきりいいます。わたしがひつじのためのもんです。わたしをとおって、はいるひとはすくわれます。」「わたしがよいひつじかいです。よいひつじかいは、ひつじのためにいのちをすてます。ひつじかいでなく、じぶんのひつじをもたない、やといにんは、おおかみがくるのをみると、ひつじをおきざりにしてにげます。そのひとは、やといにんで、ひつじのことをこころにかけていないからです。わたしがよいひつじかいです。わたしはじぶんのひつじをしっており、ひつじもわたしをしっています。それは、わたしのちちが、わたしをしっておられ、わたしが、わたしのちちをしっているのをおなじです。わたしはひつじのためにいのちをすてます。」 イエスさまが、わたしたちのために、じゅうじかのうえで、いのちをすててくださったことをしんじて、ひとつのいのちをたいせつにしましょう。
イエスさま、あなたが、わたしたちのために、いのちをすててくだったように、ひとびとのために、いのちをささげます。アーメン
2024年1月28日 子どもと親のカテキズム問72
問72 第六戒は、何ですか。
「殺してはならない」です。
しゅであるかみさまは、すべてのちと、てんをつくられたとき、そのちには、まだ、ののきも、いっぽんも、はえてなく、ののくさも、ひとつも、はえていせんでした。しゅなるかみさまが、そのちに、てんからあめをふらせず、つちをたがやすにんげんもいなかったからです。しかし、そのちから、いずみがわきあがって、つちのぜんめんをうるおしていました。
しゅなるかみさまは、つちのちりでにんげんをつくり、いのちのいきをそのはなにふきいれられました。そこで、にんげんは、いきたものとなりました。そして、しゅなるかみさまは、にんげんをつれていって、エデンのそのにおき、そのをたがやすようにし、そのをまもらせました。
しゅなるかみさまは、いわれました。「にんげんが、ひとりでいるのはよくない。にんげんために、ふさわしいたすけでをつくろう」。さいしょのにんげん、アダムは、すべてのかちくと、そらのとりと、ののすべてのけものに、なまえをつけましたが、アダムにはふさわしいたすけでがみつかりませんでした。そこで、しゅなるかみさまは、アダムをふかくねむらせ、ねむったときに、そのあばらぼねをひとつとって、そのところをにくでふさがれました。しゅなるかみさまは、アダムからとったあばらぼねで、ひとりのおんなのひとをつくって、アダムのところにつれてきました。そのとき、アダムはいいました。「これこそ、ついにわたしのほねのほね、わたしのにくのにく、おとこからとったものだから、これをおんなとなづけよう」。このように、かみさまが、にんげんをおとことおんなにつくられました。にんげんが、にんげんをころすことは、じぶんにあたえられた、たいせつなにんげんをころしていることです。かみさまが、はじめから、いっしょに、おたがいをたいせつにしていきるようにつくってくださっているからです。
イエスさま、いのちをあたえてくださり、かんしゃします。このせかいでいっしょにいきるひとびとをたいせつにします。アーメン。
2024年1月21日 子どもと親のカテキズム問71
問71 第五戒で、神さまはわたしたちに何を求めておられますか。
神さまのみをあがめ、聖書に従い、父と母を心から敬い、先生や目上の人たちを尊敬し、友だちや年下のひとたちも大切にすることを求めておられます。神さまは、そのような人たちに祝福を豊かにお与えになると、特別に約束してくださっています。
むかし、かみさまは、モーセにこういわれました。「わたしは、『しゅ、いつもあなたがたといっしょにいます』です。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、ちからのあるかみとしてあらわれましたが、『しゅ』というなまえでは、じぶんをそのひとたちにしらせることはしませんでした。わたしはまた、アブラハム、イサク、ヤコブと、たいせつなやくそくをして、かれらが、すこしのあいだとどまっていたカナンのとちをあたえるとやくそくしました。また、わたしは、エジプトじんのどれいとなっているイスラエルのひとびとのうめきごえをきき、わたしがたてたたいせつなやくそくをおもいおこしました。だから、イスラエルのひとびとにいいなさい。わたしは、エジプトのくるしくおもいどれいのもとから、あなたたちをみちびきだしてすくい、アブラハム、イサク、ヤコブにあたえたとちにあなたたちをみちびきいれます。わたしが『しゅ、わたしはいつもあなたがといっしょにいます』です」。
いちど、このせかいのひとびとのなかに、おうまれになった、イエスさまは、「しゅ、いつもわたしたちといっしょにいます」、かみさまです。イスラエルのひとびとが、エジプトじしんのどれいとなっていたときも、イエスさまは、イスラエルのひとびといっしょにおられた、「しゅ、ちからあるかみさま」です。おとうさんも、おかあさんも、おうちのひとも、せんせいも、おともだちも、みんな、イエスさまを「しゅ」、かみさまを「てんのおとうさま」とあがめ、ひとりのかみさまのかぞくとして、おいのりしましょう。
イエスさま、いつもあなたのすくいのやくそくをしんじ、おとうさん、おかあさん、すべてのひとを、たいせつにします。アーメン。
2024年1月14日 子どもと親のカテキズム問70
問70 第五戒は何ですか。
「あなたの父母を敬え」です。
しゅなるかみさまは、モーセをとおして、「じっかい」とよばれるじゅうのことば、いましめをイスラエルのひとびとにあたえてくださいました。いちばんめのいましめから、よんばんめのいましめは、ただおひとりのかみさまだけをれいはいすること、かみさまをほかのものにおきかえてれいはいせず、こころかられいはいすること、そして、あんそくびをまもることです。
ごばんめからじゅうばんめのいましめは、かみさまが、わたしたちにあたえてくださっている、となりびとをあいすることです。それは、かみさまをあいするのとおなじように、わたしたちにとって、たいせつないましめです。
うまれたばかりのあかちゃんが、はじめてふれるとなりびとはだれでしょうか。それは、おかあさん、そして、おとうさんですね。イエスさまは、かみさまのわざによって、また、とくべつにせいれによって、マリアにやどり、おかあさんマリアからうまれました。おとうさんのヨセフとマリアによって、たいせつにそだてられました。わたしたちのいのちは、おとうさんとおかあさんをとおして、かみさまからあたえられたものです。ですから、おとうさんとおかあさんをたいせつにすることは、かみさまをたいせつにすることとおなじです。
せかいのひとびとのくるしみとなやみのひとつのもとにあることは、せんそうや、たべものがなかったり、いろいろなつみのために、おとうさんとおかあさんをうしなったこどもたちがおおいことにあります。おとうさん、おかあさん、じぶんのいのちをまもってくれるひとびとをたいせつにして、いっしょに、あゆみましょう。
イエスさま、こどもたちが、いのちをまもってくれるひとびとを、たいせつにして、みんなが、なかよくくらせますように。アーメン
2024年1月7日 子どもと親のカテキズム問69
問69 第四戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。
私たちの安息日は、キリストが復活された日曜日です。神さまは、この日を主の日として、特別に取り分け、教会で礼拝をささげ、救いの祝福を喜び、きよく休んで六日間の歩みに備えることを求めておられます。安息日の恵みにはげまされて、私たちは御国をめざして神さまと共に歩みます。
イエスさまは、あるとき、こういわれました。「だれでもつかれたひと、おもにをおっているひとは、わたしのもとにきなさい。わたしが、あなたがたをやすませてあげます。わたしは、こころが、やさしく、へりくだっているから、あなたがたも、わたしのおっているくびきをおって、わたしからまなびなさい。そうすれば、たましいにやすらぎをえます。」
それから、イエスさまは、あんそくびに、むぎばたけをとおられました。でしたちは、とてもおなかがすいていたので、むぎのほをつんで、たべはじめました。すると、ファリサイはのひとたちが、それみてイエスさまにいいました。「みなさい、あなたのでしたちが、あんそくびにしてはならないことをしています」。でも、イエスさまは、いいました。「ダビデと、いっしょにいたひとたちが、おなかがとてもすいたとき、ダビデがなにをしたか、どのようにして、かみさまのいえにはいり、さいしいがいは、じぶんも、いっしょにいるものも、たべてはいけない、そなえのパンをたべたか、せいしょをよんだことがないのですか。わたしが、よろこびとするのは、ほんとうのあいです。ひとのこは、あんそくにちのしゅ、です」。イエスさまは、いっしゅうかんのはじめのひ、にちようびに、じゅうじかのしからふっかつされました。あんそくびをまもるとは、イエスさまが、でしたちにあいしてられたように、おたがいにあいしあい、みんなで、いっしょに、れいはいをまもることです。いつもいっしょにおられるイエスさまをほめたたえましょう。
イエスさま、あなたのあいによって、わたしたちは、すくわれました。しゅのひの、れいはいを、こころから、ささげます。アーメン
2024年1月7日 子どもと親のカテキズム問69
問69 第四戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。
私たちの安息日は、キリストが復活された日曜日です。神さまは、この日を主の日として、特別に取り分け、教会で礼拝をささげ、救いの祝福を喜び、きよく休んで六日間の歩みに備えることを求めておられます。安息日の恵みにはげまされて、私たちは御国をめざして神さまと共に歩みます。
イエスさまは、あるとき、こういわれました。「だれでもつかれたひと、おもにをおっているひとは、わたしのもとにきなさい。わたしが、あなたがたをやすませてあげます。わたしは、こころが、やさしく、へりくだっているから、あなたがたも、わたしのおっているくびきをおって、わたしからまなびなさい。そうすれば、たましいにやすらぎをえます。」
それから、イエスさまは、あんそくびに、むぎばたけをとおられました。でしたちは、とてもおなかがすいていたので、むぎのほをつんで、たべはじめました。すると、ファリサイはのひとたちが、それみてイエスさまにいいました。「みなさい、あなたのでしたちが、あんそくびにしてはならないことをしています」。でも、イエスさまは、いいました。「ダビデと、いっしょにいたひとたちが、おなかがとてもすいたとき、ダビデがなにをしたか、どのようにして、かみさまのいえにはいり、さいしいがいは、じぶんも、いっしょにいるものも、たべてはいけない、そなえのパンをたべたか、せいしょをよんだことがないのですか。わたしが、よろこびとするのは、ほんとうのあいです。ひとのこは、あんそくにちのしゅ、です」。イエスさまは、いっしゅうかんのはじめのひ、にちようびに、じゅうじかのしからふっかつされました。あんそくびをまもるとは、イエスさまが、でしたちにあいしてられたように、おたがいにあいしあい、みんなで、いっしょに、れいはいをまもることです。いつもいっしょにおられるイエスさまをほめたたえましょう。
イエスさま、あなたのあいによって、わたしたちは、すくわれました。しゅのひの、れいはいを、こころから、ささげます。アーメン
2023年12月31日 子どもと親のカテキズム問68
第四戒は何ですか。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ」です。
しゅであるかみさまが、イスラエルのひとびとを、くるしいどれいのいえであった、エジプトからすくだされたときのことです。ひとびとは、モーセとアロンにいいました。「エジプトのくにで、しんだほうがましだった。あのときは、おにくのたくさんはいったなべのまえにすわり、パンをおなかいっぱいたべられたのに。あなたたちは、わたしたちをこのあれのにつれだして、たべものがないままにしなせようとしている」。しゅなるかみさまは、モーセにいいました。「みなさい、わたしは、あなたたちのために、てんからパンをふらせます。ひとびとは、でていって、まいにち、たべるぶんをあつめます。わたしは、ひとびとが、わたしがめいじるとおりにするかどうか、ためします。ただし、むいかめは、いえにもちかえってもので、たべるよううにそなえると、まいにちあつめるぶんのにばいになっています」。ゆうがたになると、うずらがとんできて、テントをおおいました。あさになると、テントのまわりに、つゆがおりました。つゆがかわくと、うすいうろこのようなものが、ありました。モーセはいいました。「これは、しゅなるかみさまが、あなたがたにたべものとしてあたえられた、パンです」。
ひとびとは、このパンを、むいかかかんあつめました。むいかめには、いつものにばいあつめました。モーセはいいました。「あすは、あんそくびでやすみです」。ひとびとは、なのかめはおやすみしました。イスラエルのひとびとは、このパンを「マナ」とよびました。このように、あんそくびをこころにとめることを、しゅなるかみさまは、くるしいどれいのいえからすくわれた、ひとびとのために、このようにして、あんそくびのやすみをそなえられました。
しゅでいますかみさま、わたしたちのために、あんそくびをそなえてくださったことをかんしゃし、れいはいをまもります。アーメン
2023年12月24日 子どもと親のカテキズム問67
第三戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。
神さまのお名前とは、神さまご自身のことです。ですから、神さまは、ご自身をおそれ敬い、愛と親しさをもって、ご自分の名前を呼び、用いることを求めておられます。
イエスさまがおうまれになったとき、ひがしのくにから、ほしをみて、はかせたちが、ユダヤのエルサレムにやってきました。はかせたちは、いいました。「ユダヤのひとびとのおうさまとしておうまれになったかたは、どこですか。というのも、わたしたちは、そのかたおほしがのぼるのをみたので、そのおかたをおがみにやってきたのです」 これをきいて、ユダヤのおうさまのヘロデは、こころがゆれうごきました。それで、ヘロデは、さいしちょうたちや、りっぽうがくしゃたちをみんなあつめて、キリストはどこにうまれることになっているのか、と、しつこくききました。はかせたちはいいました。「ユダヤのベツレヘムです。それは、よげんしゃが、かいてあるとおりです」。そこで、ヘロデは、ほしをみて、エルサレムにきたはかせたちにいいました。「いって、うまれたおさなごのことを、わしにしらせてくれ。そうしたら、わたしもいって、そのおさなごをおがもう」。
はかせたちが、おうさまのことばをきいてでかけると、ひがしのほうでみたほしが、はかせたちのさきにたっていき、おさなごのいるところのうえにきてとまりました。はかせたちは、いえのなかにはいると、おさなご、イエスさまと、おかあさんマリアがいるのをみて、ひれふして、おさなごイエスさまをおがみました。そして、たからのはこをあけて、おうごん、にゅうこう、もつやくを、おくりものとして、ささげました。
わたしたちのささげるれいはいは、はかせのように、こころから、イエスさまにささげるものです。じつは、ヘロデは、「わしもおがもう」といいながら、イエスさまをころすために、ちいさなおとこのこをみんなころしてしまいました。「イエスさま、わたしたちをまもってください」とおいのりするとき、いつも、こころから、イエスさまを、おそれうやまい、おいのりをささげましょう。
わたしたちのしゅでいます、イエスさま、どんなときにも、あなたを、こころから、よびもとめて、おいのりをささげます。アーメン
2023年12月17日 子どもと親のカテキズム問66
第三戒は何ですか。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」です。
いつも、わたしたちといっしょにおられる、「しゅ」というおなまえの、ほんとうのかみさまは、イスラエルのひとびとに、モーセをとおして、じゅうのことば(じっかい)をあたえてくださいました。そのさんばんめのいましめは、「あなたのかみさま、しゅのなを、みだりに、となえてはいけません」です。
「みだりにとなえる」とは、かみさまがただしいかたなのに、かみさまをわるいおかたのようにおもったり、かみさまがいつもいっしょにおられ、どんなことでもみておらえるのに、いっしょにおられないように、みていないように、かんがえたりする、つみのこころからでる、どんなことばも、たいども、いましめるものです。
れいはいでささげる、おいのりも、さんびかも、わたしたちは、いつも、ひとりごイエスさまをくださった、かみさまが、せいなるかたで、ただしいかたで、いつもいっしょにおられ、まもっておられる、おかたであることをしんじて、ささげることがだいじです。
イエスさまが、おうまれになったときも、ヨセフとマリアは、うまれるまえに、みつかいからめいじられたとおり、「イエス」というなまえを、うまれたおとこのこにつけました。このなまえのとおり、イエスさまは、ひとびとをつみからすくう、すくいぬしとして、じゅうじかにかけられました。そして、しんで、みっかめにふっかつされて、てんにあげられました。わたしたちは、いま、いえすさまのおなまえ(みな)によって、みんないっしょに、こころをひとつにしておいのりをささげます。
イエスさまは、イエスさまがこられるまで、イスラエルのひとびとが、かみさまを「しゅ」とよんでおられた、かみさまのひとりごです。また、「キリスト」とよばれる、かみさまのやくそくされた、ほんとうのすくいぬしです。ですから、イエスさまのことを、「しゅ、イエス、キリスト」とよんで、おいのりをささげます。
しゅでいます、イエスさま、わたしたちをつみからすくってくださった、おおきなよろこびを、ひとびとに、つたえます。アーメン
2023年12月10日 子どもと親のカテキズム問65
第二戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。
まことの神さまは目に見えない霊であるお方です。神さまは、聖書に従い、正しいしかたでご自分を礼拝することを求めておられます。
しゅなるかみさまは、わたしたちに、どのようにして、ごじしんをれいはいしたらよいかをおしえてくださいました。それは、どんな、つくりもの(ぞう)もつくらないで、れいはいすることです。それは、めにみえない、れいである、かみさまを、わたしたちが、こころから、れいはいすることをもとめることをおしえるものです。
かみさまは、わたしたちのこころをみておられるおかたです。ですから、わたしたちが、いろいろなものをつくって、それをおがんでも、わたしたちのこころがかえられるわけではありません。ですから、いちばんだいじなことは、こころをつくして、かみさまをれいはいすることです。
それでは、わたしたちがこころをつくして、かみさまをれいはいするために、どうすればよいのでしょうか。それは、かみさまが、よろこばれるみちをただしくあゆむことです。そのために、かみさまは、わたしたちに、「せいしょ」によって、ただしいみちをおしてくださっています。
せいしょのしへんに、かみさまを「あなた」とよんで、このように、かみさまにさんびがささげられています。「あなたのみことばは、わたしのみちのひかり、わたしのあゆみをてらす、ともしび」
アドベントにしゅうめをむかえ、アドベントクランツにも、にほんのともしびがともりました。せいしょのみことばが、わたしたちのこころをてらし、あゆむみちをてらしている、ともしびです。
イエスさまは、にんげんのつみによって、かみさまのすばらしさがおおいかくされていたところに、おうまれくださったおかたです。わたしたちが、イエスさまを、すくいぬしとしんじてれいはいするところに、すくいのひかりがあることをしんじましょう。
すくいぬしでいます、イエスさま、あなたのことばは、わたしたちのあゆみをてらします。こころから、れいはいします。アーメン
2023年12月3日 子どもと親のカテキズム問64
第二戒は何ですか。
「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。
しゅなるかみさまは、エジプトから、どれいとしてくるしいしごとをつづけていた、イスラエルのひとびとをすくいだされました。そして、シナイのあれのについたとき、イスラエルのひとびとは、「わたしたちは、『しゅ』であるかみさまが、あえてくださった、やくそくをぜんぶまもります」と、やくそくしました。そして、シナイざんにのぼった、モーセに、「じっかい」とよばれる、じゅうのいましめをあたえてくださいました。
いちばんめのいましめは、「あなたは、わたしのかおのまえに、ほかのかみさまがあってはいけません」です。それは、エジプトから、イスラエルのひとびとをすくいだされた、かみさま、『しゅ』ではない、かみがみをかみさまとしておがんではいけません、というやくそくです。
にばんめのいましめは、わたしをれいはいするために、「あなたは、どのような『かみさまのかたち』(ぞう)をつくってはいけません」です。それは、わたしたちが、かみさまをれいはいするときに、どんなかたちであれ、それを、かみさまのように、また、それをとおして、かみさまをれいはいしてはいけないことを、おしえています。
そして、しゅなるかみさまは、「『かみさまのかたち』(ぞう)にむかってひれふしたり、それらにつかえたりしてはいけません。わたしは、『しゅ』、あなたの『かみ』です。わたしは、わたしいがいのものをおがんだり、つくったりすることを、ふかくかなしむこころのある『かみ』です。わたしをにくむものには、そのつみをそののちのこたちにおわせますが、わたしをあいし、わたしのいましめをまもるものには、めぐみをほどこして、いつまでも、しゅくふくします」とやくそくされました。いつも、めにみえない、れいである、かみさまを、こころをつくして、れいはいしましょう。
しゅなるかみさま、イエスさま、あなたは、ちからあるかみさまです。どんなときも、こころをつくして、れいはいします。アーメン
2023年11月26日 子どもと親のカテキズム問63
第一戒で、神さまは私たちに何を求めておられますか。
ただひとりのまことの神さまだけを、私たちの神さまとしてあがめ、信頼し、心から礼拝することを求めておられます。他のどんな偶像も神さまとして礼拝してはいけません。これがもっとも大切な戒めです。
イスラエルのひとびとは、しゅなるかみさまが、エジプトびとのてから、イスラエルのひとびとをすくわれたことをみて、しゅなるかみさまをふかくおそれました。
モーセとイスラエルのひとびとは、しゅなるかみさまをさんびして、さんびのうたをうたいました。
「しゅなるかみさまは、わたしのちから。わたしのうた。わたしのすくい。このおかたこそ、わたしのかみさま。わたしのちちであるかみさま。エジプトびとを、うみのなかになげこまれた。
しゅなるかみさま、ほかのかみがみのなかに、あなたのようなおかたがだれかおられるでしょうか。だれか、あなたのように、きよさにおいてかがやき、ほめたたえられるはたらきをみて、ふかくおそれ、おどろくことをなさるおかたがおられるでしょうか。」
しゅなるかみさまは、「わたしが『しゅ』、わたしが、あなたがたをつくり、いつもいっしょいてまもっている。あなたの『かみ』、あなたをエジプトのくに、どれいのいえから、みちびきだした『かみ』である」といわれ、「あなたは、わたしがいつもみているのだから、ほかのかみがみを、『かみ』としてはいけない」と、イスラエルのひとびとにめいじれました。
それは、エジプトびとのてから、すくわれた、イスラエルのひとびとが、さんびのうたをうたったように、いつも、どんなときにも、こころから、かみさまをふかくおそれ、いつもいっしょにおられるかみさまだけを、ちからあるかみさまとしんじていきるようにめいじるものです。そして、わたしたちのみがわりにつみのくるしみをおって、じゅうじかのしからみっかめにふっかつされた、イエスさまだけを「わたしのかみさま、『しゅ』」としんじましょう。
しゅなるかみさま、イエスさま、あなたが、せいなるおかたです。ちからあるかみさまのすくいとみちびきを、しんじます。アーメン
2023年11月19日 子どもと親のカテキズム問62
第一戒は何ですか。
「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。
エジプトのくにで、くるしいどれいとしてはたらかされていた、イスラエルのひとびとが、だっしゅつしたときのことです。イスラエルのひとびととの、うしろから、エジプトびとのぐんたいがおいかけてきましたが、しゅなるかみさまが、まもっておられました。
モーセが、てをうみのうえにさしのべると、しゅなるかみさまは、よるのあいだ、つよいひがしかぜをふかせられ、うみがしりぞき、かわいたつちがあらわされ、みずがわかれました。イスラエルのひとびとは、うみのなかかのかわいたつちのうえをすすんでいきましたが、みずが、イスラエルのひとびとのみぎがわと、ひだりがわに、かべのようになっていました。あさになろうとするころ、しゅなるかみさまは、もえるひと、くもののはしらのうちから、エジプトびとのぐんたいをみおろしされ、エジプトびとのぐんたいのくるまが、すすむのをおそくされました。エジプトびとはいいました。「おれたちは、イスラエルのひとびとをはなれてにげよう。しゅなるかみさまが、イスラエルのひとびとのために、エジプトびととたかっている」。そのとき、しゅなるかみさまは、モーセにいわれました。「あなたのてをうみのうえにさしのべて、みずをエジプトびとと、そのぐんたいのうえに、ながれかえらせなさい」。モーセが、てをうみのうえにさしのべると、よあけになって、うみはいつものながれにかえり、しゅなるかみさまは、エジプトびとをうみになげこまれました。
じっかいのいちばんめのいましめは、いつもわたしたちをあいし、まもっておられるかみさまは、イスラエルのひとびとをすくわれたかみさまだけであることを、はっきりと、おしえています。
しゅなるかみさま、あなたおひとりだけが、いつもわたしたちをあいし、まもっておられます。あなたを、ほめたたえます。アーメン
2023年11月12日 子どもと親のカテキズム問61
「十戒」の前書きは私たちに何を教えていますか。
神さまは、ご自分の民をエジプトから救い出してくださいました。また、イエスさまによって私たちを罪から救い出してくださいました。それによって、ご自分が恵み深い神さまであることをまずお示しになり、私たちに愛と服従をお求めになっていることを教えています。
イスラエルのひとびとは、エジプトのくにをでて、さんかげつめのひに、シナイのあらのにつきました。そして、あらののやまのまえでテントをはりました。モーセが、やまをのぼっていくと、しゅなるかみさまは、モーセをよんでいわれました。「このように、イスラエルのひとびとにつげなさい。『あなたがたは、わたしが、エジプトのひとびとにしたことと、あなたがたをわしのつばさにのせて、わたしのもとにつれてきたことを。いま、わたしのこえにききしたがい、わたしとのやくそくをまもるならば、あなたたちは、せかいのひとびとのあいだで、わたしのたからものとなります。』」
モーセは、イスラエルのひとびとのところにもどって、ひとびとのちょうろうたちをよびあつめて、しゅなるかみさまが、あたえてくださった、やくそくのことばを、ぜんぶ、イスラエルのひとびとにつたえました。ひとびとは、みんな、いっしょに、やくそくのことばにこたえていいました。「わたしたちは、しゅなるかみさまが、やくそくしてくださったことをすべてまもります」といいました。モーセが、ひとびとのやくそくを、しゅなるかみさまにつたえると、しゅなるかみさまは、モーセにいわれました。
「みなさい。わたしは、くろくこいいろをした、くもののなかにあって、あなたにのぞみます。それは、わたしが、あなたにつげたことを、ひとびとにきかせて、ひとびとがながく、あなたをしんらいするためです」。
エジプトで、くるしいどれいとしてはたらかされた、イスラエルのひとびとがすくわれたように、イエスさまは、わたしたちを、つみのくるしみから、すくってくださいました。かみさまのこどもとして、かみさまとのやくそくをまもって、あゆみましょう。
しゅなるかみさま、ひとりごイエスさまによって、つみのくるしみからすくわれたことを、いつもおもいだしてあゆみます。アーメン
2023年11月5日 子どもと親のカテキズム問60
「十戒」の前書きは何ですか。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」です。
むかし、イスラエルのひとびとは、エジプトのくにで、おおくのこどもがうまれ、とてもそのかずがふえました。これをみた、エジプトのおうさまは、イスラエルのひとびとをおそれるようになりました。それで、イスラエルのひとびとをどれいとして、ねんどをこねて、れんがをつくるしごとや、のうさぎょうをさせて、きびしくはたらかせました。それはそれは、とてもつらいしごとでした。
このとき、しゅなるかみさまは、イスラエルのひとびとの、なげき、くるしみのこえをきかれ、アブラハム、イサク、ヤコブとのやくそくをおもいおこされました。しゅなるかみさまは、ひとびとをそのこころにとめてくださったのです。そこで、しゅなるかみさは、モーセをしどうしゃとしてたてられ、イスラエルのひとびとを、エジプトからすくってくださったのです。それは、イスラエルのひとびとにとっては、ぜったいできないとおもわれていたことで、ただ、しゅなるかみさまのちからによることでした。
イスラエルのひとびとが、エジプトをでて、さんかげつめのことです。シナイのあれので、テントをはりました。モーセが、かみさまのもとにのぼっていくと、やまから、しゅなるかみさまは、いわれました。「あなたたちみました。わたしがエジプトじんにしたこと。いま、わたしのこえにききしたがい、わたしとのやくそくをまもるならば、あなたたちは、せかいのすべてのひとびとのあいだで、わたしのたからとなります。」じっかいのまえがきによって、しゅなるかみさまが、エジプトからイスラエルのひとびとをすくだされたことを、しっかりおもいおこすことに、みちびかれます。
しゅなるかみさま、エジプトでどれいとされた、イスラエルのひとびとを、すくいだされたことを、よくこころにとめます。アーメン
2023年10月29日 子どもと親のカテキズム問59
キリストが教えてくださった「十戒」の要約とは、どのようなものですか。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。また「隣人を自分のように愛しなさい」です。聖書の全体はこのふたつにまとめられます。
あるとき、イエスさまのもとに、サドカイびとが、やってきました。サドカイびとは、しんだひとが、ふっかつすることをしんじていませんでした。ですから、イエスさまをこまらせようと、ふっかつのときのけっこんについて、ふつうは、ありえないことを、しつもんしました。
すると、イエスさまは、おこたえになりました。「あなたたちは、せいしょも、かみさまのちからも、しらないから、おもいちがいをしています。ふっかつのときには、けっこんすることはなく、みんな、てんしのように、かみさまだけをたたえるのです」。
しんだひとがふっかつすることについて、かみさまが、あなたがたにいわれたことばをよんだことがないのですか。「『わたしはアブラハムのかみさま、イサクのかみさま、ヤコブのかみさまです』とかいてあるでしょう。かみさまは、しんだもののかみさまではなく、いきているひとのかみさまです」。
すると、こんどは、ファリサイびとが、イエスさまのもとにやってきて、しつもんしました。「せんせい、りっぽうのなかで、どのおきてがいちばんじたいせつでしょうか」。イエスさまは、いわれました。「こころをつくし、せいしんをつくし、おもいをつくして、あなたのかみさまである『しゅ』をあいしなさい」。これがいちばんたいせつなおきてです。にばんめも、これとおなじようにたいせつです。「りんじんを、じぶんのように、あいしなさい」。
りっぽうぜんたいと、よげんしゃは、このふたつのおきてにもとづいています。じゅうじかのうえに、ごじしんのいのちをささげられた、イエスさまが、このあいのおきてを、ぜんぶおこない、かみさまによろこばれるみちを、ぜんぶそなえてくださいました。
イエスさま、わたしたちのいのちはあなたのものです。あいのおきてをまもり、あたえられたいのちをたいせつにします。アーメン
2023年10月22日 子どもと親のカテキズム問58
神さまが聖書を通して示された愛の生活の規準はどこにありますか。
「十戒」の中にあります。
いつもわたしたちといっしょにおられるかみさまは、わたしたちのために、たいせつなやくそくをしてくださいました。それは、かみさまといつもいっしょにあゆむことができるように、かみさまとひとびとをあいするためにあたえられたやくそくです。
イスラエルのひとびとが、エジプトでくるしいどれいとしてはたらかされいたとき、かみさまは、くるしみのさけびごえを聞かれて、モーセをしどうしゃにたてて、エジプトのくるしみからすくわれました。すくわれたイスラエルのひとびとは、あれののなかを、テントをはりながら、カナンのちにむかってたびをしました。
このあれののたびのなかでも、いつもイスラエルのひとびとといっしょにおられるかみさまをれいはいしながら、かぞくをあいし、おたがいに、かみさまからあたえられたものをたいせつにいきるために、かみさまは、「じっかい」とよばれる、じゅうのことばをあたえてくださったのです。
モーセが、シナイざんというたかいやまにのぼって、かみさまから「じっかい」のことばをいただいたときのことです。しゅなるかみさまは、このように、やくそくされました。
「イスラエルのひとびとにつげなさい。わたしがエジプトからあなたがたを、おおきなとり、わしのつばさにのせて、わたしのもとにつれてきたことを。いま、もしわたしのこえにききしたがい、わたしとのやくそくをまもるならば、あなたたちは、すべてのひとびとのあいだにあって、わたしのたからとなります。せかいはすべてわたしのものです」。モーセは、しゅなるかみさまから、めいじられたことばのとおりに、イスラエルのひとびとに、かみさまのことばをつたえました。
すると、ひとびとは、「かみさまのいわれたことをぜんぶおこないます」と、かみさまと、たいせつな、やくそくをしました。
いつもわたしたちといっしょにおられるかみさま、あなたのいうことをよくきき、やくそくのことばをたいせつにします。アーメン
2023年10月15日 子どもと親のカテキズム問57
では、感謝のうちに、愛し、祈りつつ歩む道を、どのように知ることができますか。
聖書を通してです。
みなさんは、だれかにおたよりやてがみ、はがき、メールをもらったり、だしたことがありますか。それは、いっしょにおはなしができない、おじいちゃん、おばあちゃん、おともだちや、おうちのひとに、いろいろなことをおつたえする、ほうほうですね。
「せいしょ」には、たくさん、いろいろなことがかいてありますが、かみさまから、わたしたち、にんげんへのおてがみのようなものです。でも、それは、なかなか、かみさまのいうことをきくことができない、よわい、「つみびと」へのてがみです。それでも、かみさまは、せいしょのことばによって、すべてのひとがすくわれて、いっしょに、かみさまをさんびすることができるように、かみさまが、にんげんをつくられたことをおしえてくださいました。
イエスさまは、あるとき、こういわれました。「あなたがたに、ほんとうのことをつたえます。わたしのことばをきいて、わたしをおつかわしになったおかたをしんじるひとは、えいえんのいのちをあたえられ、そして、えいえんのしをまぬがれて、いつもかみさまといっしょにいきるのです。あなたがたに、ほんとうのことをつたえます。かみのこえをきけなかったひとが、かみさまのこえをきくときがきます。いまが、そのときです。そのこえをきいたひとはいきます。」
「あなたたちは、せいしょのなかに、えいえんのいのちがあるとかんがえて、せいしょをよくしらべています。けれども、せいしょは、わたしが、ほんとうのすくいぬしであることを、よんだひとのこころをとおして、たしかめることができるようにかかれたものです。」せいれいは、わたしたちのこころに、はたらいて、「ほんとうに、せいしょにかいてあるとおり、イエスさまは、ほんとうのすくいぬしです」としんじるようにみちいびてくださいます。
イエスさま、せいしょのことばと、せいれいのはたらきによって、あなたのすくいをよろこんで、あいし、いのります。アーメン
2023年10月8日 子どもと親のカテキズム問56
神さまの子どもとされ、神さまと共に歩む私たちに、神さまが求めておられることは何ですか。
感謝することです。私たちは、感謝のうちに、神さまを愛し、家族や友だちを愛し、神さまの造られたものを大切にし、祈りつつ歩むのです。
イエスさまが、あるむらにはいられたときにことです。からだじゅうに、できものができて、いつまでもなおらず、ながいあいだ、とてもくるしんでいるひとが、じゅうにんいました。じゅうにんのひとたちは、イエスさまをでむかえて、とおくにたちどまったままで、おおきなこえで、「イエスさま、せんせい、どうか、わたしたちにこころをかけて、あわれんでください」とおねがいしました。すると、イエスさまは、できものができて、ながいあいだ、くるんでした、このじゅうにんのひとたちをみていいました。「かみさまにびょうきがなおるように、さいしたちのところにいって、からだをみせて、いのってもらいなさい」。このじゅうにんのひとたちは、さいしたちのところへいくとちゅうで、できものがずっかりよくなっていました。
じゅうにんのうちのひとりは、じぶんのできものがすっかりよくなったのをみて、おおきなこえで、「かみさま、ありがとうございます。かみさまをさんびします」とかんしゃしながら、もどってきました。そして、イエスさまのあしもとにひれふして、イエスさまにかんしゃしました。このひとは、サマリアのひとでした。イエスさまはいいました。「びょうきがなおったのは、じゅうにんではなかったですか。ほかのきゅうにんはどこにいるのですか。このサマリアのひとのほかに、かみさまをさんびしてもどってきたひとはいないのですか」。
イエスさまは、あしもとにひれふして、かんしゃしていた、サマリアのひとにいいました。「たちあがって、いきなさい。あなたが、わたしをしんじたので、あなたは、すくわれて、できものがなおったばかりでなく、かみさまをさんびするひとにかえられました。」
イエスさま、びょうきがなおることも、かんしゃすることも、あなたのめぐみです。いつもよろこんで、おいのりします。アーメン
2023年10月1日 子どもと親のカテキズム問55
恵みを与える方法としての祈りとは何ですか。
イエスさまは、祈り求める者に聖霊を与えることを約束されました。復活のイエスさまは、とくに祈りによって、聖霊において私たちと共にいてくださいます。ですから、いつでもどこでも祈りながら御国への道を歩んでいきます。
イエスさまは、あるところで、いのっておられました。いのりがおわると、でしのひとりが、イエスさまに「イエスさま、わたしたちにおいのりをおしえてください」といいました。そこで、イエスさまは、「いのるときには、こういいなさい。『おとうさま、あなたのおなまえが、あがめられますように。あなたのくにがきますように。わたしたちに、まいにちたべる、たべもの(パン)をあたえたえください。わたしたちのつみをゆるしてください。わたしたちもじぶんにつみのおいめのあるひとたちをゆるしますから。わたしたちをわるいものから、くるしみから、すくいだしてください。』」
そして、イエスさまは、でしたちにいわれました。「あなたがたのうちのだれかに、おともだちがいて、そのひとのとこへ、くらいよるにいって、『あいするともよ、パンをみっつかしてください。ともだちが、りょこうからかえってきたのですが、なにもだすものがありませんから。』といっても、そのひとは、『もうげんかんのともしめてしまったし、こどもたちもねているので、いまおきあがって、あなたにあげることはできません』というでしょう。でも、あなたがたにいいます。おともだちだからというのでは、おきあがってあげることはできなくても、こころから、つよくねがって、くりかえして、たのみつづけるなら、おきあがって、たべものをあたえてくれるでしょう」
「そこで、わたしは、あなたがたにいいます。もとめなさい。そうすれば、あたえられます。さがしなさい。そうすれば、みつかります。もんをたたきなさい。そうすれば、ひらかれます」。
そして、イエスさまは、もとめるひとに、せいれいをあたえてくださることをやくそくしてくださいました。いつも、みことばとせいれいをもとめて、おいのりしましょう。
イエスさま、せいれいとすくいのめぐみをください。どんなときも、イエスさまをこころからあいしてあゆめますように。アーメン
2023年9月24日 子どもと親のカテキズム問54
だれでも聖餐(主の晩餐)にあずかれますか。
いいえ、幼児洗礼を受けていても自分で信仰を告白していない人、また、洗礼を受けていない人は、あずかれません。私たちは、一日も早くその人たちが聖餐(主の晩餐)の祝いにあずかれるよう祈ります。
イエスさまが、すぎごしのしょくじをでしたちといっしょにしているとき、あたらしいけいやくをしるす、せいさんしきをさだめてくださいました。それは、イエスさまが、じゅうじかのうえでささげられたあがないが、わたしたちのつみのためであることをいつもおぼえるためのものです。イエスさまは、じゅうじかにかけられるまえのよる、パンをとって、かんしゃのおいのりをささげて、それをさいて、「これは、あなたがたのためのわたしのからだです。わたしをいつもおもいだすことができるように、これをしなさい」とめいじてくださいました。また、しょくじのあとで、さかずきもおなじようにしていわれました。「このさかずきは、わたしのちによるあたらしいけいやくです。のむたびに、わたしをいつもおもいだして、これをしなさい」。
このイエスさまのめいじられたことを、そのとおりに、おこなっているのが、せいさんしきです。それでは、このせいさんしきには、だれでもあずかることができるのでしょうか。いいえ、そうではありません。それは、このパンをたべ、このさかずきをのむたびに、それによって、イエスさまがふたたびこられるときまで、イエスさまのじゅうじかのうえでささげられた、あがないのいのちが、つげしらされているからです。このことをわきまえないで、パンをたべ、イエスさまのさかずきをのむひとは、まるで、イエスさまをじゅうじかにつけた、じぶんのつみをわすれて、たべたり、のんだりしているひととおなじだからです。
イエスさまは、イスカリオテのユダがごじしんをうらぎって、てきのてにわたすことをしっておられました。せいさんしきは、すべてをしっておられるイエスさまのまなざしのなかでささげられる、こころからの、くいあらためとちかいをあらたにする、めぐみのれいてん(サクラメント)です。
イエスさま、じゅうじかのうえでささげられたあがないのいのちをしんじ、せいさんにあずかるひを、あたえてください。アーメン
2023年9月17日 子どもと親のカテキズム問53
聖餐(主の晩餐)とは何ですか。
イエスさまが命じられたとおりに、パンとぶどうジュース(ぶどう酒)を用いて行われる礼典です。それにより、イエスさまの十字架でさかれた肉と流された血によって成しとげられた救いを覚えます。聖霊によってイエスさまと結び合わされて、罪の赦しと永遠の命の祝福に養われます。神さまの子どもたちといっしょに祝いながら、再び来られるイエスさまを待ち望みます。
イエスさまが、じゅうじかにかけられるひのまえのひのよるのことです。むかし、しゅなるかみさまが、エジプトからイスラエルのひとびとをすくいだしたことをきねんする、すぎこしのまつりのなか、イエスさまとでしたちも、すぎこしのしょくじをいっしょにしていました。
そのとき、イエスさまは、パンをとって、しゅくふくして、パンをさいて、でしたちにあたえていわれました。「とってたべなさい。これは、わたしのからです」。そして、さかずきをとって、かんしゃして、でしたちにあたえていわれました。「みんな、このさかずきからのみなさい。これは、つみのゆるしのために、おおくのひとのためにそそがれる、あたらしいけいやく、わたしのち、です。」「あなたがたにいいます。わたしは、わたしをつかわされたおとうさまのくにで、あなたがたといっしょに、あたらしくのむ、そのひまで、わたしはこれからけっして、ぶどうのみからつくったものをのむことをしません。」
このように、ただいちどの、さいごの、すぎこしのしょくじにおいて、イエスさまは、ごじぶんのじゅうじかのうえにささげられるからだとちが、しんじるひとたちに、いつもおぼえられるように、すぎこしにかわる、あたらしいれいてんをさだめてくださいました。それは、つみびとが、イエスさまのあがないによって、すくわれて、あたらしいいのちのめぐみにあずかっていることをしる、めぐみのやくそくをこころからちかうものです。じゅうじかのしから、みっかめにふっかつされ、てんにあげられた、イエスさまは、せいさんしきをささげるとき、せいれいとしんこうによって、ぱんとさかずきをうけとる、ひとりひとりに、つみのゆるしと、えいえんのいのちのしゅくふくを、よろこんで、あたえておられます。
イエスさま、じゅうじかのうえでささげられた、あなたのからだとちは、わたしたちのつみをあがなう、ささげものです。アーメン
2023年9月10日 子どもと親のカテキズム問52
信者の子どもたちにも洗礼をさずけるのはどうしてですか。
信者の子どもたちも、神さまの恵み深い契約に従って教会の一員だからです。親と教会には、その子が自分の口で信仰を告白するまで導く責任があります。
イエスさまは、おうまれになってから、いっしゅうかんがすぎてから、かつれいをうけられ、「イエス」となづけられました。それは、イエスさまが、マリアのおなかにやどるまえに、てんしから、しめされたなまえでした。それから、モーセのりっぽうにさだめられたきよめのきかんがすぎて、ヨセフとマリアは、あかちゃんのイエスさまを、「しゅ」である、かみさまにささげるため、エルサレムにつれていきました。それは、かみさまのおきてにしたがって、はじめてうまれたおとこのこを、かみさまにささげるためでした。
イエスさまは、じゅうじかのうえに、ごじしんのいのちを、かみさまにささげてくださいました。ですから、イエスさまのうけたかつれいは、わたしたちのつみのために、みがわりとなられたことのしるしでもあります。
いま、わたしたちは、うまれてまもないあかちゃんにも、おとうさん、また、おかあさんが、イエスさまをしんじているなら、せんれいをさずけます。それは、イエスさまが、かつれいをうけられたように、そのこどももに、かみさまにささげたこどもとしていきることを、かみさまにやくそくするためです。
はじめに、おとこのことおとこのひとに、かつれいが、アブラハムにめいじられたとき、アブラハムのつま、サラも、しゅくふくされました。それは、かつれいがしるした、しゅくふくが、アブラハムとサラのこどもたちにひろがることをやくそくするものです。
イエスさまのめいじられるせんれいも、イエスさまをしんじるひとたちと、そのこどもたちが、みんな、うけるようにめいじられている、めぐみとすくいのしるしです。イエスさまが、じゅうじかのうえでささげられたいのちとすくいのめぐみをうけて、おうちでも、きょうかいでも、イエスさまのこどもとしてあゆみましょう。
イエスさま、あなたのしゅくふくは、あなたのじゅうじかのめぐみをしんじる、おとなにも、こどもにも、そそがれます。アーメン
2023年9月3日 子どもと親のカテキズム問51
洗礼とは何ですか。
父・子・聖霊なる神さまの御名によって行われる水の洗いです。洗礼は、イエスさまと結び合わされ、罪赦され、永遠の命が与えられ、神さまの子どもとされたことを示す礼典です。
イエスさまが、ガリラヤからふくいんをのべつたえはじめたころのこです。ひとびとに、くいあらためのせんれいをさずけていたので、「せんれいしゃ」ヨハネとよばれたひとがいました。
ヨハネは、らくだのかわでできたころもをきて、こしにはかわのおびをしめ、いなごと、のみつをたべていました。そこで、エルサレムとユダヤのあちこちから、ヨルダンかわのそばから、ひとびとが、ぞくぞくとヨハネのところにでてきて、じぶんのつみをこくはくし、ヨルダンがわで、ヨハネからせんれいをうけました。
ヨハネは、ファリサイはのひとびとは、サドカイはのひとびとが、たくさんせんれいをうけようとしてきたのをみて、いいました。「まむしのこたちよ、せまってきているかみさまのいかりから、あなたがたがのがれられると、だれがおしえたのですか。ですから、くいあらためにふさわしいみをむすびなさい。じぶんたちのしんこうは、アブラハムからずっとつづいているものだ、とこころのなかでおもってもみてはいけません。かみさまは、ほんとうのくいあらためをあたえて、アブラハムにやくそくされた、かみさまのすくいをうけるひとをおこすことができるのです。」
この「せんれいしゃ」ヨハネから、イエスさまは、せんれいをうけました。すぐにみずからあがられると、てんがひらけて、かみさまのれいが、はとのように、イエスさまのうえにくだりました。そして、てんからこえがありました。「これは、わたしのあいするこ、わたしのこころにふさわしいものです。」
イエスさまを、こころからしんじる、しんこうによって、せんれいをうけたこどもたちも、おとなのひとたちも、イエスさまによってつみをあらいきよめられた、すくいのめぐみをかんしゃして、こころからよろこんで、イエスさまにしたがっていきましょう。
イエスさま、あなたのうけられたせんれいとじゅうじかは、わたしたちのつみを、ぜんぶあらいきよめ、ゆるすためです。アーメン
2023年8月27日 子どもと親のカテキズム問50
恵みを与える方法としての礼典とは何ですか。
イエスさまが礼典としてお定めになった洗礼と聖餐(主の晩餐)です。
ひとびとは、イエスさまをさがしもとめて、カファルナウムにきたときのことです。そして、みずうみのむこうぎしで、イエスさまをみつけるといいました。「せんせい、いつ、ここにおいでになったのですか」。イエスさまはいいました。「ほんとうのことを、あなたがたにいいます。あなたがたがわたしをさがしているのは、しるしをみたからではなく、パンをたべておなかがいっぱいになったからです。いつかはなくなってしまうたべもののためではなく、いつまでもなくならない、えいえんのいのちをいただける、たべもののためにはたらきなさい。これこそ、ひとのこが、あなたがたにあたえるたべものです。おとうさまであるかみさまが、ひとのこに、それをしつしてくださったのです。」
そこで、ひとびとは、いいました。「かみさまがなさっている、いろいろなはたらきをになうためには、わたしたちは、なにをしたらいいのでしょうか。」イエスさまはこたえていわれました。「かみさまがつかされたひとをしんじること、それが、かみさまのはたらきです。」ひとびとはいいました。「それでは、わたしたちがみて、あなたをしんじることができるために、どんなしるしをおこなってくださいますか。むかし、イスラエルのひとびとは、あらので、マンナをたべました。」すると、イエスさまはいわれました。「ほんとうのことを、あなたがたにいいます。モーセがてんからのパンをあながたにあたえたのではなく、わたしのおとうさまが、てんからのほんとうのパンをあたえます。」ひとびとはいいました。「イエスさま、そのパンをいつもわたしたちにください」。イエスさまはいわれました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとにくるひとはけっしておなかすいてこまることはなく、わたしをしんじるひとはけっしてかわきません。」せんれいとせいさんしきというふたつのれいてんは、かみさまが、イエスさまをしるしておられます。イエスさまが、ほんとうのすくいのしるしです。
イエスさま、あなたが、わたしたちのすくいのしるしです。ひとつのこころで、あなたをしんじ、れいてんをまもります。アーメン
2023年8月20日 子どもと親のカテキズム問49
恵みを与える方法としての御言葉とは何ですか。
聖書の朗読と説教です。これらを用いて、イエスさまは、聖霊によって私たちに語りかけてくださいます。ですから、よく備えて礼拝に出席し、御言葉を受け入れ、心にたくわえ、毎日聖書を読み、御言葉に従うことが大切です。
みなさんは、「せいしょ」というと、たくさんあるなかのひとつのほんとおもっているかもしれません。けれども、「せいしょ」はもともと、きゅうやくせいしょ、39かん、しんやくせいしょ、27かんからなる、66のまきものをたばねたものです。そのひとつひとつが、かみさまからのことばを、せいれいにみちびかれたひとが、かいたものです。
むかし、イスラエルのひとびとが、こころをひとつにして、かみさまのまえにあつまっていました。さいし、エズラは、かみさまのりっぽうを、あつまっているひとびとのまえにもってきました。そして、よるがあけてから、ひるの12じまで、りっぽうをよみあげました。ひとびとは、みんな、りっぽうのことばをよくきいていました。
