2024年3月31日 礼拝説教 中心聖句
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあながたを遣わす。」 ヨハネによる福音書20章21節
主は国々の計らいを砕き 諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち 御心の計らいは代々に続く。 詩編33編10,11節
はじめに・主の復活を喜ぶ今日、わたしたちの喜びの源はどこにあるのか、神の証を学ぶ。
1・「その日、」とは、十字架につけられたイエスが、週の初めの日に復活された日。マグダラのマリヤから「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません」との報告を受けた、ペトロともう一人の弟子、二人は、墓に駆けつけ、墓の中にイエス(葬られた体)がないことを「見て、信じた」。しかし「イエスは必ず死者の中から復活することになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」。
墓の外で泣き悲しむ、「マリア」との呼びかけに、マリアが、「ラボニ」(「先生」という意味)というと、イエスは、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われた。この言葉は、イエスに触れるマリヤをたしなめたというよりも、この後、「父のもとへ上る」ことを示すため。マリアに命じられことは、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」ことを「わたしの兄弟たちのところに言って」伝えること。マリヤは、イエスに言われたとおりに、その言葉を弟子たちに伝えた。
2・その日の「夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた(すべての戸が閉ざされていた)。」イエスを盗んだ疑義でとくに