そして、エズラが、りっぽうのまきものをひらくと、ひとびとは、みんなたちあがりました。エズラが、おおいなるかみさまを、たたえると、ひとびとは、みんな、りょうてをあげて、「アーメン、アーメン」とこころをあわせて、となえ、ひざまずいて、かおをちにふせて、りっぽうをあたえてくださった、ほんとうのかみさまをれいはいしました。
それから、レビひとたちが、りっぽうを、ひとびとによくわかるようにおはなしすると、ひとびとは、りっぽうのことばがよくわかりました。レビひとたちは、ひとびとにいいました。「きょうは、わたしたちのかみさまをよろこぶひです。かみさまをよろこぶことこそ、あなたがたのちからがあふれでる、みなもとです」。
せいしょは、イエスさまのいのちを、わたしたちにあたえます。いつもイエスさまのことばをよくきいて、こころのそこ、たましいのそこから、いのちにあふれていきましょう。
イエスさま、いつも、せいしょのことばをよくきき、こころからイエスさまをよろこび、さんびとおいのりをささげます。アーメン
2023年8月13日 子どもと親のカテキズム問48
恵みを与える方法とは何ですか。
御言葉と礼典と祈祷です。イエスさまは、特にこの三つの方法を用いて、聖霊において私たちと共にいてくださり、救いの祝福を豊かに与えてくださいます。
イエスさまは、じゅうじかのうえに、ごじしんのいのちをささげ、てんのちちなるかみさまのもとにかえるひがつかづいてきたとき、でしたちに、てんにあげられて、とおくはなれても、せいれいであるかみさまがくると、やくそくしてくださいました。
このせいれいであるかみさまは、イエスさまのことをいつも、わたしたちにおしえてくださいます。それは、イエスさまが、ほんとうのすくいぬしであることをつたえる、かみさまのやくそくのことば、せいしょのみことばによってです。
そして、イエスさまが、でしたちに、じゅうじかのめぐみをわすれないようにめいじてくださった、せんれいとせいさんしきをまもるとき、せいれいは、わたしたちのこころを、しっかりと、イエスさまにむすびあわせてくださり、わたしたちを、あくのゆうわくや、くるしみのなかでも、まもってくださいます。
イエスさまは、でしたちに、せいれいでいます、かみさまのことをやくそくされたあと、てんをあおいで、いわれました。「おとうさま、ときがきました。あなたのこが、あなたのえいこうをあらわすようになるために、こにえいこうをあたえてください。」と。
わたしたちも、イエスさまとおなじように、かみさまのえいこうをもとめておいのりするとき、せいれいでいますかみさまは、わたしたちに、みことばをあたえてくださり、かみさまをよろこんでいきるようにみちびいてくださいます。おいのりは、いつも、イエスさまのおなまえによって、ささげられます。
いつも、イエスさまのことばにきき、せんれいとせいさんしき、イエスさまのじゅうじかのめぐみをおぼえて、おいのりをささげましょう。「わたしはいつもあなたがたといっしょにいる」とやくそくされた、イエスさまのことばをしんじてれいはいしましょう。
イエスさま、いつもじゅうじかのめぐみをわすれないようにしてください。みことばによってこころからおいのりします。アーメン
2023年8月6日 子どもと親のカテキズム問47
今も生きておられる復活のイエスさまは、どのようにして礼拝において共にいてくださるのですか。
復活し、天におられるイエスさまは、特にご自分の恵みを与える方法を用いて、聖霊において共にいてくださいます。
イエスさまのでしたちは、じゅうじかのうえにしなれたイエスさまが、みっかめに、ふっかつし、てんにあげられたことをみました。イエスさまが、てんにあげられると、イエスさまは、「わたしはいつもあなたがたといっしょにいます。」「わたしは、おとうさまが、やくそくされたものをあなたがにおくります。」とやくそくしてくださいました。
この「やくそくされたもの」とは、「しんりのれい」でいます、せいれいでいますかみさまののことです。このおかたが、わたしたちのうちにおられ、イエスさまをしんじていきるように、みちびいておられます。
イエスさまのでしのひとり、ペトロは、イエスさまをほめたたえて、てがみを、いろいろなちいきのきょうかにかきおくりました。そのてがみでこのようにつたえました。
「あなたがたは、イエスさまをみたことがないのに、こころをつくしてあいし、いま、みていなくても、しんじています。そればかりが、ことばではいいつくせない、すばらしいよろこびみちあふれています。それは、あなたがたのいのちが、イエスさまのいのちにあふれているからです。」
イエスさまをしんじるひとたちが、こころをあわせてあつまる、れいはいにおいて、イエスさまがやくそくされた「しんりのれい」でいます、せいれいでいますかみさまは、せいしょのことばとともに、わたしたちのこころにはたらきかけて、イエスさまをしんじ、イエスさまのいのちによっていきるようにみちびいておられます。いつも、イエスさまが、わたしたちといっしょにおられることをしんじて、こころをこめて、さんびとおいのりをささげましょう。
イエスさま、あなたを、こころをつくしてあいします。こころから、あなたのえいこうをほめたたえて、おいのりします。アーメン
2023年7月30日 子どもと親のカテキズム問46
教会の礼拝で、私たちは何をするのですか。
教会の礼拝で、私たちは神さまと交わり、神さまをあがめ、神さまを喜び、賛美します。聖書朗読と説教をきき、聖礼典をおいわいします。また、お祈りをし、賛美歌を歌い、信仰を告白し、献金をささげて教会の働きに仕えます。
イエスさまが、じゅうじかのうえにしんでくださり、みっかめにふっかつされた「ひ」から、イエスさまをしんじ、よろこびのしらせ(ふくいん)をつたえるきょうかいは、まいしゅう、いっしゅうのはじめの「ひ」(にちようび)にれいはいをまもっています。
イエスさまが、ほんとうのかみさまのひとりごであるとしんじてささげられるれいはいでは、イエスさまと、イエスさまをつかわされた「おとうさま」(ちちであるかみさま)と、イエスさま(こであるかみさま)が、ほんとうに、すべてのひとのすくいぬしであることをあかしする「せいれいさま」(せいれいであるかみさま)を、わたしたちの「しゅ」とよんで、れいはいをささげています。この「しゅ」とは、「わたしは、はじめから、ほんとうにいる、かみさまです」という、ほんとうのかみさまの「おなまえ」です。
イスラエルのひとびとが、エジプトでどれいとされて、くるしんでいたとき、モーセをしどうしゃにたてられた、かみさまは、かみさまのおなまえをたずねたモーセに、この「しゅ」という「おなまえ」を、おしえてくださいました。
また、ほんとうのかみさま、「しゅ」であるかみさまは、モーセにこのように、やくそくしてくださいました。「さきには、あなたたちをうんだ、アブラハムのかみさま、イサクのかみさま、ヤコブのかみさまである、『しゅ』であるわたしが、あなたたちのもとにつかわされました。これこそ、いつまでも、わたしのなまえです。これこそ、いつのじだいにも、わたしと、かおをあわせ、わたしをよぶための、わたしのなまえです」。
せいしょのおなはしをきき、かみさまをさんびし、おいのりするとき、いつも、こころから、イエスさまを「わたしのほんとうのかみさま」、「しゅ」としんじてれいはいをささげましょう。
イエスさま、あなたはいつもわたしたちをまもっておられます。あなたをほんとうのすくいぬしとしんじ、れいはいします。アーメン
2023年7月23日 子どもと親のカテキズム問45
礼拝に集まるのは、どうして週の始めの日なのですか。
その日にイエスさまが復活されたからです。神さまにまねかれ、毎週この日に集まることによって、今も復活のイエスさまが聖霊において私たちと共にいてくださることを確信させてくださいます。
イエスさまが、じゅうじかのうえにかけられたひは、すぎこしのまつりのじゅんびのひの、12じごろでした。イエスさまは、すべてが、なしとげられたのをしり、「かわく」といわれました。そして、ひとびとが、すっぱいぶどうしゅをうけると、「なしとげられた」といって、あたまをたれて、ごじしんのいきとたましいのすべてをささげて、しなれました。
ユダヤじんたちは、そのひが、すぎこしのまつりのじゅんびのひで、あんそくびに、イエスさまのからだをじゅうじかのうえにのこしておかないように、ピラトにねがって、あしをおって、からだをとりおろすことにしました。そこで、へいしたちがきて、イエスさまといっしょにじゅうじかにつけられたはじめのひとと、もうひとりのひとのあしをおりました。けれども、イエスさまは、もうしんでいたをみて、あしをおることはしませんでした。
でも、へいしのひとりが、やりで、イエスさまのわきばらをさしました。すると、すぐにちをみずがながれでました。そのあと、イエスさまのからだは、アリマタヤのヨセフによって、まだ、ほうむられたことのない、あたらしいはかに、ほうむられました。
みっかめ、いっしゅうのはじめのひのゆうがた、でしたちが、ユダヤじんをおそれて、じぶんたちのいるいえのとにかぎをかけていました。そこで、イエスさまがきて、まんなかたにたち、「あなたがたにへいわがあるように」といわれました。そして、じゅうじかでうけたてとわきばらのきずあとをおみせになりました。でしたちは、じゅうじかのしからよみがえられた、イエスさまをみて、よろこびました。このひから、いっしゅうのはじめのひを「しゅのひ」とよび、せかいじゅうのきょうかいは、イエスさまのじゅうじかのあがないと、ふっかつをしんじて、れいはいをささげています。
イエスさま、あなたのなしとげられたあがないによって、わたしたちは、つみをゆるされ、せいなるれいはいをささげます。アーメン
2023年7月16日 子どもと親のカテキズム問44
教会の交わりの中で養われる私たちの使命は、何ですか。
イエスさまは教会に、全世界に出て行って福音を宣べ伝えること、困っている人を助けること、大地を大切に治める使命を与えられました。私たちは神さまの子どもとして、いつでもどこでもこの使命を果たします。
イエスさまが、12にんのでしたちのほかに、72にんのでしたちをえらばれ、これからいこうとしておられた、すべてのまちやむらへ、ふたりずつおつかわしになったときのことです。
イエスさまは、でしたちにいわれました。「かみさまがあたえてくださるすくいのみのりは、とてもおおいのですが、すくいのみのりをとりいれるはたらきびとがすくないのです。ですから、すくいのみのりをあたえてださるかみさまにおねがいして、すくいのみのりをとりいれるはたらきびとをおくりだしてもらいなさい」。
「さあ、いきなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、ちいさなひつじを、おおかみのなかにおくるようなものです。さいふも、ふくろも、くつも、もっていってはいけません。どこかのいえにはいったら、まず、『へいわが、このいえにありますように』といいなさい。もし、へいわをのぞんでいるひとが、そこにいれば、あなたがたのいのるへいわは、そのひとのうえにとどまります。あなたがたにききしたがうひとは、わたしにききしたがうのです。」
72にんのでしたちがよろこんでかえってきました。「イエスさま、あなたのおなまえをつかうと、わるい、けがれたれいも、わたしたちにしたがいます」。そのとき、イエスさまは、せいなる、きよいれいによって、よろこびにあふれていいました。「てんちのしゅであるおとうさま、あなたをほめたたえます。これらのことを、ちえのあるひとや、かしこいひとにはかくして、おさないこどものようなひとにしめされました。それは、おとうさまのこころにかなうことです。」
イエスさまのきょうかいにあたえられているたいせつなはたらきは、ひとびとをつみからすくうために、イエスさまのあいをつたえることです。それは、ひとではなく、せいれいのはたらきです。
イエスさま、きょうかいのはたらきは、せいれいのはたらきです。せいれいによって、すくいのよろこびをつたえます。アーメン
2023年7月9日 子どもと親のカテキズム問43
頭(かしら)であるキリストは、ご自分の教会のために何をしてくださいますか。
頭(かしら)であるキリストは、聖霊によって神さまの子どもたちと共にいて、礼拝の恵みにあずからせてくだいます。母の胸に抱かれるように、私たちを養い育て、守りつつ、救いの完成へと導いてくださいます。
あるとき、イエスさまのおはなしをきこうと、ちょうぜいにんや、つみびとたちが、みんな、イエスさまにちかよってきました。
ところが、ファリサイはのひとびとや、りっぽうがくしゃたちは、「このひとは、つみにけがれたひとたちをむかえて、しょくじまでいっしょにしている」と、つぶやきました。
そこで、イエスさまは、このひとたちに、たとえをおはなしになりました。「あなたがたのうちに、ひゃっぴきのひつじをもっているひとがいたとします。そのいっぴきがいなくなったら、きゅうじゅうきゅうひきをのはらにのこしておいて、いなくなったいっぴきをみつけるまでさがしあるかないでしょうか。そして、みつけたら、よろこんで、そのいっぴきのひつじをじぶんのかたにのせて、いえにかえってきておともだちや、となりびとをよびあつめて、『わたしといっしょによろこんでください。いなくなったひつじをみつけましたから』というでしょう。よくききなさい。それとおなじように、つみびとが、ひとりでもくいあらためるなら、くいあらためなくてもよい、きゅうじゅうきゅうにんのただしいひとのためにもまさるおおきなよろこびが、てんにあります。」
じつは、くいあらためなくてもよいひとは、ひとりもいません。そればかりか、みんな、まいにち、かみさまをかなしませるつみをかさねています。きょうかいは、イエスさまが、わたしたちのつみのためにしんでくださったことをしんじるひとたちのあつまりです。そして、イエスさまは、わたしたちひとりびとりを、ごじしんのからだとしてあいしておられます。きょうかいのかしらでいます、イエスさまのみことばによって、おたがいに、つみをみとめて、くいあらため、イエスさまのあいによってあゆみましょう。
イエスさま、きょうかいのかしらはあなたです。あなたのあいが、きょうかいのひとりびとりにみちあふれますように。アーメン
2023年7月2日 子どもと親のカテキズム問42
神さまを信じて歩む時、私たちは独りぼっちですか。
いいえ。私たちは、聖霊によって頭であるキリストと結び合わされた、ひとつのキリストのからだである教会です。神さまの子どもである私たちは、国籍が天にある神さまの家族です。ですから、私たちは、教会生活を共にしながら、祈り合い、はげまし合い、手を取り合って御国への道を歩みます。
イエスさまは、ふたりのはんざいにんといっしょに、じゅうじかにつけられました。それは、ひとりひとりが、けいばつとして、じゅうじかのしをおったたことをあらわしています。
けれども、ほんとうに、ひとりぼっちのしをになれたのは、イエスさまでした。それは、わたしたちのみがわりのしをしなれるために、てんのおとうさまからみすてられるしをしなれたからです。それは、どのようなひともおうことのできない、かみさまのひとりごであるイエスさまだけがおわれた、ひとりぼっちのしでした。
イエスさまが、じゅうじかのしからみっかめにふっかつされて、てんにあげられたのち、やくそくのせいれいがくだり、エルサレムから、イエスさまのきょうかいが、せかいじゅうにひろがっていきました。そして、わたしたちにほんのくににも、イエスさまをしんじるひとびとがおこされ、きょうかいがひろがっています。
せかいじゅうのきょうかいを、イエスさまが、みことばとせいれいによって、おさめておられます。わたしたちも、イエスさまをしんじてあゆむとき、イエスさまをかしらとするきょうかいのひとりとされていることをしんじることができます。それは、イエスさまが、わたしたちをあいしてくださったように、おたがたいにあいしあうためです。
イエスさまのことを、ひとびとにつたえた、パウロというひとは、こういいました。「わたしたちがぞくしているほんとうのくには、イエスさまがおられるただひとつのてんごくです。そこから、イエスさまが、すくいぬしとしてこられるのを、わたしたちはまっています。」 いつも、イエスさまと、イエスさまのあいしておられる、ただひとつのきょうかいをあいして、あゆみましょう。
イエスさま、イエスさまがわたしたちをあいされたように。あなたのあいしておられるひとりびとりをたいせつにします。アーメン
2023年6月25日 子どもと親のカテキズム問41
体は墓の中で永遠に休み続けるのですか。
いいえ、ちがいます。イエスさまが再び来られる時、私たちの体もよみがえされ、きよめられたたましいとひとつにされて、イエスさまの栄光の体と同じ姿に変えられます。私たちは、完成された御国で、完全な祝福を受け、永遠に神さまをほめたたえ、神さまを喜ぶのです。
イエスさまが、じゅうじかにかけられときにことです。カルバリとよばれるところにつくと、ひとびとは、イエスさまをじゅうじかにつけ、ふたりのはんざいにんも、ひとりは、イエスさまのみぎに、もうひとりは、イエスさまのひだりに、じゅうじかにつけました。
そのとき、イエスさまはいわれました。「おとうさま、わたしをじゅうじかにつけたひとびとをゆるしてください。みんななにをしているのか、わからずにいるのです」。
じゅうじかにかけられたはんざいにんのひとりが、いいました。「あなたは、すくいぬしではないですか。それなら、じぶんをすくい、おれたちもすくってくれ」。けれども、もうひとりのはんざいにんは、それにさからっていいました。「おまえは、おなじ、じゅうじかをうけていながら、かみさまをおそれないのですか。おれたちは、じぶんのやったことのむくいをうけているのは、まったくただしい。けれども、このおかたは、なにも、わるいことをしていない。」。そしていいました。「イエスさま、あなたが、ほんとうのおうさまであることがあきらかになるとき、わたしをよびだしてください」。
イエスさまはいわれました。「アーメン、あなたにいいます。あなたは、きょう、わたしといっしょに、よろこびのあふれるてんごくにいます」。
イエスさまをしんじるひとびとは、イエスさまのおられるてんごくでいつまでもイエスさまをよろこびます。そればかりは、イエスさまが、もういちどこられるひには、あたらしいからだによみがえって、いつまでも、イエスさまをほめたたえていきるのです。
イエスさま、あなたのおられるところが、ほんとうのてんごくです。あなたのえいこうをほめたたえるこころをください。アーメン
2023年6月18日 子どもと親のカテキズム問40
私たちは死んだあと、どうなりますか。
死んで終わりではありません。死んだあと、私たちのたましいは完全にきよめられ、天におられるイエスさまのもとに引き上げられます。体はイエスさまに結び合わされたまま墓の中に休みます。
あるびょうきのひとがいました。マリアとマルタのむら、ベタニアのひとで、ラザロといいました。このラザロがびょうきでした。
イエスさまは、ラザロがびょうきだときいてからも、ふつかかん、おなじところにおられました。それからでしたにいわれました。「もういちど、ユダヤにいきましょう。わたしたちのともだち、ラザロがねむっています。しかし、わたしはラザロをおこしにいきます。」でしたちは、「イエスさま、ねむっているのであれば、たすかるでしょう」。すると、イエスさまは、いわれました。「ラザロはしんだのです。わたしがそこにいなかったのは、あなたがたしんじるためです。さあ、ラザロのところにいきましょう。」
イエスさまが、ユダヤにいくと、ラザロははかにほうむられて、もうよっかたっていました。イエスさまは、マルタにいいました。「わたしはふっかつです、いのちです。わたしをしんじものは、しんでもいきます。いきていて、わたしをしんじるものは、だれもけっしてしぬことがありません。このことをしんじますか。」
そして、イエスさまが、ふかいかなしみと、こころにいきどおりをおぼえながら、「はかのいしをとりのけなさい」といわれると、イエスさまは、てんをあおいでいわれました。「おとうさま、わたしのねがいをきいてください」。こういって、「ラザロ、でてきなさい」とおおきなこえでさけばれると、しんでいたラザロが、てとあしをぬのでまかれたままでてきました。イエスさまはひとびとに、「ほどいてやって、いかせなさい」といわれました。
じゅうじかのうえでしなれ、みっかめにふっかつされた、イエスさまは、しぬことのないいのちをもって、てんにあげられました。イエスさまにいつもつながっているひとのからだは、しんで、はかにほうむられても、ふっかつするひをまって、ねむっているのです。
イエスさま、あなたのいのちは、しぬことがありません。いつもイエスさまにいかされていることをしんじてあゆみます。アーメン
2023年6月11日 子どもと親のカテキズム問39
救われて神さまの子どもとされた私たちは、どこをめざして歩むのですか。
天におられるイエスさまは、再び地上に来られ、最後の審判をし、天と地とを新しくし、神さまの国を完成されます。私たちは、再び来られるイエスさまを待ち望み、その日に備えつつ、希望に満ちて歌いながら御国をめざして歩みます。
イエスさまは、あるとき、でしたちにこういわれました。
「ひとのこは、えいこうにかがやいて、てんのみつかいたちをみんなしたがえてきます。そのとき、えいこうのざにつきます。そして、すべてのくにのひとびとが、えいこうのざのまえにあつめられると、ひつじかいが、ひつじとやぎをわけるように、ひとびとをよりわけ、ひつじをみぎに、やぎをひだりにおきます。
そこで、おうは、みぎがわにいるひとたちにいいます。『さあ、わたしのおとうさまに、しゅくふくされたひとたち、てんとちがつくられるまえから、あなたがたのためによういされているくにをうけつぎなさい。あなたがたは、わたしがうえていたときにたべさせ、のどがかわいていたときにのませ、たびをしていたときにやどをかし、はだかのときにきせ、びょうきのときにおみまいし、ろうやのなかにいたときにたずねてくれたからです。』
すると、ただしいひとがおうさまにこたえます。『しゅよ、いつわたしたちは、うえているのをみてたべものをさしあげ、のどがかわいているのをみて、のみものをさしあげたでしょうか。いつ、びょうきをなさったり、ろうやにおられるのをみて、おたずねしたでしょうか。』
そこで、おうさまはこたえます。『はっきりいっておきます。わたしのきょうだいである、このもっともちいさいもののひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのです。』」
この「えいこうのざにつかれた、ひとのこ」は、イエスさまです。イエスさまが、ほんとうのおうさまとして、わたしたちのあいをみておられます。だれもみていなくてもあいをつくしましょう。
イエスさま、あなたのあいは、かんぜんです。わたしたちも、あなたがあいされているように、となりびとをあいします。アーメン
2023年6月4日 子どもと親のカテキズム問38
弱い私たちは、試練の中で神さまを疑い、神さまに背いて、罪を犯してしまいます。そんな私たちでもほんとうに救われるのでしょうか。
はい、救われます。イエスさまは、弱い私たちのために信仰がなくならないように祈り、聖霊は私たちのうちでとりなしてくださいます。神さまは、私たちを最後まで守り、必ず完成へと導いてくださいます。
イエスさまが、じゅうじかにかけられるまえのことです。イエスさまは、でしたちといっしょにすぎこしのしょくじをしていました。そこで、イエスさまは、ぶどうしゅのさかずきとパンをとり、かんしゃのおいのりをささげて、さかずきは、でしたちのためにあたえられ、じゅうじかのうえでながされる、「わたしのち」をしめしていること、また、パンは、でしたちのためにあたえられた、じゅうじかのうえでささげられ、「わたしのからだ」であることをしめしてくださいました。そして、これを、イエスさまをおぼえて、おこなうように、でしたちにめいじられました。
イエスさまは、「しかし、みなさい、わたしをうらぎるものが、わたしといっしょにてをしょくたくにおいています」といわれました。すると、でしたちは、「だれがそんなことをしようとしているのか。じぶんたちのうちでだれがいちばんえらいか」といいだしました。
イエスさまは、「あなたがたのなかでいちばんえらいひとは、いちばんわかいひとのようになり、うえにつかえるひとは、つかえるひとのようになりなさい。あなたがたは、わたしが、いろいろなくるしみにあったとき、いつもわたしといっしょにたえてくれました。」「シモン、シモン、あくまは、あなたがたを、こむぎのようにふるいにかけることを、かみさまにねがってききいれられました。しかし、わたしはあなたのために、しんこうがなくならないようにいのりました。だから、あなたはたちなおったら、きょうだいたちをちからづけてあげなさい。」
イエスさまのいつも、わたしたちのためにいのっておられます。
イエスさま、いつも、わたしたちのために、じゅうじかのうえでささげられた、いのちとあいをもとめておいのりします。アーメン
2023年5月28日 子どもと親のカテキズム問37
救われて神さまの子どもとされた私たちは、どのようになりますか。
神さまの子どもとされた私たちは、私たちのうちに働く聖霊によって、ますますきよくされて、神さまの御子イエスさまの姿に似せられていきます。
イエスさまは、じゅうじかのくるしみをうけられたのち、みっかけにふっかつされ、ごじぶんがいきていることを、40にちにわたって、てしたちにあらわれ、かみさまのめぐみとすくいについて、おはなしになりました。
そして、イエスさまは、「あなたがたのうえに、せいれいがくだると、あなたがたはちからをうけます。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤのひとびとに、また、ちのはてにいたるまで、わたしがいきていることをあかしするひとになります」とやくそくしてくださいました。そして、でしたちがみているまえで、てんにあげられました。
ごじゅんさいのひがきて、120にんのひとびとが、こころをひとつにしてあつまっていると、とつぜん、ゴーゴーというかぜがふいてくるようなおとがきこえて、いえじゅうにひびきわたりました。すると、ほのおのようなしたがわかれわかれにあらわれて、ひとりひとりにとどまりました。すると、みんな、せいれいにみたされて、いろいろなくにのことばで、かみさまのめぐみとすくいをかたりはじめたのです。ひとびとはこれをきいて、あっけにとられてしまいました。
イエスさまがじゅうじかにかけられたとき、いちど、にげてしまったでしたちも、まるでひとがかわったように、「じゅうじかにつけられたイエスさまは、ふっかつしていきておられます。てんにあげられて、やくそくされたせいれいをそそいでくださいました。あなたがたがみているとおりです」と、かみさまのめぐみとすくいをひとびとにつたえました。せいれいによってきよめられるとき、つみのよのなかに、あいのことばをつたえるひとにかえられます。
イエスさま、せいれいによって、わたしたちのこころとことばをきよめて、あなたのあいをつたえるひとにしてください。アーメン
2023年5月21日 子どもと親のカテキズム問36
私たちのうちに与えられる救いとはどのようなものですか。
神さまは、イエスさまのあがないによって罪人である私たちを無罪と宣言し、すべての罪を赦し、永遠の命を与え、神さまの子どもとして受け入れてくださいます。ですから、喜びと感謝にあふれて「私たちの天のお父さま」とお呼びします。
イエスさまは、じゅうじかにかけられるまえに、せいれいをおくり、わたしたちが、いつも、みことばとおいのりにみちびいてくださることをやくそくしてくださいました。
イエスさまは、わたしたちが、イエスさまのおなまえによって、イエスさまをつかさわれた、おとうさまに、なにかをおねがいするとき、おとうさまがあたえてくださることをやくそくしてくださいました。
わたしたちは、てんのおとうさまになにをおねがいしますか。イエスさまは、おとうさまが、わたしたちのねがいをきいて、いつもよろこんでいきるようになることをやくそくしてくださいました。それは、わたしたちのつみのこころが、きよめられて、いつもかみさまによろこばれるみちをあゆむことです。
イエスさまは、おとうさまにこのようにおいのりしました。「おとうさま、いま、あなたのまえで、わたしにえいこうをあたえてください。せかいがつくられるまえに、わたしがあなたのもとでもっていたあのえいこうを。よのなかのひとびとからえらびだして、わたしにあたえてくださったひとびとに、わたしは、あなたのすくいをあらわしました。このひとびとは、あなたのものでしたが、あなたはわたしにあたえてくださいました。そして、このひとびとは、あなたのみことばをまもりました。」いつもイエスさまのおいのりにまもられて、すくいのよろこびをもとめておいのりしましょう。
てんのおとうさま、イエスさまのじゅうじかによる、つみからのすくいとよろこびをもとめるおいのりをあたえてください。アーメン
2023年5月14日 子どもと親のカテキズム問35
聖霊なる神さまは、どのようにして私たちに救いを与えてくださるのですか。
聖霊なる神さまは、私たちのうちに働いて、罪人と認めさせ、悔い改めて、イエスさまを信じるようにしてくださいます。その信仰を通して、私たちを主イエス・キリストに結び合わせて救いを与えてくださいます。
イエスさま、じゅうじかにかけられるときがつかづいたとき、でしたちに、せいれいをあたえてくださるやくそくをしてくださいました。「わたしは、おとうさまにおねがいしましょう。おとうさまは、わたしでもなく、おとうさまでもない、もうひとり、あなたがをたすけ、なぐさめ、みちびいてくださるおかたをつかわして、いつまでも、あなたがたといっしょにいるようにしてくださる。このおかたは、うそやいつわりのない、かんぜんにただしい「れい」であるおかたです。よのなかのひとびとは、この「れい」であるおかたをみようとも、しろうともしないので、うけいれることができません。でも、あなたがたは、この「れい」であるおかたをしっています。この「れい」であるおかたが、あなたがたといっしょにおられ、これからも、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしはあなたがたを、ひとりぼっちにはしておきません。あなたがたのところにもどってきます。しばらくすると、よのなかのひとびとは、わたしをみなくなりますが、あなたがたがをわたしをみます。わたしがいきているので、あなたがたもいきるのです。
そのひには、わたしがおとうさまのうちにおり、あなたがたがわたしのうちおり、わたしもあなたがたのうちにいることが、あなたがたにわかります。」
イエスさまは、せいれいなるかみさまが、わたしたちといつもいっしょにいてくださることをやくそくしてくださいました。せいれいなるかみさまは、いつも、わたしたちにじゅうじかにつけられ、みっかめにふっかつされたイエスさまのことをおしえてくださいます。そして、かみさまをよろこぼうとしない「つみ」をしめし、イエスさまのすくいをもとめるようにみちびいておられます。
せいれいなるかみさま、イエスさまのじゅうじかとふっかつによる、すくいのいのちを、わたしたちにあたえてください。アーメン
2023年5月14日 子どもと親のカテキズム問35
聖霊なる神さまは、どのようにして私たちに救いを与えてくださるのですか。
聖霊なる神さまは、私たちのうちに働いて、罪人と認めさせ、悔い改めて、イエスさまを信じるようにしてくださいます。その信仰を通して、私たちを主イエス・キリストに結び合わせて救いを与えてくださいます。
イエスさま、じゅうじかにかけられるときがつかづいたとき、でしたちに、せいれいをあたえてくださるやくそくをしてくださいました。「わたしは、おとうさまにおねがいしましょう。おとうさまは、わたしでもなく、おとうさまでもない、もうひとり、あなたがをたすけ、なぐさめ、みちびいてくださるおかたをつかわして、いつまでも、あなたがたといっしょにいるようにしてくださる。このおかたは、うそやいつわりのない、かんぜんにただしい「れい」であるおかたです。よのなかのひとびとは、この「れい」であるおかたをみようとも、しろうともしないので、うけいれることができません。でも、あなたがたは、この「れい」であるおかたをしっています。この「れい」であるおかたが、あなたがたといっしょにおられ、これからも、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしはあなたがたを、ひとりぼっちにはしておきません。あなたがたのところにもどってきます。しばらくすると、よのなかのひとびとは、わたしをみなくなりますが、あなたがたがをわたしをみます。わたしがいきているので、あなたがたもいきるのです。
そのひには、わたしがおとうさまのうちにおり、あなたがたがわたしのうちおり、わたしもあなたがたのうちにいることが、あなたがたにわかります。」
イエスさまは、せいれいなるかみさまが、わたしたちといつもいっしょにいてくださることをやくそくしてくださいました。せいれいなるかみさまは、いつも、わたしたちにじゅうじかにつけられ、みっかめにふっかつされたイエスさまのことをおしえてくださいます。そして、かみさまをよろこぼうとしない「つみ」をしめし、イエスさまのすくいをもとめるようにみちびいておられます。
せいれいなるかみさま、イエスさまのじゅうじかとふっかつによる、すくいのいのちを、わたしたちにあたえてください。アーメン
2023年5月7日 子どもと親のカテキズム問34
イエスさまがなしとげてくださった救いは、どのようにして私たちのものとなるのですか。
私たちは自分の力で救いを手に入れることはできません。ただ聖霊なる神さまの働きによって、救いは私たちに与えられ、私たちのものとなります。
イエスさまが、ふねにのって、ガリラヤのみずうみをわたり、じぶんのまちにかえってこられたときにことです。
ひとびとが、てもあしも、からだが、ぜんぜんうごかないひとを、ベットにねかせたまま、イエスさまのところへつれてきました。イエスさまは、そのひとたちが、こころからイエスさまにたすけをもとめてきたことをみて、てもあしも、からだが、ぜんぜんうごかないひとにいいました。
「むすこよ、げんきをだしなさい。あなたのつみは、ゆるされた」。ところが、モーセのりっぽうをひとびとにおしえ、めいじていたひとのなかに、「このひとは、かみさまをけがしている」と、こころのなかでおもっているひとがいました。
イエスさまは、そのこころをしってこういわれました。「どうして、こころのなかで、わるいことをかんがえているのですか。『あなたのつみはゆるされる』というのと、『おきあがって、あるきなさい』というのと、どちらが、やさしいですか。」
そして、てもあしも、からだが、ぜんぜんうごかないひとにいいました。「おきあがって、ベットをかついで、いえにかえりなさい」。そのひとは、おきあがって、いえにかえりました。
これをみた、たくさんのひとびとは、こわくなって、イエスさまのちからをしんじて、かみさまをさんびしました。
せいれいなるかみさまは、イエスさまが、かみさまとにんげんのあいだにたって、わたしたちのみがわりになられたことをしんじるちからをあたえ、こころから、かみさまをさんびできるようにみちびいてくださいます。
イエスさま、せいれいなるかみさまのめぐみによって、あなたのすくいをしんじます。こころからあなたをさんびします。アーメン
2023年4月30日 子どもと親のカテキズム問33
王としてのイエスさまのお働きは何ですか。
イエスさまは、王として、御言葉と聖霊によって、私たちの救いのために、私たちを治めておられます。そして、今も悪の力とたたかい、私たちを支え、守ってくださいます。ですから、私たちは心をこめてキリストに従います。
イエスさまとでしたちが、エルサレムのまちにちかづいたときのことです。イエスさまは、ふたりのでしをつかいにだしていわれました。「むこうのむらにいきなさい。すると、すぐに、ろばがつないであり、いっしょに、ちいさなろばがいるのがみつかります。それをほどいて、わたしのところにひいてきなさい。もし、だれかがら、なにをしているのですか、といったら、『イエスさまがおつかいになります』といいなさい。すぐにわたしてくれます。」
でしたちは、いって、イエスさまがめいじられたとおりにし、ろばとちいさなろばをひいてきて、そのうえにふくをかけると、イエスさまは、ろばにおのりになりました。
おおぜいいのひとびとが、じぶんのふくをみちにしいて、また、ほかのひとびとは、きのえだをきって、みちにしきました。そして、おおぜいのひとびとは、イエスさまのまえをいくひとも、あとにしたがうひとも、さけびました。
「ダビデの子にホサナ。しゅであるかみさまのおなまえによってこられるかたに、しゅくふくがあるように。いとかたきところに、ホサナ。」
このように、イエスさまは、ろばにのって、エルサレムにはりました。それは、イエスさまが、すべてのひとびとをしゅくふくし、おさめ、まもっておられる、ほんとうのおうさまであることをあらわすものでした。
じゅうじかのうえでも、イエスさまは、ひとびとのために「つみをゆるしてください」と、おいのりました。イエスさまは、わたしたちをまもっておられる、ほんとうのおうさまです。いつも、イエスさまにまもられていることをしんじて、おいのりしましょう。
イエスさま、わたしたちを、つみからすくい、あくからまもってください。いつも、みことばをまなび、おいのりします。アーメン
2023年4月23日 子どもと親のカテキズム問32
祭司としてのイエスさまのお働きは何ですか。
イエスさまは、祭司として、私たちの罪のつぐないのためにご自分の命を十字架でささげてくださいました。今も、天にあって私たちのためにとりなしていてくださいます。ですから、私たちは、キリストの名によって心をこめてお祈りします。
イエスさまが、じゅうじかにかけられたときにことです。おひるのじゅうにじになると、あたりいちめんがくらくなり、それが、さんじまでつづきました。さんじに、イエスさまは、おおきなこえでさけばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは、「わたしのかみさま、わたしのかみさま、どうしてわたしをおみすてになったのですか」といういみです。
そばにいたひとびとのなかには、イエスさまのさけびごえをきいて、「そら、エリヤをよんでいる」というひとがいました。エリヤは、てんにあげられた、むかしのよげんしゃです。
あるひとは、はしりよって、スポンジにすっぱいぶどうしゅをふくませて、あしのぼうにつけ、「まて、エリアがかれをおろしにくるかどうか、みていよう」といいながら、イエスさまにのませようとしました。
でも、このとき、イエスさまは、おおきなこえをだして、ごじしんのいきをはかれ、しなれました。
すると、しんでんのたれまくが、うえからしたまで、まっぷたつにさけました。それは、イエスさまが、しんでんでささげられた、つみをとりなすてめにささげられた、どうぶつとおなじように、かみさまのまえにささげられた「ぎせい」であったこと、そして、ただいちどささげられたイエスさまの「ぎせい」によって、わたしたちが、イエスさまをしんじて、ほんとうのかみさまにつかづくことができるようになったことをあらわしていました。
わたしたちのおいのりは、かみさまのまえにささげられたイエスさまのおなまえによってささげられます。いまも、いきてはたらいておられる、イエスさまのめぐみによって、いのりましょう。
イエスさま、いま、わたしのこころをあなたにささげます。すべてのひとびとのため、おたがいのへいわをもとめます。アーメン
2023年4月16日 子どもと親のカテキズム問31
預言者としてのイエスさまのお働きは何ですか。
イエスさまは、預言者として、聖書の言葉と聖霊によって、神さまの御心を教えてくださいます。今も、教会の説教をとおして、また一人一人に聖書とお祈りを通して語りかけてくださいます。ですから、私たちは心をこめてキリストの御言葉を聞きます。
イエスさまが、ガリラヤじゅうをまわって、あちこちのかいどうでおしえ、ごじしんが、ほんとうのすくいぬしとしてこられたことを、ひとびとにつたえはじめたころのことです。イエスさまは、ひとびとのびょうきや、くるしみや、なやみをなおされました。
すると、イエスさまのことが、ひとびとにつたえられて、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダンがわのむこうがわからも、たくさんのひとびとがやってきて、イエスさまにしたがいました。
イエスさまは、このひとびとをみて、やまにのぼられ、こしをおろすと、でしたちがちかくによってきました。そこで、イエスさまは、くちをひらき、おしえられました。
「こころのまずしいひとびとは、さいわいです。てんのくには、そのひとたちのものです。かなしむひとびとは、さいわいです。そのひとたちはなぐさめられます。こころのへりくだったひとびとは、さいわいです。そのひとたちは、かみさまのしゅくふくをうけつぎます。かみさまによろこばれることをいつももとめているひとは、さいわいです。そのひとたちは、みたされます。ひとびとのためにこころをささげているひとはさいわいです。そのひとたちはあわれみをうけます。こころのきよいひとびとはさいわいです。そのひとたちは、かみさまをみます。へいわをつくりだすひとびとはさいわいです。そのひとたちは、かみさまのこどもとよばれます。」
きょうも、じゅうじじかのしから、みっかめにふっかつし、てんにあげられたイエスさまは、みことばとせいれいをあたえてくださり、せかいじゅうのすべてのひとびとが、イエスさまのめぐみによって、すくわれるようにみちびいておられます。
イエスさま、きよいこころをあたえください。あなたが、あたえてくださる、つみからのすいくをしんじて、あゆみます。アーメン
2023年4月9日 子どもと親のカテキズム問30
イエスさまは、私たちの救い主としてどのようにそのつとめをはたされますか。
イエスさまは、私たちの救い主として、十字架の死にいたるまでの低くへりくだられた時も、復活から始まる高く挙げられている時においても、預言者、祭司、王としてのつとめをはたされます。
イエスさまは、じゅうじかのうえでしなれてから、みっかめによみがえられました。そして、でしたちのみているまえで、てんにあげられました。いまも、イエスさまは、ちちであるかみさまのみぎのざにおつきくださり、えいこうにみちたおかたとして、そのつとめをはたしておられます。
イエスさまのつとめは、みっつあります。ひとつは、みことばをひとびとにおしえるつとめです。それは、わたしたちは、かみさまのことをなにもしらないばかりでなく、かみさまにそむくつみをおかすので、ただしいみちをおしえていただかなければならないからです。
ふたつめは、ひとびとのつみをとりなして、いのるつとめです。それは、かみさまのことばをきいても、わたしたちは、それをかんぜんにまもることができないばかりでなく、つみをゆるされなければ、かみさまにおいのりをきいていただくことができないからです。
みっつめは、ひとびとをあくのゆうわくからまもってくださる、つとめです。それは、わたしたちは、みんなよわく、みことばにきくことも、おいのりすることも、かみさまにまもられなければ、それをはたすことができないからです。
イエスさまは、ただおひとり、みことばをかんぜんにまもり、じゅうじかのうえでも、ひとびとのために、つみをゆるしてくださるようにいのり、どんなときでも、わたしたちをまもっておられるおかたです。じゅうじかのうえにしなれ、みっかめによみがえられた、イエスさまが、どんなときでも、わたしたちいっしょです。
イエスさま、じゅうじかのしから、みっかめにふっかつされた、あなたのすくいをしんじ、えいこうをさんびします。アーメン
2023年4月2日 子どもと親のカテキズム問29
イエスさまは、どうしてイエス・キリストと呼ばれるのですか。
「イエス」とは主は救い、「キリスト」とは油注がれた方という意味です。むかし、預言者や祭司や王は油注がれて、そのつとめにつきました。イエスさまは、聖霊によって油を注がれ、神さまによって完全な預言者、祭司、王として、救い主のつとめにつかれました。
みなさんは、じぶんのなまえをいえますか。そうですね。みんなひとりひとりにたいせつななまえをあたえられています。イエスさまのなまえは、かみさまのひとりごとしてのおなまえです。ですから、おいのりのときにも、「イエスさま」とよんでおいのりしますし、また、「てんのかみさま」「てんのおとうさま」をよんでおいのりするときにも、「イエスさまのみなによって」「イエスさまのおなまえによって」おいのります。それは、わたしたちが、そのままで、かみさまのまえにでることができように、イエスさまが、わたしたちのみがわりとなって、じゅうじかのうえでしんでくださったからです。
それでは、いま、イエスさまはどこにおられるのでしょうか。いちどじゅうじかのうえにしなれたイエスさまは、みっかめに、はからよみがえって、でしたちにあらわれ、てんにあげられました。そして、やくそくのせいれいを、でしたちにそそいでくださいました。
せいれいによって、わたしたちが、イエスさまをしんじて、せんれいをうけると、わたしたちは、イエスさまをしんじるひとびとのあつまりである「キリストきょうかい」のひとりとされます。この「キリスト」とは、「イエスさま」のことで、とくに、イエスさまが、わたしたちのために、せいれいのめぐみをあたえてくださっていることをいいあらわしています。せいしょのことばをまなぶこと、おいのりをささげること、そして、すべてのひとのために、イエスさまのあいをささげること、そのすべてが、「イエスさまこそ、ほんとうのすくいぬし、キリストです」と、しんじていることを、ひとびとにいいあらわしていることです。
イエスさま、あなたは、わたしたちのすいくぬし、キリストです。あなたのれいによって、こころからおいのりします。アーメン
2023年3月26日 子どもと親のカテキズム問28
どうして救い主はまことの人でなければならないのですか。
神さまに背き、罪を犯し、神さまの怒りと裁きをまねいたのは私たち人間です。救い主はまことの人として私たちにかわって罪をつぐなう必要があったからです。
イエスさまは、じゅうじかにつけられるまえのよる、いつものようにオリーブやまでおいのりしました。「おとうさま、みこころなら、このさかずきをわたしからとりのけてください。しかし、わたしのねがいではなく、あなたのこころのままにおこなってください。」
イエスさまが、いのりおわって、たちあがり、でしたちのところにもどってみると、でしたちはかなしみのはてにねむりこんでいました。
イエスさまはいわれました。「どうしてねむっているのですか。かみさまにそむくつみをおかなさないように、おきていのっていなさい。」
イエスさまは、かみさまのひとりごでありながら、わたしたちとおなじように、からだがつかれることがあったばかりでなく、かみさまにそむくつみをおかなさいように、いつもいのっていました。それは、かみさまをいつもよろこぶ、ただしいみちをいつもあゆんでおられたからです。
わたしたちにんげんがおかしたつみのために、かみさまは、わたしたちにんげんがいちどしぬことをさだめらました。おなじように、イエスさまは、じゅうじかのうえに、いちどしぬことまで、そのからだにひきうけてくださったのです。それは、かみさまのいかりとさばきを、わたしたちのみがわりとなっておってくださるためです。
イエスさまのじゅうじかのしが、わたしたちのみがわりのしであったことをしんじるひとは、かみさまのいかりとさばきをまぬがれて、かみさまをいつもよろこんでいきるようにすくわれます。
イエスさま、わたしのみがわりに、じゅうじかのうえにいちどしんでくださったとしんじます。あなたをしんじていきます。アーメン
2023年3月19日 子どもと親のカテキズム問26
私たちを、罪とほろびから救い出してくださる救い主とはだれですか。
イエス・キリストです。この方は、父なる神さまの独り子であり、まことの神さまです。また、私たちの救いのために、聖霊によっておとめマリアより罪のない方として生まれ、まことの人になってくださいました。イエスさまは、まことの神さまであり、まことの人です。
イエスさまが、せんれいしゃヨハネから、せんれいをうけたときのことです。イエスさまは、おいのりをささげていました。すると、てんがひらけて、せいれいがはとのようにめにみえるすがたで、イエスさまのうえにくださってきました。すると、「あなたはわたしのあいするこ、わたしのこころにかなうもの」というこえが、てんからきこえました。
せんれいは、つみをあらいきよめるしるしです。ですから、たくさんみずをかけたから、つみがあらわれるのではなく、こころから、じぶんのつみをくいあらためて、イエスさまをしんじるひとがすくわれるのです。
それでは、どうして、つみのないばかりか、いつも、かみさまのひとりごとして、まったくきよいおかたとして、あゆまれたイエスさまが、せんれいをうけられたのでしょうか。
それは、わたしたちを、つみとほろびからすくいだすために、ほんとうのかみさまでありながら、せいれいによって、マリアのおなかにやどり、ほんとうのにんげんとしてうまれてくださったからです。
ですから、イエスさまをしんじるとは、わたしたちのために、わたしたちとおなじように、わたしたちとちがってつみのない、にんげんになられた、ほんとうのかみさま、かみさまのひとりごをしんじることです。このとき、わたしたちは、かみさまをかなしませるつみをくいあらため、かみさまをよろこぶほんとうのあいにいきるように、せいれいによって、つみのこころをきよくされます。
イエスさま、わたしたちのつみのために、じゅうじかのうえでささげられた、あなたのきよいこころを、あたえてください。アーメン
2023年3月12日 子どもと親のカテキズム問27(25、27、26の順とします)
どうして救い主はまことの神さまでなければならないのですか。
まことの神さまでおあるお方だけが、私たちの罪を完全につぐない、私たちを神さまとの交わりへと回復し、神さまの子どもとしてくださることがおできになるからです。
イエスさまは、じゅうじかにかけられるまえに、でしたちをあしをあらわれたとき、このようにいわれました。「いまや、わたしは、じゅうじかのくるしみをうけることによって、かみさまが、ほんとうにいきておられることを、ひとびとにあらわします。わたしをつかわされた、ほんとうのかみさまは、わたしが、じゅうじかのくるしみをうけたことによって、かみさまのえいこうをうけました。」
イエスさまは、おうまれになられるまえから、かみさまのえいこうをあらわす、かみさまのひとりごであり、じゅうじかにかけられることは、ごじしんをつかわされた、ちちであるかみさまのみこころであることを、わたしたちにおしえてくださいました。
イエスさまが、かみさまのひとりごであり、ほんとうのかみさまであることは、じゅうじかのくるしみをうけられたことによって、かみさまのえいこうをあらわしたこと、そして、みっかめにふっかつされたこと、でしたちのみているまえで、てんにあげられ、ちちであるかみさまのもとにおられることによって、わかります。
イエスさまは、じぶんのからだを、じゅうじかのうえにささげてくださり、かみさまとつみびとであるわたしたちが、かみさまのよろこばれるれいはいがささげられるように、そなえてくださいました。このイエスさまがうけられた、じゅうじかのくるしみが、わたしたちのためであったとしんじるひとは、かみさまのよろこばれるれいはいをささげることができるようにかえられます。
いつも、かみさまのひとりごである、イエスさまのめぐみとみことばをしんじて、かみさまのこどもとして、ほんとうのかみさま、イエスさまを、こころから、れいはいしましょう。
イエスさま、じゅうじかのくるしみは、かみさまのえいこうのためです。つみをあらいきよめられ、あなたをよろこびます。アーメン
2023年3月5日 子どもと親のカテキズム問25
神さまは、このような罪人となった私たちを、ほろびるままにお見捨てになりましたか。
いいえ、神さまは、私たちをあわれんで、救い主によってご自分の子どもに回復しようと、御心(みこころ)のままにおさだめになりました。この救い主によって、神さまは罪とほろびから救い出してくださいます。
イエスさまのでしたちが、イエスさまのところにきておはなしをしていたときのことです。ちょうぜいにんや、つみびとたちも、みんな、イエスさまのおはなしをきこうとして、イエスさまにちかよってきました。すると、ファリサイびとや、りっぽうがくしゃたちは、「このひとは、つみびとたちをむかえて、いっしょに、しょくじをしている」とふまんをいいはじめました。
それは、ファリサイびとたちは、ちょうぜいにんや、つみびとたちを、じぶんたちのただしさときよさにはんするひととみなして、なかよくいっしょにすることがまったくなかったので、こころのなかで、にくらしくおもったからです。
そこで、イエスさまは、つぎのたとえをはなされました。「あなたがたのなかに、ひゃっぴきのひつじをもっているひとがいて、そのいっぴきをみうしなったとすれば、きゅうじゅうきゅうひきをのはらにのこしておいて、みうしなったいっぴきをみつけだすまでさがしまわらないだろうか。そして、みつけたら、よろこんで、そのひつじをかついで、いえにかえり、おともだちや、きんじょのひとびとをよびあつめて、『みうしなったひつじをみつけたので、いっしょによろこんでください』というでしょう。」
「いっておきますが、このように、かみさまがじぶんをさがしていることをみとめて、かみさまのもとにかえってくる、ひひとりのつみびとは、かみさまのもとにかえろうとしないきゅうじゅうきゅううにんの、じぶんのつみをみとめず、じぶんをただしいひととしているひとよりも、おおきなよろこびがあります。」
イエスさまは、いつもごじぶんにつみびとをまねいておられます。
イエスさま、あなたは、わたしたちひとりひとりをさがしておらます。あなたのもとにかえって、あなたを、よろこびます。アーメン
2023年2月26日 子どもと親のカテキズム問24
自分の力で神さまの怒りと裁きから救われることはできますか。
いいえ、できません。私たちは、悪へといつも向かってしまい、どんなに良い行いをしても神さまの御前(みまえ)に自分の罪をつぐなうことができないからです。
イエスさまが、みずうみでおこった、はげしいかぜとなみをしずめられたあとのことです。みずうみのむこうぎしのガラタ人のちほうにつかれると、あくれいにとりつかれたひとがふたり、はかばからでてイエスさまのところにやってきました。ふたりは、とてもてにおえないらんぼうもので、だれもそのあたりのみちをとおることができないほどでした。
イエスさまをみると、ふたりは、とつぜん、さけんでいいました。「かみさまのこよ、あなたはおれたちとどんなかんけいがあるのだ。まだそのときではないのに、おれたちをくるしめるのか。」
そこからとおくはなれたところに、おびただしいぶたのむれがかってありました。あくれいたちは、イエスさまにねがっていいました。「もし、おれたちをおいだすのなら、あのぶたのむれのなかにつかわしてください。」そこで、イエスさまが、「いきなさい」といわれると、あくれいたちはでていって、ぶたのなかにはいりこみました。すると、そのぶたのむれは、みんな、がけからうみでなだれをうってかけくだり、みずのなかでしんでしまいました。
ぶたをかっていたひとたちは、にげてまちにいき、あくれいにつかれたひとたちのことなどを、みんなにしらせました。すると、まちじゅうのひとたちが、イエスさまにあおうとやってきましたが、イエスさまをみると、そのちほうからでていってもらいたいといいました。にんげんのあくは、このあくまのほうにむかうこわいものです。かみさまが、それをさばかるならば、だれひとり、すくわれるひとはいません。
イエスさまのじゅうじかは、あくにむかうつみびとを、かみさまのいかりとさばきからすくう、ただひとつのめぐみです。
イエスさま、あくにむかうつみをきよめてください。じゅうじかのあいをしんじて、あなたをよろこぶほうへ、むかいます。アーメン
2023年2月19日 子どもと親のカテキズム問23
では、あなたも罪人ですか。
はい、私も神さまの御前(みまえ)に罪人です。神さまの怒りと裁きを受けなければなりません。
かみさまのことばが、あれのでザカリアのヨハネにくだったときにことです。ヨハネは、ヨルダンがわにそったあたりいったいにいって、かみさまのみまえにつみびとであるすべてのひとびとが、つみをゆるされ、かみさまにじぶんのつみをみとめるひとになれるように、くいあらためのせんれいをのべつたえました。
このヨハネのさけびこえは、よげんしゃイザヤがいったとおりです。「あれのでさけぶもののこえがする。しゅのみちをととのえ、そのみちをまっすぐにしなさい。まがったみちはまっすぐに、でこぼこのみちはたいらになり、ひとびとはみな、かみさまのすくいをあおぎみます。」そこで、ヨハネは、せんれいをさずけてもらうとしてでてきた、おおくのひとびとにいいました。「まむしのこらよ。さしせまったかみさまのいかりをまぬかれると、だれがおしえたのか。くいあらためにふさわしいみをむすびなさい。『わたしたちのほこりは、しんこのちち、アブラハムだ』などというかんがえをおこしてはいけません。いっておきますが、かみさまは、こんないしころからでも、アブラハムの子たちをつくりだすことができます。」
そこで、おおくのひとびとは、ヨハネにたずねました。「それでは、わたしたちは、どうすればいいのですか。」ヨハネはこたえました。「したぎをにまいもっているひとは、いちまいももたないひとにわけてあげなさい。たべものをもっているひともおなじようにしなさい。」そして、ヨハネはいいました。「わたしはあなたたちにみずでせんれいをさずけますが、わたしよりもすぐれたかたがこられます。そのかたは、せいれいとひで、あなたたちにせんれいをおさずけになります。」
このおかたが、かみさまのいかりとさばきを、じゅうじかのうえで、わたしたちのみがわりにおってくださった、イエスさまです。
イエスさま、あなたのじゅうじかをしんじます。わたしをかみさまのみまえにいかりとさばきから、すくってください。アーメン
2023年2月12日 子どもと親のカテキズム問22
神さまに背いた人間はどのように歩むようになりましたか。
心が曲がって、偶像を拝むようになってしまいました。他の人を愛さないで、にくみ、いじめたりするようになってしまいました。神さまがお造りになったものを大切にせず、自分勝手に用いるようになってしまいました。
イエスさまは、あるとき、サマリアにいきました。ひるの12じごろのことです。イエスさまは、みちをあるいてきたので、くたくたになって、いどのそばにすわっておられました。ひとりのサマリアのおんなのひとが、みずをいどにくみにきました。イエスさまは、このおんなのひとに、「みずをのませてください」といいました。すると、サマリアのおんなのひとはいいました。「あなたは、ユダヤじんなのに、どうして、サマリアのおんなのわたしに、のませてくれ、というのですか」。それは、ユダヤじんと、サマリアじんは、なかよくしていなかったからです。
イエスさまはいわれました。「もし、あなたが、かみさまがあたえてくださるものをしり、また、わたしがだれであるかしっていたならば、あなたのほうからねがいでて、そのひとから、いきたみずをもらうでしょう」。おんなのひとはいいました。「そのいきたみずをどこからてにいれるのですか。」イエスさまはいいました。「このみずをのむひとはだれでも、また、かわきます。けれども、わたしがあたるみずをのむひとは、いつまでもかわくことがないばかりが、わたしがあたえるみずが、そのひとのうちで、いずみとなって、こんこんと、えいえんのいのちにあふれるみずが、わきあがります。」おんなのひとはいいました。「イエスさま、わたしがかわくことのないように、そのみずをわたしにください。」
このみずとは、かみさまのれいによるいのちのみずです。にんげんがつくった、ぐうぞうのかみさまには、そのようなちからはありません。ただのいし、ただのき、だからです。けれども、イエスさまがくださるいのちのみずをいただくとき、わたしたちは、つみのこころがかえられて、ひとをたいせつにするようにかえられます。
うれしいときも、かなしいときも、あいのこころをささげます。
イエスさま、じゅうじかのうえであなたが、わたしたちのつみをおってくださったあいのこころを、わたしに、ください。アーメン
2023年2月5日 子どもと親のカテキズム問21
罪を犯した人間はどうなりましたか。
人間は生まれながら悪へとかたむく罪人になってしまいました。神さまとの交わりを失い、神さまに背いて歩むようになり、神さまの怒りを受け、ほろびの死に定められました。
しゅであるかみさまは、アダムをエデンのそのからおいだし、アダムがとられたつちをたがやすことにされました。
アダムとエバは、いっしょにくらし、エバは、カインとおとうとのアベルをうみました。アベルはひつじをかうものとなり、カインはつちをたがやすものとなりました。
しばらくすると、カインはつちからとれたみのりを、かみさまのもとにささげものとしてもってきました。アベルは、ひつじのむれのなかから、まるまるとしたはじめてのこをもってきました。
かみさまは、アベルとそのささげものにめをとめられました。けれども、カインのささげものにはめをとめられませんでした。カインは、とてもおこって、かおをふせました。かみさまは、カインにいわれました。「どうしておこるのですか。どうしてかおをふせるのですか。もしあなたがただしいのなら、かおをあげられるはずではないですか。」
カインはおとうとあべるにこえをかけて、のはらで、アベルをおそってころしました。かみさまは、カインにいわれました。「あなたのおとうとアベルはどこにいるのですか。」カインはこたえました。「しりません。わたしはおとうとをいつもみていないといけないのですか。」
かみさまはいわれました。「なんということをしたのですか。あなたのおとうとのちが、つちのなかから、わたしにむかってさけんでいます。」カインはいいました。「わたしのつみはおもすぎておいきれません。」
カインとおなじように、だれもが、おもいつみを、おっています。このおもいつみをイエスさまが、わたしたちのみがわりになって、おってくださいました。
イエスさま、じゅうじかのうえであなたが、おってくださったつみを、わたしはおうことができません。ただしんじます。アーメン
2023年1月29日 子どもと親のカテキズム問20
罪とは何ですか。
神さまの言葉に背くことです。神さまの言葉にひとつでも従わないならば、私たちは神さまの御前に罪人です。
かみさまは、はじめのひと、アダムさんとおやそくをしましたが、そのやくそくを、はじめのひと、アダムとエバは、まもることができませんでした。このかみさまとのやくそくをまもらないことを、「つみ」といいます。
そればかりか、アダムが、かみさまのやくそくをまもらないで、つみが、にんげんのなかにはいったために、それからうまれてくるひとはみんな、かみさまとのやくそくをまもることのできない、つみをおっています。このつみをおっているにんげんのことを「つみびと」といいます。
アダムとエバが、かみさまとのやくそくをまもらなかった、そのひ、かぜがふいてきました。そして、かみさまが、エデンのそのをあゆくおとがきこえてきました。アダムとエバは、かみさまからみられることをさけて、そののきのあいだにかくれました。
すると、かみさまは、アダムをよばれました。「あなたは、どこにいるのですか。」アダムはこたえました。「あなたがあるくおとが、そののなかにきこえたので、こわくなって、かくれています。わたしは、はだかですから。」
かみさまはいわれました。「あなたが、はだかであることをだれがつげたのですか。とってたべるな、とめいじたきからたべたのか。」アダムはこたえました。「あなたがわたしといっしょにいるようにしてくださったエバが、きからとってあたえたので、たべました。」かみさまは、エバにいいました。「なんということをしたのか。」エバはこたえました。「へびがだましたので、たべてしまいました。」
つみは、かみさまからかくれ、よわい、はだかのじぶん、じぶんのしたことをみとめず、ひとのせい、あくまのせいにします。
てんのおとうさま、ひとりごイエスさまのじゅうじかを、しんじます。わたしたちのつみのこころを、きよめてください。アーメン
2023年1月22日 子どもと親のカテキズム問19
最初の人間は、創造された時のすばらしい祝福の状態にとどまりましたか。
いいえ。アダムとエバは、神さまの言葉に背き、罪を犯しました。
かみさまにつくられた、はじめのひと、アダムとエバは、かみさまにしゅくふくされた、エデンのそので、かみさまからめいじられたとおり、そのつちをたがやして、まもっていました。そして、そののすべてのきからとってたべましたが、かみさまから、「ぜんあくのちしきのみからはけっしてたべないように。たべるとかならずしぬ」とめいじられた、かみさまのやくそくをまもっていました。
ところが、へびが、エデンのそので、おんなのひと、エバにいいました。「そののどのきからもたべてはいけない、などと、かみさまがいわれのですか。」エバは、へびにこたえました。「わたしたちは、そののきのみだけはたべてもよいのです。けれども、そののまんなかにはえているきのみだけは、たべてはいけない、しんではいけないから、とかみさまはいわれました」。
へびは、エバにいいました。「けっしてしぬことはありません。それをたべると、めがひらけ、かみさまのように、よいこととわるいことをしるものとなることをかみさまはしっておられるのです」。エバは、そののまんなのきのみをみると、いかにもおいしそうで、めをひきつけ、かしこくなるようにそそのかしていました。エバはそのみをとってたべ、いっしょにいたアダムにもわたしたので、アダムもたべました。
このとき、アダムとエバのめがひらけ、じぶんたちが、はだかであることをしって、いちじくのはをつづりあわせ、こしをおおいました。これが、つみのはじまりです。
はじめのにんげん、アダムとエバがつみをおかしたために、すべてのひとが、かみさまのしゅくふくをけがすようになりました。つみのせかいからつみをのぞくためにこられたおかたが、わたしたちのつみのために、じゅうじかにかけられた、イエスさまです。
てんのおとうさま、ひとりごイエスさまを、わたしたちのつみのためにおあたえくださったことをこころからしんじます。アーメン
2023年1月15日 子どもと親のカテキズム問18
神さまのかたちに似せて造られた人間は、どのように歩むのですか。
神さまを礼拝し、神さまを喜び、家族や友だちを愛し、神さまがお造りになったものを大切にして、神さまに仕えて歩みます。
みなさんは、とおいところにいったことがありますか。そのとき、どんなのりものにのったかおぼえていますか。くるま?、バス?、でんしゃ?、しんかんせん?、それとも、ひこうき?
イエスさまは、とおいとおい、てんごくから、わたしたちのために、ひととなっておうまれくださいました。そして、じゅうじかのうえにしに、みっかめによみがえって、てんにあげられました。ロケットにのって? いいえ、でしたちのみているまえで、イエスさまは、そのままてんにのぼられ、みえなくなったのです。
それでは、イエスさまは、いま、どこにおられるのでしょうか?
それは、よみがえられたからだにおいては、てんごくにおられ、せいれいによって、わたしたちのこころ、たましいのうちに、いきてはらいておられます。たしかな、イエスさまのやくそくです。
わたしたちが、かみさまのことばをきくこと、かみさまを「おとうさま」とよんでおいのりすること、おとうさん、おかあさん、おとうと、おにいさん、いもうと、おねえさん、おともだちや、きょうかいがっこうのせんせいたちをたいせつにすること、などなど、ぜんぶ、イエスさまが、ひとびとをあいされたように、たいせつにすることが、かみさまによろこばれることです。
イエスさまは、じゅうじかのうえで、ごじしんをじゅじかにつけたひとびとのために、おいのりしました。「どうか、このひとびとのつみをゆるしてください」と。それは、わたしたちが、どのようなつらいめにあっても、イエスさまのおってくださった、じゅうじかをしんじていきるみちです。このみちこそ、イエスさまのおられるてんごくにいくみち、あいのみちです。いつも、いきてはたらいておられるイエスさま、ほんとうのかみさまをさんびしましょう。
てんのおとうさま、どんなときにも、あなたをよろこび、てんごくにいくみちを、イエスさまといっしょに、あゆみます。アーメン
2023年1月8日 子どもと親のカテキズム問17
神さまはどのように人間をお造りになりましたか。
神さまは、ご自分のかたちに似せて、神さまの子どもとして神さまと共に歩むように、また男と女に、人間をお造りになりました。
みなさんは、ねんどあそびが、かたぬきをしたことがありますか。ぞうさんや、うさぎや、いかや、たこや、いろいろな、かたちをくりぬいてつくることができますね。
かみさまは、ちょうど、かたぬきをすると、おなじようなかたちができるように、にんげんを、かみさまにかたどってつくってくださいました。これは、かみさまにしかできない、かみさまのみわざです。
どうやってかみさまは、にんげんを、かみさまにかたどってつくってくださったのでしょうか。それは、つちのちりでにんげんのかたちをつくって、そのはなに、いのちのいきをふきいれることによってです。かみさまが、にんげんのはなに、いのちのいきをふきいれると、にんげんは、いきるものになったのです。
にんげんが、いぬや、ねこや、さるとおなじなのは、しんでちりにかえることです。でも、ちがうことは、にんげんは、かみさまをれいはいしていきることです。それは、かみさまにかたどってつくられたににんげんには、かみさまのことをおもうこころ、れい、があたえられているからです。
つみのために、にんげんはただしくかみさまをれいはいすることができません。けれども、てんのかみさまは、わたしたちに、ひとりごイエスさまをあたえてくださり、じゅうじかのうえにささげられたいのちによって、しんでほろびることなく、あたらしくいきる、ほんとうのてんごくへのみちをひらいてくださいました。
きょうも、イエスさまのいのちと、かみさまのれい、せいれいによって、こころから、にんげんをつくられたかみさまを、みんなでいっしょに、ほめたたえましょう。そして、いつも、かみさまをよろこんで、あゆみましょう。
てんのおとうさま、いつも、あなたをただしくれいはいできますように。あなたをあいする、こころをあたえてください。アーメン
2023年1月1日 子どもと親のカテキズム問16
運が悪いと言ったり、占いを気にしたり、たたりを心配する必要はありますか。
いいえ。キリストの父である神さまは、子どもである私たちを愛し、いつも守ってくださいます。たとえ涙がとまらないようなことがあっても、すべてのことが私たちの役に立つように導いてくださいます。
まいにちのようにいろいろなことがおこります。そのひとつひとつのことを、すべて、「うん」や「うらない」や、「たたり」のせいにしたらどうなるでしょうか。あれは、「うんがよかった」これは、「うんがわるかった」と、、これは、「うらないがあたった」、「うらないがはずれが」、これは、あのことの「たたり」でこうなったのだ、と、じぶんにとって、いいことと、わるいことが、どうしておこったのかを、べんりにいうことができます。
ところが、このべんりなことばには、ひとつかけていることがあります。それは、そのことばをつかっても、それだけのことでおわってしまうのです。そこには、かみさまへのかんしゃも、よろこびもありません。かなしいことがあっても、それを、かみさまにきいていただくおいのりをすることもないのです。そればかりか、「うん」がなくなり、「うらない」であてにならなくなり、「たたり」かどうかもわからなくなると、じぶんのせい、だれかのせいにしてしまうこともおこります。つまり、べんりなようで、わたしたちが、おたがいに、よいことをわかちあったり、かなしいことをうけとめあったりすることはできない、むなしいことばなのです。
ヨセフは、じぶんをエジプトのひとにうったおいにんさんたちに、にじゅうじゅうにねんぶりにあったとき、なみだがこぼれそうになりました。もし、これが、ただのうんだったらどうでしょう。ヨセフは、「かみさまが、わるいことを、よいことにかえてくださったのです」と、おにいさんたちにいうことができました。どんなときでもかみさまをしんじるとき、よいことも、わるいことも、すべてが、かみさまのえいこうのためにただしくもちいられるのです。かみさまのあいをどんなときにもしんじて、いのりましょう。
てんのおとうさま、うれしいときも、かなしいときも、あなたのあいのことばを、わたしのこころに、あたえてください。アーメン
2022年12月25日 子どもと親のカテキズム問15
今もすべてを支配しておられる、神さまの働きとは何ですか。
それは、私たちの神さまが、創造された世界をご計画に従って今も支配し、私たちを救いの完成へと導いておられる働きのことです。神さまのこの働きを摂理と言います。
クリスマスおめでとうございます。ことしのクリスマスは、ゆきがたくさんつもっているところがおおく、とても、さむいクリスマスになりました。こどもさんびかに、「ちらちらおちるゆきよ、ゆきよ、ちらちらとなぜおちる、はのないえだに、あたたかそうな、まわたのふくをきせるため」といううたがあります。
かみさまがつくられたせかいは、いまも、かみさまがはたらいておられ、どんなことでも、かみさまがまもっておられます。ですから、ゆきがふることも、かみさまのはたらきです。そして、どうしてゆきがふるのかも、かみさまが、そなえられたわけがあります。いつも、えだにあたたかそうなふくをきせるような、うつくしいすがたばかりではないかもしれません。くるまがうごかなくなったり、にもつがとどかなったり、でんきがとまったりして、こまることもあります。おおゆきがつもると、やねからゆきをおろすのもたいへんです。
イエスさまは、「そらのとりをよくみなさい」といわれました。そして、「そらのとりは、たねもまかず、かりいれもせず、くらにおさめもしません。それでも、あなたがたのてんのおとうさまは、そらのとりをやしなっておられます。あなたがたは、とりよりも、すばらしいものではないですか」といわれました。そして、いつまでも、くよくよしないようにしなさい、といわれました。それは、かみさまが、どんなときにも、わたしたちのためにはたらいておられること、もっともよいものをあたえてくださっていることにこころをとめるようにしなさい、ということです。
イエスさまのおたんじょうも、かみさまのはたらきのなかでおこったことです。みんなで、クリスマスをおいわいしましょう。
てんのおとうさま、どんなことにも、あなたがはたらいておられます。いつもあなたのめぐみをかんしゃしてあゆみます。アーメン
2022年12月18日 子どもと親のカテキズム問14
天と地を造られた、神さまの働きとは何ですか。
それは、私たちの神さまが、何もないところから天と地とそこにあるすべてのものを、きわめて良いものとして造られたは働きのことです。神さまのことの働きを創造と言います。
みなさんは、ねんどをこねてあそんだことがありますか。いろいろなものができてたのしいですね。めにみえるものも、みえないものを、せかいのすべてのものをつくられたかみさまは、まるでなにもないところから、ねんどをこねるとものができるように、なにもないところから、せかいのすべてのものをつくってくださいました。これを「てんちそうぞう」といいます。
ろうそくのひをつけると、ろうそくのともしびがともって、くらいところがぱっとあかるくなりますね。それとおなじように、かみさまが、てんとちをつくられた、いちばんさいしょのひは、まだ、まっくらで、かみさまのれいが、みずのおもてをうごいていただけでした。ところが、かみさまが、「ひかりあれ」といわれると、ひかりがさっとかがやいたのです。かみさまは、ひかりをみて、ほんとうにすばらしいできばえにまんぞくされました。かみさまは、ひかりとやみをわけ、ひかりをひるとよび、やみをよるとよばれました。ゆうべがあり、あさがありました。これが、かみさまが、てんとちをつくられた、いちばんさいしょのひです。
おなじように、かみさまがいわれると、いちにち、いちにち、むいかかんわたって、つぎつぎと、あたらしいせかいがつくられていきました。てんがつくられ、かわいたちと、うみがつくられ、そのちにくさがはえ、みをつけるきがめばえました。てんのおおぞらにおおきくひかるもの(たいよう)とちいさくひかるもの(つき)をつくり、いちにち、いちねんのしるしとなりました。みずのなかには、いきものがむらがり、てんのおおぞらにはとりがつくられました。ちにはいきものがうみだされ、そして、さいごに、かみさまにかたどって、にんげんがつくられたのです。そのすべてをみて、かみさまは、ほんとうにすばらしいできばえにまんぞくされました。
てんのおとうさま、あなたのつくられたすべてのものをみて、よろこんであなたをほめたたえるきよいこころをください。アーメン
2022年12月11日 子どもと親のカテキズム問13
父なる神さまとはどのような方ですか。
父なる神さまは、独り子であるイエスさまの父であり、神さまの子どもとされた私たちの父でもある方です。また、天と地の造り主で、今もすべてを支配しておられる全能の神さまです。
みなさんは、おとうさん、おかあさんのことを、どのようによびますか。「おとうさん、おかあさん」、「パパ、ママ」でしょうか。イエスさまは、ごじしんをつかわされた、かみさまを、「おとうさま」とよぶことのできる、ただおひとりのかみさまのひとりごです。ですから、イエスさまは、「わたしのおとうさまは、いまも、はたらいておられます。だから、わたしもはたらくのです」といわれ、あんそくびに、びょうきのひとをいやされました。
イエスさまは、じゅうじかにかけられるまえに、「おとうさま、ときがきました。あなたのこが、あなたをよろこぶことができるよに、あなたのこであるわたしに、あなたのよろこびをあたえてください」とおいのりしました。
じゅうじかにつけられた、かみさまのひとりご、イエスさまをしんじるひとたちは、みんな、かみさまの「こ」とされ、イエスさまとおなじように、てんのかみさまを、てんの「おとうさま」とよんで、おいのりすることができます。そして、かみさまのよろこびを、わたしにあたえてください、とおいのりします。
イエスさまは、「おとうさま、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにおられるように、すべてのひとをひとつにしてください。すべてのひとも、わたしたちのうちにいるようにしてください」といのりました。
せかいのひとびとが、へいわで、なかよくくらすために、イエスさまは、このせかいのひとびとがくらしているところに、きてくださいました。いちどこられたイエスさまが、このせかいにおうまれくださった、クリスマスをまちのぞみながら、みんなで、いっしょに、せかいのひとびとのへいわをこころからいのりましょう。
てんのおとうさま、ひとりごイエスさまのように、わたしたちも、いつも、あなたのよろこびとへいわをもとめます。アーメン。
2022年12月4日 子どもと親のカテキズム問12
三位一体の神さまは私たちの救いのためにどのように働かれますか。
父なる神さまは救いを計画し、子なる神さまは救いをなしとげ、聖霊なる神さまはその救いを私たちに与えてくださいます。私たちの救いは初めから終わりまですべて神さまの恵みです。
イエスさまは、じゅうじかにつけられるときがちかづいてきたとき、でしたちにいわれました。「あなたがたは、こころをさわがせないようにしなさい。かみさまをしんじ、また、わたしをしんじなさい。わたしをつかわされた、おとうさまのいえには、すむところがたくさんあります。わたしは、あなたがたのために、すむところにをよういしにいきます。そして、もどってきて、あなたがたをわたしのもとにむかえます。」これをきいて、でしのトマスがいいました。「イエスさま、あなたがどこへいかれるのか、わたしにはわかりません」。イエスさまはいわれました。「わたしがみちであり、しんりであり、いのちです。わたしをとおらなければ、だれも、おとうさんのもとにいくことができません。あなたがたが、わたしをしっているなら、わたしのおとうさんをしることになります。いまから、あなたがたはおとうさんをしります。いいえ、すでにおとうさんをみています」フィリポはいいました。「イエスさま、わたしたちにおとうさまをみせてください。そうすれば、まんぞくできます。」イエスさまはいいました。「フィリポ、こんなにながいあいだ、わたしといっしょにいるのに、わたしのことがわかっていないのですか。わたしをみたのは、おとうさんをみたのです。どうして、『わたしたちに、おとうさまをみせてください』というのですか。わたしがおとうさんのうちにおり、おとうさんがわたしのうちにおられるのを、しんじないのですか。」
わたしたちが、イエスさまをしんじるとき、あいするひとりごであるイエスさまをつかわされた、てんのおとうさまをしんじます。そして、イエスさまのことを、わたしたちのこころにあらわしてくださる、せいれいであるかみさまをしんじます。「さんみいったい」のかみさまを、イエスさまをとおして、しんじましょう。
てんのおとうさま、あいするひとりごイエスさまのおしえを、せいれいのみちびきによって、いつもしんじてあゆみます。アーメン。
2022年11月27日 子どもと親のカテキズム問11
聖書の中で、神さまは「父」、「子」、「聖霊」と呼ばれていますが、神さまはただひとりではないのですか。
聖書の中でそう呼ばれている方は、父なる神さま、子なる神さま、聖霊なる神さまで、それぞれが力と栄光において等しく、同じにただひとりの生きたまことの神さまです。私たちは、ただ聖書に従って、この三位一体の神さまを信じます。
イエスさまが、じゅうじかのうえにしんでくださり、みっかめにふっかつされたとき、みつかいは、おんなのひとたちにつげていいいました。「あのかたは、しんだひとのなかから、よみがえられまいた。そして、あなたがたよりさきにガリラヤへいかれます。そこで、おあいするすることができます」。
おんなのひとたちから、「ガリラヤへいくように。そこで、イエスさまにおあいできます」ときいた、じゅういちにんのでしたちは、ガリラヤへいき、イエスさまが、いくようにめいじられた、やまにのぼりました。そして、イエスさまをみて、ひざまずきました。しかし、このひとは、よみがえったイエスさまだろうか、とうたがうひともいました。
イエスさまは、でしたちにちかよってきていいました。「わたしは、てんにおいても、ちにおいても、すべてのちからをあたえられました。だから、あなたがたは、いって、すべてのくにのひとびとが、わたしにしたがうようにおしえ、ちちなるかみさまと、こなるかみさまと、せいれいなるかみさまのおなまえによって、つみをあらいきよめたしるしの、せんれいをさずけなさい。」
この「ちちなるかみさまと、こなるかみさまと、せいれいなるかみさま」を、「さんみいったいのかみさま」とよびます。
わたしたちは、じゅうじかにつけられた、イエスさまをかみさまのひとりごとしんじ、イエスさまをつかわされた、ちちなるかみさまをしんじます。そして、わたしたちに、イエスさまのことをおしえてくださる、せいれいなるかみさまをしんじ、イエスさまのふくいんを、すべてのひとがしんじてすくわれるように、「てんにおられるかみさま」を「おとうさま」よんで、おいのりします。
てんのおとうさま、あいするひとりごイエスさまのじゅうじかとふっかつのしらせを、せいれいによって、つたえます。アーメン。
2022年11月20日 子どもと親のカテキズム問10
ほかの神さまとは何ですか。
人間が造り出した、命のない偶像です。偶像とは、太陽や月、動物や植物、人間などを神さまのようにすることです。偶像を拝むことは、神さまがもっとも悲しまれることです。
イエスさまをつたえたパウロというひとが、リストラというところにいったときのことです。あしがぜんぜんうごかないおとこのひとがすわっていました。このひとは、おかあさんのおなかのなかにいるときから、あしがうごかず、うまれてから、いちども、あるいたことがありませんでした。このひとが、パウロのおはなしをよくきいていました。パウロは、このひとをみつめて、このひとが、いつも、ほんとうのかみさまのちからをしんじているのをみとめて、おおきなこえでいいました。「じぶんのあしでまっすぐにたちなさい」。すると、このひとは、ぴょんぴょんとはねながら、あるきだしました。
たくさんのひとびとは、パウロがしたことをみてこえをはりあげていいました。「かみさまが、にんげんのすがたで、わたしたちのところにおくだりなった」。そして、パウロといっしょにきた、としをとった、バルナバを「いちばんえらい、かみさまだ」とよび、わかい、パウロを「えらい、かみさまからのおつかいだ」とよびました。そして、リストラのまちのそとにあった、いちばんえらいかみさまがまつられていた、しんでんのさいしが、いえのもんのところまできて、うしと、はなわをはこんできて、バルナバとパウロを、かみさまのようにおがもうとしました。
バルナバとパウロは、じぶんのうわぎをひきさいて、ひとびとのなかにとびこんでいってさけんでいいました。「みなさん、どうしてこんなことをするのですか。わたしたちもあなたがたとおなじ、にんげんです。すべてのものをつくられた、いきておられる、ほんんとうの、ただひとりのかみさまにたちかえるように、ひとびとをつみからすくう、よきしらせをつげしらせているのです。」たくさんのひとびとは、これをきいて、バルナバとパウロを、いちばんえらいかみさまとそのおつかいにして、おがむのをやめました。
てんのおとうさま、あなたがつくられたものを、かみさまにすることをせず、おひとりのかみさまだけを、しんじます。アーメン。
2022年11月13日 子どもと親のカテキズム問9
聖書が語っているまことの神さまのほかに神さまがいますか。
いいえ、生きたまことの神さまはただおひとりだけです。
イエスさまは、おおくのひとびととでしたちにおはなしになりました。「りっぽうがくしゃたちや、ファリサイはのひとたちは、かみさまのりっぽうをよくまなんで、おしえています。だから、かれらがいうことは、すべておこない、まもりなさい。しかし、りっぽうがくしゃたちのしていることに、みならってはいけません。いうだけで、こころからしないからです。かれらは、せおいきれないおもいにもつをまとめ、ひとのかたにのせますが、じぶんではそれをうごかすために、ゆびいっぽんかそうともしません。りっぽうがくしゃたちのすることは、すべてひとにみせるためです。みことばのはいったちいさなはこをおおきくしたり、きているふくのふさをおおきくしたります。たくさんのひとびとがあつまるえんかいでは、めだつせきにすわることがだいすきで、また、ひとばであいさつされたり、『せんせい』とよばれたりするのがだいすきです。けれども、あなたがたは、『せんせい』とよばれてはいけません。あなたがたのせんせいは、ひとりだけで、あとはみんな、おなじきょうだいだからです。また、ちじょうのひとたちを『おとうさん』とよんではいけません。あなたがたのほんとうのおとうさんは、てんのおとうさま、ただおひとりだけです。『おしえみちびくひと』とよばれてもいけません。あなたがたを、ほんとうにおしえみちびくのは、あぶらそそがれたひと(キリスト)おひとりだけです。あなたがたのうちでいちばんえらいひとは、つかえるひとになりなさい。だれでもたかぶるひとはひくくされ、へりくだるひとはたかくされます。」わたしたちが、いきたまことのかみさまが、ただおひとりであることをしるとき、ほんとうに、したがうひとは、ただおひとりであることがわかります。「せんせい」も、「おとうさん、おかあさん」も、このかみさまにまさるものではありません。ほんとうのせんせい、わたしたちをごじしんのこどもとしてやりない、おしえ、みちびいてくださっている、てんのおとうさま、ただおひとりのかみさまにしたがいましょう。
てんのおとうさま、イエスさまをあたえてくださり、ありがとうございます。いつもイエスさまのおしえをまもります。アーメン。
2022年11月6日 子どもと親のカテキズム問8
聖書が語っているまことの神さまはどのような方ですか。
目に見えない霊なる方で、「あなた」と呼んで、お話しできる神さまです。この神さまは、永遠で、変わりなく、いつでもどこでもいてくださる、ただひとりの生きたまことの神さまです。
むかし、ソドムとゴモラにすむひとびとが、しゅであるかみさまにたいして、おおくのつみをおかしていたときにことです。
ソドムをみおろすところにきたアブラハムは、かみさまにすすみでていいました。「ほんとうに、あなたは、ただしいひとと、わるいひとを、いっしょのほろぼされるのですか。あのまちにただしいものが50にんいるとしたら、その50にんのただしいひとのために、まちをおゆるしにはならないのですか。」かみさまはいいました。「もし、ソドムのまちにただしいひとが50にんいたら、そのひとのために、まちをぜんぶゆるそう。」
アブラハムはいいました。「もしかしたら、50にんに5にんたりないかもしらません。5にんたりないために、まちをすべてほろぼされますか。」かみさまはいいました。「もし45にんいればほろぼさない。」アブラハムはいいました。「もしかしたら、40にんしかいないかもしれません。」かみさまはいいました。「その40にんのためにほろぼさない。」アブラハムはいいました。「かみさま、どうかおこらずに、いわせてください。もしかしたら、30にんしかしないかもしらません。」かみさまはいいました。「その30にんのためにほろぼさない」アブラハムはいいました。「もしかすると20にんかもしれません。」かみさまはいいました。「その20にんのためにほろぼさない」アブラハムはいいました。「もういちどだけいわせてください。もしかしたら、10にかもしれません。」かみさまはいわれました。「その10にんのためにわたしはほろぼさない。」それから、ソドムはほろぼされましたが、かみさまは、アブラハムをこころにとめて、かぞくのロトをすくだされました。アブラハムのように、あきらめずによくいのりましょう。
しゅであるかみさま、あなたのひとりごイエスさまを、わたしたちのつみのためにあたえてくださり、かんしゃします。アーメン。
2022年10月30日 子どもと親のカテキズム問7
聖書が語っているまことの神さまのほかに神さまがいますか。
いいえ、生きたまことの神さまはただひとりだけです。
むかし、サムエルというしょうねんがいました。サムエルは、さいしエリにつかえていました。サムエルは、イスラエルのひとびとが、エジプトからすくだされたことをあかしする「かみのはこ」がおかれている「しんでん」にねていました。
しゅであるかみさまは、「サムエルよ」と、サムエルをよばれました。サムエルは「ここにいます」をこたえて、エリのところにはしっていきました。「およびなったのでまいりました」とサムエルはいいました。しかし、エリが、「わたしはよんでいません。もどっておやすみなさい」といってので、サムエルはもどってねました。しゅであるかみさまはもういちど、「サムエルよ」とよばれました。サムエルはおきて、エリのもとにいきました。「およびになったのでまいりました」とサムエルはいいました。エリは、「わたしはよんでいません。もどっておやすみなさい」といいました。
しゅであるかみさまは、もういちど、さんどめも、「サムエルよ」とよばれました。サムエルはおきて、エリのもとにいきました。エリは、サムエルをよんだのは、かみさまであるとわかって、サムエルにいいました。「もどってねなさい。もしまた、よびかけられたら、『しゅである、かみさま、おはなしください。しもべはきいております』といいなさい」。サムエルはもどってねました。しゅであるかみさまは、これまでとおなじように、サムエルをよばれました。「サムエルよ」。サムエルはこたえました。「どうぞおはなしください。しもべはきいております。」かみさまは、サムエルに、ごじしんのことばをつげてくださいました。
しゅであるかみさまは、サムエルとおなじように、わたしたちのなまえをしっておられ、ごじしんのことばをつげてくださいます。「どうぞおはなしください。しもべはきいております」と、いきておられる、ほんとうのかみさまのことばにききましょう。
てんのかみさま、せいしょのことばは、ほんとうです。どうか、あなたのこえを、どんなときにも、きかせてください。アーメン。
2022年10月23日 子どもと親のカテキズム問6
まことの神さまを知り、神さまと共に歩む道は何によってわかりますか。
神さまの言葉である聖書によってです。御言葉は私たちの道の光です。
イエスさまが、エルサレムのベトザタのいけにのぼられたときのことです。このベトザタのいけには、いつつのろうかがあり、そこには、びょうきのひと、めのみえないひと、あしのうごかないひと、からだのうごかないひとなどが、たくさん、よこたわっていました。そこに、38ねんのあいだ、びょうきでずっとくるんでいたひとがいまいた。イエスさまは、そのひとがながいあいだびょうきでよこになっているのをみて、「よくなりたいですか」といいました。このひとはこたえました。「イエスさまは、みずがうごくとき、わたしをいけのなかにいれてくれるひとがいないのです。わたしがいくうちに、ほかのひとがさきにおりていくのです。」イエスさまがいわれました。「おきあがりなさい。ねているしきものをかついであるきなさい。」すると、そのひとはすぐによくなって、しきものをかついてあるきだしました。
そのひは、あんそくびでした。そこで、ユダヤじんたちは、びょうきがよくなったひとにいいました。「きょうはあんそくびだ。だから、しきものをかつぐことは、りっぽうのきまりでゆるされていない。」しかし、そのひとは、「わたしのびょうきをなおしてくださったかたが、『しきものをかついであるきなさい』いわれたのです」とこたえました。そのあと、イエスさまは、しんでんで、このひとにあっていいました。「あなたはよくなった。もう、かみさまのことをうらんだりしてはいけません。」
イエスさまは、ちちなるかみさまといっしょに、いつも、いきてはたらいておられる、ほんとうのかみさまです。せいしょは、イエスさまが、なさったことをとおして、ほんとうに、このかたが、かみさまのひとりごであることをしんじるためにかかれました。イエスさまは、かみさまからはなれた、つみびとのみがわりにおわれたのです。このイエスさまといつもいっしょに、あゆみましょう。
イエスさま、せいしょのみことばは、あなたのじゅうじかとあいをつたえています。あなたのみことばにしたがいます。アーメン。
2022年10月16日 子どもと親のカテキズム問5
神さまが私たちに求めておられること何ですか。
神さまを愛し、家族や友だちを愛し、神さまが造られたものを大切にして、祈りつつ歩むことです。
とおいとおいむかしのこと、ヨブというひとがいました。ヨブはただしいひとで、いつもかみさまをおそれ、わるいことをさけていきていました。ななんにんのおとこのこと、さんにんのおんなのこといっしょにくらしていました。そして、とてもたくんさんの、ひつじ、らくだ、うし、ろばをかい、めしつかいもたくさんいました。ヨブは、ひがしのくにでいちばんのおおがねもちでした。ヨブのむすこたちが、おいわいするときにも、ヨブは、「むすこたちがつみをおかし、こころのなかで、かみさまをわるおもったらかもしれない」ともって、あさはやくから、ななにんのむすこのかずにあうだけのいけにえをかみさまにささげました。ヨブはいつもこのようにかみさまをおそれ、ただしくいきていました。
ところが、あるひ、かみさまのまえにあくまがきていいました。「ヨブが、かみさまをおそれていきているのは、きっと、あなたがたくさんのしゅくふくをあたえているからですよ。それがぜんぶなくなったら、あなたをわるいものよばわりするでしょう。」かみさまは、あくまにいいました。「それでは、ヨブのものをぜんぶすきにしたらいい。でも、ヨブのいのちをとってはいけない」。かみさまとあくまのことをしらかなったヨブですが、つぎつぎと、あくまののぞんだように、わざわいがのぞみ、かみさまからあたえられたしゅくふく、こどもも、かちくも、ぜんぶうばわれました。そして、ヨブのからだは、かゆくていたいできものだらけになってしまいました。それでも、ヨブは、かみさまをわるくいうことなく、こころからかみさまをおそれていいました。「かみさまが、このわたしに、いのちもさいわいもあたえてくださったのです。それをとられても、わたしは、いつも、かみさまをほめたたえます」。
イエスさまのじゅうじかは、もっともきびしいわざわいです。このわざわいのなか、わたしたちのみがわりにしんでくださり、みっかめによみがえられた、イエスさまをさんびしてあゆみましょう。
イエスさま、どんなときにも、あなたはいっしょにおられます。じゅうじかのあいをしんじて、ひとびとをあいします。アーメン。
2022年10月9日 子どもと親のカテキズム問4
神さまの子どもとして歩む生活で、だいじなことは何ですか。
神さまが、ご自分の子どもとして集めてくださった教会の生活を大切にすることです。毎週主の日に神さまを礼拝し、祝福をいただき、世界に送り出されて神さまに仕えて歩むことです。
イエスさまが、フィリポ・カイサリアのちほうにいかれたとき、でしたちにこうおたずねになりました。「ひとびとは、ひとのこであるわたしのことをなにもとよんでいますか」。でしたちはいいました。「『せんれいしゃヨハネだ』といういとも、『エリヤだ』というひともいます。ほかに、『エレミヤ』だとか、『よげんしゃのひとりだ』というひともいます」。イエスさまはいいました。「それでは、あなたがたは、わたしをなにものといいますか」。ペトロがこたえました。「あなたは、キリスト、いきておられるかみさまのこ」です。
すると、イエスさまは、こたえていわれました。「ペトロ、あなたはさいわいです。あなたにこのことをあらわしたのは、にんげんではなく、わたしをつかわされたてんのおとうさまです。わたしもいいます。あなたはペトロ(いわ)。わたしはこのいわのうえにわたしのきょうかいをたてます。」イエスさまは、このように、ごじぶんのきょうかいを「いわ」のうえにたてるとやくそくしてくださいました。「いわ」とは、きょうかいの「どだい」です。そして、この「どだい」は、イエスさまのことをひとびとにつたえる、かみさまのことば、せいしょです。
イエスさまが、じゅうじかのうえにしんでくださり、みっかめにふっかつされたひから、きょうかいは、いっしゅうかんのはじめのひを「しゅのひ」とよんで、イエスさまのふっかつをほめたたえています。そして、きょうかいのれいはいでは、せいしょのことばをいっしょにきき、イエスさまのおしえにみみをかたむけ、イエスさまのやくそくをしんじて、おいのりとさんびがささげられます。
せかいのひとびとに、イエスさまが、ほんとうのすくいぬしであることをのべつたえる、きょうかいのれいはいをまもり、いつもイエスさまといっしょに、ひとびとにおつかえしてあゆみましょう。
イエスさま、きょうかいは、あなたをどだいとするいえです。いのちのことばをつたえ、あなたといっしょにあゆみます。アーメン
2022年10月2日 子どもと親のカテキズム問3
神さまと共に歩むために、罪人である私たちに必要なことは何ですか。
イエス・キリストを信じ、救われて、神さまの子どもとされることです。
イエスさまは、エリコのまちにはいって、みちをとおっておられました。そこに、ザアカイというひとがいました。このひとは、ひとびとから、ぜいきんをあつめるしごとをするひとたちをおさめるひとで、おかねもちでした。
イエスさまが、ザアカイのいるところにつかづいてきました。ザアカイは、イエスさまがどんなひとがみようとしましたが、せがひくかったので、たくさんのひとたちにさえぎられて、みることができませんでした。それで、ザアカイは、イエスさまをみるために、はしって、イエスさまがくるところにさきまわりをして、いちじくぐわのきにのぼりました。イエスさまが、そこをとおりすぎようとしていたからです。
イエスさまが、いちぢくぐわのきのところにくると、うえをみあがえていいました。「ザアカイ、いそいでおりてきなさい。きょうは、ぜひ、あなたのおうちにとまりたい。」ザアカイは、いそいでおりてきて、よろこんでイエスさまをむかえました。これをみたひとたちはみんなつぶやきました。「あのひとはつみぶかいおとこのひとのところへいって、いっしょにとまった。」
ところが、ザアカイは、たちあがって、イエスさまにいいました。「イエスさま、わたしは、じぶんのもっているざいさんのはんぶんをまずしいひとびとにわけあたえます。また、だれかから、ぜいきんをだましとっていたら、それをよんばいにしてかえします。」イエスさまはいわれました。「きょう、すくいが、ザアカイのいえをおとずれました。ザアカイも、アブラハムのこ、かみさまにすくわれた、かみさまのこどもです。わたしは、うしなわれたひとをさがしてすくうためにきたのです。」
ザアカイのように、イエスさまのよびかけにこたえて、イエスさまのよろこばれるみちを、みんなでいっしょに、あゆみましょう。
イエスさま、わたしたちは、あなたのこどもです。どうか、いつも、あなたに、よろこばれるみちをあゆませてください。アーメン
2022年9月25日 子どもと親のカテキズム問2
神さまと共に歩むとは、どのようなことですか。
まことの神さまを知り、神さまの栄光をあらわし、神さまを喜び、神さまと人に仕えて歩むことです。
イエスさまは、じゅうじかにかけられるまえに、すぎこしのしょくじをでしたちといっしょにしました。すると、しょくじのせきからたちあがって、うわぎをぬぎ、てぬぐいをとってこしにまとわれました。それから、たらいにみずをくんで、でしたちのあしをひとりひとりあらって、こしにまとったてぬぐいでふきはじめられました。
ペトロのところにイエスさまがくると、ペトロはいいました。「イエスさま、あなたがわたしのあしをあらってくださるのですか」。それは、まるでイエスさまが、しゅじんにしたがうしもべのように、よごれたあしをあらっていたからです。イエスさまはいいました。「わたしのしていることは、いま、あなたには、わかりませんが、あとで、わかるようになります」。
それでも、ペトロは、「わたしのあしなど、けっしてあらわないでください」といいました。すると、イエスさまは、「もしわたしがあなたのあしをあらわないなら、あなたはわたしといっしょではないことになります」とこたえられました。
ペトロは、イエスさまが、「あなたはわたしといっしょではなくなる」ときいて、「イエスさま、あしだけでなく、ても、あたまも、あらってください」といいました。
ペトロがイエスさまにたのんだように、みずで、あしだけでなく、ても、あたまも、あらってもらって、からだはきれいになっても、ペトロのこころをきれいにすることはできません。じつは、イエスさまは、ごじぶんが、じゅうじかのうえでしぬのは、わたしたちのみがわりとなって、こころのつみも、おこないのつみも、ぜんぶゆるすためであることを、しもべのしごとによって、あらわしてくださったのです。いつも、イエスさまといっしょに、イエスさまがあいされている、すべてのひとびとにつかえてあゆみましょう。
イエスさま、いつも、あなたが、わたしたちをあいされたように、おたがいに、よくあいしあうことができますように。アーメン
2022年9月18日 子どもと親のカテキズム問1
私たちにとって一番大切なことは何ですか。
神さまの子どもとして、神さまと共に歩むことです。
イエスさまとでしたちは、あるいていくうちに、あるむらにおはいりになりました。すると、マルタというおんなのひとが、イエスさまをいえにむかえいれました。マルタには、マリアといういもうとがいました。マリアは、イエスさまのあしもとにすわって、そのおはなしをよくきいていました。
マルタは、いろいろのもてなしのために、とてもいそがしくはたらいていましたが、イエスさまにちかよっていいました。「イエスさま、わたしのいもうとは、わたしだけにもてなしをさせていますが、なんともおもいませんか。てつだってくれるようにいってください」。
イエスさまは、マルタにこたえました。「マルタ、マルタ、あなたはおおくのことにおもいなやみ、こころをみだしています。しかし、たいせつなことは、ただひとつだけです。マリアは、よいほうをえらんだのです。それをとりあげてはいけません。」
このたいせつなこととは、イエスさまのおしゃることをきくことですね。それは、わたしたちが、いつも、イエスさまといっしょにあゆむこととおなじです。どんなときにも、どこにいても、イエスさまのおっしゃることをきき、おもいだし、おいのりをしながら、あゆむとき、わたしたちは、イエスさまにあいされている、かみさまのこどもして、ひとつのみちをあゆんでいくことができます。
イエスさまは、いわれました。「わたしが、みちです。そして、しんり、いのりです」と。イエスさまは、わたしたちのみがわりとなって、じゅうじかのしにむかって、ひとつのみちをあゆんでくださったように、わたしたちも、イエスさまといっしょに、ひとつのみちをあゆんでいくとき、マリアのように、ほんとうにたいせつなことをえらびとっていくことをおぼえます。
いつも、イエスさまからあいされているこどもとして、きょうかいのみんなと、いっしょに、あゆみましょう。
イエスさま、あなたは、いつも、わたしたちといっしょにおられます。あなたのあいのみちを、よろこんで、あゆみます。アーメン
2022年9月11日 子どもと親のカテキズム問97
「アーメン」とは、どういう意味ですか。
「アーメン」とは、「真実です」という意味です。私たちは、神さまが私たちの祈りをイエスさまの真実によって受けとめて、確かに聞き入れてくださることを信頼して、「アーメン」と唱えます。
イエスさまは、かみさまのことばをおしえるとき、よく、「はっきりあなたがたにいいます」といわれました。これは、もともと、「アーメン、アーメン、あなたがたにいます」ということばで、「ほんとうに、ほんとうに、あなたがたにたいせつなおはなしをします」とおしえてくださったのです。
おいのりのおわりのことばも、「アーメン」です。それは、「ほんとうに、かみさまが、このおいのりをきいておられます」としんじてささげる、たいせつなことばです。
むかし、バビロンからかえってきたイスラエルのひとびとは、みんなで、ひろばにあつまって、さいしエズラが、りっぽうのしょを、ひとびとのまえにもってきました。よがあけてから、ひるまで、りっぽうのしょにかいてある、かみさまのめいれいが、よみあげられました。おとこのひとも、おんなのひとも、みんな、そのりっぽうのしょ、かみさまのめいれいにみみをかたむけました。
エズラが、りっぽうのしょをひらくと、ひとびとは、みんな、たちあがりました。そして、エズラが、おおいなるかみさまをさんびすると、ひとびとは、みな、りょうてをあげて、「アーメン、アーメン」とこえをあわせて、かみさまをさんびし、ひざまずいて、しゅなるかみさまをれいはいしました。
れいはいでは、いつも、かみさまのことば、せいしょがよまれます。わたしたちも、このせいしょがよまれるたびに、りっぽうのしょにみみをかたむけたひとたちとおなじように、「アーメン」といのりつつ、みことばにききましょう。そして、てんにおられる、イエスさまをしんじて、ちちであるかみさまにおいのりするたびごとに、「アーメン」と、ほんとうのかみさまをしんじましょう。
イエスさま、どんなときにも、わたしたちにみことばとおいのりをあたえてください。あなたがほんとうのかみさまです。アーメン
2022年9月4日 子どもと親のカテキズム問96
「国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり」という結びの言葉は、何を意味していますか。
祈りが確かに聞かれる理由は、いつも良いものだけを与えてくださる恵みの神さまにこそあります。ですから、神さまの子どもである私たちは、喜びと感謝をもって神さまの栄光をほめたたえるのです。
イエスさまは、じゅうじかにかけられるときがつかづいたとき、すすんで、エルサレムにのぼっていかれました。そして「オリーブばたけ」とよばれるやまのふもとにあるベトファゲとベタニアにつかづいたとき、ふたりのでしをつかいにだしていいました。「むこうのむらへいきなさい。そこにはいると、まだだれものったことのないころばがつないであるのがみつかります。それをほどいて、ひいてきなさい。もし、だれかが、『どうしてほどくのですか』とたずねたら、『イエスさまが、おのりになります』といいなさい」。
イエスさまからつかわされたでしが、でかけていくと、イエスさまがおっしゃるとおりに、「どうしてほどくのですか」と、ちいさな、ころばのもちぬしにきかれました。でしたちは、イエスさまからいわれたとおりに、「イエスさまが、このろばにおのりになります」といいました。そして、ちいさな、ころばをイエスさまのところにひいてきて、そのうえにじぶんのふくをかけ、イエスさまをおのせしました。
イエスさまが、エルサレムへすすんでいくと、ひとびとは、じぶんのふくをみちにしきました。そして、イエスさまが、オリーブやまのくだりざかにさしかかられたとき、イエスさまにしたがってきたひとびとは、じぶんたちのみた、イエスさまのちからあるわざののことでよろこび、こえたからに、イエスさまをさんびしました。「イエスさまこそ、ほんとうのおうさまです。てんにへいわ、かみさまのおられるところにえいこうがありますように。」
せかいのくにぐにを、イエスさまがおさめておられます。イエスさまのちからとえいこうをいつもほめたたえていのりましょう。
イエスさま、せかいのひとびとが、じゅうじかのあいとつみのゆるしのなかで、こぞって、あなたをさんびしますように。アーメン
2022年8月28日 子どもと親のカテキズム問95
「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」では、何を祈り求めるのですか。
今も弱さをもっている私たちは、神さまのあわれみがなければ、一瞬でも神さまのこどもとしての祝福に生きることはできません。ですから罪と悪魔の支配から救い出され、聖霊の力によって勝利を得ることができるように祈り求めます。
イエスさまは、せいれいにみたされて、せんれいをうけたヨルダンがわからかえってくると、あれののなかにみちびかれ、40にちのあいだ、あくまからゆうわくをうけました。イエスさまは、40にちのあいだ、なにもたべなかったので、はらぺこになりました。
あくまはいえすさまにいいました。「あなたが、かみさまのこであるなら、このいしにパンになるようにめいじたらどうですか」。イエスさまはあくまにこたえました。「ひとはパンだけでいきるものではありません」と、りっぽう(せいしょ)にかいてあります。
つぎに、あくまは、イエスさまをたかくたかくひきあげて、またたくまに、せかいのすべてのくにぐにをみせましていいました。「このくにぐにのすべてをおさめるちからをあたえよう。わたしこそこれをまかされているものだ。だから、わたしをかみさまとしておがむなら、ぜんぶ、あなたにあげよう」。イエスさまはこたえました。「しゅである、あなたのかみさまのみをれいはいし、ただ、かみさまだけにおつかえしなさい」とりっぽう(せいしょ)にかいています。
そして、あくまは、イエスさまをエルサレムにつけれていき、みやこのいちばんたかいところにたたせていいました。「もし、あなたがかみさまのこであるなら、ここからしたへとびおりてみなさい。かみさまは、あなたのためにみつかいにめいじいたあなたをまもる」とせいしょにかいてあるから。イエスさまはこたえました。「しゅなるあなたのかみさまをためしてはいけません」と、かみさまがいっておられます。あくまは、いろいろとイエスさまをためして、イエスさまからはなれていきました。あくまのゆうわくからはなれるために、よくみことばにきき、よくおいのりしましょう。
イエスさま、あくまがゆうわくするときにも、あなたのみことばをおもいだし、いつも、あなたのあいによりたのみます。アーメン
2022年8月21日 子どもと親のカテキズム問94
「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ」では、何を祈り求めるのですか。
私たちが、イエスさまの十字架の恵みによって罪が赦されていることをいつも思い起こし、他の人たちの罪をも赦すことができるようにと祈り求めます。さらに自分自身の罪をますます深く悲しみ、罪の赦しを祈り求めます。
あるとき、イエスさまのでしのペトロがイエスさまのところにきていいました。「イエスさま、きょうだいが、わたしにつみをおかしたら、なんかいまでゆるしたらいいでしょうか。7かいまでですか。」イエスさまは、いわれました。「あなたにいっておきます。7かいどころか、7の7じゅうばいまでもゆるしなさい。てんのくには、あるおおさまが、けらいたちにかしたおかねのやりとりをすませるようなものです。そのとき、10000タラントン(やく6000おくえん)おかねをかりているけらいが、おうさまのまえにつれてこられました。でも、かえすことができなかったので、おうさまは、このけらいに、かぞくのものも、もちものをぜんぶうってかえすようにめいじられました。けらいはひれふしておねがいしました。「どうか、まってください。きっとぜんぶおかえします」
そのけらいのおうさまは、そのひとにこころをうごかされて、けらいをゆるし、かしたおかねをなし(0えん)にしてあげました。
ところが、このけらいは、100デナリオン(やく50まんえん)かしていたなかまにであうと、つかまえて、くびをして、「おかねをかえしなさい」といいました。なかまは、けらいにひれふして「どうかまってください。かえします」とたのみました。でも、けらいは、おともだちをひっぱって、おかねをかえすまでろうやにいれました。おうさまは、けらいをよびつけていいました。なかまのひとたちは、これをみて、とてもこころをいためておうさまにつたえました。これをきいたおうさまは、けらいをよびつけていいました。「なんとこころないしもべだ、わたしにねがったたらこそ、かしたおかねをぜんぶゆるしてやったのに」
イエスさまのじゅうじかのあいは、だれも、かみさまにかえせない、わたしたちのつみをぜんぶゆるす、とてもおおきなものです。
イエスさま、あなたのじゅうじかのおおきなあいが、せかいのひとびとのつみをおおい、みんなをなかよくしてください。アーメン
2022年8月14日 子どもと親のカテキズム問93
「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」では、何を祈り求めますか。
神さまは、すべての良いものの泉です。神さまの子どもたちに必要なすべてのものを与えて、楽しむことができるように祝福してくださいます。ですから、私たちは、この恵みの神さまに日々より頼んで歩むことができるように祈り求めます。
イエスさまが、ガリラヤのみずうみのむこうぎしにわたられたときのことです。たくさんのひとびとが、イエスさまについてきました。イエスさまが、びょうきになったひとをいやされたからです。イエスさまは、やまにのぼり、でしたちしょいっしょにすわりました。そして、めをあげて、たくさんのひとびとが、ごじぶんのほうにくるのをみて、フィリポにいいました。「このひとたちにたべさせるには、どこでパンをかえばいいでしょうか。」フィリポは、「みんながパンをたべるためには、200にちはたらいてもたりなでいでしょう。」ペトロのきょうだいアンデレがイエスさまにいいました。「ここにおおむぎのパンいつつと、さかなにひきをもっているしょうねんがいます。でも、こんなにたくさんのひとでは、ぜんぜんたちないでしょう。」
イエスさまは、「ひとびとをすわらせなさい」といわれました。そこには、おとこのひとたちだけで5000にんのひとびとがいました。そのとき、イエスさまは、パンをとり、てんのかみさまが、まいにちのパンといのちとみことばをあたえてくださっていることをかんしゃして、おいのりをささげました。そして、すわっているひとびとに、パンをわけあたえられました。さかなもおなじように、たべたいだけわけあたえられました。
ひとびとのおなかがいっぱいになったとき、イエスさまは、でしたちに「すこしむだにならないように、パンののこりをあつめなさい」といわれました。あつめると、じゅうにのかごでいっぱいになりました。イエスさまのくださる、いのちのパンは、みことばです。イエスさまがあたえてくださるすべてのめぐみによって、まいにちをいかされています。イエスさまのめぐみをかんしゃします。
イエスさま、いのちとたべものを、かんしゃます。せかいのひとびとに、イエスさまのいのちを、あふれさせてください。アーメン
2022年8月7日 子どもと親のカテキズム問92
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」では、何を祈り求めるのですか。
天においては神さまの御心が完全に支配しているように、地においても、すべてのことにおいて神さまの御心が支配するように祈り求めます。また、神さまの子どもである私たちは、御心に聞き従い、喜んで神さまのお役に立てるように祈ります。
イエスさまは、じゅうじかにかけられるまえに、このようにいわれました。「こころをさわがせないようにしなさい。かみさまをしんじなさい。そして、わたしもしんじなさい。わたしのおとうさまのいえにはすむところがたくさんあります。あなたがたのためにすむところをよういしたら、あなたがたをわたしのもとにむかえます。このようにして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになります」。
イエスさまは、じゅうじかにしなれてから、みっかめにふっかつし、てんにあげられました。わたしたちが、イエスさまをしんじるとき、イエスさまがやくそくされた、てんのいえにいつまでもいっしょにすむものとされることをしんじることができます。
それでは、イエスさまは、このちじょうで、どのように、かみさまのえいこうをあらわしてくださったでしょうか。それは、かみさまのもとめておられることをおこなうことによってです。
じゅうじかのくるしみをしっておられたイエスさまま、ゲツセマネのそので、でしたちに「ゆうわくにおちいらないようにおいのりしなさい」とめいじられ、ひざまずいてこのようにおいのりしました。「おとうさま、あなたのこころでしたら、このさかずき(じゅうじかのくるしみ)をわたしからとりのけてください。しかし、わたしのねがいではなく、あなたのこころのままにおこなってください」。イエスさまは、てんのすまいにおられ、いつも、わたしたちが、かみさまのこころをおこなうことができるように、わたしたちのおいのりのこころを、まもってくださっています。
イエスさま、あなたをしんじて、おいのりします。おいのりのこころを、わたしたちひとりひとりに、あたえてください。アーメン
2022年7月31日 子どもと親のカテキズム問91
「み国をきたらせたまえ」では、何を祈り求めるのですか。
神さまの家族としての教会と私たち一人一人が、御言葉と聖霊によって支配されるように祈り求めます。また、そのご支配が、福音を宣べ伝えることと愛の働きを通して広げられ、イエスさまが再び来られる時に、完成されるように祈ります。
イエスさまは、ヨルダンがわで、ヨハネからせんれいをうけられました。みずのなかからあがるとすぐ、てんがさけて、きよいかみさまのれい(せいれい)が、はとのように、イエスさまのうえにくだってきました。すると、「あなたは、わたしのあいするこ、わたしのこころにかなうもの」というこえが、てんからきこえました。
そして、イエスさまは、ヨハネがわるいおうさまにつかまったとき、ガリラヤへいき、神さまのよいおとずれ(ふくいん)を、ひとびとに、のべつたえていいました。「わたしが、ここにきたことによって、かみさまのやくそくされた、すくいとめぐみが、ひとびとをおさめるときがきました。みんな、かみさまのかなしまれる、いのりごころのない、つみふかいせいかつをやめて、おいのりをきかれる、ほんとうのかみさまにたちかえりなさい。」
また、イエスさまにふれていただくために、ひとびとが、こどもたちをつれてきました。でしたちは、こどもたちをつれてきたひとたちをしかりました。でも、イエスさまはこれをみて、ほんとうにおこって、でしたちにいいました。「こどもたちをわたしのところにこさせなさい。アーメン、アーメン、あなたがたにいいます。こどものように、かみさまのめぐみによっておさめられることをうけいれるひとでなければ、けっして、かみさまのめぐみとすくいのなかにはいることはできません。」そして、こどもたちをだきあげ、てをおいてしゅくふくされました。
イエスさまは、すべてのひとが、かみさまのめぐみとすくいをよろこんでうけいれることをのぞんでおられます。そして、もういちどこられるときに、かみさまのえいこうをあらわしてくださいます。イエスさまがこられるひにそなえて、イエスさまのあいとへいわが、せかいのすべてのひとびとにみちるようにいのりましょう。
イエスさま、せかいのすべてのひとびとが、つみからすくわれ、あなたのめぐみとあいとへいわをもとめられますように。アーメン
2022年7月24日 子どもと親のカテキズム問90
「み名をあがめさせたまえ」では、何を祈り求めるのですか。
私たちの生活のすべてを通して神さまの栄光があらわされ、すべての人が神さまのお名前をあがめ、ほめたたえるようになることを祈り求めます。
イエスさまは、じゅうじかにかけられるまえ、でしたちといっしょにすぎこしのしょくじをしているとき、パンをとり、かみさまをさんびするおいのりをささげて、パンをさき、でしたちにあたえながらいいました。「とってたべなさい。これはわたしのからだです。」 そして、さかずきをとり、かんしゃのいのりをささげて、でしたちにわたしていわれました。「みんな、このさかずきからのみなさい。これは、つみが、ゆるされるように、おおくのひとのためにながされる、わたしのち、けいやくのちです。」
このパンとさかずきは、じゅうじかのうえにごじしんのからだをイエスさまの、からだとちをあらわしています。このイエスさまのいのちによって、イエスさまをしんじるすべてのひとはすくわれます。
そして、イエスさまをしんじておいのりするとき、わたしたちは、イエスさまのあいとしゅくふくのなかで、いつも、かみさまをよろこんでいきていきます。イエスさまは、でしたちに、やくそくされました。「やくそくのせいれいがあたえらえるひには、あなたがたは、わたしのなまえによってねがいます。わたしが、あなたがたのために、てんのおとうさまにおねがいしてあげます、とはいいません。てんのおとうさまみずから、あなたがたをあいしておられるからです。あなたがたが、わたしをあいし、わたしが、かみさまのもとからきたことをしんじたからです。」
イエスさまをしんじて、てんのおとうさまのあいをしるとき、せいれいは、わたしたちのこころに、せかいのひとびとのすくいをもとめるおいのりをあたえてくださいます。きょうかいで、おうちで、ひとりで、おいのりするとき、いつもいっしょにおられるイエスさまをよろこび、てんのおとうさまをさんびしましょう。
てんのおとうさま、イエスさま、すべてのひとが、あなたをよろこぶことができますように、つみからすくってください。アーメン
2022年7月17日 子どもと親のカテキズム問89
「天にまします我らの父よ」という「主の祈り」の呼びかけは、私たちに何を教えますか。
私たちは、神さまの子どもです。ですから、「私たちの天のお父さま」と呼びかけて祈ります。しかも、独りぼっちではなく、神さまの家族のひとりとして、神さまの子どもたちといっしょに心を合わせて祈ります。
イエスさまは、じゅうじかにかけられるときがちかづいたとき、このようにおいのりしました。「おとうさま、ときがきました。あなたのこがあなたのえいこうをあらわすようになるために、こにえいこうをあたえてください。」
わたしたちが、イエスさまをしんじて、かみさまのこどものひとりとされるとき、イエスさまがよばれた「おとうさま」をおなじように、「おとうさま」「てんのおとうさま」とよんでおいのりすることができます。
そして、イエスさまは、「あなたがくださったえいこうを、わたしは、わたしをしんじるひとたちにあたえました。わたしたちが、ひとつであるように、わたしをしんじるひとたちもひとつになるためです。」
わたしたちが、「てんのおとうさま」とおいのりするとき、たいせつなことは、イエスさまをしんじて、おなじようによんでいるひとたちは、みな、かみさまのこどもとされている、かみさまのかぞくであることです。
イエスさまは、わたしたちが、いつもイエスさまとつながって、ひとつのこころでおいのりできるようにみちびいておられます。
そして、わたしたちが、みんなで、こころをあわせておいのりするとき、てんのうえでも、おいのりがきかれることについてこのように、やくそくてくださいました。「あなたがたのうちふたりが、ちじょうで、こころをひとつにしてもとめるなら、わたしのてんのおとうさまは、もとめることにぜんぶこたえてくださいます。ふたりまたは、さんにんが、わたしをしんじて、こころをあわせて、おいのりしているところには、わたしもそのなかにいます」。
イエスさま、あなたをおたえくださった、「てんのおとうさま」をよび、いつもみんなでこころをあわせておいのります。アーメン
2022年7月10日 子どもと親のカテキズム問88
イエスさまが祈りの手本として教えてくださった「主の祈り」の内容は何ですか。
それは、神さまへの賛美、感謝、私たちの罪の赦し、願いごと、他の人たちのためのとりなしなどを含んでいます。
イエスさまは、どのようにおいのりしたらよいのか、わからないわたしたちのために、「しゅのいのり」をおしえてくださいました。それは、まず、てんにおられる、わたしたちのおとうさま(ちちなるかみさま)をよぶものです。
イエスさまは、しゅのいのりをでしたちにおしえてくださったとき、でしたちにこういわれました。「くらいよるに、あなたがたのうち、おともだちに、『たびをしているともだちにあげるパンをみっつください』とおねがいしたとしたらどうでしょう。いくらおともだちだからといっても、くらいよるに、おきてあげることはないでしょう。でも、なんども、おねがいしたら、おきてきてあげるのでしょうかないでしょうか。」
だから、わたしはいいます。「もとめなさい。そうすれば、あたえられます。さがしなさい。そうすれば、みつかります。もんをたたきなさい。そうすれば、ひらかれます。だれでも、もとめるものはうけ、さがすものはみつけ、もんをたたくものにはひらかれます。
あなたがたのなかに、さかなをほしがるこどもに、さかなのかわりにへびをあたえるおとうさんがいるでしょうか。たまごをほしがるのに、さそりをあたえるおとうさんがいるでしょうか。このように、あなたがたは、いろいろなことにいそがしくしていても、じぶんのこどもには、よいものをあたえることをしっています。それならば、てんのおとうさまは、もとめるひとに、せいれいをあたえてくださいます。」
イエスさまが、やくそくされた、「せいれい」は、わたしたちのこころに、おいのりのこころをあたえてくださいます。いつも、イエスさまのみことばとせいれいをもとめておいのりしましょう。
イエスさま、わたしたちのこころに、せいれいをあたえてください。あなたによろこばれることを、もとめていのります。アーメン
2022年7月3日 子どもと親のカテキズム問87
この世の人たちもお祈りをしますが、神さまの子どもたちのお祈りと、どうちがうのですか。
この世の人たちのお祈りは、神さまのことではなく、自分の益のためだけの願いごとです。神さまの子どもたちである私たちは、神さまをあがめ、神さまの御心を求めて祈ります。ですから、聖書の言葉に耳を傾けつつ、祈ることが大切です。
せかいのすべてをつくられたかみさまは、わたしたちにんげんを、かみさまをさんびするためにおつくりになりました。けれども、さいしょのひと、アダムによって、「つみ」が、にんげんのこころにはいってからは、すべてのひとは、かみさまをさんびすることよりも、にんげんがまるで、かみさまのうえにたっている「おうさま」であるかのようにふるまって、おいのりも、ひとのおねがいがかなうことをいちばんにもとめるようになりました。
ですから、わたしたちが、かみさまをさんびするためには、どうしても、こころのおうさまが、かえられて、かみさまをほんとうのおうさまにおむかえするこころにかえられなければなりません。
イエスさまは、このようなつみふかいせかいのなかにきてくださって、わたしたちのために、ほんとうのおいのりをおしえてくださいました。それは、かみさまをさんびし、かみさまのこころをもとめておいのりすることです。
じゅうじかをまえにして、イエスさまは、「おとうさま、ときがきました。あなたのひとりごである、わたしが、あなたのえいこうをあらわすようになるために、わたしにえいこうをあたえてください」とおいのりました。
この「かみさまのえいこう」とは、イエスさまが、ほんとうのかみさまであることをあらわすものです。つみぶかいにんげんは、じぶんのえいこうをもとめていのりがちです。でも、わたしたちのおいのりが、もし、かみさまにきかれるとすれば、それは、ただ、イエスさまが、わたしたちのために、じゅうじかにかかってくださり、「かみさまのえいこう」をあらわすみちをひらいてくださったからです。イエスさまといっしょにいのりましょう。
イエスさま、わたしたちが、いつもあなたのこころをもとめ、あなたのえいこうをほめたたえる、おいのりをささげます。アーメン
2022年6月26日 子どもと親のカテキズム問86
私たちは罪人なのに、神さまと交わり、神さまとお話しすることができるのですか。
はい、できます。私たちは、イエスさまによって罪を赦され、神さまの子どもとされ、神さまと交わり、お話しできるようにされています。ですから、私たちはイエスさまのお名前によって、子どもらしく素直になんでもお祈りします。
わたしたちが、かみさまにおいのりするまえから、かみさまは、わたしたちひとりひとりのことを、いちばんよくしっておられます。それは、わたしたちがじぶんでもきづいていない、かくれたこころ、つみの、わるいこころも、よいこころも、ぜんぶです。
はじめのひと、アダムが、かみさまのめいれいにそむいたために、かみさまとわたしたちのあいだには、「つみのかべ」ができてしまいました。でも、イエスさまが、わたしたちのみがわりとなって、じゅうじかのうえで、そのいのちをささげてくださり、この「つみのかべ」がうちこわれさました。
ですから、イエスさまをしんじるひとは、だれでも、「つみのかべ」がないものとして、いのることができるのです。
イエスさまおひとりだけが、はじめから「つみのかべ」のないおかたとして、ごじしんをつかわされた、てんのおとうさま(かみさま)においのりされました。じゅうじかをまえにして、イエスさまは、でしたちがみんなにげてしまって、じぶんがひとりきりになることをしっておられました。そればかりでなく、じぶんだけが、じゅうじかにかけられることをよくしっておられました。そのとき、イエスさまは、「しかし、わたしはひとりではない。わたしの「おとうさま」が、いっしょにいてくださる」といいました。
イエスさまが、いつも、ひとりで、てんのおとうさま(かみさま)においのりされたように、わたしたちも、いつでも、どこでも、ひとりでも、おいのりしましょう。ほんとうのかみさま(てんのおとうさま、イエスさま)は、わたしたちのおいのりをきいてくださり、わたしたちのためによいことをおこなってくださいます。
イエスさま、あなたは、わたしたちのこころをぜんぶしっておられます。ひとりでも、いつもこころからおいのりします。アーメン
2022年6月19日 子どもと親のカテキズム問85
それでは、祈りとは何ですか。
祈りとは、神さまに私たちの心を向け、神さまとの交わりの中で神さまとお話することです。
イエスさまが、でしたちに「しゅのいのり」をおしえてくださったとき、でしたちは、イエスさまに「わたしたちにおいのりをおしえてください」とおねがいしました。それは、じぶんたちは、かみさまにおいのりをしている、かみさまにいちばんちかいひとだ、とおもっていたひとちからみれば、おろかなことでした。それは、かみさまにおいのりをおしえてもらわなくても、じぶんたちはおいのりをすることができるとおもって、じまんじていたからです。
でも、ほんとうのおいのりは、わたしが、こころをまっすぐにかみさまにむけることです。じつは、わたしたちが、まっすぐにかみさまにこころをむけようとすればするほど、わたしたちは、じぶんのこころに、かみさまのほうにむきたくない、わるいこころ、「つみ」のこころがあることにきづかされます。
そのとき、わたしたちは、イエスさまが、わたしたちの「つみ」のためにじゅうじかにかけられたことをおもいだすのです。イエスさまがじゅうじかにかけられたとき、ふたりのはんざいにんといっしょでした。そのひとりが、イエスさまに「おまえが、ユダヤじんのおうさまなら、じぶんをすくってみろ」。
おいのりは、なんでも、かみさまに、おねがいすることです。でも、もし、このはんざいにんのように、イエスさまにおねがいしたらどうでしょうか。イエスさまは、このとき、けっして、じゅうじかからおりることなく、ただ、わたしたちの「つみ」のために、みがわりとなって、じゅうじかのうえでも、「ちちよ、かれらをゆるしてください。じぶんがなにをしているのか、しらないのです」といのりました。じゅうじかの「し」から、よみがえられ、てんにあげられた、イエスさまは、いつも、わたしたちのこころが、しっかりと、かみさまのほうにむくように、いのっておられます。
イエスさま、わたしたちのためにいのってくださり、ありがとうございます。わたしたちのこころを、あなたにむけます。アーメン
2022年6月12日 子どもと親のカテキズム問84
神さまが聖書を通して示された祈りの規準はどこにありますか。
イエスさまが祈りの手本として教えてくださった「主の祈り」の中にあります。
かみさまは、わたしたちにせいしょをとおして、よいことをおしえてくださっています。それは、ただ、かみさまにおいのりすることだけではなく、どんなひとにも、よいことをすることをおしえています。
イエスさまが、おいのりのおてほんとして、おしえてくださったのが、「しゅのいのり」です。この「しゅのいのり」をイエスさまが、おしえてくださったとき、イエスさまは、「みてもらうおうとして、ひとのまえでよいことをしないようにちゅういしなさい」「おいのりするときも、ひとにみてもらおうと、おいのりしないようにしなさい」とおめいじくださいました。
それは、ひとびとにかみさまのことをおしえるおてほんにならなければならないひとたちが、かみさまではなく、ひとからほめられるためによいことをしようとし、おいのりをしようとしていたからです。
イエスさまは、「おいのりするときは、だれもみていないところで、かくれたところにおられる、あなたをかみさまのこどもとしてくださった、てんのおとうさまに、おいのりしなさい」とおしえてくださいました。
それは、わたしたちのおいのりが、ただ、かみさまにむけてささげらるものであって、かみさまとのおはなしであることをおしえています。きょうかいで、みんなでいっしょに「しゅのいのり」をささげるのも、ひとではなく、かみさまへのささげものです。ですから、わたしたちは、「しゅのいのり」をささげるとき、こころをこめて、ことばをたいせつにしておいのりするようにしましょう。そして、この「しゅのいのり」をおてほんにして、てんのおとうさま、イエスさまに、じぶんのことばで、おいのりしましょう。
てんのおとうさま、イエスさま、いつも「しゅのいのり」をおてほんにして、ただ、あなたへのおいのりを、ささげます。アーメン
2022年6月5日
《イエスさまが、約束された聖霊が、弟子たちの上にくださった》
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、…炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
使徒言行録2章1~3節
イエスさまが、じゅうじかのしんで、みっかめによみがえられてされてから、50にちめの「ごじゅんさい」のことです。イエスさまがやくそくされたmせいれいがくだるのをまちのぞみ、120にんのひとたちがこころをあわせて、おいのりをしていました。
とつぜん、ものすごいかぜがふいてくるようなおとが、てんからきこえ、あつまっていたひとびとがすわっていた、いえのなかにひびきました。そして、もえるほのおのような「した」がわかれわかれにあらわれ、ひとりひとりのうえにとどまりました。
すると、あつまっていたひとたちは、みんな、せいれいにみたされて、かみさまのれいがかたらせるままに、せかいじゅうのくにぐのことばで、かみさまがなさったことをはなしだしました。「ごじゅんさい」で、せかいじゅうのくにぐにから、エルサレムにかえってきた、かみさまをおそれるユダヤじんは、おおきなおとにおどろいてあつまってきて、せかいのくにぐにのじぶんたちがうまれたくにのことばが、ガリラヤからきたひとたちによって、はなされているのをきいて、みんな、ほんとうにびっくりしました。
そこで、ペトロは、ほかのじゅういちにんのでしたちといっしょにたちあがって、こえをはりあげて、はなしはじめました。「これは、かみさまが、まえから、みことばによって、やくそくされていたことです。あなたがたが、じゅうじかにつけてころして、イエスは、よみがえられました。よみがえられたイエスさまを、わたしたちはみて、そのみことばをききました。じゅうじかにつけられてイエスこそ、かみさまのつかわされたほんとうのすくいぬしです。」
これをきいた3000にんのひとたちは、じぶんたちのつみをくいあらため、イエスさまをしんじ、せんれいをうけました。
イエスさま、じゅうじかにかけれられた、あなたが、ほんとうのすくいぬし、おうさま、しゅなるキリストとしんじます。アーメン
2022年5月29日
《イエスさまは、ペトロ(ペテロ)のために、ご自身からはなれていかないように、祈られた》
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 ルカによる福音書22章32節
イエスさまが、じゅうじかにつけられるまえの日のよるのことです。イエスさまは、でしたちとさいごのしょくじをいっしょにしていました。そのとき、イエスさまは、もとのなをシモンという、ペトロにいいました。「シモン、シモン、あくまは、あなたがたを、こむぎのようにふるいにかけるこをかみさまにねがってききいれられた。しかし、わたしはあなたのために、わたしをしんじるこころがなくならないようにいのりました。だから、あなたは、たちなおったら、きょうだいたちをちからづけてやりなさい。」
すると、シモンはいいました。「イエスさま、あなたといっしょなら、たとえろうやにいれられても、しんでもよいと、こころをきめています」。でも、イエスさまはいいました。「ペトロ、いっておきます。あなたはきょう、にわとりがなくまでに、さんかい、わたしをしらない、といいます。
イエスさまが、いつものようにオリーブ山でおいのりをされたあとのことです。イエスさまは、てきのてにとらえられました。でしたちなみんなにげてしまいました。でも、ペトロだけが、イエスさまがとらえられているいえのちかくで、ひとびとといっしょにいました。すると、あるおんなのひとが、ペトロがたきびにてらされてすわっているのをみて、「あなたはイエスのなかまだ」といいました。しかし、ペトロはうちけして、「わたしはあのひとをしらない」といました。それからおなじようにきかれたとき、ペトロはくりかえして、「いいえ、そうではない、わからない」といいました。そのとき、イエスさまは、ペトロをみつめられました。ペトロは、イエスさまのことばをおもいだしてそとにでてなきました。
イエスさま、あなたはどんなときにいっしょにおられます。こころからつみをくいあらためて、あなたによりたのみます。アーメン
2022年5月22日
《イエスさまは、ペトロ(ペテロ)に答えて、みことばのうえに、ご自身の教会を建てられることを約束された》
「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」
マタイによる福音書16章18節[新改訳2017]
イエスさまが、フィリポ・カイサリアのあたりにいかれたときのことです。でしたちに「ひとびとは、わたしのことを、だれといっていますか。」とおたずねになりました。でしたちは、「ひとびとにせんれいをさずけたヨハネだ、というひとも、よげんしゃエリヤだ、というひともいます。ほかに、よげんしゃエレミヤだ、よげんしゃのひとりだ、というひともいます。」
そこで、イエスさまはいわれました。「それでは、あなたがたは、わたしをなにものというのですか。」でしのひとり、シモン・ペトロがこたえました。「あなたは、メシア(キリスト)、いきておられるかみさまのこです」。
すると、イエスさまはおこたえになりました。「シモン、あなたはさいわいです。あなたにこのことをあらわしたのは、にんげんではなく、わたしのてんのおとうさま、かみさまです。わたしはやくそくします。あなたはペトロ(いわ)。わたしはこのいわのうえに、わたしのきょうかいをたてます。いろいろなふあんやしんぱい、おそれをもたらすちからも、これにたいこうすることはできません。わたしは、あなたに、つみびとがすくわれて、てんのくににはいるためのかぎをあたえます。あなたがちじょうで、その「かぎ」をしめるならば、もんはとざされます。「かぎ」をあけるならば、もんはひらかれます。」
そして、イエスさまは、このときから、ごじしんが、じゅうじかにかけられてしんで、みっかめにふっかつされることをでしたちにやくそくされました。イエスさまがあたえてくださる「かぎ」は、
このじゅうじかをあかしする「ふくいん」です。イエスさまの「ふくいん」をしんじるひとはだれでも、てんのくににはいります。
イエスさま、あなたのふくいんによって、だれでも、きょうかいにまねかれて、てんのくにのしゅくふくにあずかります。アーメン
2022年5月15日
《イエスさまは、水の上から沈んで、助けを求めて叫んだ、ペトロ(ペテロ)を助けられた》
イエスはすぐに手を伸ばし、彼(ペテロ)をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
マタイによる福音書14章31節[新改訳2017]
イエスさまは、あるとき、おおぜいのひとびとからはなれて、ひとりいのるために、やまにのぼり、ゆうがたになっても、ただひとりいのっておられました。
ところが、でしたちがのっていたふねが、みずうみのまんなかで、むかいかぜによって、まえにすすむことができずにこまっていました。
このとき、イエスさまは、よあけまえの4じごろに、うみのうえをあるいてでしたちのほうへいかれました。でしたちは、イエスさまが、うみのうえをあるいておられるのをみて、とてもこわがり、「ゆうれいだ」といって、おおきなこえで、さけびました。
でも、イエスさまは、でしたちにすぐにこえをかけられ、「しっかりしなさい。わたしはここにいます。おそれることはありません。」するとペトロはこたえていいました。「イエスさま、あなたたでしたか。それでは、わたしにめいじて、みずのうえをわたって、あなたのもとにいかせてください。」
イエスさまは、「きなさい」といわれたので、ペトロはふねからおりて、みずのうえをあるいてイエスさまのところへいきました。しかし、かぜをみて、ペトロはきゅうにこわくなって、おぼれかけ、「イエスさま、たすけてください」とさけびました。
イエスさまは、すぐにてをのばして、ペトロをつかまえていわれました。「わたしをしんじないで、どうしてうたがったのですか。」イエスさまとペトロがふねにのりこむと、かぜはすっかりやみました。でしたちは、イエスさまをれいはして、「ほんとうに、あなたは、かみのこです」といいました。
イエスさま、あなたは、わたしたちのほんとうのすくいぬしです。どんなときも、わたしたちといっしょにおられます。アーメン
2022年5月8日
《イエスさまは、ヤコブとヨハネの願いを聞いて、思い上がりをいましめ、仕えることを命じられた》
イエスは言われた。「あなたがたは、…このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
マルコによる福音書10章38節
イエスさまが、じゅうじかにかけられるまえのことです。イエスさまは、ごじしんが、じゅうじかにかけられ、みっかめによみがえられることを、でしたちにはなしはじめられました。
そのとき、イエスさまのでしのうち、ヤコブとヨハネのふたりが、イエスさまのもとによってきていいました。「せんせい、わたしたちのねがいをかなえてほしいのです」。イエスさまはいいました。「あなたがたは、わたしになにをしてほしいのですか。」すると、ふたりは、いいました。「あなたが、くにのおうさまになるときには、わたしたちをひとりは、あなたのみぎに、もうひとりは、あなたのひだりにすわらせてください」。
イエスさまはいわれました。「あなたがたは、じぶんがなにをねがっているのか、わかっていません。わたしがこれからこのからだにうけるくるしみをうけることができますか」。すると、ふたりは、「できます」というと、イエスさまはいわれました。「あなたがたが、わたしのくるしみをうけることは、ほんとうです。しかし、わたしのみぎやひだりにすわることは、わたしがきめることではなく、かみさまがそなえておられることです。」
ほかのじゅうにんのでしたちは、これをきいておこりました。ヤコブとヨハネが、じぶんたちばかり、えらくなることをねがっていたからです。でも、イエスさまはいわれました。「あなたがたのななかで、ほんとうにえらくなりたいひとは、どんなひとにも、つかえるひとになり、いちばんうえになりたいひとは、すべてのひとに、つかえるひとになりなさい。わたしが、このからだをじゅうじかのうえにささげるためにきたように。」
イエスさま、ほんとうにえらいひとは、ひとにじまんせず、ひとびととのためにくるしむことをよろこびとするひとです。アーメン
2022年5月1日
《イエスさまは、徴税人マタイに命じられて、弟子の一人とされた》
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ルカによる福音書5章32節
イエスさまが、わたしたちの「つみ」のために、じゅうじかのうえにしなれ、みっかめにふっかつされたことを、「しんやくせいしょ」にはよっつのふくいんしょがつたえています。そのさいしょの「ふくいんしょ」が、イエスさまのでしのひとり、マタイがかいた、「マタイによるふくいんしょ」です。
マタイはべつのなまえを「レビ」といいました。マタイが、みんなからきらわていた、ローマのくにへおかねをおさめる「ちょうぜい」のしごとをしていたときのことです。イエスさまが、とおりかかったとき、マタイがすわっているのをみかけて「わたしにしたがいなさい」といわれました。すると、マタイはすぐにたちあがって、イエスさまにしたがいました。
それから、イエスさまは、マタイのおうちでしょくじをしました。そのとき、マタイとおなじぜいきんをあつめるしごとをしていたひとや、(じぶんたちを「ただしいひと」といっていた)ファリサイびとから、「つみびと」とみなされていたひとびとが、たくさんやってきて、イエスさまとでしたちといっしょにしょくじをしました。ファイサイびとはでしたちにいいました。「なぜ、あなたがたのせんせい(イエスさま)は、みんなからきらわれている「ちょうぜい」のひとたちや、つみびととたちといっしょにしょくじをするのですか。」
イエスさまはこれをきいていわれました。「おいしゃさんは、びょうきのひとをなおすためにいます。わたしがきたのも、ひとをつみにさだめるひとではなく、つみのないただしいおかた、かみさまのまえに、こころからじぶんのつみをくいあらためるためです。」
イエスさま、あなたはつみびとをまねかれます。じぶんのつみをこころからくいあらためて、あなたのあいをもとめます。アーメン
2022年4月24日
《イエスさまは、全世界のすべてのひとびとに福音を宣べ伝え、救われた人びとに洗礼をさずけ、イエスさまの教えをすべて守るように命じられた》
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。・・・」マタイによる福音書28章18,19節
イエスさまは、じゅうじかのうえにしなれ、みっかめに、「はか」からよみがえられました。それから、(イスカリオテのユダをのぞく)11にんのでしたちは、ガリラヤにいき、イエスさまが、まえからやくそくしておられた、やまにのぼりました。
そして、でしたちは、イエスさまにおあいし、ひれふしました。でも、まだ、イエスさまがよみがえられたことが、しんじられないでしもいました。けれども、イエスさまのほうから、でしたちにちかよってきていわれました。
「わたしは、てんとちの、すべてのちからを、あたえられています。ですから、あなたがたは、でていって、せかいのすべてのひとびとが、わたしにしたがうでしとなるようにしなさい。そして、イエスさまにしたがうものたちに、イエスさまをつかわされた、ちちであるかみさまと、こであるかみさま(イエスさま)と、せいれいなるかみさまのごしはいのうちに、せんれいをさずけ、あなたがたにめいじておいたことを、ぜんぶまもるようにおしえなさい。わたしは、よのおわりまで、まいにち、どんなときにも、あなたがたといっしょにいます。」
このように、イエスさまのやくそくとめいれいは、2000ねんのあいだ、イエスさまのじゅうじかとふっかつがのべつたえられながら、イエスさまにしたがうひとたちがおこされ、せかいのかくちに、イエスさまのもとにあつまる「きょうかい」がひろがっていきました。わたしたちも、イエスさまがどんなときも、いっしょにおられることをしんじて、ひとびとにイエスさまをつたえましょう。
イエスさま、あなたは、わたしのすくいぬし。すべてのひとびとが、イエスさまによって、つみからすくわれますように。アーメン
2022年4月17日
《イエスさまは、ほうむられた墓から三日目に復活された》
御使いは女たちに言った。「あなたがたは恐れることはありません。・・・[十字架につけられたイエスは]・・・前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」
マタイによる福音書28章5節[新改訳2017]
イエスさまが、じゅうじかにかけられたのは、あんそくびのまえのひでした。いまの「きんようび」です。そして、みっかめのひになりました。あんそくび、「どのようび」のつぎのひ、いっしゅうかんのはじめのひ、「にちようび」のあさに、ふたりのおんなのひと、マグダラのマリアと、もうひとりのマリアが、イエスさまがほうむられた「はか」をみにきました。
すると、とつぜん、おおきなじしんがおこりました。そのとき、かみさまのみつかいが、てんからくだって、ちかよって、「はか」をふさいでいたおおきな「いし」がわきへころがり、そのうえにすわりました。みつかいのすがたは、かみなりのひかりのようにかがやいて、ころもは、ゆきのようにまっしろでした。
「はか」のばんをしていた「ばんぺい」たちは、みつかいをみておそれをいだき、ふるえて、しんだひとのようにかたまってしまいました。みつかいは、ふたりにいいました。「おそれることはありません。あなたがたが、じゅうじかにつけられたイエスさまをさがしていることはしっています。イエスさまは、ここにはいません。イエスさまがまえからいっておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、イエスさまがよこたわっていたところをみなさい。そして。いそいでいって、でしたちに「イエスさまは、しんだひとでしたが、よみがえられました。」とつたえなさい。
ふたりは、これをきいておそれながらも、たいへんよろこんで、いそいで、「はか」をたちさって、でしたちにしらせるためにはしっていきました。すると、イエスさまが、たっておられ「おはよう」といわれたので、ふたりは、イエスさまにかけよって、イエスさまのあしもとにすがって、ひれふしました。
イエスさま、ほんとうに「はか」からみっかめによみがえてくださった、いのちのしゅ、わたしたちのすくいぬしです。アーメン
2022年4月10日
《イエスさまは、十字架につけられ、ご自身の体をわたしたちの身代わりの死をなしとげられた》
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 マタイによる福音書27章46節
イエスさまは、こころにおいても、ことばにおいても、おこないにおいても、まったく、つみのない、きよくただしいおかたです。それなのに、どうして、イエスさまは、じゅうじかにつけられて、しなれたでしょうか。それは、イエスさまのことをねたんで、ころしたいとおもっていた、さいしちょうたちが、じゅうじかにつけようとしていたからでした。イエスさまのじゅうににんのでしのひとり、イスカリオテのユダが、さいしちょうたちから、ぎんか30まいをもらって、ゲツセマネのそので、イエスさまをさいしちょうたちのてにひきわたしました。
それから、イエスさまは、さいこうほういんで、さいばんにかけられ「あなたはかみのこ、すくいぬしなのですか」ときかれたり、また、そうとくピラトのもとで、「あなたがほんとうにユダヤ人のおうさまなのですか」ときかれました。また、イエスさまをおとしいれようと、ほんとうではないことをいわれても、イエスさまは、それにしかえしすることなく、かえって、バラバというひとりのしゅうじんとひきかえに、ひとびとの「じゅうじかにつけろ」とのこえのなかで、じゅうじかにひきわたされました。
イエスさまは、ふたりのごうとうといっしょにじゅうじかにつけられました。ひるのじゅうにじごろ、たいようがかくれ、くらくなり、それがさんじごろまでつづきました。さんじごろ、イエスさまは、「わたしのかみさま、わたしのかみさま、どうしてわたしをおみすてになったのですか」とさけばれて、じゅうじかのうえでしなれました。このイエスさまの「し」は、つみのないかたが、わたしたち(つみびと)のかわりにしなれた「みがわりのし」です。
イエスさま、あなたのじゅうじかのうえに、ほんとうは、わたしたちが、しぬところの「みがわりのし」をしんじます。アーメン
2022年4月3日
《イエスさまは弟子たちの足を洗い、わたしたちの罪を洗い清めるために来られたことをご自身の体をもって教えてくださった》
それから、[イエスは、]たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 ヨハネによる福音書13章5節
イエスさまは、じゅうじかにかけられるときがちかづいてきたことをしっておられながら、でしたちとゆうべのしょくじをいっしょにしていました。イエスさまは、しょくじのせきからたちあがって、うわぎをぬぎ、てぬぐいをとってこしにまとわれました。それから、たらいにみずをくんで、よこになってしょくじをとっていたでしたちのよごれた、あしをあらい、こしにまとっててぬぐいてふきはじめられました。
ペトロのところにイエスさまがくると、ペトロは、「イエスさま、あなたがわたしのよごれた、あしをあらってくださるのですか」とききました。するとイエスさまは、「わたしがしていることは、今、あなたにはなにのことかわからなくても、あとで、わかるようになります。」とこたえられました。それでも、ペトロが、「わたしのあしをあらうことなど、どんなことがあってもぜったいにしないでください」といと、イエスさまは、「もし、わたしが、あなたをあらわないなら、あなたはわたしといっしょにいのることも、はたらくことも、えいこうのなかにいることもありません。」
これをきいて、びっくりした、ペトロは、「イエスさま、それなら、あしだけでなく、ても、あたまも、あらってください」といいました。でも、イエスさまは、「もうからだをあらったひとは、きたないあしだけあらったらいいのです。」といいました。そして、イエスさまは、でしたちのあしをあらってしまうと、「わたしがあなたがたのあしをあらったのですから、あなたがたも、おたがいに、あしをあらいあいなさい」とめいじ、おたがいに、イエスさまのあいによって、おたがいにあいしあうようにめいじられました。
イエスさま、あなたのじゅうじかのあいによって、わたしたちのつみがあらいきよめられて、おたがいにあいしあいます。アーメン
2022年3月27日
《イエスさまは、ある女の人から注がれたナルドの油を、十字架の死のしるしとして受け入れられた》
食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルドの油の入った小さなつぼをもって来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。 マルコよる福音書14章3節[新改訳2017]
イエスさまは、ベタニアのシモンというひとのいえで、よこになってしょくじをしておられたときのことです。ひとりのおんなのひとが、まじりけのない、とてもたいせつにしていた、ナルドのこうゆのはいった、せっこうのつぼをもってきて、それをこわして、こうゆをぜんぶ、イエスさまのあたまにそそぎかけました。
すると、あるひとたちがおたがいに、おこっていいました。「なんのために、こうゆをむだづかいするのですか。このこうゆなら、300デナリいじょうでうれて、まずしいひとたちによいことができたのに」。そして、このおんなのひとをきびしくせめました。
でも、イエスさまはこういわれました。「このおんなのひとを、するままにさせておきなさい。どうしてこまらせるのですか。わたしのために、よいことをしてくれたのです。まずしいひとたちは、いつもあなたがたといっしょにいます。
また、あなたがたはのぞむとき、いつでもかれらによいことをしてあげられます。でも、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
このおんなのひとは、もっているものをささげました。それは、わたしのからだに、まえもってこうゆをぬることによって、わたしが、しんではかにほうむられるそなえです。
ほんとうのことをあなたがたにつげます。せかいじゅう、わたしのじゅうじかとふっかつがのべつたえられるところでは、このおんなのひとがしたことも、これからずっと、せかいのひとびとのこころにのこることになるでしょう。」
イエスさま、あなたのじゅうじかのあいによって、わたしたちのつみをきよめ、ほんとうのあいをあふれさせてください。アーメン
2022年3月20日
《イエスさまは、エルサレムの神殿(宮)で、商売人を追い出し、隠れた祈りの心を明らかにされた》
そして、(イエスは)教えて言われた。「『わたしの家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。…」
マルコよる福音書11章17節[新改訳2017]
イエスさまは、エルサレムについたつぎのひのことです。エルサレムのしんでんのひろばには、せかいじゅうから、たくさんのひとたちが、はとなどをおかねをだしてかって、おいのりしていました。でも、イエスさまは、そこで、おかねもうけをしているひとたちをおいだし、おかねのこうかんや、はとをうっていたひとたちがすわっていたこしかけをひっくりかえされました。
そして、イエスさまは、ひとびとにおしえていわれました。「せいしょに、このようにかいてあります。『わたしのいえは、せかいのすべてのくにのひとたちが、あつまっておいのりをささげるいえとよばれます』ところが、あなたたちは、それをおいのりのばしょではなく、ひとのおかねをかってにぬすんで、おかねもうけをするひとたちのあつまるばしょにしてしまいました。」
おかねもうけをしていたひとにおいのりのしかたをおしえて、おかねもちになっていた、さいしちょうたちとりっぽうがくしゃたちはこれをきいて、イエスさまをどうかして、ころそうとかんがえました。それは、イエスさまがおしえてくださることをきくと、おかねをはらってはとなどをかわなければおいのりできないとおもっていたのに、そうではないことをしって、かえって、じぶんたちがおかねもうけできなくなることをきらったからです。
わたしたちは、ただ、イエスさまにつみをきよめられて、おいのりします。それは、イエスさまが、じゅうじかのうえで、つみびとのみがわりとしてじぶんのからだをかみさまにささげてくださったからです。きょうかいでも、おうちでも、ひとりでも、イエスさまのすくいをしんじて、こころからおいのりしましょう。
イエスさま、じゅうじかによって、わたしたちは、どこでも、ほんとうのかみさま、イエスさまをよび、おいのりします。アーメン
2022年3月13日
《イエスさまは、預言のとおりに、ろばの子に乗って、エルサレムに入られた「ほんとうの王さま」》
二人の子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 マルコよる福音書11章7節
イエスさまと、でしたちが、エルサレムにつかづいたときのことです。イエスさまは、ふたりのでしをおつかいにだしていわれました。「むこうのむらにいくと、まだだれものったことのないちいさなろばが、つなでつないであるのがみつかります。そのつなをほどいて、ここにつれてきなさい。もし、だれかが、『どうして、つなをほどくのか』ときかれたたら、『イエスさまが、おつかいになるのです。おつかえになったら、すぐにここにおかえしになります。』といいなさい」。
ふたりは、イエスさまにいわれたとおりに、おつかいにでかけていくと、むらのおもてどおりにあるいえのいりぐちに、ちいさなろばが、つなでつないであるのをみつけたので、それをほどきました。すると、そこにいたひとびとが「そのちいさなろばをつないであるつなをほどいてどうするのですか」とたずねました。
ふたりは、イエスさまのいわれたとおりに「イエスさまが、おつかいになるのです。おつかいになったら、すぐにここにおかえしになります。」とはなすと、ちいさなろばをほどくことをゆるして、イエスさまのところにいかせてくれました。
ふたりがちいさなろばをつれてイエスさまのところにもどって、そのうえにじぶんのふくをかけると、イエスさまは、ちいさなろばにおのりになりました。たくさんのひとびとが、じぶんのふくをみちにしいたり、のはらからはっぱのついたえだをきってきてみちにしいてさけびました。「ホサナ。イエスさまにしゅくふくがありますように。」このちいさなろばにのってエルサレムにはいられた、イエスさまは、せかいのひとびとの、ほんとうのおうさまです。
イエスさま、せかいのひとびとが、あなたのあいとへいわによっておさめられるとき、あなたのえいこうをさんびします。アーメン
2022年3月6日
《イエスさまは、ザアカイを呼ばれ、契約の祝福の中で、ひとりの罪人を救われた》
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は失われた者を捜して救うために来たのである。」 ルカよる福音書19章9節
イエスさまが、エリコのまちをとおっておられたときのことです。そこに、ザアカイというひとがいました。ザアカイは、ひとびとから、おかねをあつめて、ローマのくににおさめるしごとをしていた、とてもおかねもちのひとでした。
イエスさまが、とおりかかったときのこです。イエスさまをひとめみようと、はしってさきまわりし、いちじくくわのきにのぼりました。
イエスさまが、やってくると、きのうえのザアカイをみていわれました。「ザアカイ、いそいでおりてきなさい。きょうは、あなたのおうちにとめてもらうよ。」
ザアカイは、いそいでおりてきて、よろこんでイエスさまをおむかえしました。このみたひとたちは、みんなつぶやきました。「あのひとは、ローマにつくようなみちをはずれたものに、よくつかまったものだ」。
しかし、ザアカイは、たちあがって、イエスさまにいいました。「わたしのほんとうのごしゅじんさま、わたしは、じぶんのざいさんのはんぶんを、まずしいひとたちのためにささげます。また、だれからか、なにかだましとっていたら、それをよんばいにしておかえしします。」
イエスさまはザアカイにいいました。「きょう、あなたとあなたのおうちのひとたちは、みんな、つみからときはなたれました。あなたも、かみさまが、しゅくふくされた、アブラハムのこなのです。わたしがきたのは、おなじように、つみにしばられてしまったひとをたずねて、ほんとうのじゆうをあたえるためです」。
イエスさま、わたしをつみからときはなってください。きよいこころをあたえ、ひとをあいするこどもにしてください。アーメン。
2022年2月27日
《目が見えないバルティマイは、イエスさまに、目が見えるようになることを、こころから願い、求め続けた》
「多くの人が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
マルコよる福音書10章48節
イエスさまが、でしたちと、たくさんのひとびとが、エリコのまちから、でようとしたときのことです。ティマイのむすこで、バルティマイというなまえの、めがみえないひとが、みちばたにすわって、ひとびとから、たべものや、おかねを、こいもとめていました。
ところが、イエスさま、みちをとおってくるときくと、さけんで、「ダビデの子イエスさま、わしをあわれんでくれ」といいはじめました。
たくさんのひとびとが、バルティマイをしかって、しずかにさせようとしましたが、バルティマイは、ますます、「ダビデの子イエスさま、わしをあわれんでくれ」とさけびつづけました。
イエスさまは、たちどまって、「あのひとをよんできなさい」といわれました。ひとびとは、めのみえないバルティマイをよんでいいました。「しっかり、たつんだ。あなたをイエスさまが、よんでいるよ。」
バルティマイは、きていたうわぎをぬぎすてて、とびはねるようにしながら、イエスさまのところにかけつけました。イエスさまは、「わたしになにをしてほしいのか」といわれました。
すると、バルティマイは、「せんせい、わたしはめがみえるようになりたいです。」といいました。そこで、イエスさまはいわれました。「いきない。あなたが、わたしがめをひらかれると、しんじたので、あなたはすくわれました。」
ずっと、めがみえなったバルティマイは、すぐにみえるようになて、イエスさまがすすんでいかれるみちについていきました。
イエスさま、わたしのこころのめをひらいてください。あなたがよろこばれるみちを、あなたといっしょにあゆみます。アーメン。
2022年2月20日
《イエスさまは、金持ちの青年に、天に富を積むように、持っているものをささげることの大切さを教えられた》
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。・・・」 マルコよる福音書10章21節
イエスさまが、こどもたちをしゅくふくされてから、みちをいかれようとしたときのことです。あるひとが、イエスさまに、かけよってきてたずねました。「よいせんせい、えいえんのいのちをうけつぐためには、どんなよいことをすればいいでしょうか。」
イエスさまはいわれました。「どうして、わたしのことを、「よいせんせい」とよぶのですか。かみさまのほかに、よいものはだれもいません。『ころすな、けっこんをけがすな、ぬすむな、いつわりのあかしをするな、うばいとるな、おとうさん、おかあさんをうやまいなさい』という、かみさまがめいじられた、ただしいおきてを、あなたはしっているでしょう。」
すると、このひとは、いいました。「せんせい、それらは、ぜんぶ、ちいさいときからまもっています。」でも、イエスさまは、このひとに、よくめをとめて、やさしいきもちでいいました。「あなたにたりないことがひとつあります。おうちにかえって、もっているものをぜんぶうりはらって、まずしいひとびとに、わけてあげなさい、そうすれば、かみさまがおられる、てんに、たからをもつようになります。そして、わたしについてきなさい。」
でも、このひとは、イエスさまのことばをきいて、みるみるしょげかえって、かなしみながら、イエスさまのもとからたちさっていまいました。たくさんのおかねや、はたけをもっていたからでした。イエスさまは、まわりをみまわしていいました。「おかねもちや、みたされているひとが、かみさまに、じぶんをおさめてもらうのは、どうしても、うけいれらない、むずかしいことです。」
でしたちは、これをきいて、とても、おどろきました。
イエスさま、わたしのこころをおさめてください。あなたのあいとめぐみが、わたしのこころにみちあふれますように。アーメン。
2022年2月13日
《イエスさまが、マルタとマリヤの家をおとずれたとき、ご自身のみことばに聞くことの大切さを教えられた》
「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。・・・」
ルカによる福音書10章42節[口語訳]
イエスさまとでしたちは、あるむら(たぶん、ベタニアむら)におはいりになりました。すると、マルタというおんなのひとが、イエスさまを、おうちにおむかえしました。このマルタには、マリアといういもうとがいました。マリアは、イエスさまがこられると、イエスさまのあしもとにすわって、イエスさまのおはなしに、よくきいていました。
ところが、マルタは、イエスさまをおもてなしすることが、いっぱいあって、とてもいそがしくはたらいていました。そして、イエスさまにつかづいてきていいました。「イエスさま、わたしのいもうとは、わたしがけにおもてなしのじゅんびをさせていますが、なんともおもわないのですか。わたしのことをてつだってくれるように、いってくれませんか。」
すると、イエスさまは、やさしくマルタにこたえていわれました。「マルタ、マルタ、あなたはおもてなしのことで、あれこれとおもいなやんで、こころをとりみだしていますよ。でも、ほんとうに、わたしたちにとって、なくてならない、たいせつなことは、ただひとつだけです。マリヤは、そのよいほうをえらんだのですよ。それを、マリヤからとりあげてはいけません。」
イエスさまが、おっしゃった、「ただひとつのよいもの」とは、なんでしょうか。それは、イエスさまのおはなし、みことばです。わたしたちのこころには、イエスさまのおっしゃることに、こころからきくことができない「つみ」があります。そのこころを、イエスさまが、ひらいてくださいます。イエスさまが、わたしたちのためにそなえてくださった「れいはい」をたいせつにしましょう。
イエスさま、あなたが、いのちのことばです。イエスさまのもとにしずまる「れいはい」のこころをあたえてください。アーメン。
2022年2月6日
《イエスさまが、タラントンのたとえ話で教えてくださったように、つみをゆるされためぐみをすべてささげて生きる》
・・「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」 マタイによる福音書25章12節[新改訳2017]
イエスさまは、あるひとが、たびにでかけるとき、ひとりめのしもべには、5タラントン(100年分はたらいてえられるおかね)をあずけました。ふたりめのしもべには、2タラントン(40年分)、そして、さんにんめのしもべには、1タラントン(20年分)をあずけました。それから、ながい、ながいねんげつがすぎました。しもべたちのごしゅじんさまが、たびからかえってきました。まず、5タラントンあずかったしもべがすすみでていいました。「ごしゅじんさま、おかえりなさい。わたしは、ほかに5タラントンもうけました」。しゅじんはいいました。「ちゅうじつな、よいしもべだ。おまえはすこしのものにちゅうじつであったから、おおくのものをかんりさせよう。あなたのしゅじんのよろこびのなかにはいりなさい。」こんどは、2タラントンあずかったしもべがすすみでていいました。「ごしゅじんさま、おかえりなさい。2タラントンもうけました」「ちゅうじつな、よいしもべだ。おまえはすこしのものにちゅうじつであったから、おおくのものをかんりさせよう。あなたのしゅじんのよろこびのなかにはいりなさい。」
さいごに、1タラントンあずかったしもべがすすみでていいました。「ごしゅじんさま、いつかえってこられのですか。あなたが、たねをまかないところからかりとろうするような、おそろしいひととであることをしって、あなたのタラントンをかくしておきました。」すると、しゅじんは、しもべにいいました。「あなたは、なまけものの、わるいしもべだ。それなら、わたしのおかねをぎんこうにあずけておけばりそくがついただろう。そのタラントンを10タラントンもっているひとにあたえなさい」。このよいことのためにはたらかなかったひとをそとのくらやみにおいだしなさい。
イエスさま、あなたがほんとうのてんのおうさまです。あなたがあたえてくださった、よいものをささげてあゆみます。アーメン。
2022年1月30日
《イエスさまは、十人のおとめのたとえ話で、ご自身がいつ来られてもよいようにそなえて待つことを教えられた》
「・・・だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。・・・」マタイによる福音書25章12節
イエスさまは、じゅうにんのおとめが、ひとりひとりともしびをもって、はなむことをむかえる、たとえばなしをおはなしになりました。じゅうにんのうち、5にんは、おろかなおとめたちで、5にんは、かしこいおとめたちでした。おろかなおとめたちは、ともしびはもっていましたが、それをもやすあぶらをじゅんびしていませんでした。かしこいおとめたちは、ひとりひとりのともしびといっしょに、つぼにあぶらをいれてもっていました。
おとめたちは、いまか、いまか、とはなむことのくるのをまっていましたが、はなむこがいつまでまってもこないので、みんなうとうとしてきました。まっくらなよるのことです。「はなむこがきたぞ。むかえにでなさい。」とさけぶこえがしました。
そこで、おとめたちはみんなおきて、ひとりひとりともしびをととえました。おろかなおとめたちは、かしこいおとめたちにいいました。「どうか、あぶらをわけてください。わたしたちのともしびが、きえそうです。」かしこいおとめたちはこたえました。「あなたがたがにわけてあげるほどじゅんびしていません。それより、おみせにいって、あなたがたのぶんをかってきてください。」
おろかなおとめたちが、あぶらをかいにいっているあいだに、はなむこがきて、あぶらをじゅんびしていた5ひんのかしこいおとめたちは、はなむこといっしょに、おいわいのへやにはいり、いりぐちのとがしめられました。そのあとで、おろかなおとめたちもきて、「ごしゅじんさま、ごしゅじんさま、あけてください」とたのみました。でも、しゅじんは、いいました。「わたしは、あなたがたのことをまねいたつもりはありません。」イエスさまは、いわれました。「いつわたしがきてもよいようにじゅんびしなさい」。
イエスさま、あなたがほんとうのてんのおうさまです。みことばのともしびと、おいのりのこころを、じゅんびします。アーメン。
2022年1月23日
《イエスさまは、パリサイ人と取税人のたとえ話で、神さまのただしさにかなう、おいのりのこころをおしえられた》
「…ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。…」 ルカによる福音書18章13節[口語訳]
イエスさまは、あるとき、ふたりの人について、たとえばなしをおはなしになりました。
「ふたりのひとが、おいのりするために、エルサレムのしんでんにのぼりました。ひとりは、ファリサイびとで、もうひとりは、しゅぜいにんでした。ファリサイびとは、こころのなかでこのようにおいのりしました。
『かみさま、わたしは、ほかのひとびとのように、ひとのものをうばいとったり、わるいことをしたり、けがれたことをするものでもなく、このちょうぜにんのような、おかねをだましとるものでもないことを、かんしゃしています。わたしは、いっしゅうかんに、にかい、だんじきし、うけたもののじゅうぶんのいちも、きちんとけんきんしています。』
ところが、しゅぜいにんは、しんでんからとおくはなれてたって、めをふせて、かなしみのあまり、むねをたたきながら、『かみさま、つみびとのこのわたしを、あわれんでくだされ』といいました。
あなたがたにいいますが、かみさまから、ほんとうのただしさをみとめられていえにかえったのは、しゅぜいにんであって、ファリサイびとではありませんでした。なぜなら、だれでも、じぶんのことを、じぶんでただしいとするひとは、ひくくされ、じぶんをほんとうにひくくするひとは、たかくされるからです。」
このように、イエスさまは、かみさまがかなしまれる「つみ」をかなしむ「こころ」をしっておられます。イエスさまは、わたしたちのみがわりとなって、その「つみ」をおってくださいました。
イエスさま、あなたがかなしまれる「つみ」をかなしみ、あなたがおわれた、じゅうじかの「くるしみ」をしんじます。アーメン。
2022年1月16日
《イエスさまは、失われた息子のたとえ話で、お父さんの愛を教えてくださったように、父なる神さまの愛を信じる》
また、イエスは言われた。「…ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。…」 ルカによる福音書15章20節[新改訳2017]
イエスさまのもとに、みんなからきらわれていた「ちょうぜいにん」や「つみびと」とよばれていたひとたちが、ちかよってきたときに、イエスさまは、このようなたとえばなしをはなされました。
「あるひとにおにいさんとおとうとのふたりのむすこがいました。そのおとうとが、おとうさんにいいました。『おとうさん、ぼくが、うけつぐことになっている、おうちや、はたけや、かちくをください。』それで、おとうさんは、それをふたりにわけてあげました。でもおとうとは、すぐに、ざいさんをおかねにかえて、とおいくにりょこうにいって、そこでざいさんをぜんぶむだづかいしてしまいました。そればかりか、かんかんでりのひがつづいて、はたけでたべものがそだたなくなって、たべることもできなくなりました。それで、そのとちのひとにおせわになって、はたけでぶたのせわをしました。おとうとは、ぶたのたべるいなごまめでおなかをみたしたかったほどはらぺこになりましたが、たべものをくれるひとはだれもいませんでした。そのとき、おとうとは、おとうさんのことをおもいだしました。おとうさんのところでは、あんなにたくさんのひとたちがはたらいて、パンもいっぱいあったのに、ぼくはここでしにそうだ。おとうさんのところにかえって、『おとうさん、ぼくは、かみさまにも、おとうさんにも、かなしませること(つみ)をおかしました。』おとうとは、おとうさんのもとにかえりました。ところが、まだ、とおくはなれていたのに、おとうさんは、じぶんのむすことみつけてかわいそうにおもい、はしりよって、だきしめました。」
このおとうさんこそ、ほんとうのかみさま、ひとりご、イエスさまをあたえてくださった、てんのおとうさま、かみさま、です。
イエスさま、わたしたちの「つみ」のためにじゅうじかにしんでくださった、「あい」のもとに、かえらせてください。アーメン。
2022年1月9日
《イエスさまが、よいサマリア人のたとえ話で、ほんとうの愛を教えてくださったように、となり人を大切にする》
イエスは答えられた。「…ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。…」
ルカによる福音書10章33節[新改訳2017]
イエスさまが、でしたちに、てんごくのよろこびをおはなしになっていたときです。りっぽうのせんもんかが、たちあがって、イエスさまをためそうとしていいました。「せんせい、なにをしたら、いつもよろこんでいきられるのですか。」イエスさまは、「りっぽうには、なにとかいてありますか。」とたずねました。すると、せんもんかは、「神さまと、となりびとを、こころをつくして、あいしなさい、です」とこたえました。イエスさまは、「そのこたえのとおりにしなさい。そうすれば、いつもよろこんでいきられます。」でも、このはかせは、じぶんがただしいことをみせようとしていいました。「ぼくのとなりびとはだれですか。」
すると、イエスさまは、こういわれました。「あるひとが、エルサレムからエリコへくだっていくとちゅう、ごうとうにおそわれて、きずだらけになって、たおれていました。そこに、あるさいしがとおりかかって、そのひとをみると、みちのむこうがわをとおっていきました。また、レビびとも、そのひとをみると、みちのむこうがわをとおって、いきました。ところが、たびをしていたサマリアびとは、そばにくると、そのひとをみてとてもかわいそうにおもって、きずのてあてをして、ろばにのせて、やどやにつれていって、おせわをしました。そしてつぎのひになると、デナリオンぎんか二枚を、やどやのしゅじんにわたしていいました。『このひとのおせわをしてください。このおかねでたりなかったら、かえりにはらいます。』さて、あなたはこのさんにんのなかで、だれが、ごうとうにおそわれたひとのとなりびとになったとおもいますか。」
りっぽうのせんもんかは、いいました。「そのひとをかわいそうにおもったひとです。」そこで、イエスさまは、いいました。「いって、おなじようにしなさい。」
イエスさま、あなたがかなしまれるつみのために、こころも、からだも、きずついた、ひとびとがいやされますように。アーメン。
2022年1月2日
《イエスさまをが、十字架の上で返してくださった、罪の代価のはかりしれないことをうけいれ、ゆるしあう》
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。…」 マタイによる福音書18章22節
あるとき、ペトロは、イエスさまにききました。「イエスさま、ぼくにわるいことをするおともだちがいます。ななかいで、おともだちになるのをやめてもいいですか」。イエスさまはいいました。「ななかいでじゅうぶんにしないで、ななのななじゅうばい、どんなときにも、なんかいでも、わるくされても、ゆるしてあげなさい。それは、ちょうど、てんのおうさまが、そのけらいたちにかしてあげた、10000タラントンのおかねをかえすようなものです。それは、けいらがなんまんねんもはたいてもらえるような、はかりしれないおかねです。けらいは、おうさまにかりたおかねがかえさなかってのですが、おうさまは、それをぜんぶかえしてことにしてくれました。ところが、けらいは、100デナリオン、3ねんぶんはたらいてもらえるほどのおかねをかしていたおともだちをつかまえて、『おかねをかえしなさい』といいました。おともだちは、『どうか、まってください。かえすから』といっしょうけんめいたのみました。でも、そのけらいは、おかねをかえすまでだといって、ろうやのなかにいれていまいました。このけらいがしたことを、なかまのひとたちがみて、てんのおうさまにいいました。おうさまは、けらいにいいました。『あなたは、ほんとうにわるいけらいだ。あなたが、このわたしにたのんだから、かぞえきれないくらいおおきなおかねをぜんぶかえしたことにしてやったのに、おなじようにおともだちにもしんせつにしてやるべきではなかったか。』」イエスさまは、このたとえはなしで、わたしたちの「つみ」が、はかりしれないほどおおきく、それを、イエスさまが、じゅうじかにかかって、ぜんぶおってくださったことをおしえています。イエスさまにおおくの「つみ」をゆるされたひとは、おともだちの「つみ」を、こころからゆるすひとにかえられます。
イエスさま、あなたが、じゅうじかのうえにささげられた、おおきなゆるしによって、おともだちのつみをゆるします。アーメン。
2021年12月26日
《神さまは、イエスさまを守り、救いの計画を成し遂げられる》
そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。 マタイによる福音書2章21節
ベツレヘムのイエスさまのもとをたずねた、はかせたちが、ひがしのくにへかえっていくと、神さまのみつかいが、ゆめで、ヨセフにあらわていいました。「おきて、おさなごとマリアをつれて、エジプトににげなさい。ヘロデが、おさなごをさだしだしてころそうとしています。」ヨセフはおきて、くらいよるのうちに、おなさなごイエスさまとマリアをつれてエジプトににげました。
ヘロデおうさまは、はかせたちがかえってこなかったので、じぶんをだましたとおもって、かんかんにおこりました。そして、おさなごイエスさまのうまれたときをたしかめて、ベツレヘムとそのあたりの2さいいかのおとこのこをみなごろしにしました。
それは、むかし、神さまのことばを人びとにつげた、よげんしゃ、エレミヤがいったとおりでした。「ほうぼうで、かなしいこがきこえます。こどもたちがいないので、かなしみのあまり、それいじょう、なぐさめてもらおうともしないほどです。」
ヘロデおうさまが、しぬと、神さまのつかいがエジプトにいるヨセフにゆめであらわれていいました。「おきて、おなさごと、マリアをつれて、イスラエルのちにいきなさい。このこどものいのちをねらっていたものたちは、しんでしまったから。」そこで、ヨセフはおきて、おなさなごとマリアをつれて、イスラエルのちにもどってきました。ところが、アルケラオというひとが、ヘロデおうさまのあとをついて、ユダヤをおさめているときいて、イスラエルのちほうにいくのがこわくなりました。でも、ゆめで、神さまから、つげられたとおりに、ガリラヤちほうにしりぞいて、ナザレというまちにいってすみました。イエスさまは、このように、「ナザレのひととよばれる」おかたとして、ちいさいころから、ひとびとに、ふくいんをつたえはじめるまで、おおきくそだっていきました。
イエスさま、どこにみちびかれても、あなたのみことばによって、わたしのこころと、ゆくみちをてらしてください。アーメン。
2021年12月19日
《幼子イエスさまをおがみ、おくりものをささげたはかせたち》
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 マタイによる福音書2章11節
イエスさまは、ヘロデが王のじだい、ユダヤのベツレヘムでおうまれになりました。そのころのころです。とおいとおいひがしのくにから、まいばんのように、そらのほしをいつもよくかんさつしていた、はかせたちが、はるばるエルサレムにやってきていいました。「ユダヤ人の王としておうまれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは、ひがしのほうで、そのかたのほしをみたので、おがみにきたのです。」これをきいてヘロデ王はしんぱいになりました。じぶんのほかに王がうまれたとおもったからです。エルサレムの人びとも、みんなしんぱいになりました。
ヘロデ王は、人びとのためにおいのりしたり、おしえたりしている「さいちょう」や「りっぽうがくしゃ」の人たちをみんなあつめて、「せいしょのやくそくでは、すくいぬしはどこにおうまれになるのか」、と、ききました。すると、その人たちは、「ユダヤのベツレヘムです。」とつたえました。そこで、ヘロデは、はかせたちをひそかによびよせて、いつ、あたらしい王のほしがあらわれののかをよくしらべました。そして、「いって、うまれたこどものことをよくしらべて、みつかったらしらせてくれ、わたしもいっておがむから」といって、ベツレヘムにはかせたちをおくりだしました。
はかせたちが、ベツレヘムにむかっていると、ひがしのほうでみたほしがさきにすすみ、ついにイエスさまのいるところのうえにとまりました。はかせたちは、そのかがやくほしをみて、とてもとてもうれしいきもちになりました。いえにはいってみると、ちいさなこどものイエスさまが、おかあさんマリアといっしょにいました。はかせたちは、ひれふして、イエスさまをおがみ、たからのはこをあけて、おうごん、にゅうこう、もつやくを、イエスさまによろこんでささげました。
イエスさま、あなたが、すべてのひとびとのおうさまです。どこでも、どんなときも、イエスさまをもとめていきます。アーメン。
2021年12月12日
《羊飼いたちに現れた、天使の知らせ》
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 ルカによる福音書2章11節
ローマのおうさま、アウグステゥスから、「なまえをとうろくせよ」との、めいれいがでて、ヨセフとマリアは、ナザレからユダヤのベツレヘムへいきました。ところが、ベツレヘムにいるうちに、マリアは、あかちゃんをうみ、ぬのにくるんで、かいばおけにねかせました。やどやにとまるばしょがなかったからです。
ベツレヘムのちかくで、ひつじかいたちが、よるのあいだも、ずっとひつじのむれのばんをしていました。すると、神さまのみつかいがあらわれ、神さまのえいこうが、まわりをてらしたので、ひつじかいたちは、とてもこわくなりました。
みつかいはいいました。「おそれることはありません。わたしは、せかいのひとびとにとって、おおきなよろこびとなる、よろこびのしらせをつげます。きょう、ダビデのまち、ベツレヘムで、あなたがたのために、すくいぬしがおうまれになりました。このかたこそ、ほんとうの神さま、キリストです。あなたがたは、ぬのにくるまって、かいばおけのなかにねている、うまれたばかりの、あかちゃんをみつけるしょう。これが、あなたがたへのしるしです。」
すると、とつぜん、このみつかいに、うえからたくさんのみつかいがくわわって、かみさまをさんびしていいました。「いとかたきところには、えいこうが、神さまにありますように。ちのうえでは、へいわが、神さまによろこばれる人たちにありますように。」
みつかいが、はなれて、てんにさったとき、ひつじかいたちは、「さあ、ベツレヘムにいこう。神さまがしらせてくださった、できごとをみよう」とはなしあいました。そして、いそいでいって、マリアとヨセフ、かいばおけのイエスさまをさだしあてました。ひつじかいたちは、さんびしながら、イエスさまのおうまれになったよろこびを、ひとびとにしらせながら、かえっていきました。
イエスさま、ひつじかいがつたえたように、いつも、あなたがほんとうのすくいぬしです、とよろこんでつたえます。アーメン。
2021年12月5日
《エリサベトと恵みを分かち合った、マリアの賛美》
そこで、マリアは言った。 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」ルカによる福音書1章46,47節
エリサベトが、おとこのこ、ヨハネをみごもって6かげつめのことです。みつかいガブリエルは、ナザレというガリラヤのまちにすむ、マリアのもとに、かみさまから、つかわされました。
みつかいはマリアにいいました。「おめでとう、しゅくふくされたひとよ、しゅなるかみさまがいっしょにおられます。」マリアは、とてもおどろいて、このあいさつはいったいなんのことかと、かんがえこみました。すると、みつかいはいいました。「マリア、おそれることはありません。あなたは、神さまからめぐみをいただいています。あなたはみごもっておとのこをうみます。そのこをイエスとなづけなさい。その子は、大いなる人になり、いとたかきかた、神さまの子とよばれます。ほんとうの神さまが、その子にダビデのようにすべての人びとをおさめるちからをおたえになります。そのちからは、えいえんにつづき、おわることがありません。」
マリアはみつかいにいいました。「まだけっこんしていないのに、どうして、こどもをみごもることがあるでしょうか。」みつかいはこたえていいました。「せいれいがあなたをつつみ、かみさまのちからがあなたをおおいます。だから、うまれるこは、せいなるもの、かみさまのこと、よばれます。あなたのしんせきのエリサベトも、としをとっていますが、ひとりのこをみごもって、6かげつになっています。かみさまにはできないことはありません。」
そこでマリアはいいました。「わたしは、神さまにしたがいます。かみさまのおことばどおりに、ほんとうになります。」そして、マリアは、いそいで、エリサベトにあいにいきました。それから、エリサベトとマリアは、神さまのしゅくふくをおぼえ、神さまをさんびし、お祈りしながら、エリサベトはヨハネ、マリアはイエス、のうまれるひをいっしょにまちました。
しゅなる神さま、みことばをこころから信じます。みことばのとおりにイエスさまもとへひとびとをみちびいてください。アーメン。
2021年11月28日
《イエスさまがお生まれになるとき、さきに生まれた洗礼者ヨハネの父ザカリアは、救いの約束を預言した》
父ザカリアは…こう預言した。「…主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」
ルカによる福音書1章67~69節
ユダヤの人びとをヘロデ王がおさめていたころのことです。ザカリアは、人びとのつみをゆるしてくださるように、おいのりをしていました。ザカリアは、エリサベツとけっこんして、神さまのめいじられることをまもって、二人とも、ただしくいきる人でした。
ザカリアが、いつものように、神さまのまえで、「さいだん」のうえで、よいかおりのするものをもやして、おいのりをささげていいたあいだ、「しんでん」のそとでは、たくさんの人たちがおいのりをささげていました。
すると、神さまのみつかいがザカリアにあらわれていいました。「おそれることはありません。ザカリア、あなたのねがいがききいれられました。あなたがけっこんしていっしょになった、エリサベツは、おとこのこをうみます。その子をヨハネとなづけなさい」。
ザカリヤは、「わたしも、エリサベツも、としをとっています。どうして、そのようなことをしることができるでしょうか。」みつかいはいいました。「わたしはガブリエル、神さまのまえにたつものです。あなたは、ときがくれば、ほんとうになるみことばをしんじなかったので、はなすことができなくなります。」
ザカリヤは、神さまにささげものをするところからでてきましたが、おはなしをすることができませんでした。それから、みつかいのやくそくのとおり、エリサベトは、つきがみちておとこのこをうみました。ザカリアとエリサベトは、みつかいにめいじられたとおり、そのこに「ヨハネ」となづけました。すると、ザカリアのくちがひらいて、神さまをさんびしながら、うまれたおさなごが、おおきくなって、人びとをつみからかいほうするすくいぬしのために、みちをそなえる人になることをよげんしました。
イエスさま、あなたが、ほんとうのおうさま、すくいにぬしとして、おうまれになっためぐみを、人びとにつたえます。アーメン。
2021年11月21日
《サウル王が死んで、ダビデが王となり、主なる神さまは、ダビデの家と王国について永遠の祝福を約束された。》
「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。」 サムエル記下7章27節
サウル王とむすこたち、ダビデとなかよしだったヨナタンも、ギルボア山でのペリシテ人とのたたかいでころされました。へいしたちは、ころされたひとたちをほうむり、7日の間、たべものをたべないで、ふかいかなしみをあらわしました。
イスラエルのちょうろうたちが、ヘブロンで、ダビデのもとにあつまっていいました。「主なる神さまが、あなたをイスラエルをおさめる王さまにたてられました。」ダビデと、ちょうろうたちは、神さまのまえに、けいやくをむすびました。そして、ちょうろうたちは、ダビデにあぶらをそそいで、イスラエルの王さまとしてたてられことをしるしました。
ダビデは、エジプトからイスラエルの人びとがすくだされたことをあかしする「けいやくのはこ」をエルサレムにはこびいれました。このとき、よげんしゃのナタンはいいました。「しゅなるかみさまは、イスラエルの人びとをエジプトからみちびきだし、りっぱまないえにすまないで、まくや(テント)でれいはいがささげられたとき、人びとといつもいっしょにいました。これからも、あなたがどこにいっても、わたしはいっしょにいます。主なるかみさまは、このようにやくそくされます。あなたのいっしょうがおわり、せんぞとともにねむるとき、あなたからうまれたこどもたちにあとつがせ、わたしのえいこうのためにいえをたて、わたしは、あなたのいえをえいえんにかたくすえるでしょう。」ダビデはこのことばをきいておいのりました。「主なるかみさま、いま、あたえてくださったみことばのとおりになりますように。」
ダビデがきいたやくそくは、えいえんの、ほんとうの、おうさま、イエスさまがこられたことによって、ほんとうになりました。
イエスさま、あなたは、どんなときにも、わたしたちといっしょにいつもおられる、ほんとうのおうさまとしんじます。アーメン。
2021年11月14日
《サウル王から命をねらわれている間、ダビデは、いつも主なる神さまのよろこばれることを行おうとした。》
サウルは声をあげて泣き、ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。」 サムエル記上24章17,18節
サウル王は、ペリシテ人とのたたかいからかえってきたとき、「ダビデがエン・ゲディのあらのにいます」とつたえききました。サウル王は、ダビデをとてもわるくおもい、にくんでいたので、まるでペリシテ人とのたたかいのように、3000人をえらんで、ダビデと、いっしょにたたかっていた人たちをおいかけました。
そのとちゅうで、ひつじのかこいばのあたりで、ほらあながあったので、サウルは、トイレがわりにはいりましたが、そのおくには、ダビデと、ダビデにひきいられた人たちがすわっていました。そのひとりがダビデにいいました。「きっと、神さまが、あなたのてきをわたすときにちがいありません。」ダビデは、たって、サウロのうわぎのはしをこっそりときりとりました。でも、ダビデは、すこしでも、サウロのうわぎのはしをきったことをかなしんで、そのひとにいいました。「神さまが、あぶらをそそがれた王さまに手をかけることを、神さまはけっしておゆるしにならない」こういって、サウロをころそうとしたひとが、サウルをころそうとすることをゆるしませんでした。
サウルがさきにどうくつをでると、ダビデはサウル王にこえをかけました。「わたしの王さま」。サウロがふりかえると、ダビデは、かおをぢめんにふせていいました。「わたしはあなたのうわぎのはしをきりとりましたが、あなたをころすことをしませんでした。あなたがだれをおってこられたのですか。どうか、神さまが、わたしとあなたのあいだをただしくさばいてくださるように」サウル王は、「あなたは、わたしよりただしい。わるいことにおまえはただしいことをつくしてくれた。あなたがこんどは王さまになるとやくそくしてくれ。」ダビデは、神さまのめぐみによって、サウルのやくめをうけつぐことを、やくそくしました。
主なる神さま、あなたは、どんなにちいさなつみも、かなしまれす。いつもかみさまによろこばれることをもとめます。アーメン。
2021年11月7日
《サウル王から命をねらわれたダビデは、主なる神さまによって命を守られた。》
そのとき、サウルがダビデを壁に突き刺そうとねらったが、ダビデはサウルを避け、槍は壁に突き刺さった。ダビデは逃げ、その夜は難を免れた。 サムエル記上19章10節
あのペリシテ人、ゴリアトをたおしてダビデが、イスラエルの町にかえってくると、女の人たちは、がっきをえんそうしながら、サウル王をむかえるうたを「サウルは、せん、ダビデは、まんをうった」とうたいました。そのうたは、サウル王のみみには、イスラエルがペリシテ人とのたたかいにかったうたではなく、じぶんよりも、ダビデのちからをほめるうたにきこえました。サウル王は、ダビデをころしたいと思うほど、わるく、にくむようになりました。
ダビデがサウル王のそばでいつものように「たてごと」をひいていたときです。とつぜん、サウル王は、やりをふりかざして、二ども、ダビデをかべにつきさそうしました。ダビデは、やりをよけて、にげました。サウル王のむすこ、ヨナタンは、いいました。「おとうさん、神さまが、イスラエルをたたかいにかたせてくださったのです。どうして、ダビデをころそうとするのですか。」サウルは、いいました。「神さまはいきている。ダビデをころしはしない」。でも、また、サウル王は、「たてごと」をひいていたダビデにやりをつきさそうとしました。ダビデはにげて、いのちをまもられました。
ダビデはヨナタンにいいました。「ぼくがなにをしたというのでしょう。おとうさんは、どうして、ぼくのいのちをねらうのでしょうか。」ヨナタンはいいました。「ダビデくんをころさせはしないよ。」ヨナタンは、おとうさんのサウル王が、ダビデをころそうとしていることをほんとうにかなしくおもいました。そして、ダビデとヨナタンは、いっしょになきながら、「神さまが、いつもいっしょにおられます」と、かたいやくそくをかわしました。
主なる神さま、どんなにかなしいときにも、あなたが、わたしたちといっしょにおられることをしんじて、あゆみます。アーメン。
2021年10月31日
《主なる神さまに守られて、ゴリアトをたおしたダビデ》
そして、ダビデは言った。「獅子の手、熊の手から私を守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」 サムエル記 上 17章37節
ペリシテぐんが、いっぽうの山に、イスラエルぐんが、たにをはさんでもういっぽうの山にいてたたかいにそなえていたときです。ペリシテぐんから、とてもおおきなからだ(しんちょう3メートルちかく)をしたゴリアトという名のせんしがすすみでました。ゴリアトは、せいどうのかぶととよろいをきて、おおきなやりをもって、たちはだかり、イスラエルぐんにむかっておおごえでさけびました。「おれさまは、ペリシテぐんだ。一人をえらんで、おれさまとたたおうではないか。もしおまえたちがかてば、ペリシテはおまえたちのどれいになる。おれさまがかてば、ペリシテのどれいになれ。」このペリシテ人は、40日のあいだ、あさに、ゆうにやってきて、おなじところにたち、おなじことばをさけびました。
ひつじかいをしていたダビデは、おとうさんのエッサイにたのまれて、イスラエルぐんとおいにいさんたちにいりむぎとパンをとどけたとき、あのペリシテ人ゴリアトのさけびごえをききました。イスラエルのへいしたちは、みんな、ゴリアトをみておそれました。でも、ダビデは、「神さまがともにおられるたたかいにいどんでくるとは、あのペリシテ人はいったいなにものですか」といい、おにいさんのエリアブは、「なにをしにきたのか。たたかいをみるためか」といいました。でも、ダビデは、サウル王さまのところへって、「ぼくがいって、あのペリシテ人とたたかいましょう。ライオンや、くまの手からぼくをまもってくださった神さまが、あのペリシテ人の手からも、ぼくをまもってくださいます」。そして、サウルがきせようとしたよろいとかぶとをすてて、いつものつえといしを5つふくろにいれて、いしなげひもを手にしてペリシテ人ゴリアトにむかっていきました。ダビデは小石をいしなげひもでとばすと、ゴリアトのひたいにあたり、ゴリアトはうつぶせにたおれ、ダビデは、ゴリアトがみにつけていたつるぎでとどめをさしました。
主なる神さま、いつもあなたのみことばと、おいのりによって、あくまとのたたかいにうちかつことができますように。アーメン。
2021年10月24日
《主なる神さまはダビデの心を見て、民の王に選ばれた》
しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。・・・人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
サムエル記 上 16章7節
サムエルは、イスラエルの人びとのもとめた王さま、サウルが、神さまがめいじられたことにそむいたことをとてもかなんしんでいました。主なる神さまは、サムエルにいいました。「いつまであなたは、サウルのことをかなしんでいるのですか。わたしは、サウル王ではなく、ベツレヘムのエッサイのむすこたちの中に、王さまになる人をみつけました」。
サムエルは、神さまにめいじられたとおりに、ベツレヘムにいき、エッサイとそのむすこたちを、いけにえをささげるしょくじにまねきました。むすこたちをみて、サムエルは、エリアブに目をとめ、この人こそ、神さまのまえにあぶらをそそぐ人だ、と思いました。でも、神さまは、サムエルにいいました。「人のすがたや、せのたかさに目をむけてはいけません。人は、そとがわをくらべてみますが、わたしはうちがわのこころをみわけます。」エッサイはつぎにむすこのアミナダブをサムエルのまえをとおらせました。サムエルはいいました。「この人も神さまはえらんでおられません」そのつぎにシャンマをとおらせました。サムエルはいいました。「この人も神さまはえらんでおられません」。エッサイはこのようにしてぜんぶで七人のむすこをサムエルのまえをとおらせましたが、サムエルはいいました。「この人たちは神さまはえらんでおられません」。サムエルはエッサイにたずねました。「あなたのむすこはこれでぜんぶですか。」エッサイはこたえました。「いいえ、いちばんすえの子がのこっていますが、いま、ひつじのばんをしています。」エッサイが、その子をつれてこさせました。その子は目のきれいなりっぱな人でした。神さまはいわれました。「この人に立って油をそそぎなさい。この人が、わたしのこころにかなう、あたらしいおうさまになる人です」。サムエルはこの人にあぶらそそぎました。この人が、あたらしい王さまになったダビデです。
主なる神さま、あなたがいつもわたしたちのこころをみておられることをしんじ、あなたによくおつかえできますように。アーメン。
2021年10月17日
《主なる神さまの御命令に背き、罪を犯したサウル王》
サウルは彼に言った。「…わたしは主の御命令を果たしました。」サムエルは言った。「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか。」サムエル記 上 15章13,14節
サムエルは、サウル王さまにいいました。「主なる神さまが、わたしをあなたのもとにつかわして、油をそそぎ、イスラエルの人びとの王さまとされました。神さまは、イスラエルの人びとが、エジプトからここにやってくるみちをふさいだアマレクびとと、うしも、ひつじも、ぜんぶほろぼすようにめいじられました。」
サウルは、おおぜいの兵士たちをあつめて、アマレクびとのまちにきました。そして、アマレクびとのおうさまをとらえ、人びとをほろぼしました。しかし、サウルと兵士(へいし)たちは、ぜんぶをほろぼすことをせず、ひつじや、うしなど、なんでもとてもよいものは、おしんでほろぼさずにのこしました。それは、ぜんぶをほろぼすようにめいじられた神さまのめいれいにそむくことでした。サムエルがサウルのもとにいくと、サウルは、サムエルにいいました。「神さまのめいれいをぜんぶまもりました。」サムエルはいいました。「それなら、ひつじや、うしのこえがどうしてきこえるのですか。」サウルはいいました。「兵士(へいし)たちが、神さまへのそなえものにしようととてもよいものをのこしてひっぱってきたのです。」サムエルはいいました。「神さまは、あなたにあぶらをそしでおうさまとされました。それなのに、どうして、神さまのめいれいにそむて、アマレクびとと、ひつじや、うしなど、ぜんぶほろぼすことをせず、自分のものにしようとして、のこしておいたのですか。」サウルはいいました。「ギルガルで神さまにささげようとしていたのです。」サムエルはいいました。「神さまがよろこばれるのは、そのようなささげものではありません。神さまのいわれることにききしがうことです。」サウルは、「わたしがつみをおかしました。」でも、神さまは、サウルがめいれいをまもらなかったことを、とても、かなしまれましました。
主なる神さま、わたしたちにあたえられているよいはたらきを、あなたをよろこびつつ、はたすことができますように。アーメン。
2021年10月10日
《民の要求を受け入れ、サウル王に油を注いだサムエル》
サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。主はサムエルに言われた。「彼らの声に従い、彼らの王を立てなさい。」 サムエル記上8章21節
サムエルは、生きているあいだ、神さまがよろこばれることを祈りながら、イスラエルの人びとをみちびきました。サムエルが、ずいぶん年をとったときのことです。人びとの「ちょうろう」たちがあつまってサムエルにいいました。「あなたはすっかり年をとられました。いまこそ、ほかのくにぐにとおなじように、わたしたちのために王さまを立ててください。」サムエルは、人びとのもとめは、神さまのよろこばれないことをおもって、主なる神さまにおいのりしました。すると、神さまは、こういわれました。「人びとがあなたにいうようにしなさい。人びとは、あなたではなく、人びとをおさめているのは、ほんとうは、わたしであることをしんじようとしないのだ。エジプトから人びとをみちびてきたのは、わたしであるのに、人びとは、わたしをすてて、力のないいろいろな神さまをおがんできた。今は、人びとのこえをきいて、人びとの上に立てられる王さまがどのような力をもつのかをおしえなさい。」
サムエルは、主なる神さまがめいじられたとおり、王が立てられると、いろいろなことでくるしむことをつたえました。けれども、人びとは、「わたしたちはどうしても王をもたなければなりません。」と、じぶんたちのねがいをいちばんにしました。
それから、主なる神さまは、サムエルにこういわれました。「サウルという人を、あなたにつかわします。あなたはこの人にあぶらをそそいで、ひとびとの王さまにしなさい。」サムエルは、サウルにあうと、神さまは、いいました。「わたしがあなたにつげた人は、この人です。」そこで、サムエルは、あぶらのつぼをとって、サウルの上にあぶらをそそいでいいました。「主なる神さまが、あなたを人びとの王さまとしてたてられました。」サムエルは、人びとにサウルを、神さまのえらばれた王さまとしてつげました。
主なる神さま、あなたがほんとうの王さまです。あなたが立てられた人びとをおさめる人たちのため、おいのりします。アーメン。
2021年10月3日
《主なる神さまからの言葉を聞き、それを話したサムエル》
主はサムエルに言われた。「見よ、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。」サムエル記上3章11節
サムエルは、おかあさんのハンナが、主なる神さまにこころから祈りもとめて、生まれたおとこの子でした。ハンナは、主なる神さまが、サムエルをあたえてくださったので、主なる神さまをほめたたえて、おいのりをささげました。「わたしのこころは、主なる神さまにあって、大いによろこんでいます」。サムエルは、さいしエリのもとで、サムエルは、主なる神さまにも、人にも、あいされて、ますます、よくおつかえするようになりました。
あるよるのことです。主なる神さまは、「サムエル、サムエル」とサムエルをよばれました。サムエルはエリのもとにいって、「はい、ここにおります」と言いました。エリは「わたしはよんでいません、もどってねなさい」と言いました。すると、また、主なる神さまが、サムエルをよばれました。サムエルはエリのもとにいって、「はい、ここにおります」と言いました。エリは「わたしはよんでいません、もどってねなさい」と言いました。すると、三どめに、主なる神さまは、サムエルをよばれました。サムエルはエリのもとにいって、「はい、ここにおります」と言いました。エリは、このとき、主なる神さまが、サムエルをよんでおられることにきづいて、おしえました。「こんど、主なる神さまが、あなたをよばれたら、神さま、おはなしください。しもべはきいています、と言いなさい。」
主なる神さまが、「サムエルよ、サムエルよ」とよばれると、サムエルは、「神さま、おはなしください、しもべはきいています」と言いました。すると、神さまは、「わたしは、イスラエルの人びとに、一つのことをしようとしています。だれでもそれをきく人は、二つの耳がなるほどに、おそれ、おどろきます。エリの家は、かならずさばかれ、そのつみをつぐなうことはできません。」サムエルは、エリに「神さまは何をかたられましたか、すべてはなしなさい」と言われ、神さまのことばをすべてエリにつたえました。
主なる神さま、あなたのことばはすべてほんとうです。あなたのことばのすべてに、よく、おしたがいできますように。アーメン。
2021年9月26日
《神さまの救いの約束を受け継いだルツの結婚に学ぶ》
女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。・・・どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。・・・」ルツ記4章14節
ルツはナオミに、「はたけにいって、おおむぎのかりいれをしている人たちのうしろでおちぼをひろわせてください」と言うと、ナオミは「いってらっしゃい」とおくりだしました。ルツはボアズのはたけで、あさからばんまで、おちぼをたくさんひろいました。ボアズはルツに言いました。「主なる神さまが、あなたをしゅくふくされて、ナオミを大切にしてくれていることをよくきいています。これからも、わたしのはたけでおちぼをひろいなさい。」ルツは、ボアズに言いました。「ご主人さま、わたしはあなたからしんせつにされていることを、よろこんでうけさせていただきます」。ルツはいえにかえって、ナオミに、「今日、ボアズという人のはたけではたらきました」とつたえました。すると、ナオミは、「それはよかった。ボアズは、わたしのしんせきです。これからも、ボアズのはたけで、ほかの女の人たちといっしょにはたらきなさい」。ルツはかりいれのおわりの日までボアズのはたけでおちぼをひろいました。おおむぎのかりいれがぜんぶおわった日のことです。ボアズは、みんなでたのしいしょくじをして、おおむぎのそばでねむりました。よなかに、じぶんの足もとにルツがねていたので、ボアズはびっくりしましたが、おおむぎ6ぱいをもたせて、よがあけるまえに、ナオミもとにかえらせませした。それは、ボアズが、ルツのこころがただしく、神さまをおそれる人であることをみとめて、ルツといっしょにくらすことをきめる、じゅんびのしるしでした。
ボアズは、じぶんよりさきにルツといっしょにくらすかどうかきめるしかくのある人に「あなたがルツとはたけをうけつぎますか」をたずねると、その人は、「わたしではなく、どうぞあなたがルツといっしょにうけついでください」と言いました。このようにして、ボアズはルツといっしょにくらしました。二人に男の子オベドがうまれました。この子が、ダビデの父であるエッサイの父となり、千年の年月がたち、ダビデの子、イエスさまがうまれました。
イエスさま、あなたがおられるすくいのおうちで、きょうかいで、いっしょに、あなたのしゅくふくをうけつぎます。アーメン。
2021年9月19日
《ほんとうの神さま、「主」に従った、モアブの女、ルツの決心に学ぶ》
ルツは言った。「…あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。‥」 ルツ記1章16節
イスラエルの人びとをさばきづかさがおさめていたころのこと、主なる神さまからあいされた、エリメレクのかぞくがいました。エリメレクのおよめさんは、ナオミといい、マフロンとキルヨンの二人の男の子といっしょにくらしました。あるとき、ずっとながいあいだ、あめがふらず、食べものがぜんぜんとれなくなり、エリメレクのかぞくはみんなで、食べものをえるために、ベツレヘムからモアブにうつりすみました。ところが、10年たらずのあいだに、エリメレク、マフロン、キルヨンがつぎつぎと死んでしまって、ナオミと、マフロンとキルヨンのおよめさんの、オルパとルツの3人が、のこりました。主なる神さまが、ふたたび、ベツレヘムの人びとにたべものをあたえてくださったので、ナオミは、オルパとルツといっしょに、ベツレヘムにもどることにしました。そのとちゅうで、ナオミは、オルパとルツにいいました。「あなたはそれぞれ、自分のおかあさんの家にかえりなさい。これからは、いっしょにいくことはありません。」オルパとルツは、声をあげてなきながら、「わたしたちは、あなたがもどっていく人びとのところに、いっしょにもどります」といいました。でも、ナオミは、二人に言いました。「おかあさんのいえに、かえりなさい。わたしはもうとしをとっていて、あたらしいいえをもつことはできないのです。あなたたちは、もどって、あたらしいいえをもちなさい」。二人は、また声をあげてなき、オルパは、おわかれのあいさつをしてわかれましたが、ルツは、ナオミにすがりついて、いいました。「おかあさまがいかれるところにわたしもいきます。おかあさまがもどっていかれる人びとのは、わたしがもどっていく人びと、おかあさまの神さまは、わたしの神さまです。」ナオミはルツがこころをきめたことをしって、ナオミとルツは、いっしょにベツレヘムにもどりました。ベツレヘムの人びとはみなで、二人をむかえました。
イエスさま、あなたがおられるところが、わたしたちのいえです。あなたのめぐみによってあいし、いのりあいます。アーメン。
2021年9月12日
《主なる神さまに、こころから祈って、新たな力を求めたサムソン》
サムソン主に祈って言った。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え…てください。」 士師記16章28節
主なる神さまは、イスラエルの人びとが、わるいことばかりするので、40年の間、ペリシテ人の手にわたされていたとき、サムソンがうまれ、ナジル人として、神さまにささげられました。
サムソンは大きくなって、主なる神さまからの「れい」がくだると、すごいちからで、ライオンをひきさいたり、ジャッカルを300匹つかまえてきて、たいまつをとり、しっぽとしっぽをつなぎあわせて、たいまつに火をつけて、ジャッカルをペリシテ人のむぎはたけにおくったりしました。
ペリシテ人をおさめていた人たちは、サムソンのつよいちからのひみつをしりたがって、デリラという女の人をサムソンにつかわしてききだそうとしました。でも、サムソンは、そのひみつをあかすことはしませんでした。デリラは、なんどもなんども、サムソンをきいたので、とうとう、サムソンは、こういいました。「わたしはかみのけをいちどもきったことがありません。生まれる前から、神さまにささげられたナジル人で、そのきまりをまもってきたからです。もし、わたしのかみのけをきったら、わたしのちからはさり、わたしはよわくなって、ふつうのひとのようになるでしょう」
デリラは、ついにサムソンのつよいちからのひみつがわかったので、ペリシテをおさめていた人たちにつたえると、サムソンのかみのけをぜんぶきりおとしました。サムソンはちからをうしない、目もつぶさられました。ところが、サムソンのかみのけが、また、のびてきたときです。みせものにされた、サムソンは、「神さま、どうか、わたしをこころにとめてください」と、お祈りし、しんでんの二本のはしらのおすと、はしらたおれて、しんでんがくずれおち、サムソンと、たくさんの人がしんでしまいました。
主なるかみさま、あなたからあたえられた、いのちも、ちからも、たいせつにして、ささげることができますように。アーメン。
2021年9月5日
《主なる神さまの約束を信じて、勇気を与えられたギデオン》
ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、…言った。「立て、主はミディアンの陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」 士師記7章15節
ギデオンとイスラエルの人びとは、あさはやくおきて、エン・ハロドのほとりで、ミディアン人とのたたかいにそなえました。そのとき、主なる神さまは、ギデオンにいいました。「あなたがつれている人びとはおおすぎます。このまま、イスラエルの人びとがたたかいにかつと、わたしにむかって、こころがおごって、自分たちの手ですくいをかちとったというでしょう。」
そこで、主なる神さまは、たたかいをこわがっている人は、かえるように命じ、22000人が、10000人になりました。主なる神さまは、「人びとはまだおおすぎる。人びとをつれてみずべにくだっていきなさい。」とめいじられました。
そして、主なる神さまは、「ひざをついてかがんでみずをのむものはべつにしなさい」と命じられました。そして、みずべで、ようじんして、手で水をすくってのんだ、300人だけをつれていくように、ギデオンにめいじられました。
ミディアン人は、かぞえきれないほどおおくいました。でも、イスラエル人の男の人が、みかたの人に、こんなゆめのはなしをしていました。「わたしはゆめをみた。おおむぎのまるいパンがミディアン人の中にころだりこんで、テントがたおれてひっくりかえった」みかたの人は、「きっと、神さまが、ミディアン人をギデオンにわたされるのだ」といいました。ギデオンは、これをきいて、イスラエル人(300人)にめいじました。「立ちなさい。主なる神さまは、ミディアン人をあなたたちの手にわたされた」。
3つにわかれた人びとは、そろってつのぶえをふき、みずがめをわって、たいまつをひだりて、みぎてにつのぶえをふきつづけ、「神さまのため、ギデオンのために、つるぎを」をさけぶと、ミディアン人は、みんな、みなみのほうへ、にげていきました。
主なるかみさま、わたしたちではなく、あなたの力がほんとうにおおきいことをしんじて、ただしいみちをあゆみます。アーメン。
2021年8月29日
《神さまの勇士、ギデオンは、神さまの命令にしたがって、バアルのさいだんをこわし、本当の神さま『主』を礼拝した》
主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ。主があなたとともにおられる。」 士師記6章12節[新改訳2017]
イスラエルの人びとは、主なる神さまに導かれて、エジプトを出て約束の土地、カナンに入ることができました。ところが、イスラエルの人びとは、にせものの神さま、バアルをおがんで、本当の神さまの言うことを聞きませんでした。
ミディアン人は、そのようなイスラエルの人びとをせめて、はたけにみのったものをあらし、ひつじやうしもろばもいなくなりました。イスラエルの人びとは、このとき、主なる神さまのことを思い出し、主なる神さまに助けを求めてさけびました。
このとき、主なる神さまのみつかいが、ギデオンにあらわれて言いました。「力あるゆうしよ。主なる神さまが、あなたといっしょにおられす」。ギデオンは言いました。「主なる神さまが、わたしといっしょにおられるのでしたら、どうして、ミディアン人にとちがあらされたのですか。エジプトからすくい出してくださった神さまの力はどこにいったのですか。」みつかいは言いました。「その救いの力をもっていきなさい。あなたは、ミディアン人の手から、イスラエルの人びとを救うことができます。」ギデオンは、みつかいに、肉とパンをとってささげると、いわから火がもえあがって、肉とパンをやきつくしました。ギデオンは、ほんとうに、みつかいが、主なる神さまからのつかいであることがわかりました。
ギデオンは、主なる神さまからめいれいをうけて、よるのあいだに、にせものの神さま、バアルのさいだんをこわし、アシェラぞうという「にせもののかみさまのぞう」をこわしました。それをみた人びとは、ギデオンをころそうとしましたが、ギデオンのお父さんは、「あなたたちは、力のない、にせもののかみさまのためにあらそうのですか」といって、イスラエルの人びとをおさめました。
主なるかみさま、わたしたちが、いつも、わるいみちをはなれて、あなたにおいのりするこころをあたえてください。アーメン。
2021年8月22日
《イエスさまのみことばを聞いて行う人はさいわい》
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。マタイによる福音書7章24節
イエスさまは、やまのうえで、弟子たちと人びとに、すべてのせかいをつくられた、神さまのすばらしさをよろこび、「となりびと」をほんとうにたいせつにすることをおしえてくださいました。
そして、そのおはなしのさいごに、このようにおしてくださいました。「そこで、わたしのこれらのことばをきいておこなう人は、みんな、いわのうえに、じぶんのいえをたてた、かしこうい人ににています。あめがふり、かわがあふれ、かぜがふいて、そのいえをおそっても、たおれませんでした。いわをどだいとしていたからです。」
「わたしのこれらのことばをきくだけでおこなわない人は、みんな、すなのうえにいえをたてた、おろかな人ににています。あめがふり、かわがあふれ、かぜがふいて、そのいえにおそいかかると、たおれて、そのたおれかたがひどかった。」
この「いわのうえに、じぶんのいえをたてるかしこい人」とは、イエスさまのおしえられたことをいつもこころにとめていきる人のことです。また、「すなのうえにいえをたてたおろかな人」とは、イエスさまのおしえられたことをわすれて、神さまをかなしませている人のことです。
神さまは、わたしたちの「つみ」をかなしんでおられるばかりでなく、イエスさまのじゅうじかによって、「つみ」とその「けいばつ」をおってくださる「すくい」をあたえてくださいました。
そうでなければ、じつは、わたしたちは、みんな、「すなのうえにいえをたてた人」のように「おろかな」人、「つみびと」のままです。イエスさまが、「つみびと」のみがわりにしんでくださったことをしんじて、じぶんととなりびとのために、いのりましょう。
イエスさま、わたしたちを「つみ」からすくってください。イエスさまと「となりびと」をたいせつにできますように、アーメン。
2021年8月15日
《イエスさまの恵みが分かち合われることを求めて祈りつづける》
求めなさい。そうすれば、与えられる。…あなたがたの天の父は、求める者に良い物を与えてくださる…。マタイによる福音書7章7,11節
イエスさまは、わたしたちのみがわりとなって、「じゅうじか」につけられました。イエスさまをしんじて、おいのりするとき、わたしたちは、「神さまのこども」として、こころからもとめていることを、イエスさまにおはなしします。イエスさまはいつもわたしたちのおいのりをきいてくださいます。
また、イエスさまは、「しゅのいのり」をおしえてくださって、わたしたちが、なにをもとめておいのりしたらよいかおしえてくださいました。それは、世界の人びとによって、てんのちち(おとうさま)である、神さまが、ほめたたえられ、イエスさまの救いのよろこびがひろがるように、おいのりすることです。また、神さまが、一日一日、たべものを与えてくださるように、「じゅうじか」にかけられたイエスさまのめぐみによって「つみ」をゆるされたように、たとえ、わるいことをされても、イエスさまのように、その人をあいすることをもとめるように、そして、「つみ」と「あくま」のちからにうちかって、すくいのみちをあゆむことができるように、いのりなさい、と教えてくださいました。
イエスさまは、「もとめなさい、そうすれば、あたえられます」と約束してくださいました。それは、イエスさまに、「よいもの」をもとめつづけるとき、かならず、「よいもの」があたえられる、というやくそくです。もし、わたしたちが、おいのりしても、与えられないときは、じぶんかってな、おねがいばかりしていないか、かんがえてみましょう。いつも、「しゅのいのり」のお手本にして、おいのりするとき、わたしたちは、イエスさまのよろこばれることが、ほんとうになることをしんじるようにみちびかれます。
せかいのすべての人びとが、イエスさまのもとにきて、すくいのめぐみをいっしょによろこぶことができるように、求めましょう。
イエスさま、おいのりすることをおしえてください。イエスさまによろこばれるみちを、みんなで、あゆめますように。アーメン。
2021年8月8日
《イエスさまはわたしたちの心を公平に見て、あわれんでくださる》
あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか。マタイによる福音書7章3節
みなさんは、あたらしいおうちを、たてている大工さんを見たことがありますか。大工さんは、木を切って、土台の上に柱を建てたり、屋根をつくったりします。そのとき、のこぎりで木を切ると、下にたくさんおがくずがおちます。
イエスさまは、弟子たちと人びとに言われました。「じぶんのなかまの目にある小さなおがくずは見えるのに、なぜじぶんの目の中にある大きな材木、丸太に気づかないのですか。じぶんのなかまに向かって、『あなたの目から小さなおがくずを取らせてください』とどうして言えるでしょうか。じぶんの目に大きなざいもく、まるたがあるではありませんか。人の前でじぶんを正しい人していながら、神さまの前には、大きな「つみ」を重ねている人たち、まず、じぶんの目から大きなざいもく、まるたをとりのぞきなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、じぶんのなかまの目から小さなおがくずをとりのぞくことができます。」
イエスさまは、このように、神さまが悲しまれる「つみ」の大きさを、小さく、かるい、おがくずと、大きく、おもい、材木、丸太にたとえて、人の前で「じぶんは正しい」と言っている人たちに、じぶんのなかまの目にあるとても小さく、かるい、「つみ」はよく見えるのに、じぶんの目の中にあるもっとおもく、大きな「つみ」気づかないのですか、と言われたのです。
じつは、神さまの前には、みんな「つみびと」です。一人も、正しい人はいません。ですから、お互いに、よくないことを注意することがあっても、神さまの前に、じぶんも、わるいかもしれないと思って、いっしょに、お祈りしましょう。なによりも、わたしたちの「つみ」を負って、十字架に死んでくださった重さが、一ばんおもい、神さまの「さばき」です。いつも、イエスさまの十字架を信じ、イエスさまのよろこばれる道を、いっしょにあゆみましょう。
イエスさま、あなたが、わたしたちの身代わりとなって負ってくださった、十字架の、一ばんおもい「つみ」信じます。アーメン。
2021年8月1日
《イエスさまはほんとうの王と信じ、救いの恵みを一ばんに求める》
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。マタイによる福音書6章33節
わたしたちが、神さまにしたがって生きるために、イエスさまは、一つのテストを与えてくださいました。それは、「自分のいのちのことで何を食べようか」「自分のからだのことで何を着ようか」と思いなやんでいませんか、という、といかけです。
空の鳥をよく見なさい、空の鳥は、たねもまかず、かりいれもせず、くらにおさめることもしませんが、天の父なる神さまが、鳥をやしなっているでしょう。野の花がどのようにして育っているか、ちゅういして見なさい。働きもしませんし、着物をつくる糸を出すこともできません。きらびやかさをきわめたソロモン王も、このお花よりきれいということはなかったのです。
空の鳥をやしない、野の花をうつくしくよそおってくださるのは、わたしたち人間をつくり、やしなっておられる、ほんとうの神さまのです。天の神さまは、わたしたちをやしなっておられます。
イエスさまは、だから、「何をたべようか」「何をのもうか」「何をきようか」といって、おもいなやまないようにしなさい、と教えてくださいました。それらは、ほんとうの神さまを知らない人たちの求めているものです。あなたがたの天の父なる神さまは、食べもの、飲みもの、きものも、ないと生きられないことを知っておられます。でも、まず、わたしが、イエスさまが、ほんとうの王さまであることを信じて、イエスさまのすくいをいちばんにするとき、食べものも、飲みものも、きものも、すべてそえて与えられます。
わたしたちは、まいにち、イエスさまによって生かされています。わたしたちは、「つみ」のこころをきよめられ、イエスさまがあたえてくださる、すくいのよろこびをいちばんに求めます。
イエスさま、つみのこころをきよめてください。あなたのすくいをいちばんいにもとめていきることができますように。アーメン。
2021年7月25日
《イエスさまの愛によって力をふるう人のために祈る》
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイによる福音書5章44節
イエスさまは、とてもしんせつでやさしく、わたしたちを大切にしてくださるお方です。みなさんも、イエスさまのように、とてもしんせつでやさしい、お互いに大切にする人になりたいですか。
それでは、イエスさまは、みんなにあいされていたでしょうか。もちろん、弟子たちや、多くの人たちは、イエスさまのおっしゃることをよくきいて、したがっていきました。けれども、なかには、イエスさまにみんながついていくのでよく思っていない人もいました。それは、人びとをおさめる力をふるう人たちでした。
どのようにしてその力をふるっていたのでしょうか。それは、神さまの律法を、自分たちが守ることができるルールに変えることによってです。そして、それができない人をみくだし、できることをじまんしました。でも、それは、神さまによろこばれることではありませんでした。
「あなたの隣人(となりびと)を愛し、敵(てき)をにくめ」というルールも、本当は、あなたの隣人(となりびと)を愛しなさい、という愛の律法を自分かってにかえたものです。イエスさまは、たとえ、自分をきらう、敵であっても、「愛しなさい」と教えられました。それは、たとえ、「敵」でも、「隣人」だからです。
天の父なる神さまは、人がわるいと思っている人にも、よいと思っている人にも、太陽をのぼらせ、正しいと思っている人にも正しくないと思っている人にも、雨をふらせてくださいます。
イエスさまは、神さまの「敵」となった「あくま」と「罪(つみ)」のちからを、ほろぼすために、じゅうじかにつけられました。このイエスさまの愛によって、わたしたちの「隣人(となりびと)」を、悪のちからにうちかって、愛しましょう。
天の父なる神さま、あなたの愛によってわたしたちと世界の人びとが、お互いに、隣人を愛することができますように。アーメン。
2021年7月18日
《イエスさまが裁かれる罪を認めて相手をゆるす》
「しかし、わたしは言っておく。…あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」マタイによる福音書5章25節
イエスさまは、世の中で、わたしたちが、星のひかりのように、すくいの光をかがやかすように、恵みを与えてくださいます。それでは、わたしたちはどのようにして、すくいの光をかがやかすことができるでしょうか。それは、イエスさまのよろこばれることをすることです。そのためには、わたしたちが、イエスさまを信じ、人びとをこころからあいすることが大切です。
イエスさまは、山上の説教の中でこう言われました。昔の人は、「殺してはいけません。人を殺した人は、神さまのさばきを受けます。」と言いました。でも、わたしは言います。「自分の仲間に、わけもなく、おこってせめることはしてはいけません。また、自分の仲間をばかにしてはいけません。それは、みんな、こころで人を殺しているのと同じです。ですから、神さまがそのような人をさばいて、恐ろしいぢごくの火に投げ込みます。ですから、あなたが、神さまの前にそなえものをしようとしたとき、自分の仲間が、自分をよくおもっていないことを思い出したら、その前に、自分の仲間と仲直りをし、それからそなえものをささげなさい。
また、あなたのことを神さまの前にうったえようとしている人が、いたら、できるだけ早く仲直りしなさい。そうないとその人は、たちまち、あなたをさいばんにかけられて、ろうやに入れられてしまうでしょう。あなたがたに、本当のこと言います。最後の、たとえ、一クアドランス(やく7分半の賃金:160円ぐらい)を支払ってしまうまでは、決してそこから出ることはできません。」
神さまの前にある罪の代価は、たとえわずかなでも、人間には返すことができません。そうです。イエスさまの十字架の愛は、どんなに軽い罪も、どんなに重い罪も、全部の代価を支払って余りあるものです。イエスさまの愛は本当に罪のゆるしに満ちています。
イエスさま、わたしたちのつみを、ぜんぶゆるしてください。こころから、すべての人を愛することができますように。アーメン。
2021年7月11日
《イエスさまから出る救いの光を人びとに輝かす》
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」 マタイによる福音書5章14節
イエスさまが、天の国のことを、人びとにお伝えしたときのことです。「祝福あれ。ほんとうに、神さまのたすけなくては生きられない人たちは。わたしのおさめる天の国は、そのような人たちでいっぱいです。」と言われました。
それから、イエスさまは、「祝福あれ。こころから神さまのようにつみを悲しんでいる人びと、その悲しみはなぐさめられます。」「祝福あれ。わるいことがあってもそれを耐えしのんでいる人びとよ、神さまの祝福をうけつぎます。」「祝福あれ。神さまのようにきよくただしくなりたいとこころからねがっている人びとよ、神さまの恵みがあふれます。」「祝福あれ。苦しんでいる人びとといっしょに歩みたいとねがっっている人びとよ、深い思いやりを受けます。」「祝福あれ。こころを見られる神さまを信じてきよくなりたいと願っている人びとよ、神さまを見ます。」「祝福あれ。平和をつくりだす人びとよ、神さまの子どもと呼ばれます。」
このように、イエスさまは、人びとのこころのくるしみといたみをよく知っておられました。それは、本当に、人びとをなぐさめ、きぼうのひかりを与えるものでした。けれども、世の中は、イエスさまを信じる人たちばかりではありませんでした。ユダヤの人びとをおさめていた王様も、神さまのことを教えていた人たちも、イエスさまがきらいでした。それは、イエスさまにみんながついていくをよろこばないで、イエスさまの言われることを聞こうとしなかったからです。
イエスさまは、イエスさまのいうことをよく聞いてついてくる人びとを祝福され、「よろこびなさい」と言われました。そして、「あなたがたは、世の中で光のように、かがやいています」と祝福れました。イエスさまを信じ、すくいの光をかがやかしましょう。
イエスさま、つみぶかく、くらい世の中でも、いつも、ほしのように、すくいの光をかがやかす子どもにしてください。アーメン。
2021年7月4日
《イエスさまの恵みによって生きている人に満ちている祝福》
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天の国は彼らのものである。」 マタイによる福音書5章3節
イエスさまが、人びとに、天の国のことを伝えはじめたときは、30才のころでした。イエスさまは、ヨセフの子と思われていましたが、じつは、神さまのひとり子でありながら、神さまの約束のとおりに、この世界に「人の子」としてお生まれになりました。
洗礼者ヨハネから洗礼をうけたイエスさまは、洗礼者ヨハネと同じように、「神さまのもとに帰ってきて、神さまといっしょに歩みましょう。」と、ガリラヤの人びとに、のべつたえはじめました。
それから、イエスさまは、四人の漁師たちをご自身の弟子とされ、ガリラヤ中をまわって、会堂で教え、神さまの国の福音をのべつたえ、ありとあらゆる病気やわずらいをいやされました。それで、イエスさまのなさったことがみんなにひろまって、人びとは、イエスさまのところへ、いろんな病気や苦しみなやんでいる人や、体が自由にうごかない人などをつれてきました。イエスさまが、それらの人びとをいやさました。そして、大ぜいの人びとが、イエスさまのところに来られたを見て、弟子たちが近くによって来ると、イエスさまは、口を開いて、教えられました。
「祝福あれ。ほんとうに、神さまのたすけなくては生きられない人たちは。わたしのおさめる天の国は、そのような人たちでいっぱいです。」
このイエスさまのおしえをはじめて聞いた人たちは、ほんとうにびっくりしました。それは、人びとは、もうじき神さまのさばきの日が来るから用心するようにと、教えられていましたが、毎日、心は苦しく、なやみが大きかったからです。イエスさまの祝福は、わたしたちのこころとたましいをいやして、神さまをこころからよろこぶものです。このよろこびを人びとと分かち合いましょう。
イエスさま、世界の人びとを祝福してください。イエスさまと人びとといっしょに、神さまをよろこんで、あゆみます。アーメン。
2021年6月27日
《カレブは、45年間、主なる神さまの約束を信じて従い、ヨシュアをとおして、約束の土地を与えられた》
「ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主は語られたとおりにわたしを生かしてくださいました。…今日、わたしは八十五歳です。」
ヨシュア記14章10節
主なる神さまが、ヨシュアとともにおられので、イスラエルの人びとは、エリコの町がほろびました。それから、つぎつぎと、カナンの土地が、イスラエルの人びとのものになりました。そして、イスラエルの12のぶぞくに、ヨルダン川の東がわと西がわの土地がわりあてられました。
そのころ、ヨシュアのもとにカレブがやってきて言いました。「モーセがわたしをこの土地をよく見てきなさい、と命じられたのは、わたしが40才のときでした。わたしは、土地にはいっていくように報告しましたが、いっしょに行った者たちは、人をおそれてそうしませんでした。
その日、モーセは、『あなたはわたしの神、主にしたがいとおしたので、カナンの土地はあなたと後の子どもたちのものとなります』と約束しました。
見てください。主なる神さまが、モーセに約束をされてから45年、イスラエルの人びとがずっと荒れ野を旅した間、神さまは約束のとおり、わたしが生かしてくださいました。今日、わたしは85才ですが、とても元気です、神さまから与えられた働きをする力があります。どうか、主なる神さまがわたしに与えてくださると約束された、山のある土地をわたしにください。」
ヨシュアがカレブを祝福し、ヘブロンという山のある土地をカレブに与えました。カレブへの約束は45年たって本当になりました。神さまの約束は、このように、何年も、何十年、何百年、何千年もたってから、ほんとうになります。
イエスさま、あなたの約束を信じます。わたしたちは、いつも、あなたの約束がほんとうになることを信じて祈ります。アーメン。
2021年6月20日
《ヨシュアの命令のとおりに、七人の祭司たちが七度、エリコの町を回ると、エリコの城壁が崩れ落ちた》
七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。「閧(とき)の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。」 ヨシュア記6章16節
主なる神さまが、ヨルダン川の水をからしてくださって、イスラエルの人びとは、川をわたり、エリコの町のひがしのさかいにあるギルガルでテントをはりました。エリコは、おおぜいのイスラエルの人々がせめてくると思い、町の門をかたくしめていました。このとき、神さまは、ヨシュアに言われました。
「見なさい。わたしが、エリコをあなたの手にわたします。あなたたち兵士は皆、町のまわりをまわりなさい。町の一回まわったら、それを六日間つづけなさい。七人の祭司たちは、つのぶえをたずさえて、神の箱(契約の箱)をみちびきなさい。七日目には、町を七回まわって、祭司たちはつのぶえをふきならしなさい。その音があなたたち兵士の耳にたっしたら、みんなで、かちどきの声をあげなさい。町の城壁がくずれ落ちたら、そこから入りなさい。」
ヨシュアは、このとおりに、祭司たちと兵士たちと人びとに命じました。そして、七人の祭司たちは、つのぶえをふきながら、神さまの前をすすみ、けいやくの箱はその後をすすみました。兵士たちは、つのぶえをふきならす祭司たちの前と、けいやくの箱の後ろをすすみました。ヨシュアは、人びとに、「わたしがかちどきの声をあげよ、と命じるまではさけんではいけません」と命じました。
祭司たちと兵士たちと人々は、朝早くおきて、六日間、町をぐるりとまわってテントに戻りました。七日目は朝早く、夜明けとともにおきて、同じように町を七回周り、七回目に、祭司たちがつのぶえをふきならし、人々がかちどきの声をあげると、エリコの町の城壁がくずれおち、イスラエルの人々はエリコの町をとりました。主がヨシュアといっしょにおられたので、このことがおこりました。
イエスさま、あなたのみことばにはちからがあります。みことばをしんじて、おいのりするこころをあたえてください。アーメン。
2021年6月13日
《ヨシュアの導きにより、イスラエルの人びとは、全地の主なる神さまの契約とともに、ヨルダン川を渡った》
ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。 ヨシュア記3章7節
主なる神さまは、40年の間、イスラエルの人びとを荒れ野で導いたモーセが死んだ後、ヨシュアに命じられました。
「今、イスラエルの人びととヨルダン川をわたり、わたしが人びとに与える土地に行きなさい。つよく、おおしくありなさい。わたしのしもべモーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはいけません。あなたがどこに行っても、あなたの神、主はいっしょにいます」。
ヨシュアは、朝早くとき、イスラエルの人びとみんなと、シティムを出発し、ヨルダン川の岸に付きました。三日たってから、ヨシュアは人びとの命じました。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱を、祭司たちが担ぐのを見たら、いっしょにつづきなさい。でも契約の箱との間は、約2000アンマ(900メートル)はなしなさい。」そして、ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、人びとの先に立って、川を渡りなさい」と命じると、祭司たちは、契約の箱をかつぎ、人びとの先に立って進みました。
主なる神さまは、ヨシュアに命じられました。「契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の水ぎわに着いたら、ヨルダン川の中で立ち止まりなさい、と命じなさい。」ヨシュアは、主なる神さまから命じられたことを、イスラエルの人びとに命じました。
ヨルダン川をわたろうとしたとき、水はいっぱいでした。でも、契約の箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわにひたると、川の水がとちゅうでとまり、祭司たちが川の中で立ち止まっている間に、イスラエルの人びとは、みんな、ヨルダン川をわたりおわりました。
イエスさま、あなたは、いつもわたしたちといっしょにおられます。あなたの命令とやくそくを信じて歩めますように。アーメン。
2021年6月6日
《ヨシュアとカレブは、主なる神さまの約束を信じ、巨人を恐れることなく、約束の土地に入ることを訴えた》
「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。」
民数記14章8節
主なる神さまに導かれて、エジプトを出たイスラエルの人びとは、シナイをとおって、約束の地カナンにたどりついました。神さまは、モーセに言われました。「わたしが、イスラエルの人びとに与えるカナンの土地に入るまえに、よくしらべてきなさい。それぞれの部族ごとに一人ずつ、12人をつかわしなさい」。
そこで、モーセは、12人をつかわすにあたり、こう命じました。「山にのぼって、その土地だどんなところか、よくしらべてきなさい。」
カナンに入って、エシュコルの谷につくと、しらべに入った人たちは、大きな一ふさのぶどうのついた枝を切り取って、ぼうにさげて、二人でかつぎました。そして、40日の後、その土地をしらべて帰ってきました。
しらべに入った人たちは、モーセにほうこくしました。「そこは乳とみつのながれるところです。これがそこでとれたぶどうです。でも、そこにすんでいる人たちは強く、城壁にかこまれ、とても大きい人たちです。」でも、カレブはおそれることなく、「わたしたちはすぐにのぼっていきましょう。かならずかつことができます。」とモーセの前で人びとをしずめて言いました。
神さまは、「カレブとヨシュアの二人は、人をおそれなかったので、カナンに入るでしょう」と、約束されました。けれども、「しらべに入った多くの人は、こわがったために、しらべにはいった40日の、一日を一年とする、40年の間、荒れ野をさまよい死ぬでしょう」といわれました。このように、このとき、イスラエルの人びとがみんなでカナンに入ることはできませんした。
イエスさま、どんなにこわいときにも、いつもあなたがともにおられることを見るように、歩むことができますように。アーメン。
2021年5月30日
《主なる神さまは、シナイ山で、モーセをとおして、イスラエルの人びとに、十戒(十の言葉)を告げられた。》
神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 出エジプト記20章1~3節
イスラエルの人びとが、エジプトを出て、3ヶ月目のことです。シナイの荒れ野につき、テントをはりました。
モーセが、主なる神さまのもとにのぼっていくと、神さまは、モーセをよんで言われました。
「いま、わたしの声に聞きしたがい、わたしのやくそく(契約)を守るなら、あなたたちは、すべての人びとの間で、わたしのたからとなります。世界は、すべてわたしのものだからです。あなたたちは、わたしにとって、神さまにつかづく「さいし」のおくこく、聖なる国の民となります。これが、イスラエルの人びとにかたらなければならない、ことばです。」
すると、モーセが、長老たちをよびあつめて、神さまの命じられた言葉をすべて語ると、人びとは声をあわせて、「わたしたちは、神さまが語られたことをすべて、おこないます」とやくそくしました。
それから、神さまはあついくものなかで、火のなかにあって、山のてっぺんにくだられました。神さまは、山のてっぺんにモーセをめされて、ご自身をあらわされ、「さあ、おりていきない」と命じられました。モーセは、人びとのもとにおりていって、人びとに、十のことば、「じっかい」をつげました。
「じっかい」は、イスラエルの人びとがいつも、エジプトから救いだしてくださった、主なる神さまだけを「れいはい」して、安息日を守ること、そして、神さまがおあたえてくださった、人びとをおたがいにたいせつにして生きるように命じられたものです。「じっかい」は、たいせつな「あいのきじゅん(ルール)」です。
イエスさま、わたしたちをあいでみたしてください。イエスさまを、きよくただしいこころでれいはいできますように。アーメン。
2021年5月23日
《主なる神さまは、荒れ野で、イスラエルの人びとに、40年の間、毎日食べるパンを与えられた。》
イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」
出エジプト記16章15節
主なる神さまのみ力によって、エジプトから脱出したイスラエルの人びとが、荒れ野に入ってから、二ヶ月半となりました。人びとは、モーセとアロンに言いました。「エジプトでは、にくのたくさん入ったなべの前に座り、パンをおなかいっぱいたべられたのに、この荒れ野に連れ出され、みんな、うえて死んでしまいそうだ。」
モーセは、神さまのやくそくを人びとに告げました。「主なる神さまは、ゆうがたには、あなたたちににくを食べさせ、あさには、パンを与えておなかをいっぱいにされる。」
神さまのやくそくのとおりに、ゆうがたになると、「うずら」がとんできて、テントをおおい、あさには、テントのまわりに「つゆ」がおりました。ふしぎなことに、この「つゆ」がかわくと、うすい「しも」のようなものが、のこっていました。
人びとはこれ見て、「一体なんだろう」とおたがいにいいました。モーセは答えて言いました。「これこそ、主なる神さまが、あなたたちに食べ物としてくださったパンです。六日の間、これを毎日、集めて食べなさい。」イスラエルの人びとは、はじめ、七日目に何人かが集めて出て行きましたが、何も見つかりませんでした。
モーセは、言いました。「六日目には、神さまは、あなたたちに二日分のパンをくださる。七日目は安息日だから、荒れ野には何もないでしょう。」こうして、イスラエルの人びとは、七日目に休みました。そして、人びとは、それぞれの家で食べて、これを、「マナ」となづけました。
イスラエルの人びとは、約束の地に着くまで40年にわたって、このマナを食べました。
イエスさま、毎日、いのちと、たべもの、すべてのめぐみを、わたしたちにあたえてくださり、ありがとうございます。アーメン。
2021年5月16日
《主なる神さまは、海を二つに分けられ、イスラエルの人びとをエジプトから救い出された》
モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。 出エジプト記14章21節
主なる神さまは、イスラエルの人びとを、エジプトからすくい出し、昼は、雲のはしら、夜は日のはしらをもって、人びとを導き、あれ野のはしの海で、テントをはるように命じられました。そのころ、エジプトの王さまは、イスラエルの人びとが逃げたことをくやんで、戦車600台をくりだして、イスラエルの人びとをおいかけ、目の前に近づいてきました。
イスラエルの人びとは、とてもおそれて、主なる神さまを呼び、モーセに言いました。「わたしたちをつれ出したのは、あれ野で死なせるためですか」モーセは、「恐れてはなりません。今日、主なる神さまが行ってくださる救いを見なさい」と答えました。
主なる神さまは、モーセに「つえを高く上げ、手を海に向かってさしのべ、海を二つに分けなさい」と命じられました。モーセが、そのとおりに、手を海に向かってさしのべると、神さまが、夜のあいだじゅう激しい東風がふいて、海を押し返し、海は乾いた地にかわり、水が分かれました。イスラエルの人びとは、海の中のかわいたところを進んで行きました。
この間も、朝早く、見てみると、神さまが、火と雲の柱をもって、追いかけてきた、エジプトの戦車の車輪をはすじ、すすみにくくされました。エジプト人は言いました。「イスラエルの前からしりぞこう。主なる神さまが、エジプトとたたかっておられる。」
モーセが、手を海に向かってさしのべると、海はもとのばしょへ流れかえり、エジプトのぐんたいは、海の中に投げ込まれました。イスラエルの人びとは、海の中のかわいたところをすすみました。このとき、水は人びとの右と左にかべになりました。こうして、主なる神さまは、イスラエルの人びとをまもってくださいました。
しゅイエスさま、わたしたちを、こわいことや、わるいことから守って、救いのみちにみちびいてくださると信じます。アーメン。
2021年5月9日
《主なる神さまは、イスラエルの人びとをエジプトから救い出されるとき、過越の小羊をほふることを命じられた》
モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。
出エジプト記12章21節
神さまは、モーセに言われました。「わたしは『主』です。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブとやくそくして、カナンの土地を与えます。また、わたしは、エジプト人のどれいとなっているイスラエルの人びとのうめき声を聞き、わたしの大切なやくそくを思い起こしました。わたしは、イスラエルの人びとを、エジプトのおもく、くるしく、つらい、どれいから救い出します。」イスラエルの人びとは、どれいで、とてもくるしかったので、モーセの言う神さまのやくそくを聞けませんでした。
それから、主なる神さまは、モーセとアロンをとおして、つぎつぎと10のわざわいをエジプトにくだされました。1 川の水が血に変わる。 2 かえるが、エジプトの国をおおう。 3 つちのちりが「ぶよ」になって、エジプトじゅうにひろがる。4 「あぶ」のたいぐんが、エジプトじゅうにおよぶ。 5 エジプト人のうま、ろば、らくだ、うし、ひつじが、びょうきで、ぜんぶしぬ。6 うみのでるはれものが、エジプト人と「かちく」にできる。7 かみなりとひょうがふり、いなずまがひかり、エジプトじゅうの「くさ」や「き」がうちくだかれる。8 いなごが、エジプトじゅうにひろがり、エジプトのみどりをくいつくす。9 三日のあいだ、ずっと、エジプトじゅうが、まっくらになりなる。
さいごのわざわいは、エジプトじゅうの「ういご」が死ぬというおそろしいものでした。でも、イスラエルの人びとは、きずのないこひつじの血をいえの入り口の二本の柱とかもいにぬったことを、しるしとして、主なる神さまが、わざわいをすぎこしてくださいました。イエスさまは、すぎこしのとき、わたしたちのつみのために、十字架の上で、このこひつじのように、血をながされました。
イエスさま、わたしたちを「つみ」から救うために、じゅうじかの上に、「いのち」をささげられたことをしんじます。アーメン。
2021年5月2日
《主なる神さまは、モーセにご自身の召しを与えられ、その名をお示しになられた》
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
出エジプト記3章14節
モーセは、エジプトで生まれ育ち、大きくなって、40才のとき、ヘブライ人のあだをうって、エジプト人を殺したたために、エジプトの王さまに追われて、ミデアンの地にうつりすみました。
それらか40年がたちました。モーセが80才になったときのことです。モーセは、かっていたひつじを荒れ野のおくへおっていき、ホレブ山にきました。するとどうでしょう。「しば」の間にもえあがっている「ほのお」の中に、主なる神さまのつかいが現れました。モーセが見ると、なんと、「しば」は、ぼうぼうともえているのに、ぜんぜんもえつきないではありませんか。
モーセは言いました。「どうしてあの「しば」はもえつきないののだろう」。主なる神さまは、「しば」の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と呼ばれました。モーセが、「はい」と、たえると、神さまはいわれました。「ここにつかづいてはいけません。足からはきものをぬぎなさい。あなたの立っているところは、聖なる土地だから。」
そして、神さまは,続けて言われました。「わたしはあなたの父の神。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」「わたしは、エジプトにいる、わたしの民の苦しみ、叫び、痛みをききました。今、わたしはあなたをエジプトにつかわします。」
モーセは、「わたしは、イスラエルの人びとのところに行きます。でも、つかわされた神さまの名前を聞かれるでしょう」すると、神さまは、「「わたしはある」というもの、「主」です。そのように人びとに伝えなさい」このお名前の神さまこそ、モーセとイスラエルの人びとといつもいっしょにおられた、神さまです。
「主なる神さま、あなたは、いつもわたしたちといっしょにおられるおかたです。どんなときも、あなたにしたがいます。アーメン。
2021年4月25日
《神さまの民、イスラエルの人びとが、エジプトで苦しんでいたとき、モーセが生まれた》
王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、わたしがこの子を引き出したから」と言った。出エジプト記2章10節
エジプトのくにで、ユダヤからうつり住んできた、イスラエルの人びとがどんどん増えて、あふれてきたときのことです。むかし、ヨセフが、エジプトのくにの「だいじん」として、人びとをたすけたことを知らない新しい王さまが、立てられました。
この王さまは、「イスラエルの人びとは、エジプトの人びとよりも、おおくなり、つよくなった」と言い、イスラエルの人びとに、とてもくるしい仕事をさせました。けれども、くるしめばくるしむほど、イスラエルの人びとはふえていきました。そこで、王さまは、「うまれたきたあかちゃんが男の子ならころせ、女の子はいかしておけ」というわるいめいれいをだしました。
あるとき、イスラエルの人びとで、レビ人のもとに、男の子がうまれましたが、ころされることをおそれて、三ヶ月の間、レビ人のおかあさんは、あかちゃんをかくしていました。でも、かくしきれなくなって、あかちゃんを「パピルス」(いぐさ)のかごにいれて、ナイル川の岸のあしのしげみの中におきました。
すると、王さまのむすめが、みずあびをしようとナイル川にきて、あしのしげみの中に、あかちゃんの入ったかごを見つけたので、王さまのむすめの「つかえめ」に取ってこさせました。王さまのむすめは、かごを開けて見ると、あかちゃんの男の子が泣いていたので、かわいそうにおもって、あかちゃんのおかあさんにもどしました。それから、あかちゃんが大きくなって、おうさまの娘のところにつれてくると、その子を、水の中から、わたしがこの子を引き出したから、と言って、「モーセ」となづけました。ずっと、神さまが、モーセをまもってくださったので、イスラエルの人びとをエジプトの苦しみから救い出す人になるため、大きくなりました。
天のかみさま、エジプトで生まれたモーセのように、どんなにくるしくつらいときでも、わたしたちをまもってください。アーメン。
2021年4月18日
《イエスさまは、十二弟子に現れ、十字架で受けた傷をお見せになり、ご自身の復活を知らせる証し人とされた》
「『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』」ルカによる福音書24章46,47節
イエスさまは、「じゅうじか」にかけられて、死んで、「はか」にほうむられてから、三日目に「ふっかつ」されました。エマオに行く道で、二人の弟子は、ふっかつされた、イエスさまから聖書の説き明かしをいただきました。
二人の弟子がエルサレムにもどってみると、十一人の弟子たちとその仲間があつまって、ほんとうに、イエスさまはふっかつされ、シモン(ペトロ)に現れた、と話しを聞いていました。すると、イエスさまが、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは、恐れて、霊を見ているのだと思いました。
そこで、イエスさまは、「どうして、こころがゆれうごいて、しんじようとしないのですか。わたしの手と足を見なさい。ほんとうに、わたしです。さわって見なさい。目に見えない『れい』には肉や骨はありませんが、見るとおり、わたしにはあります。」こういって、イエスさまは、手と足をお見せになり、弟子たちが焼いたさかなをひときれとって、食べました。
そして、イエスさまは、弟子たちのこころをひらいて、せいしょのこころ(しんり)をさとらせて言われました。「こう書かかれています。キリストは苦しまれてから、三日目に死んだ人の中からよみがえります。そして、イエスさまのちからによって、世界中の人びとに、エルサレムから、くいあらためと『つみ』からの自由が、伝えられます。」あなたがたは、ほんとうの証し人です。わたしの父が約束した『せいれい』を受けるまで、エルサレムにいなさい。」そして、イエスさまは、弟子たちを祝福しながら、天にあげられました。弟子たちは、イエスさまをほめたたえました。
イエスさま、わたしたちのこころをひらいて、せいしょのことばをただしくしんじて、よくいのる子どもにしてください。アーメン。
2021年4月11日
《復活されたイエスさまは、エマオへの道で、二人の弟子にご自身を現され、聖書を説き明かされた》
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
ルカによる福音書24章32節
イエスさまが、十字架の「し」から、三日目に「ふっかつ」された日のことです。そのとき、イエスさまが、エルサレムから、エマオに向かう、二人といっしょに歩きはじめられました。でも、二人の目がさえぎられていて、イエスさまだときづきませんでした。
イエスさまは、「歩きながら、なんのことを話しているのですか。」すると、その一人、クレオパは「エルサレムにいながら、さいきんのできごとを、あなた一人知らなかったのですか。」イエスさまが、「それは、どんなことですか」と言われると、二人は、言いました。「ナザレのイエスさまのことです。神さまと人びとのまえで、おこないも、ことばも、とても力のある人でした。でも、さいしちょうたちやぎいんたちは、「しけい」にして、十字架につけてしまいました。今日で三日になりますが、わたしたちのなかまの女の人たちが、あさはやく「はか」に行ってみると、イエスさまのからだがみあたらなかったのですが、そのとき、みつかいが現れて『イエスさまは生きておられます』と告げたと言うのです。」
イエスさまは、これを聞いて、「ああ、こころがにぶいために、よげんしゃがつげた、すべてのことを信じられない者たちよ。すくいぬしは、かならず苦しみを受けて、ご自身のえいこうに入るはずではなかったでしょうか。」そして、ご自分のことを、せいしょぜんたいから、おはなしになったのでした。そして、夕方になって、イエスさまは二人といっしょにとまり、しゅくふくされたとき、イエスさまだとわかりましたが、すがたがみえなくなりました。でも、二人は、「あるきながらおはなししていたとき、せいしょのことばを、わたしたちによくわかるようにしてくださったとき、わたしたちのこころが、もえたではないか」とたがいにいいました。
イエスさま、せいしょのみことばをこころからしんじ、イエスさまのすくいを、人びとに、つたえるひとにしてください。アーメン。
2021年3月28日
《イエスさまは、わたしたちの身代わりに十字架につけられた》
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。ルカよる福音書23章46節
イエスさまは、ローマのそうとくピラトによって「つみ」をみとめられなかったのに、人びとの「じゅうじかにつけろ」とのさけび声の中で、とうとう、じゅうじかにつけられてしまいました。
イエスさまは、ほかに二人の「はんざいにん」といっしょにじゅうじかにつけられました。その一人は、「あなたが本当に救い主なら、自分とおれたちを救ってみたらどうだ」と、イエスさまのことをわるくいいました。
すると、もう一人の人が、これをたしなめてこう言いました。「あなたは、神さまをおそれないのですか。同じ刑罰をうけているのに。おれたちは、自分のやってしまったことのむくいをうけているのだから、ばつをうけてあたりまえだ。でも、この方は、何もわるいことをしていない。イエスさま、あなたの王国が来るときには、わたしを思い出してください。」
そのとき、イエスさまは、この人に言いました。「わたしはあなたに本当になることを伝えます。あなたは、今日、わたしといっしょに、喜ばしい園(パラダイス)にいます。」
そして、お昼の12時ごろなのに、太陽は光をうしない、すべての地は、暗くなり、3時までつづきました。このとき、神殿の聖所の幕が上から下までまっぷたつにさけました。そのとき、イエスさまは、さけんで言われました。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」こう言って、イエスさまは、本当に死なれました。
せいしょは、このイエスさまの死が、わたしたちの「つみ」のために、身代わりとなって死んでくださったと伝えています。このイエスさまの十字架の上でしめされた、かみさまのあいを信じて、わたしたちは、十字架にかけれたイエスを、ひとびとに伝えます。
イエスさま、きょう、わたしたちの「つみ」のために、死んでくださったとしんじます。イエスさまのようにあゆみます。アーメン。
2021年3月21日
《イエスさまは、不当な裁判を忍び、ご自身のことを証しされた》
イエスは言われた。「…しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」マタイよる福音書26章64節
イエスさまが、人びとからかくれて、オリーブ山でいつものようにお祈りをされたときのことです。十二人のでしの一人、イスカリオテのユダにつれてこられた、さいしちょうたちや人びとが、イエスさまのところにやってきて、イエスさまをとらえ、イエスさまを、「さいばん」にかけました。イエスさまをうったえた、さいしちょうたちは、みんな、イエスさまを、「しけい」にして、ころそうとかんがえていました。ところが、イエスさまを「しけい」にしようとして、イエスさまのわるいところをみんなでさがしましたがみつかりませんでした。すると、二人の人がきて、「このおとこは、しんでんをこわしても、三日でたてる」と言いました。そこで、だいさいしは立ち上がって、イエスさまに言いました。「何もこたえないのか。これはほんとうか。どうなのか。」イエスさまは、だまっておられました。だいさいしは、「あなたは、神の子、救い主なのか。」そのとき、イエスさまは言われました。「そのとおりです。もっというなら、あなたがたは、人の子が、ほんとうの神さまのおられるところから来るのを見ます。」これをきいて、だいさいしは、「あなたは、にんげんなのに、自分を神さまと同じという、ぼうとくのつみをおかした。みんな、どう思うか。」すると人びとは、「しけいにしなければならない」とこたえ、イエスさまのかおにつばをはきかけたり、こぶしでなぐったり、ひらてでうちながら、「キリストよ、あなたをなぐったのはだれですか。いいあててみなさい」といいました。イエスさまは、このあと、ピラトのさいばんにかけられ、つみがなかったのに、「しけい」になりました。ローマのへいしたちは、イエスさまにむらさきのふくをきせたり、いばらのかんむりをかぶせたりしてぶじょくしました。じつは、イエスさまは、人のつみによって「じゅうじか」の「しけい」にかけられたのに、神さまが、ひとり子をさばかれたものでした。
イエスさま、じゅうじかのしけいは、わたしたちつみびとのため。イエスさまのおわれたつみをみとめていのります。アーメン。
2021年3月14日
《イエスさまは、十字架を前にして苦しみ祈られた》
(イエスは、)…「ひざまずいてこう祈られた。「父よ、み心なら、このさかずきをわたしからとりのけてください。しかし、わたしのねがいではなく、み心のままに行ってください。」」
ルカよる福音書22章41,42節
イエスさまは、十字架にかけられる前の夜(よる)、弟子たちと最後の食事をされた後、くらい夜(よる)に、おそとに出会かけ、いつものようにオリーブ山にいかれると、弟子たちも、イエスさまについていきました。
イエスさまは、いつもお祈りをしているところで、弟子たちに言いました。「ゆうわく(敵の手)におちいらないように、祈っていなさい。」といわれました。それは、近づいている敵の手にあったときにも、弟子たちの心と命をしっかりと守るためでした。
そして、イエスさまは、弟子たちから、石をぽんと投げてとどくほどのところに離れて、ひざを地面につけて、祈られました。
「父よ、あなたが、このわたしに求めておられることならば、このさかずき(十字架のくるしみ)をわたしから取りのけてください。けっして、わたしの願いどおりではなく、あなたの求めておられること(十字架の死と復活)を、行ってください。」
そのとき、みつかいが、天からあらわれて、イエスさまを力づけました。イエスさまは、くるしみの中で、いよいよ、体じゅうのすべての力をかたむけて祈られました。そして、イエスさまの体から、汗がふきでて、血のしたたりのように、地面に落ちました。
イエスさまが、祈りを終えて、立ち上がり、弟子たちのところへ行かれると、弟子たちは、イエスさまの受けた、苦しみ、かなしみを、かんじながらも、ぐっすり眠ってしまいました。
イエスさまは、言われました。「どうしての眠り込んでいるのですか。ゆうわく(敵の手)におちいらないように、起きて祈っていなさい。」
イエスさま、わたしたちも、イエスさまのように、いのります。どうか、わたしたちが、悪の力に打ち勝てますように。アーメン。
2021年3月7日《イエスさまは、ご自身の体と血をしるす聖餐式を命じられた》
イエスは…言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
ルカよる福音書22章19,20節
イエスさまは、ご自身が、十字架にかけられる日が近づいてきたのを知っておられました。そして、イエスさまは、弟子たちにすぎこしの食事のよういをするように命じました。夜になって、イエスさまは、食事の席に、弟子たちといっしょにつかれました。イエスさまは、「苦しみを受けるまでに、あなたがたといっしょにこのすぎこしの食事をしたいと、わたしは前からずっと願っていました。あなたがたに言っておきますが、わたしは、神さまが支配しておられるところで、過ぎ越しが成し遂げられる時までは、このすぎこしの食事をすることはありません。」と弟子たちに言いました。
そして、ぶどう酒のさかずきをとって、神さまのしゅくふくをかんしゃしてながら、パンをとり、これは、あなたがたのために与えるわたしのからだです。わたしをきねんするため、このようにおこないなさい。」食事のあと、さかずきも同じようにして言われました。「このさかずきは、あなたがたのために流す、わたしの血で立てられる新しい契約です。」(じつは、イエスさまは、弟子の一人、ユダがイエスさまをうらぎることを知っておられました。)
このとき、イエスさまは、ご自身の十字架とふっかつによって、過ぎ越しの食事にかわって、新しい救いの約束が実現することをしるす「せいさんしき」をさだめてくださいました。イエスさまを本当の救い主と信じる人たちが、一つの心が集まっているとき、「せいさんしき」でさかれる「パン」は、イエスさまのからだをしるし、「さかずき」は、イエスさまの血といのちをしるします。教会で「せいさんしき」がおこなわれるとき、わたしたちのつみのために十字架に死んでくださった、イエスさまが、三日目に、ふっかつされて、わたしたちを一つのからだとしてくださっていることを信じ、子どもたち、お互い、人びとのために、祈ります。
イエスさま、わたしたちのために、すぎこしの食事で「せいさんしき」をさだめてくださり、かんしゃします。わたしたちが、イエスさまの一つのからだであることを信じ、いのります。アーメン。
2021年2月28日《イエスさまは、安息日に片手のなえた人をいやされた》
イエスは言われた。「…「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」…人の子は安息日の(にも)主なのである。」
マタイよる福音書12章7,8節
イエスさまは、ある安息日にむぎばたけをとおられました。弟子たちは、おながすいたので、むぎのほをパクパク食べはじめました。ファリサイ派の人たちは、これを見て、イエスさまに言いました。「見なさい。あなたの弟子たちは、安息日のきまりをやぶっています。」
でも、イエスさまは答えて言われました、「あなたがたは、ダビデといっしょにいた人たちが、食べるものがなくてこまったときに、神さまを礼拝するために備えられたパンを食べたことが書いてある律法(聖書)を読んだことがないのですか。」わたしは、あなたがたに言います。「ここには、律法のとおりに礼拝をするところよりも大いなる方がいます。(これは、イエスさまのことです!)『神さまがよろこばれるのは、人びとを思いやることであって、みかけだけの礼拝ではない」との、神さまのみことばが、どういう意味が知っていたら、あなたがたが、つみのない人を神さまにうったえることはなかったでしょう。人の子(イエスさまのこと)は、安息日(神さまのなぐさめを覚える礼拝の日)にも主なのです。」
しばらしくて、今度は、イエスさまは、ファリサイ派の人たちが礼拝する会堂に入られました。そこに、手のまがった人がいました。ファリサイ派の人たちは、「安息日のきまり」をやぶった「つみ」でイエスさまを訴えるつもりで、「安息日に人をいやしても、いいですか」とたずねました。すると、イエスさまは、「あなたがたのうち、たとえ、一匹の羊であっても、その一匹の羊が安息日に穴に落ちたら、手をかけて引き上げてあげないでしょうか。人間は、羊よりも、大いなるものではないでしょうか。ですから、安息日によいことをするのは、神さまの律法(本当のなぐさめ)にかなっているのです。イエスさまが、「手をのばしなさい」と言われると、その人の手は、すぐにまっすぐになりました。
イエスさま、あなたは本当の平安に生きておられます。いつも、いっしょにいる人びとを、やさしいこころで愛します。アーメン。
2021年2月21日《イエスさまは、ベテスダの池で病人をいやされた》
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 ヨハネよる福音書5章8節
イエスさまが、ガリラヤから、ふたたび、エルサレムに上ったときのことです。エルサレムには、羊の門のそばに、「ベトザタ」(神さまのあわれみの家)と呼ばれた、大きな池(プール)があり、そのまわりに5つの「かいろう」がありました。
「かいろう」には、そこに、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、からだが、ぜんぜんうごかない人たちが、たくさん、よこになっていました。
その中に、38年も病気で苦しんでいる人がいました。イエスさまは、その人が横になっているのを見て、もう、長い間ずっと病気であるのを知っておられ、「良くなりたいですか」と言われました。
横になったまま、体がぜんぜん動かないこの人は、イエスさまに答えました、「イエスさま、水が動くとき、わたしをこの池(プール)に入れてくれる人がいないのです。わたしが体を動かそうにも、ほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスさまは言われました。「起き上がれ、寝ている床(マット)を担いて歩け。」すると、その人は、すぐによくなって、寝ていた床(マット)を担いで、歩き出しました。
その日は、安息日でした。それは、神さまが、すべての世界をお造りなったことを覚える日です。
イエスさまは、ずっと体が動かないままで横になっていた人を、起き上がらせてくださったように、罪の思いのままにいる、力のない人を、神さまの力によって、神さまをよろこぶようにつくりかえてくださいます。今日、イエスさまの力によって、生きましょう。
イエスさま、新しい命と復活の力を信じます。イエスさまの力によって、どんなときにも、新しい希望の道を歩みます。アーメン。
2021年2月14日《イエスさまは、サマリヤの女の人に、礼拝の命を約束された》
イエスは答えて言われた。「…しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 ヨハネよる福音書4章14節
イエスさまについてくる人が、どんどん増えたときのことです。イエスさまは、弟子たちをつれて、ユダヤから、サマリヤをとおって、ガリラヤにかえることにしました。
サマリヤの町につくと、そこにヤコブの井戸がありました。イエスさまは、たびのつかれをおぼえて、井戸のそばにすわっていました。昼の十二時ごろのことです。
そこに、ひとりのサマリヤの女の人が水をくみにきたので、イエスさまは、「水をのませてください」といいました。すると、サマリヤの女の人はおどろいて、「あなたはユダヤ人なのに、どうして、サマリヤの女のわたしに、のませてくれと、言われるのですか」と聞き返しました。それは、ユダヤ人とサマリヤ人は仲がわるかったからです。
イエスさまは、「もしあなたが神さまがくださるものがどれほど大切であるかを知っているなら、また、「水をのませてくれ」といった、このわたしが、だれであるかを知っているなら、あなたから生ける水を求めたでしょう。」
すると、サマリアの女の人は、それは井戸の水のことだと思って、「生ける水はどこから手に入れるのですか」と聞き返しました。このとき、イエスさまは、女の人に答えて言われました。「この水を飲む者はだれでも、またかわきます。でも、わたしが与える水を飲むひとはいつまでも生きるのです。」
それは、イエスさまを信じるとき、わたしたちの心に新しい命が与えられることを教えています。この新しい命によって、わたしたちは、教会で、おうちで、ひとりでも、イエスさまを礼拝します。
イエスさま、いつも、イエスさまの言うことをよく聞き、イエスさまのくださった、命をささげて礼拝できますように。アーメン。
2021年2月7日《イエスさまは、漁師たちを弟子にされた》
すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」ルカよる福音書5章10節
イエスさまが、ガリラヤのみずうみに立っておられたときにことです。神さまのお話を聞こうとして、たくさんの人たちが、イエスさまのまわりに、わんさと、ちかづいてきました。
イエスさまは、二そうの舟がみずうみの岸にあるのを見ました。このとき、漁師たちは、舟からあがって網を洗っていました。そこで、イエスさまは、二そうの舟のうち、一そうの舟にのって、岸から少し舟をこいで出すように頼まれました。そして、舟に腰をおろして、舟からたくさんの人たちに、神さまのお話をしました。
お話が終わったとき、シモンに、「もっと沖にこいで、網をおろして、お魚をとりなさい」と言われました。シモンは、とてもおどろいきながらも、「先生、わたしたちは、夜の間ずっと苦労してお魚をとろうとしましたが、ぜんぜんとれませんでした。でも、先生の言葉ですから、網をおろしてみましょう。」
漁師たちがそのとおりにすると、ものすごくたくさんのお魚が網にかかり、網がやぶれそうになりました。そこで、もう一そうの舟にいる漁師たちの仲間に合図して、来て手をかしてくれるようにたのみました。漁師たちはみんな来て、二そうの舟を魚でいっぱいになったので、舟がしずみそうになりました。
これを見た、シモン・ペトロは、イエスさまの足もとにひれ伏して言いました。「主よ、わたしからはなれてください。わたしはつい深い者です。」ほんとうに、漁師たちは、みんな、あっけにとられのでした。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブも、ヨハネも。
すると、イエスさまは、シモンに言いました。「恐れることはありません。今からあなたは人間をとる漁師になります。」そこで、漁師たちは、みんな、舟を陸に上げて、すべてをすてて、イエスさまに従っていきました。
イエスさま、わたしたちも、シモンたちのように、あなたについていきます。いつも、イエスさまがいっしょです。アーメン。
2021年1月31日《イエスさまは、カナの婚礼で最初の奇跡を行われた》
イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
ヨハネによる福音書2章11節
イエスさまが、弟子たちに、十字架の死において、天と地をつなぐはしごとなられることをあらかじめ伝えられてから、三日目のことです。
ガリラヤのカナというところで、結婚のおいわいがありました。そのころ、一週間、二週間も、つづく、とても大きなおいわいでした。この大きな結婚のおいわいに、イエスさまも、弟子たちも、招かれました。
おいわいのときにふるまわれるぶどう酒が足りなくなったので、母マリアは、イエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と言いました。するとイエスさまは「おかあさん、それがわたしとなんのかんけいがあるのですか。わたしのときはまだきていません。」
でも、母マリアはめしつかいに言いました。「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」。そこには、こどもが入れるくらい大きな水かめが、六つおいてありました。その水で、食べるまえに手を洗うためです。
イエスさまが、「水がめに水をいっぱいに入れなさい」と言われるとめしつかいは、かめの上まで水をいっぱい入れました。イエスさまは「さあ、その水をくんでおいわいの世話をしている人のところに持っていきなさい」と言われました。召使いは水をはこんでいきました。するとどうでしょう。水がいつのまにかおいしいぶどう酒にかわっていました。
それは、十字架の死から三日目に復活された、イエスさまの命が生き生きとした新しいものであることをあらわしています。イエスさまが、わたしたちの罪をきよめて新しい命をくださるのです。
イエスさま、わたしたちのつみの心をきよめて、新しくしてください。そして、いつもイエスさまがよろこばれることを求めて、人びとのためによいことを行うことができますように。アーメン。
2021年1月24日《イエスさまは、弟子たちを召し出され、十字架の死をあらかじめ伝えられた》
「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
ヨハネによる福音書1章51節
イエスさまが、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けられた日のあと、ヨハネは、二人の弟子といっしょにいました。そして、歩いておられたイエスさまを見て、「見なさい。神さまの小羊です。」と言いました。このように、イエスさまが、わたしたちの罪のために、十字架の上にささげられることを告げました。
二人の弟子は、イエスさまといっしょにその日とまりました。そのひとり、アンデレは、兄弟のペトロにいいました。「わたしたちはメシア(キリスト)、油注がれた人に会いました」。そして、ペトロをイエスさまのところにつれていきました。イエスさまは、ペトロを見つめて、「あなたをこれから、ケファ、岩と呼びます」。それは、イエスさまが、ご自身の教会を、岩のようなしっかりとした土台の上に建てられることを約束したものです。
そのつぎの日、イエスさまは、ガリラヤへ向かうとき、こんどは、フィリポに「わたしについてきなさい」と言いました。イエスさまについていったフィリポは、ナタナエルに、「わたしたちは、モーセの律法のとおりに生き、預言者たちの約束された方に会いました。それは、ナザレの人、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルはこれを聞いて、「ナザレから何がよいものが出るでしょうか」と言ったので、フィリポは「来て、見なさい」と言いました。
イエスさまは、ナタナエルを見て、「本当のイスラエル(神さまをおそれる)人、うそやごまかしのない人です。」そして、「ほんとうにおこることを告げます。天が開けて、神さまのみつかいが人の子(イエスさま)の上にのぼったりおりたりするのを、あなたがたはみます。」と言いました。それは、神さまとの平和をイエスさまがじつげんすることを、やくそくされました。
イエスさま、十字架の上に、ご自分の体をささげてくださり、ありがとうございます。イエスさまの愛によって生きることができますように。人びとの間に本当の平和を求めて祈ります。アーメン。
2021年1月17日
《イエスさまは、悪魔の誘惑に、みことばによって勝利された》
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイによる福音書4章4節
イエスさまは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたあと、三つの「ゆうわく」を受けられました。「ゆうわく」とは、あくま(悪魔)が、神さまに背くようにさそうことです。
イエスさまは、神さまの霊に導かれて、荒れ野に行かれました。そこで、40日の間、昼も、夜も、何も食べなかったので、おなかがすいて、はらぺこになりました。
すると、あくまが、イエスさまに言いました。「あなたが本当に神さまの子なのなら、荒れ野の石ころにパンになるように命じたらどうですか。」
けれども、イエスさまは、「『人はパンだけで生きるものではありません。神さまの口から出る一つ一つの言葉で生きます。』とせいしょ(聖書)に書いてあります。」とお答えになりました。
つぎに、あくは、イエスさまを聖なる都に連れていき、高い神殿の角に立たせていいました。「神さまの子なら、ここから飛び降りても大丈夫でしょう。せいしょにもそう書いてありますよ。」
イエスさまは、「『あなたの神さまを試してはいけません』とせいしょに書いてあります」とお答えになりました。
そして、さらに、あくまは、イエスさまをとても高い山に連れ行き、世界の国々とそれがさかえていることを見せて「もし、ひれふしてわたしをおがむなら、これを全部あなたに与えよう」と言いました。このとき、イエスさまは、「退け、サタン(あくまのこと)、『あなたの神である、ほんとうの神さまをおがみ、ただ、ほんとうの神さまにだけ仕えなさい』とせいしょに書いてあります」と言いました。そこで、あくまは、イエスさまから、はなれていって、天のみつかいが来て、イエスさまに仕えました。
イエスさま、わたしたちがどんなゆうわくを受けても、イエスさまのように、みことばによって、ゆうわくにうちかつことができますように。イエスさまがいつもいっしょにおられます。アーメン。
2021年1月10日《イエスさまはが、洗礼を受けられた時、父である神さまの声が聞こえた》
そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 マタイによる福音書3章17節
洗礼者ヨハネが現れ、ユダヤの荒れ野で「くいあらためなさい。天の国は近づきました。」と人々に、神さまのメッセージを伝え始めたときのことです。
エルサレムとユダヤの地方、ヨルダン川にそった地方一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。それは、預言者イザヤが、「荒れ野で呼ぶ者の声がする。神さまが正しいことを行う道をととのえ、その道をまっすぐにしなさい。」
そのとき、イエスさまも、ガリラヤを出て、ヨルダン川のヨハネのところへ来られ、洗礼をうけようとされました。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けなければならなないのに、あなたが、わたしのところにお出でになるのですか。」
それでも、イエスさまは答えて言われました。「今は洗礼を受けさせてもらいたい。このように、正しいことをすべて果たすのは、わたしたちにとってふさわしいことです。」そこで、ヨハネは、イエスさまのおっしゃるとおりにしました。
イエスさまは、洗礼を受けるとすぐ、水から上がられました。すると、天が開いて、神さまの霊が、はとのようにご自分の上にくだってくるのを、たしかに、見られました。」
また、天から、神さまの声があって言いました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者です。」洗礼は、わたしたちの罪が神さまが洗いきよめてくださったことをしるすものです。けれども、大切なことは、わたしたちのこころが全部きよめられることです。それはけっして人間のちからではできません。ですから、イエスさまにとって、洗礼は、わたしたち罪人のみがわりになって、十字架を負わってくださるただしい道を明らかにするものでした。
イエスさま、わたしたちの身代わりとなって、十字架の道を進んでくださり、ありがとうございます。わたしたちも、イエスさまのように、人びとのために苦しむ道を歩ませてください。アーメン。
2021年1月3日《イエスさまは、12歳のとき、神殿をご自分の父の家と呼ばれた》
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 ルカによる福音書2章49節
イエスさまの恵みの中に、新しい年、2021年を迎えました。
ユダヤの国では、毎年、春になると「すぎこしのまつり」が開かれ、たくさんの人びとが集まってきました。イエスさまも、大きくなって12歳のとき、ヨセフとマリアといっしょに、この「すぎこしのまつり」のために、エルサレムにいきました。
「すぎこしのまつり」の帰り道のことです。イエスさまはエルサレムに残っていましたが、それと気づかずに、ヨセフとマリアは、一日分の道をいってしまいました。イエスさまがいないことに気づいて、いっしょに帰っていた人びとの間をさがしましたが、イエスさまが見つかりません。さがしながら、ヨセフとマリヤは、エルサレムにもどりました。
3日たって、イエスさまが、しんでんのけいだいで、学者たちの真ん中にすわって、せいしょのおはなしをしたり、きいたりしているのをみつけました。きいていた人はみんな、イエスさまが、なんでもただしくこたえるので、びっくりしました。
ヨセフとマリアもイエスさまを見てびっくりしました。マリアがいいました。「どうしてこんなことをしてくれたのです。おとうさんも、おかあさんも、心配してあなたをさがしていたのですよ。」
すると、イエスさまがいいました。「どうしてわたしをさがしたのですか。わたしは自分の父(ちち)の家にいるのはあたりまえだということを、しらなかったのですか。」ヨセフとマリアはイエスさまが何を言っているのかわかりませんでした。
じつは、イエスさまは、自分がもともと天の神さまのひとり子で、この神さまを礼拝するところが神殿です、といわれたのです。
十字架の死から三日目にふっかつされた、イエスさまは、今、天からせいれいをおくり、わたしたちを祈る子にしてくださいます。
イエスさま、新しい年も、毎日、どんなときにも、十字架にかけられた、イエスさまが、わたしたちといっしょにおられることを信じ、自分と人びとのため、祈る子どもにしてください。アーメン。
2020年12月27日《シメオンとアンナは、幼子イエスさまを見て、神さまをほめたたえた》
シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。」 ルカによる福音書2章28節
イエスさまは、お生まれになって、40日目のころに、ヨセフとマリアは、あかちゃんのイエスさまをエルサレムにつれていきました。それは、イエスさまを、神さまにささげて生きるために、神さまの命令にしたがって、「やまばと」ひとつがいか、「いえばと」のひな二羽を、神さまにささげるためでした。
そのとき、エルサレムにシメオンというおじいさんがいました。シメオンは、いつも神さまが、世界のひとびとに、救い主を与えてくださることを信じて、しんでん(神殿)で待っていました。
せいれい(聖霊)は、シメオンに、イエスさまを見るまでけっして死ぬことはないと告げられていました。せいれいにみちびかれて、シメオンがしんでん(神殿)に入ると、ちょうど、ヨセフとマリアも、あかちゃんのイエスさまをつれて入ってきました。
すると、シメオンは、あかちゃんのイエスさまをうでにだっこして、神さまをほめたたえて言いました。
「主である神さま、もうじき、あなたは、みことばのとおりに、しもべをやすらかにさらせてくださいます。わたしの目が、イエスさまを見て、神さまのすくいを見たからです。これは、ほんとうに、神さまが、世界の人びとの前にそなえられたすくいです。そして、イエスさまは、ほんとうに、世界のすべての人びとをてらす、神さまからのすくいの知らせ、ひかりです。わたしは、イエスさまの中に、神さまのすくいの約束をすばらしさを見ました。」ヨセフとマリアは、シメオンのことばを聞いてびっくりしました。
また、シメオンと同じようにアンナも、84さいでしたが、しんでんをはなれず、「だんじき」と「祈り」をもって、くらいよるも、あかるいひるも、神さまにおつかえしていました。アンナはイエスさまにつかよって、神さまにかんしゃをささげ、イエスさまのすくいを人びとに知らせました。
イエスさま、シメオンとアンナのように、世界中のすべての人びとに、あなたが、わたしたちのためにお生まれくださり、十字架の死をなしとげられたことをつたえる人にしてください。アーメン。
2020年12月20日
《み使いによって、羊飼いたちに、イエスさまの誕生が知らされた》
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」ルカによる福音書2章11節
今日、クリスマスの日、世界中のすべての人びとに、イエスさまのお生まれになったよろこびのしらせが、伝えられますように。
イエスさまがお生まれになった日のことです。ユダヤの地方で、羊飼いたちが、テント暮らしをしながら、夜のあいだずっと羊の群れの番をしていました。
すると、すべてのことを知り、すべての人びとをおさめておられる、神さまのみつかいが近づいて、神さまの輝きがまわりを照らしたので、羊飼いたちが、とてもびっくりしておそれました。
天のみつかいは言いました。「恐れることはありません。わたしは、すべての人びとに与えられる大きなよろこびを告げます。今日、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。あなたがたは、布にくるまってかいばおけの中にねている赤ちゃん(乳飲み子)を見つけるでしょう。これがあなたがたへのしるしです。」
すると、とつぜん、この天のみつかいに、たくさんの天のみつかいが加わって、神さまを賛美して言いました。「いと高きところには栄光が、神さまにありますように。地には平和が、神さまからの愛によって生きる人びとにありますように。」
天のみつかいたちがはなれて、天に去ったとき、羊飼いたちは、お互いに顔を見合わせて言いました。「さあ、よし、ベツレヘムに行って、本当の神さまがお知らせくださった、恵みのできごとを見よう」。
そして、急いで行って、マリアとヨセフ、そして、かいばおけにねている赤ちゃんを見つけました。そして、この赤ちゃんこそ、すべての人びとに伝えられる「イエスさま、救い主、キリストです」と、神さまが知らせてくださったことを、人びとに知らせました。
イエスさま、わたしたち、すべての人びとのため、お生まれくださり、ありがとうございます。イエスさまの愛によって、世界中の人びとが、お互いに、愛し合うことができますように。アーメン。
2020年12月13日
《ユダヤのベツレヘムで、イエスさまはお生まれになった》
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリヤは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
ルカによる福音書2章7節
世界中の人びとがわるい病気にくるしんでいる今日ですが、人びとに、クリスマスのよろこびが伝えられますように。
イエスさまがお生まれになる日が近づいてきました。そのころ、ローマの王様、アウグストゥスから世界中の人たちに、「自分の生まれたところに帰って、自分の名前をローマの支配の中にいる人として記録しなさい」という命令が出されました。それは、ローマの国に収めるお金をもれなく集めるためでした。
世界中の人びとは、みんな、自分の名前をローマの支配の中にいる人として記録するために、それぞれ生まれた町に帰るたびに出ました。
ヨセフも、昔のユダヤの王様ダビデの家につながっていたので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上っていきました。
それは、もうすぐイエスさまが生まれそうな、結婚を約束しているマリアといっしょに記録するためでした。
ところが、ヨセフとマリアが、ベツレヘムにいるうちに、マリアから赤ちゃんが生まれる日が来て、はじめての子ども、イエスさまが生まれました。マリアが布にくるんで、牛や馬が食べる干し草を入れる「かいばおけ」に、あかちゃんのイエスさまをねかせませした。それは、人びとがたくさん町に集まっていたので、ヨセフたちが泊まるお部屋がなかったからです。
でも、イエスさまが「かいばおけ」にねかされたことによって、神さまは、イエスさまがどうしてこの世に来てくださったかがよくわかるようにしてくださいました。それは、わたしたちのために、何ももたない人になったこと、みじめな十字架(じゅうじか)の死にむかうみちをあゆみはじめられたことをあらわしています。
イエスさま、生まれたときから、人びとを救う十字架に向かってくださり、ありがとうございます。イエスさまのあいによって、世界中の人びとと子どもたちを愛する人にしてください。アーメン。
2020年12月6日
《神さまが、ヨセフをとおして、救い主の誕生を予告された》
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」 マタイによる福音書1章20節
世界中の人びとのクリスマスのよろこびが伝えられますように。
イエスさまが生まれることを、最初に、天のみつかい(天使)から聞いたのは、マリアでした。そして、マリアはみつかいの告げた神さまのことばのとおりに、聖霊によって、子ども(イエスさま)がお腹に与えられました。
マリアと結婚の約束をしたヨセフは、マリアに子どもが与えられていることを知って、とてもなやみました。それは、マリアが、ほかの人としてはならないことをして、神さまの前に罪を犯したと思ったからです。しかし、ヨセフは、マリアを、罪に訴えることをしないで、ひそかに、結婚の約束を取り消して、マリアがその人といっしょにくらせるようにしようと心に決めていました。
そのとき、天のみつかいが夢にヨセフにあらわれて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアのおなかの子どもは、聖霊によって宿ったのです。マリアは男の子を産みます。その子をイエスと名づけなさい。この子は、自分に与えられた人びとを神さまの前に犯した一つ一つの罪から救うからです。」
じつは、すべてのことは、神さまが、イエスさまが、預言者(イザヤ)によって、「きっと、男の人を知らない女の子が身ごもって男の子を産みます。その名は「神さまがわたしたちといっしょにおられる(インマヌエル)」と呼ばれます。」と約束されたことが、本当に起こったことでした。
ヨセフはねむりからさめた後に、すべてを知っておられる神さまのみつかいが命じられたとおりに、マリアと結婚しました。ちなみに、レンブラントは、なやむヨセフにみつかいがよりそい、マリアがそばでねている姿で描きました。おそれながらも、神さまのみことばを信じた、二人のきよい結婚を、一つの絵で伝えています。
イエスさま、マリアのお腹に与えられた命となってくださり、ありがとうございます。いつもイエスさまといっしょに。アーメン。
2020年11月29日
《聖霊によって、マリヤは、罪なきお方、御子を身に宿した》
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
ルカによる福音書1章35節
イエスさまが、わたしたちのためにお生まれくださった、大きな喜びが、今年のクリスマスにも、世界中の人びとに伝えられますように。
イエスさまが生まれることを、最初に、天のみつかい(天使)から聞いたのは、マリヤでした。マリヤは、なんと、イエスさまを自分がみごもって生むことを知らされたのです。
そのとき、みつかいは、マリヤに伝えました。「おめでとう、めぐまれた人よ、神さまがあなたといっしょにおられます。」マリヤさんは、このみつかいのことばにとまどい、いったいこのあいさつは何のことかと思いました。
すると、みつかいが言いました。「マリヤ、おそれることはありません。あなたは神さまからめぐみをいただきました。あなたは身ごもって男の子をうみます。その子をイエスとなづけなさい。そのこは大いなる人になり、いと高き子と言われます。」
マリアは、みつかいに言いました。「どうしてそのようなことがありえしょうか。まだ、男の人を知りませんのに。」
するとみつかいは答えました。「聖霊があなたにくだり、あなたの思いを越えた神さまの力があなたをつつみます。だから、生まれる子は、罪のない聖なる方、神さまの子と呼ばれます。あなたの親類のエリサベトも、年をとっていますが、男の子(洗礼者ヨハネ)をみごもっています。神さまにできないことは何一つありません。」
マリヤは言いました。「わたしは、神さまにおつかえするものです。神さまのみことばどおりに、この身になりますように。」
このように、マリヤは、天のみつかいから、神さまが、自分の身体にイエスさまを与えてくださることを聞いて、受け入れました。
わたしたちも、マリヤと同じように、みことばを聞きましょう。
天の神さま、あなたのくださったイエスさまのすくいを信じ、イエスさまをみんなといっしょにさんびできますように。アーメン。
2020年11月22日
《神さまは、すべてをご自身の良きことのために計られる》
「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」創世記50章20節[新改訳2017]
エジプトでは、七年の豊作のとき、たくさん食べ物をたくわえていたので、七年のききんがやってきても、世界の国から食べ物をかいにエジプトにやってくるほどでした。
ヨセフの10人の兄たちも、ききんで食べ物がなくなり、エジプトにやってきました。ヨセフはすぐに兄さんたちだと気づきましたが、兄たちは気づきませんでした。ヨセフは、兄たちの心をためすために、「お前たちは、エジプトの国をさぐりにきたのではないか」と言い、一人をのこして、弟を連れてくるように言いました。
ヤコブは帰ってきた兄たちに「もう一度食べ物を買って来なさい」と言いましたが、兄の一人のユダは、「エジプトの監督から、弟がいっしょでない限り、わたしの顔を見ることはゆるさぬ、と厳しく言われました。」と言いました。
そこで、今度は、弟のベニヤミンを連れて、エジプトに行きました。ヨセフは、弟ベニヤミンを見て、胸があつくなり、涙がこぼれそうになり、奥の部屋に入って一人で泣きました。そして、顔を洗って出てくると、ヨセフは「さあ、食事をしなさい」と言いつけ、いっしょに食事をしました。
ユダは、ヨセフに弟ベニヤミンを連れて来るときに、お父さんのヤコブがとても心配していたこと、もう一人(ヨセフのこと)は、きっと死んでしまったのだ、と話していたことをヨセフに伝えました。そして、「弟ベニヤミンのかわりに、自分をエジプトにのこしてどれいにしてください」とヨセフにお願いしました。
ヨセフはこれを聞いて、兄たちを知らないふりをすることができなくなり、自分がヨセフであることを明かしました。ヨセフは声をあげてなきました。兄たちはおどろいて声も出ませんでした。
ヨセフは兄たちをにくみことなく、「神さまがわたしを先にエジプトに連れてきてくれたのです」と伝えました。
イエスさま、あなたの愛を教えてください。どんなときにも、あなたが、わたしたちを愛しておられることを信じます。アーメン。
2020年11月15日 《神さまが、ヨセフとともにおられて、その苦しみを忘れさせてくださった》
ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」
創世記41章51節
ヨセフは、17才のときに、10人のお兄さんたちにきらわれてう売られ、エジプトで王様のそばで仕える人の奴隷になりました。
けれども、神さまが、ヨセフといつもいっしょにおられたので、ヨセフは何をするにも、人びとのために良いことをしました。ところが、ヨセフは、自分の罪ではなく、自分が仕えていたご主人の妻の罪をかぶって、牢屋に入れられてしまいました。
そこで、ヨセフは、王様の食事の世話をしていた給仕人と料理人の二人に会いました。ある夜、二人は、それぞれふしぎな夢を見ました。その夢をヨセフは解き明かし、そのとおり、給仕人は牢屋から出て王様に仕えましたが、料理人は木にかけられ(殺され)ました。けれども、給仕人はヨセフが夢を解き明かしてくれたことを忘れてしまい、ヨセフは牢屋から出られてませんでした。
それから二年がたって、今度は、エジプトの王様が、ふしぎな夢を見ました。そのとき、給仕人は、まえにヨセフが牢屋の中で、自分の見た夢を解き明かしてくれたことを思い出し、王様に伝えました。ヨセフが30才のことです。
ヨセフは、牢屋から出されて、王様の見た夢を解き明かしまた。
「夢の中で、王様が見た、ナイル川から上がって来て、岸辺で草を食べ始めた、まるまる太った七頭の雌牛とは、七年の間、穀物がたくさん取れるほうさくのことです。また、がりがりにやせた七頭の雌羊とは、七年の間、今度は雨がぜんぜんふらず、穀物が全然とれないききんのことです。七つの麦の穂の夢も、同じ意味です。」
王様は、ヨセフの解き明かしを聞いて、とてもかんしんし、ヨセフをエジプトの大臣しました。ヨセフは、けっこんし、二人の子どもに恵まれ、これまでの苦しみを忘れて、一人の子にマナセと名づけました。そしてエジプトの国では、ヨセフの解き明かしのとおりに、七年の間に、穀物をたくさんたくわえて、七年の間のききんに備えました。ヨセフはエジプトと世界の人を、救いました。
天の神さま、あなたはいつもわたしたちといっしょにおられます。どんなに苦しいときも、あなたの恵みを信じます。アーメン。
2020年11月8日
《神さまのご計画を夢で示されたヨセフ》
父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前の見た夢は。わたしもお母さんもお兄さんも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」 創世記37章10節
ヤコブには12人の息子がいました。ヤコブは、年をとってから与えられたヨセフをうえの10人のお兄さんよりもかわいがり、すその長い晴れ着をつくってやったほどでした。
ヨセフの10人のお兄さんは、みんな、お父さんのヤコブがヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフをきらい、なかよく話すことができませんでした。
ヨセフは、10人のお兄さんに言いました。「聞いてください。ぼくはこんな夢をみました。畑でぼくたちが束をたばねていると、いきなり、ぼくの束がおきあがり、まっすぐに立ちました。すると、お兄さんたちの束がまわりに集まってきて、ぼくの束にひれふしました。」
お兄さんたちは、ヨセフに言いました。「なんだと。お前がおれたちの王になるというのか。お前がおれたちを治めるのか。」お兄さんたちは、夢とその言葉のために、ますますヨセフをにくみました。
ヨセフはまた別の夢を見て、それをお兄さんたちと、お父さんにも話しました。「ぼくはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がぼくにひれふしました。」お父さんのヤコブは、ヨセフをしかって言いました。「一体どういうことだ。お前が見たその夢は。わしもお母さんもお兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれふすのか。」こう言いながら、お父さんのヤコブは夢のことを心にとめました。それから、ヨセフはお兄さんたちにエジプトに売られてしまいます。そして、この夢は、ヨセフが、エジプトで大臣になったとき、食べ物がなくて死ぬかもしれないほど苦しかったとき、お兄さんたちがエジプトに食べ物を買いにきたときにほんとうのことになりました。
ヨセフが見た夢は、神さまの計画を告げたものだったのです。
天の父である神さま、あなたの告げられた夢や、みことばのとおりに、神さまの計画がそのとおりになることを信じます。アーメン。
2020年11月1日
《神の人とのたたかいで、神さまを畏れることを学んだヤコブ》
「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 創世記32章30節
ヤコブは、エサウから逃げて、ラバンのもとで20年くらし、その間に、ヤコブは、神さまからの祝福をたくさんいただき、思い直して、家族と家畜といっしょに、エサウのもとにかえろうとしたときのことです。ヤコブは、神さまにお祈りしました。「神さま、エサウがまだ、わたしのことで怒っていないか心配です。どうか、わたしを守ってください」。
ヤコブは、エサウへの贈り物をととのえて、ヤボクの川を渡ろうとしたとき、ヤコブは、家族たちを先に行かせ、自分が、ひとりあとに残りました。このとき、ひとりの人が、ヤコブとうでをくんでたたかいました。ところが、このひとは、ヤコブに勝てないと見て、ヤコブのもものほねにさわったので、ヤコブのもものほねがはずれました。その人は言いました。「夜が明けるのでわたしを去らせてください」。ヤコブは答えました。「いいえ、わたしを祝福してくださるまでは、けっして去らせません。」
その人はヤコブに言いました。「あなたの名前は何ですか。」「わたしはヤコブです。」とヤコブは答えました。すると、その人は、「あなたはもはやヤコブと言わず、イスラエルと名乗りなさい。神と人とのたたかいに勝ったからです。」ヤコブはその人にたずねました。「どうかわたしにあなたの名前を知らせてください。」するとその人は、「どうしてあなたはわたしの名前を聞くのですか。」と言い、そこで、ヤコブを祝福しました。
ヤコブは、そのところを、「わたしは顔を顔とをあわせた神を見たが、まだ生きているから。」と言って、ペニエルと名前をつけました。ヤコブとたたかったのは「神の人」でした。「神の人」は、ヤコブのうでの強さではなく、ヤコブが神さまを信じて、こころから祈っていたことを知って、イスラエル(神さまとたたかう:王子)の名を与えられました。それは、神さまの恵みによって救われる人びとが、ヤコブから世界に広がることを約束するものでした。
イエスさま、祈ることを教えてください。どんなときにも、心と力をつくして、イエスさまを信じることがきますように、アーメン。
2020年10月25日
《ハランへの旅の途中でヤコブが見た夢と神さまの約束》
見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっている土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」創世記28章13節
ヤコブは、イサクとリベカのもとを離れて、おじのラバンのいる、べエル・シェバを立ってハランへ向かいました。
旅のとちゅうで、日がしずんだので、そこで寝ることにしました。ヤコブはそこにあった石をまくらにしてよこになりました。
すると、ヤコブは夢を見ました。それは、てっぺんが高く天までとどく階段が地に向かってのびて、そこを神さまのみつかいが上ったり下りたりしていました。
そのとき、神さまが、ヤコブのそばで言いました。「わたしは、あなたのおじしいさんアブラハムの神、イサクの神、主です。あなたが今よこたわっているこの土地を、あなたとあなたの子どもたち、また、その子どもたちに与えます。あなたの子どもたちは、大地の砂粒のようになり、西へ、東へ、北へ、南へ、と広がっていくでしょう。わたしはいつもあなたといっしょにいます。」
ヤコブは眠りから覚めて言いました。「ほんとうに、神さまがこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。ここは、なんとおそれおおいところだろう。ここは、ほんとうに神さまがすんでおられるところ、神さまの家だ。神さまのいる天に通じる門だ。」
ヤコブは、次の朝はやくおきて、まくらにしていた石をとって、きねんひとして立て、その上に油を注いで、その場所をベテル(神の家)となづけました。そして、神さまに約束して言いました。「神さまが、わたしといっしょにいてくださり、わたしが歩んでいくこの旅を守り、食べ物、着る物を与え、ぶじに、お父さん(イサク)の家に帰らせてくださり、神さまがいつもわたしといっしょにおられることが本当にたしかめられるなら、わたしが、神さまがあらわれたことのしるしとして立てたこの石を神さまが住んでくださる家として、どんなことでも、神さまがわたしに与えてくださるものの十分の一をささげます。」神さまは、ひとりぼっちと思うときも、わたしたちといつもいっしょにおられる友でいますお方です。
イエスさま、あなたは十字架によって天と地をつなぐはしごになってくださったほんとうの救い主、ほんとうの希望です。アーメン。
2020年10月18日
《神さまの祝福を受け継いだヤコブの歩み》
「どうか、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」 創世記28章4節
アブラハムとサラからイサクが生まれ、イサクはリベカと結婚し、20年の後に、エサウとヤコブが生まれました。
エサウとヤコブは大きくなって、エサウは野原でえものをとる人に、ヤコブは、テントのおうちでお世話をする人になりました。
イサクは年をとって、目がかすんで見えなくなってきました。イサクはエサウにたのんで、「野原でえものをとってきて、おいしい料理を食べさせてくれ。死ぬ前にそれを食べて祝福をおまえに与えたい」と言いました。
ところが、これを聞いたお母さんのリベカは、ヤコブにエサウのふりをさせて、この祝福をうばうことをくわだてました。ヤコブはイサクのもとへ行き、「わたしのお父さん」と呼びかけました。するとヤコブは、「エサウです。野原でえものをとってきました。ぼくを祝福してください。」と言いました。
イサクが「どうして、こんなにはやくえものがとれたのか」とたずねると、ヤコブは「神さまがわたしのために計らってくださったからです」と答えました。イサクは「近くにきなさい。本当にお前がエサウかどうかよくたしかめたい」と言って、近くにきた、ヤコブに触ると、「声はヤコブの声だが、うではエサウのように腕だ」といって、子ヤギの毛皮を腕に巻きつけていたヤコブの腕が、エサウの腕のように毛深くなっていなので、わかりませんでした。
イサクは、ヤコブをエサウだと思って、リベカがつくってヤコブにわたしていた、食事をいっしょに食べて、祝福を与えました。ところが、エサウが帰って来て、ヤコブがイサクをだまして、祝福をうばったことを知ると泣きながら、イサクに「わたしも祝福してください。」と求めましたが、イサクは、「ヤコブに全部ゆずってしまった。お前は、ヤコブを憎むだろうが、いつか仲良くなれる」と言いました。このように、エサウをだまして、神さまの祝福を受け継いだヤコブは、エサウに殺されることをおそれて旅に出ました。
イエスさま、十字架の死から復活してくださったことを信じます。世界の人びとが、この祝福にあずかれますように。アーメン。
2020年10月11日 子ども説教
《アブラハムの従順を試された神さまの備え》
アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
創世記22章8節
アブラムが九十九歳になったとき、神さまから命じられて、アブラムは、アブラハムに、サライは、サラに呼び名が変わりました。
神さまの恵みによって、アブラハムが百歳のとき、サラとの間に、イサクが生まれました。イサクが大きくなった日のことです。
神さまは、アブラハムを呼ばれ、「あなたの息子、イサクを連れて、モリヤの地に行って、イサクを、ささげ物としてささげなさい。」と命じられました。アブラハムは、神さまの命じられたとおり、二人の若者と息子イサクをつれて、ささげ物をやくためにまきをわって、モリヤの地に行きました。
三日目になって、アブラハムは、二人の若者をのこして、遠くに見える礼拝の場所に向かいました。アブラハムは、ささげ物をもやすためにまきを、イサクに背負わせ、火と刃物を手にもちました。
イサクは、アブラハムに「お父さん、火とたきぎはありますが、ささげ物にする小羊はどこにいるのですか。」たずねると、アブラハムは、「わたしの子よ、小羊はきっと、神さまが備えてくださる。」答え、二人はいっしょに歩いていきました。
神さまが命じられた場所につくと、アブラハムはそこに祭だんをきずき、息子イサクをしばって祭だんのたきぎの上に載せました。
そして、アブラハムが、手を伸ばして刃物を取り、息子をささげようとしたときです。天のみつかいが「アブラハム、アブラハム、その子に手をくだすな。何もしてはならない。あなたが神さまをおそれる者であることが、今、わかった。」と呼びかけました。アブラハムは、手をとめ、後ろの木の茂みに角をとられていた一匹の羊を見つけてとらえ、息子の代わりにやき、神さまにささげました。
アブラハムは、この場所を「主(神さま)は備えてくださる」と名付け、人びとも、この出来事を「主(神さま)の山に、備えあり」と呼び伝えました。
神さま、あなたの独り子イエスさまの十字架は、あなたの備えられたささげものです。イエスさまを信じ、礼拝します。アーメン。
2020年10月4日 子ども説教
《神さまはアブラムをお呼びになり、祝福の約束を与えられた
「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となる…」
創世記12章2節[口語訳]
神さまが、「この町に高い塔を建てて、ここにとどまろう」という人びとのくわだてをくじかれて、人びとが世界に広がっていてからのことです。
神さまは、アブラムをお呼びになりました。「あなたは、生まれ育ったところ、あなたの家族のもとを離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくします。あなたが、祝福の源になります。」
みなさんは、どこか遠いところにお出かけしたことがありますか。あるいは、遠いところから、今、住んでいることころに来た人もおられることでしょう。もし、行く先も知らされないで、お出かけしたり、遠いところから来たらどうでしょうか。いったい、自分がいくところはどんなところだろう、お友だちはできるかな、などと心配がたくさんでてくるかもしれませんね。
アブラムも、神さまから、そのように命じられて、とても心配だったと思います。けれども、アブラムは、妻のサライと、おいのロトと、東の国を出発し、ハランでいっしょになった人たちといっしょに、長い長い旅をして、ついに、カナンに入りました。
神さまは、アブラムを祝福して、「あなたの後の子どもたちに、この土地を与えます。」と約束してくださいました。アブラムは、自分をこのところまで導いてくださった、神さまを礼拝するために祭壇をつくりました。そして、ベテルの東の山にうつり、西にベテル、東にアイをのぞむところで、テントをはって、そこでも、神さまを礼拝するために、祭壇をつくり、神さまを礼拝しました。
神さまは、わたしたちが、どこにいっても、ともにおられるお方です。アブラムのように、どこにいっても、ともにおられる神さまを礼拝しましょう。そして、神さまが、わたしたちの将来を、祝福しよう、と約束されていることを信じましょう。
イエスさま、あなたの祝福は大いなるものです。イエスさまのもとに、世界のすべての人が来ることができますように。アーメン。
2020年9月27日 子ども説教
《人間の高慢を裁かれた神さまによる言葉の混乱(バベル)》
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「…我々は降って行って、直ちに…互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。創世記11章7節
世界中の人びとは、同じことばをつかって、同じようにお話ししていました。東の方からやってきた人たちは、シンアルの地に平らなすみやすい場所をみつけ、そこにすみつきました。
人びとは、「れんがをつくり、それをよくやこう」と話し合いました。それは、たか~いたてものをつくるために、みじかな土やねんどからできる強い材料がたくさんほしかったからです。人びとは、石のかわりにれんがを、しっくいのかわりにアスファルトをつかって、たか~いとうを建てようとくわだてました。
「さあ、たか~い、天まで届くとうのある町を建てよう。そうすれば、有名になれる。そして、神さまが命じられたように広がってくらすのはやめて、ここにとどまってくらそう。」
神さまは、とうがとっても小さなものに見えるほど、たか~い天から、人びとが建てた、とうのある町を見て言われました。「人びとは一つで、みんな同じ言葉を話しているから、こんなことをし始めたのだ。これでは、人びとが何を計画しても、やめさせることはできない。われわれは下っていって、すぐに人びとの言葉をばらばらにして、お互いの言葉が聞き分けらないようにしてしまおう。」
人びとは、お互いの言葉が、ちんぷんかんぷんになって、全地に散らされたので、とうのある町を建てることをやめました。
神さまは、天から、このように、いつも、地の上に住む人びとを見ておられます。そして、愛するひとり子イエスさまをこの地の上におつかわしになることによって、世界の人びとを、イエスさまのもとに一つにされることを約束してくださいました。
今、世界中で、いろいろな言葉で、一つのふくいん、イエスさまがお生まれになり、十字架の死から復活され、天に上げられたことが、伝えられています。聖霊は、世界の人びとが、心を一つにして、イエスさまを愛することができるように導いておられます。
イエスさま、あなたの十字架は一つです。イエスさまのもとに、罪をゆるされ、世界中の人びとが集められますように。アーメン。
2020年9月20日 子ども説教
《ノアとその家族を祝福された神さまの約束のしるし》
更に神は言われた。「…すなわち、わたしは雲の中にわたしのにじを置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」
創世記9章12,13節
神さまはノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜を心にとめられました。そして、神さまは、風を地の上に吹かせ、天からの雨をとめられ、水はだんだんとひいていきました。
150日後の7月ことです。箱舟はついにアララテ山の上にとまりました。それから10月になって、山々のてっぺんが見えてきました。40日たって、ノアがからすを放ったところ、からすは地の上の水がかわいていなかったのであちらこちらと飛び回りました。ノアは今度ははとをはなちました。すると、はとは、とまるところがないのでもどってきました。それから七日まって、また、はとをはなちました。すると、はとは、オリーブの若葉を加えてもどってきました。さらに七日まって、はとをはなったところ、もうノアのもとにはもどってきませんでした。
神さまは、次の年になって、地がぜんぶかわいたとき、ノアに言いました。「みんないっしょに箱舟を出なさい。」ノアも、家族も、すべての生き物も、ぜんぶ、箱舟を出ました。
ノアは、神さまのためにさいだんをきずいて、清いけものと鳥をささげました。神さまは、なだめのかおりをかいで、心に言われました。「わたしはもう二度と人がわるいことをするからといって地をのこうことをしない。」そして、神さまは、ノアとその子たちを祝福して言われました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。わたしはあなたがたと後の子たちと救いの約束を立てる。この約束が立てられると、二度と洪水によって生きているものも、地も、滅びることはない。」そして、神さまは、「わたしは雲の中ににじをおく。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしである。」
雨上がりに、七色の大きなにじを見たことがありますか。天にかかるにじを見るとき、神さまの救いの約束を思い出しましょう。そして、わたしたちの命が、神さまのものであることを信じ、お互いに、その命を大切にしながら、神さまを礼拝しましょう。
イエスさま、わたしたちに救いのいのちを与えてくださり、かんしゃします。いつも神さまをほめたたえつつ歩みます。アーメン。
2020年9月13日 子ども説教
《神さまの裁きによる大洪水の中で、救われたノアと家族》
主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。」 創世記7章1節
神さまは、人間が、悪いことばかりを心に思い、悪が増え広がっているのを見て、悲しまれました。そして、「わたしが人間を造ったが、これを地上からぬぐい去ろう」とお決めになりました。しかし、ノアは、神さまのご好意を得ました。それは、ノアが神さまに従う人であったからです。
神さまはノアにこう命じられました。「人間は悪いことばかり行っている。わたしは地もろとも人間をほろぼす。しかし、あなたはゴフェルの木で大きな箱舟を造りなさい。わたしは地上に洪水をもたらし、命を与えられたものは全部ほろびます。でも、わたしはあなたを救うと約束します。あなたは家族といっしょに箱舟に入りなさい。動物もおすとめす二つずつ箱舟につれてはいりなさい。」ノアはぜんぶ神さまが命じられたとおりにしました。
箱舟ができたころ、神さまはノアに命じられました。「さあ、あなたとあなたの家族はみんな、箱舟に入りなさい。動物も、空の鳥も、七つがいずつ入りなさい。七日の後、40日40夜雨が降りつづきます。」ノアはぜんぶ神さまが命じられたとおりにしました。
ノアとその家族と、ぜんぶの生き物が、箱舟に入ったとき、神さまがうしろで箱舟の戸を閉じられました。神さまがおっしゃったとおり、雨が降り続き、あたり一面、海のようになりました。箱舟は水の上をただよい、高い山も水でおおわれました。地上の生き物は、鳥も、家畜も、獣も、人間も、ぜんぶ息たえて死にました。ノアとその家族、いっしょに箱舟にいた生き物だけが残りました。
イエスさまの十字架は、わたしたちの罪をゆるすためです。それは、ノアのとき、大洪水の中で救われた箱舟に入るようなものです。イエスさまの十字架と愛を信じる人は、皆、救われます。
イエスさま、あなたの十字架はわたしの罪のためです。世界中の人びとが、イエスさまを愛することができますように。アーメン。
2020年9月6日 子ども説教
《弟アベルを殺したカインと罪と神さまのあわれみ》
主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
創世記4章9節
アダムさんとエバさんに与えられた二人の男の子は、カインとアベルでした。二人は、大きくなって、アベルは羊をかう人になり、カインは、土をたがやす人になりました。しばらくして、カインははたけからできたものを、アベルは、羊の群れの中から一番最初に生まれたこひつじを神さまにささげました。このとき、神さまは、アベルとそのささげものをよろこばれましたが、カインのささげものをよろこばれませんでした。
カインは「どうして自分のささげものが、神さまによろこばれないんだ!!」とおもい、はらがたちました。そのとき、神さまはカインに言われました。「どうしておこるのですか。あなたが正しいのなら、顔をあげられるはずではないですか。正しくないのなら、つみがあなたのねがいになるでしょう。」カインは、弟アベルに声をかけ、二人が野原についたとき、とつぜん立ち上がって、アベルをたたいて殺しました。
神さまは、カインに言われました。「弟アベルはどこにいますか。」カインは答えました。「知りません。どうして、わたしが、弟を守らなければいけないのですか。」神さまは言われました。「あなたは何ということをしたのですか。」カインは、神さまに言いました。「わたしの罪の負い目は、とても自分で負えるものではありません。あなたを離れて、土地を追われ、わたしは行く先もなくさすらい、わたしを見つける人はわたしを殺すでしょう。」神さまは、カインに言いました。「そんなことはありません。だれでもあなたを殺す人は、七倍のむくいを受けるでしょう。」
神さまは、カインといつもいっしょにおられ、カインの命を守られました。わたしたち罪人は皆、カインと同じように罪の負い目があります。イエスさまの十字架は、罪人をゆるすささげものです。
イエスさま、わたしのつみをゆるしてください。イエスさまの愛を信じ、こころから神さまをれいはいできますように。アーメン。
2020年8月23日 子ども説教
《神さまが、人間を神さまのかたちに造られた》
神は人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに人を創造し、男と女に創造された。 創世記1章27節[新改訳2017]
はじめに、神さまが天と地を造られました。神さまは、六日の日にわたって、すべての世界をお造りなりました。神さまは、造られた世界は、とてもすばらしく、よいものでした。
神さまは、六日目に、それぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土をはうものを造られたあと、神さまの栄光、そのすばらしさをあらわすために、わたしたち、人間をお造りになりました。
このとき、「われわれにかたどり、われわれに似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」と、神さまは、人間に命じられました。
神さまが、わたしたち人間を神さまに似せて造られたことは、土から人間をかたちづくり、神さまの命の息を鼻から吹き入れてくださって生きる者になったように、人間には、目に見えない神さまを思う心と霊が与えられていることからわかります。
今、イエスさまを信じる人たちは、皆、本当の神さまを礼拝することをよろこび、お祈りを一つの心でささげます。
それは、犬も猫も、牛も馬も、(かっこうが人間に似ている?)猿も、どんな生き物も、神さまを礼拝し、お祈りすることがないように、人間だけに与えられた、神さまのすばらしい恵みです。
神さまは、わたしたち人間を、男の人と女の人に造られました。それは、一つの体とされて、一つの心で、神さまの愛をあらわすためです。この一人の男の人と一人の女の人が一つとされる結婚は、天と地を造られた神さまが定めてくださったきよいものです。
神さまのきよさをよろこぼうとしない「つみ」が、人間に入ったために、イエスさまが来られました。イエスさまが、わたしたちの「つみ」をきよめてくださるために十字架につけられたと信じる世界中の人びとが、心を一つにして、今日、礼拝をささげています。
イエスさまの聖なるみ名をほめたたえます。世界中の人びとが、イエスさまの十字架の愛を知ることができますように。アーメン。
2020年8月16日 子ども説教
《神さまが、すべてのものをみことばによって、造られた》
はじめに神が天と地を創造された。 創世記1章1節
神さまが、はじめに、天と地をつくられました。そのはじめのとき、地にはなにもなく、くらいやみがおおい、神さまの霊が、水の上を動いていました。神さまが、「光よ、あれ」と言われると、光ができました。神さまは、光を昼と呼び、やみを夜と呼ばれました。夕べがあり、朝がありました。第一の日です。
神さまが、「水の中に大空あれ。水と水をわけよ」と言われると、大空ができました。神さまは、大空を天と呼ばれました。夕べがあり、朝がありました。第二の日です。
神さまが、「天の下の水は一つところに集まれ。かわいた地が現れよ」と言われると、地と海ができました。そして、そこに、神さまが命じられたとおりに、草や、実をつける木が芽生えました。夕べがあり、朝がありました。神さまはこれを見て、よしとされました。第三の日です。
神さまが、「天の大空に光るものがあって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ」と言われると、太陽と月ができました。神さまはこれを見て、よしとされました。夕べがあり、朝がありました。第四の日です。
神さまが、「生き物が水の中にむらがれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ」と言われると、水に群がるもの、大きな怪物、生き物、翼のある鳥ができました。神さまはこれを見て、よしとされました。夕べがあり、朝がありました。第五の日です。
神さまが、「地は、それぞれの生きものを生み出せ。家畜、はうもの、地のけものをそれぞれに生み出せ」と言われると、地の生きものができました。神さまはこれを見て、よしとされました。
神さまは、「われわれにかたどり、われわれに似せて、人を造ろう」と言われると、人間ができました。男と女につくられました。
神さまはおつくりになったものすべてをご覧になりました。それは、それは、本当にすばらしくよいものでした。第六の日です。
天と地をつくられた神さま、あなたをほめたたえます。あなたがつくられたすばらしくよい世界を大切にできますように。アーメン
2020年8月9日 子ども説教
みことばを聞いて、わたしたちの内に、良い実を結ぶ
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」マタイによる福音書13章23節
みなさんは、今年の夏もスイカを食べましたか。スイカはあんなに大きな果物なのに、種はとても小さいですね。それと同じように、御言葉の種が蒔かれたら、どんなにたくさんの実がなることでしょうか、とイエスさまは、わたしたちにたとえ話をお話しくださいました。
最初に御言葉の種が蒔かれたところは、道端でした。その種は鳥が来て食べてしまいました。これは、悪い人が来て、心の中に蒔かれたものをうばい取られてしまう人のことです。
二番目に御言葉の種が蒔かれたところは、石だらけの場所でした。その種は、土が浅いのですぐに芽を出しましたが、暑い日に根がないので枯れてしまいました。これは、御言葉を聞いても、困ったことがあるとすぐにつまずいてしまう人のことです。
三番目に御言葉の種が蒔かれたところは、いばらの間でした。その種はいばらにふがれてしまいました。これは、御言葉を聞いてもも、いろいろな思い悩みやお金の誘惑が御言葉をおおってしまい、実らない人のことです。
ところが、最後に、御言葉の種が蒔かれたところは、良い土地でした。その種は、実を結んで、あるものは百倍、あるものは、六十倍、あるものは、三十倍の実を結びました。これは、御言葉を聞いて、十字架にかけられ、三日目に復活された、イエスさまをいつも信じて生きる人のことです。このような人は、どんなことがあっても、イエスさまといつもいっしょに歩んで、大きく成長していきます。そして、イエスさまの祝福の実を、百倍、六十倍、三十倍にも結ぶのです。
聖霊は、わたしたちの心に、御言葉の種が豊かな実を結ぶように働いておられます。いつもイエスさまを信じて祈りましょう。
イエスさま、あなたの御言葉を与えてください。イエスさまを信じる人びとの中に、たくさんの実が結ばれますように。アーメン
2020年8月2日 子ども説教
聖書が書かれた目的は、イエスさまを信じて命を受けるため
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシア[キリスト]であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。ヨハネによる福音書20章31節
みなさんは、今、聖書を開いていますか。聖書はとても分厚くで大きな本ですね。でも「ふりがな」をふってあるので、「ひらがな」が読める人は、一人でも読むことができますね。
ところで、聖書は今では一冊の本ですが、実は、旧約聖書39巻(冊)、新約聖書27巻(冊)、あわせて、66巻(冊)の本を、一つの本にたばねたもので、そのすべてが神さまの言葉です。
そして、神さまの救いの歴史の中で、イエスさまが来られるまでのことが書かれているのが旧約聖書、神さまの約束のとおりに、イエスさまが来られたこと、そして、イエスさまを信じる人びとが、世界中に広がっていったことが書かれているのが新約聖書です。
イエスさまがお生まれになってから、十字架に渡され、死なれた後、三日目に復活されて、天に上げられたことが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音(ふくいん)書に書かれています。
イエスさまは、十字架の死から三日目に復活された日に、エマオに向かう途中で、旧約聖書のみことばを説き明かして、ご自身が、本当の救い主であることを弟子たちにお話になりました。
また、イエスさまを信じる人たち(教会)は、いつも、聖書のみことばをよく学びながら、お祈りを一つのこころでささげました。
今、わたしたちも、聖書をよく学び、お祈りを一つのこころでささげるとき、聖霊は、わたしたちのこころを開いて、いつもイエスさまといっしょに歩むことができるように助けておられます。
そして、教会でも、おうちでも、また、まわりの人びとや、世界中の人びとが、同じように、イエスさまを信じて救われて生きるために、イエスさまのいのちを、一人一人に与えてくださいます。
イエスさま、あなたのいのちを与えてください。イエスさまを信じて救われる人たちが世界中に広がっていきますように。アーメン
2020年7月26日 子ども説教
変わることのない神さまの言葉を書き記したエレミヤ
「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、…あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。」
エレミヤ書36章2節
イエスさまが来られる600年くらい前のことです。人びとは、本当の神さまが命じられたことを言葉を忘れて、神さまを悲しませる生活をしていました。
そのような時、エレミヤに神さまが言われました。「わたしがあなたに語った人びとの悪い生活をいましめる言葉をぜんぶ巻物に書きなさい。その言葉を聞けば、人びとは、わたしに立ち帰るかもしれません。」
エレミヤは、バルクに命じて、神さまの言葉をぜんぶ巻物に書いてもらいました。バルクは、エレミヤの代わりに、役人たちに向かって神さまの言葉を読んで聞かせました。
すると、それを聞いた役人たちは、びっくりして、「すぐに王さまに伝えなければならない」と言い、王さまのところに知らせに行きました。
ところが、同じ神さまの言葉を聞いた王さまは、悪い生活をあらためるどころか、神さまの言葉が書かれた巻物をナイフで切りさいて、だんろの火にくべて、全部焼いてしまいました。
そして、バルクとエレミヤを捕まえようとしましたが、神さまが、バルクとエレミヤを守ってくださいました。
神さまは、エレミヤにこう言われました。「もう一度、新しい巻物にわたしの言葉をもとどおりに書きなさい。そして、王さまに言いなさい。どうして、エレミヤを悪く言って、もうじきこの国がほろびるというわたしの言葉を聞こうとしないのか。」
今、わたしたちが手にしている聖書のぜんぶが、神さまの言葉です。イエスさまがわたしたちの罪のために来られるという約束とそれが本当に起こったことが書かれています。永遠の神さまが、今日も、生きておられることを信じて、神さまの言葉に聞きましょう。
イエスさま、聖書のみことばをありがとうございます。どんな時にもあなたをよろこんで生きることができますように。アーメン
2020年7月19日 子ども説教
イエスさまに娘のいやしを求めたカナンの婦人の信仰
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです。」 マタイによる福音書15章27節
イエスさまが、ガリラヤにちかい、ティルス(ツロ)とシドンの地方にいかれたときのことです。イエスさまが来られたのを見て、カナン人の女の人が、「イエスさま、わたしの娘を助けてください。悪い霊にとりつかれて、病気で苦しんでいるのです」と、何度も、何度も、叫びました。ところが、イエスさまは全然お答えになりません。弟子たちも、「この女の人を追い払ってください。叫びながらついて来ますから」と言ってのけものにしました。
このとき、イエスさまは、口を開いて言われました。「わたしは、本当の神さまの民のところにだけ遣わされてきたのです。」それは、本当の神さまを礼拝しないカナン人の女の人にとって、自分は、のけものにされたように感じる言葉でした。
けれども、イエスさまに、この女の人は、「イエスさま、どうか助けてください」とお願いしました。すると、イエスさまは、「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言いました。
それでも、女の人は、「イエスさま、おっしゃるとおりですが、たとえ小犬でも、飼い主のテーブルから落ちるパンくずはいただきます。」と言い、本当の神さまの祝福は、カナン人にも、あふれているのではないですか、そのおこぼれでいいですからという思いを込めて、イエスさまに、本当の神さまの祝福を求めました。
すると、イエスさまは、「婦人よ、あなたは本当に神さまを信じています。あなたのお願いしているとおりになります」と約束されました。そのとき、この女の人の娘の病気はすぐによくなりました。
この女の人のように、神さまの祝福が満ち溢れていることを信じて、イエスさまにお願いするとき、わたしたちは、本当の神さまの力を知る者とされます。イエスさまを信じてお祈りしましょう。
イエスさま、あなたの祝福は、世界の人びとの中にみちています。イエスさまを信じて救われる人を与えてください。アーメン。
2020年7月12日 子ども説教
天からのパンとなられたイエスさまのいのち
「わたしが命のパンである。わたしのもとから来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
ヨハネによる福音書6章35節
ある日、イエスさまは、ご自身についてきた、たくさんの人たちを見て、弟子のフィリポさんに言いました。「おなかをすかせているこの人たちに与えるパンをどこで買ってきたらいいでしょう。」
すると、フィリポさんは、答えました。「一人一人が少しずつ食べでも、200日働いて得たお金でパンを買っても足りません。」
そのとき、弟子の一人、アンデレさんが言いました。「ここに大麦のパン五つとお魚二匹をもっている子どもがいます。けれども、こんなにたくさんの人では、何の役にも立たないでしょう。」
ところが、イエスさまは、「人びとをすわらせなさい」と命じ、人びとは、原っぱにすわりました。
そして、そのパンを取り、かんしゃのお祈りをささげて、座っている人びとに分け与えられました。お魚も同じようにすきなだけ分け与えられました。
するとどうでしょう。男の人だけで5000人もいたのに、みんな、お腹がいっぱいになりました。イエスさまは、弟子たちに、「少しもムダにならないように、残ったパンのクズを集めなさい」と命じられました。集めると、残ったパンのクズで十二のかごがいいぱいになり、人々は、「この人こそ、預言者だ」と言いました。
そして、この後、イエスさまは、ついてきた人びとに言いました。「わたしが来たのは、パンを食べておなかを満たすためではありません。本当は、わたしの命を信じて、永遠に生きる命を与えるためです。わたしが、天から来た、本当の、生きたパンです。」
今、十字架の死から三日目に復活された、イエスさまを心から信じる人は、皆、イエスさまの命をいただいて永遠に生きるのです。
イエスさま、あなたのいのちを与えてください。そして、罪と死から救われ、あなたをよろこんで歩めますように。アーメン。
2020年7月5日 子ども説教
イエスさまの権威とみことばに信頼した百人隊長
ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。 ルカによる福音書7章7節[新改訳2017]
イエスさまが、ガリラヤのカファルナウムの町に入られたときのことです。そこを治めていたローマの軍隊の百人隊長さんのもとで命令に従っていたしもべの一人が、病気で死にそうでした。
イエスさまのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにおくって、「イエスさまに、しもべを助けに来てくださるように伝えてほしい」とお願いしました。
長老たちは、イエスさまのもとに来て、「百人隊長のしもべを助けにきてください。この人は、わたしたちユダヤ人を愛して、わたしたちのために会堂を建ててくださったほどの方です。」
そこで、イエスさまは、長老たちとしもべのおうちに向かいました。ところが、しもべのおうちからあまり遠くないところで、百人隊長は、友だちをおくって、イエスさまに伝えて言いました。
「主よ、おうちまでおいでくださるにはおよびません。わたしのおうちにあなたを入れるのに、わたしはふさわしくありません。ただ、一言、おことばをください。そして、わたしのしもべをなおしてください。わたしも、しもべも、ローマの軍隊と権威につかえる者です。わたしも、しもべたちに『どこかにいきなさい』といえばそこに行き、『これをしなさい』といえばそれをするのです。」
これを聞いてイエスさまは、とても感心して、ガリラヤの人びとに言いました。「ただ、神さまの言葉と力を信じる、信仰は、神さまを信じるイスラエルの人たにもみたことがありません。」
そこで、つかいにきたともだちがおうちに帰ると、しもべはすっかり元気になっていました。ただ、イエスさまの言葉を信じるとき、その人に、イエスさまの栄光があらわれます。
イエスさま、病気のとき、死を恐れるときにも、あなたの言葉とその力を信じる信仰を与えてください。アーメン。
2020年6月28日 子ども説教
風と海とに命じられたイエスさまの権威とみ力
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
マルコによる福音書4章39節
イエスさまと弟子たちが、ガリラヤの海(みずうみ)の上を、小さな舟にのって、向こう岸へ行こうとされていた時のことです。
イエスさまは、一日、たくさんの人びとに、神さまの国のことをお話しになって、とてもつかれて、舟のうしろの方で、まくらをしてねむっておられました。
ところが、とつぜん、はげしい風が起こり、海の波が高くなって、ザブン、ザブンと、舟は波をかぶって、水びたしになりました。
弟子たちは、イエスさまを起こして、「先生、助けてください。わたしたちが、海にほうりだされてもいいんですか」と助けを求めました。
このとき、イエスさまはおちついて、「どうしてこわがるのですか。神さまを信じる信仰がないのですか。」と弟子たちに問いかけられました。
そして、起き上がって、「風とうみよ、しずまれ」としかると、荒れ狂っていた、大きな波がたちまち静かななぎになりました。
人びとはおどろいて言いました。「いったい、この人は、どういう方なのでしょう。風やみずうみさえも、したがうとは」と。
イエスさまは、わたしたちと同じように、のどがかわくと水を飲まれ、おなかがすくとごはんを食べられました。また、つかれたときには、やすまれました。
けれども、イエスさまは、じつは、すべての世界をつくられた神さまでもあります。神さまが、「光あれ」と言われると、光があったように、イエスさまが、風と海をしかると、海がしずかになったのです。教会は、このイエスさまを信じる人びとの集まりです。
今、世界中の人びとが、こわい病気のことでこころの波が大きくなっています。けれども、イエスさまのことばと力を信じるとき、どんな人のこころもしずかにおだやかになります。
イエスさま、どんなにこわい思いをするときにも、あなたの言葉と力を信じ、わたしたちのこころをしずめてください。アーメン。
2020年6月21日 子ども説教
罪を赦す権威をもっておられるイエスさまからの問いかけ
「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」
ルカによる福音書5章22、23節
ある日のこと、男の人たちが、おうちの中にまではこんでイエスさまになおしてもらうと、病気で体に力がはいらない人を小さなベットにのせたまま、おうちまでかついでやってきました。
ところが、イエスさまが病気の人をなおしたことを聞いて、たくさんの人がおうちのまわりにいたので入れません。そこで、この人たちは、おうちの屋根にのぼってかわらをはがし、人びとの真ん中におられたイエスさまの前に、病気で体に力がはいらない人を小さなベットごとつりおろしました。
イエスさまは、その人たちが、このお医者さんが、きっとなおしてくださると信じていたことを見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われました。
それを聞いた、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「神さましか罪をゆるすことができないのに、なんていうことを」とイエスさまが、神さまの尊厳を絶対に犯していると思いました。
でも、イエスさまは、この人たちの心を知っておっしゃいました。「『あなたの罪はゆるされた』というのと、『起きて歩け』というのと、どっちがやさしいか。」
そして、イエスさまは、体に力が入らない人に言いました。「起き上がり、寝ていたものをかついで家に帰りなさい。」
すると、その人はすぐに、神さまから新しい力を与えられて、みんなの前で立ち上がり、寝ていたものを取り上げて、神さまを賛美しながら、おうちに帰って行きました。
あなたも、イエスさまの力を信じますか。そうなら、人には絶対にできないと思っていることを、イエスさまにお願いしましょう。
イエスさま、この人が、立ち上がって、あなたを賛美したように、わたしにもあなたを賛美する力を与えてください。アーメン。
2020年6月21日 子ども説教
罪を赦す権威をもっておられるイエスさまからの問いかけ
「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」
ルカによる福音書5章22、23節
2020年6月14日 子ども説教
悪霊を追い出されたイエスさまの権威とみ力
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊は その男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。 ルカによる福音書 4 章 35 節
イエスさまは、聖霊(せいれい)に満たされて、ガリラヤの町、カファルナウム人びとのところに行きました。そこで、一週間の終わりの日(土曜日)、「安息日」に人びとに教えておられました。
人びとは、イエスさまの教えにとてもびっくりしました。それは、ただ、正しいことを教えているだけでなく、神さまを心からおそれて、きよく正しくいきたいという思いを与えられたからです。
ところが、イエスさまが会堂で人びとに教えておられると、神さまの言うことに逆らう、わるい、けがれた霊(れい)に取りつかれた男の人が大声で叫びました。
「ああ、ナザレから来たイエスよ、かまわないでくれ。ぼくたちを滅ぼしに来たのか。おまえが本当はだれなのかはわかっている。神さまのきよさにふさわしい者だ。」
しかし、イエスさまが、「だまれ、このひとから出て行きなさい」とわるいものをしかりつけると、わるい、けがれた霊はその男の人を人びとの中に投げたおしながら、その人はけがをすることなく、わるい、けがれた霊だけが出ていきました。
それを見た人びとはみんなびっくりして言いました。「これは、いったい、なんという言葉だろう。神さまに従うようにわるい、けがれた霊に、ご自身の正しさとちからをもって、命じると出ていくとは。」 こうして、イエスさまのなさったことは、ガリラヤの人びとにひろまりました。
イエスさまの言葉には、わるい、けがれた霊を追い出す力があります。神さまをおそれるこころで、きよく正しく生きましょう。
イエスさま、聖霊とみことばによって、きよくしてください。そして、イエスさまの力を信じる子どもにしてください。アーメン。
2020年6月7日 子ども説教
聖霊による罪人の新生を約束してくださったイエスさま
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
ヨハネによる福音書3章5節
ある日のこと、くらいよるに、ニコデモさんが、イエスさまのもとをたずねて言いました。「先生、あなたは神さまのもとから来た方です。それは、神さまがいっしょにおられなければ、あなたのようなしるしをだれも行うことができないからです。」
イエスさまは答えてこう言われました。「そうです。人は新しくうまれなければ、神さまの国を見ることはできません。」
ニコデモさんは、これを聞いてびっくりしました。「ええ? 年をとった人が、どうしてまた赤ちゃんのように生まれることができるのですか?」。
イエスさまは、おどろくニコデモさんに答えてこう言われました。「そうです。だれでも水と霊(れい)とによって生まれなければ、神さまの国に入ることはできません。これを聞いておどろくことはありません。それは、ちょうど風がふく音が聞こえても、それがどこから来てどこへ行くのか知らないのと同じです。」
この神さまの国とは、十字架の死から三日目によみがえり(復活)、天の王座に着かれたイエスさまの愛をこころから信じて救われる人びとが、世界のはてにまで、広がっていくことです。。
神さまの霊(聖霊)は、目に見えませんが、わたしたち一人一人のこころにはたらいて、イエスさまが、わたしたちの罪の身代わりに十字架の上で死んでくださったことを信じるようにみちびいておられます。
聖霊は、今、わたしたち一人一人に「あなたも、死からよみがえられたイエスさまを信じましょう」とみちびいておられます。
イエスさま、あなたの愛を信じて生きる子どもにしてください。そして、十字架の愛を人びとに伝えられますように。アーメン。
2020年5月31日 子ども説教
イエスさまの約束された聖霊が降り、新約の教会が誕生した
「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」使徒言行録2章33節
イエスさまが、十字架の死から、一週の初めの日(日曜日)に、復活されて50日目の日のことです(この日も日曜日でした)。
イエスさまが約束された聖霊が、天の王座につかれたイエスさまから注がれました。そのときに、火のような舌が分かれ分かれに現れ、こころを一つにしてお祈りをしていた弟子たち一人一人の上にとどまりました。
すると、不思議なことに、弟子たちは、自分たちのうまれたところの言葉で、神さまのなさったことを人びとに話し始めました。
弟子のひとりペトロさんも、「十字架にかけられて殺され、死んで、三日目に復活され、天の王座につかれたイエスさまのこそ、神さまの約束された救い主です、キリストです」と、人びとに伝えました。すると、イエスさまを十字架につけて殺した人びとが、三千人というとても多くの人びとが、イエスさまを救い主と信じて、こころからその罪を悲しみ、悔い改めて、洗礼を受けました。
このようにして、エルサレムから、世界中の人びとに、イエスさまの福音が人びとに伝えられて、教会が広がっていきました。
福音(喜びの知らせ)は、イエスさまがもう一度、天から来られる日まで、世界中の人びとに伝えられます。わたしたちの男山教会も、イエスさまの教会です。それは、イエスさまの愛と福音が伝えられ、それを聞いて信じている人びとが集められているからです。
イエスさまは、今日、わたしたちのこころに住んでおられます。そして、ここも、わたしの愛を伝える教会だよ、と教えておられます。いつもイエスさまの愛を信じて、こころから祈りましょう。
イエスさま、聖霊と聖書のことばによって、わたしたちが、こころを一つにしてお祈りできますように。イエスさまの愛によって、おうちの人、教会と世界の人びとが救われますように。アーメン。
2020年5月24日 子ども説教
パウロの祈りに答えられた主イエスさま
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分にはっきされるのだ」と言われました。
コリントの信徒への手紙二12章9節
パウロさんは、「ある人が、たかいたかい天にあげられたことを知っていることをじまんしたくなりますが、自分自身は、弱いこと以外にじまんすることはありません」と言いました。
そして、イエスさまが、自分のからだにひとつのとげを与えてくださり、とてもすばらしいことを知っていることをほこるよりも、とげのいたみによって、人を見下さないようにしてくださったことを伝えました。
パウロさんは、「このとげのいたみをとってください」、と、三回くりかえして、お祈りしたとき、イエスさまは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分にはっきされるのだ」と答えてくださいました。
わたしたちは、みんな、弱いものです。でも、弱いものどうしのはずの人間が、自分があの人より強い、とみんながじまんしたら、どうなるでしょう。きっと、お互いにいがみあって、なかよくできなってしまうでしょう。
きっと、パウロさんも、自分だけが知っているすばらしいことがあっても、それを、じまんしてばかりいても、神さまがよろこばれず、だれ一人、救う、ちからのないことを知っていたのでしょう。
わたしたちも、これだけは、人にじまんできることがあるかもしれません。けれども、神さまには、何でもできます。ですから、人間はだれも神さまとくらべてじまんできませんね。
ですから、「わたしたちに与えられた神さまの恵みで十分です。神さま、ありがとうございます。」とかんしゃするとき、わたしたちは、本当に、正しい子どもとして生きていくことができるのです。
イエスさま、わたしたちが、人とくらべてじまんしたくなるとき、かえって、自分のよわさの中に、イエスさまの恵みがいっぱいにあふれていることを、人びとに伝えられますように。アーメン。
2020年5月17日 子ども説教
イエスさまの憐れみによっていやされたサマリヤ人の賛美
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美し・・・イエスの足もとにひれ伏して感謝した。
ルカによる福音書17章15,16節
イエスさまが、ある村に入られときにことです。みんなから嫌がられていた、重いひふの病気にかかった人が、十人の人がとおくから、いっせいに、「イエスさま、先生、どうかわたしたちをあわれんでくださ~い」とさけびました。
イエスさまは、みんなから嫌われるこわいひふ病にかかった十人の人にたちに、「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と命じました。すると、みんなそのとちゅうですっかり病気がなおりました。それは、神さまの力によってきよめられたしるしでした。
でも、自分がすっかりよくなったのを知って、大きな声で、神さまはすばらしい、と歌いながら、もどってきたのは、一人だけでした。そして、イエスさまの足もとにひれふして、「イエスさま、病気がすっかりよくなりました。ありがとうございます。」と言いました。
この人は、ユダヤ人にきらわれていたサマリヤ人でした。イエスさまは言われました。「病気がなおったのは十人ではなかったでしょうか。ほかの九人はどこにいるのでしょう。この外国人のほかに、神さまを賛美するために戻ってきた人はいないのですか。」
それから「イエスさまは、神さまはすばらしい」と歌いながらもどって来た人に言いました。「立ち上がって、行きなさい。あなたが、わたしを信じるこころが、あなたをきよめ、救ったのです。」
この人のように、わたしたちも、イエスさまを心から信じますか。そうすれば、わたしたちも、苦しい病気がなおったときに、きっと、「神さまは、すばらしい」と賛美できると思います。そして、イエスさまが、わたしたちの罪(つみ)をよくしてくださることを信じて、「神さま、わたしをあわれんでください。どうか、わたしをきよくしてください。」と、こころからお祈りしましょう。
イエスさま、わたしをあわれんでください。どうか、わたしをきよめて、あなたをこころから賛美できますように。アーメン。
2020年5月10日 子ども説教
神さまの前に声にならないほど心から祈ったハンナ
ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。・・・ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。」 サムエル記上1章15節
神さまが人びとといっしょにおられることが、シロというところにおかれた契約の箱によってしめされていたころのことです。
神さまにいつもお祈りとしていたハンナさんという人がいました。ハンナさんは、ペニナさんのことでなやんでいました。それは、子どもがいたペニナさんが、子どもがいなかったハンナさんに、子どもがいないことを神さまのせいにするわるい思いを抱かせるようになやませていたからです。
このときもハンナさんは、心をそそぎだして、ずっと神さまにお祈りしました。けれども、心が苦しいので言葉になりませんでした。祭司のエリさんは、お酒によっているのではないか、と思いましたが、ハンナさんは、「神さまに心からの願いを注ぎ出していました。神さまを悲しませることをしたのではありません。」と言いました。
神さまは、ハンナさんの苦しみと心の願いを聞かれ、ハンナさんに男の子を与えられました。このとき、ハンナさんは、ペニナさんのことで苦しむことがなくなったことよりも、神さまがハンナさんに与えてくださった子どもなので、神さまにすべてをささげることを約束し、心からよろこんで、神さまをさんびしました。
神さまがハンナに与えてくださった男の子は、サムエルと名づけられました。このサムエルは、ハンナが祈ったとおりに、神さまにも、人びとにもよろこばれる人として大きくなっていきました。
神さまがくださった祝福を心からよろこんでささげるためには、ハンナさんのように、苦しいときにも、言葉にならなくても、そのすべてを神さまに打ち明けて聞いていただくことが大切です。神さまは、わたしたちの心の苦しみを知っておられます。
神さまは、今日、あなたが与えくださった一つ一つの祝福をよろこんで神さまにささげられますように。イエスさまがいつもわたしたちといっしょにおられることを信じてお祈りします。アーメン。
2020年5月3日 子ども説教
主イエスさまがわたしたちに教えてくださった「主の祈り」
「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。・・・ 」 マタイによる福音書6章9節
イエスさまは、わたしたちの心を見ておられる神さまにお祈りするように教えてくださいました。そればかりか、わたしたちが、どのような言葉でお祈りしたらよいかも教えてくださいました。それは、多くの人たちが、自分をえらくするお祈りをしていても、神さまのことを求めて、お祈りしていなかったからです。
神さまのこととは、神さまがほめたたえられるように、イエスさまを信じる人びとが広がっていくように、そして、みつかいたちが、天国で神さまを賛美しているように、わたしたちも、いつも、神さまをよろこんで生きることができるようにお祈りすることです。それは、わたしたちにとって一番大切なことです。
わたしたちは、おとなも、子どもも、みんな、生まれながら、じつは、このお祈りをイエスさまから教えていただなければ、自分中心のお祈りをくりかえしてしまいます。
それは、わたしたちの心に罪があるからです。罪は自分を一番に何でも考えます。でも、神さまを一番にするとき、わたしたちは、イエスさまがどうして十字架に死んでくださったかを考えるようになります。
そして、イエスさまが、わたしたちの罪のために、身代わりとなって、十字架の上で死んでくださったことを信じるとき、わたしたちが、神さまの子どもの一人とされて、神さまのことを、イエスさまと同じように、「天のおとうさま」と呼ぶことができるのです。
イエスさまが教えてくださった「主のいのり」をいつも、わたしたちの一番大切なお祈りして、これからもいっしょに祈りましょう。そして、十字架の死から三日目に復活して、天にあげられ、今も、生きておられるイエスさまといっしょに、「天のおとうさま」を呼びながら、おうちでも、教会でも、一人でも、祈りましょう。
天のおとうさま、イエスさまが教えてくださった「主のいのり」をいつも一番大切にお祈りすることができますように。アーメン。
2020年4月26日 子ども説教
人に見せるためではなく、心を見ておられる神さまに祈る
だから、あなたが祈るときは、・・隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 マタイによる福音書6章6節
お祈りは、神さまと二人きりでお話することです。二人きりですから、どんなに悲しいことも、つらいことも、人には言いにくいことも、神さまにだけはお話できるのです。
けれども、イエスさまが、山に登られて、たくさんの人たちに神さまのことをお話しなさったとき、お祈りを神さまにだけささげるのではなく、人びとに見せびらかせていた人がいました。
それは、神さまにお祈りしているのではなく、自分をえらくし、人を見下げるためのものでした。ですから、そのようなお祈りをしている人に、イエスさまは、人のいるところでお祈りしないで、だれも見ていないところでお祈りしなさい、とめいじられたのです。
イエスさまは、多くの人びとのおうちにたくさん部屋があるわけではないことを知っておられました。ですから、部屋に入って戸を閉じるようにとは、いつも静かにお祈りの心をしっかりと神さまに向けられるように祈りなさい、と教えてくださったのです。
神さまは、いつも、わたしたちの心を見ておられ、わたしたちのお祈りを待っておられることを信じることです。そして、神さまの約束を信じてお祈りすることです。
イエスさまは、あるとき、「心をさわがせないようにしなさい。神さまを信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じられました。そして、十字架の死から復活して天に上げられ、天国に、イエスさまに愛され、イエスさまを信じて生きる人たちのために、おうちをたくさん備えておられることを約束してくださいました。
イエスさまを信じるだけでなく、イエスさまとお話するとき、わたしたちの心は、やさしく、平安になります。いつも、イエスさまを信じ、だれも見ていないところでお祈りするのと同じこころでで、おうちの人といっしょに、教会の礼拝で、お祈りしましょう。
イエスさま、わたしの心を見てください。どうか、あなたの愛でわたしの心を満たしてください。イエスさまによって、アーメン。
2020年4月19日 子ども説教
弟子のトマスに現われた復活されたイエスさま
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。・・・信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ヨハネによる福音書20章27節
いま、とてもこわい病気が世界中にひろがっています。多くの人びとに、「おうちにいてください」と呼びかけられています。イエスさまが十字架の死から復活された日も、弟子たちは、一つのおうちに集まっていました。「ほんとうにイエスさまはよみがえったのだろうか?」みんな、そのことがまだ信じられませんでした。
イエスさまが復活された日に、弟子たちに現われた時、一人だけその中にいなかった人ががいました。トマスさんです。どうしていなかったのかはわかりません。トマスさんは、他の弟子たちが、みんな、「イエスさまは復活して、自分たちに現われた」と言っても信じませんでした。そればかりか、「イエスさまの手に十字架に打ち付けられたくぎのあとを見なければしんじない」と言い張りました。
一週間たって、再び、日曜日がやってきました。弟子たちは、おうちの中にいました。今度はトマスさんもいっしょです。イエスさまは、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださいました。そして、トマスさんに言われました。「あなたのゆびをここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手をのばし、わたしのわきばらに入れなさい」。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスさんは、本当にイエスさまが復活したことを信じてこう言いました。「わたしの主!、わたしの神さま!」
イエスさまは、トマスさんに言いました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないのに信じる人は、さいわいです。」
復活されたイエスさまは、弟子たちの見ている前で、天に上げられました。そして、今日も、いつまでも、わたしたちといつもいっしょにおられます。
イエスさま、どうか、世界中のすべての人びとを病気から守ってください。あなたの愛を分かち合う者としてください。アーメン。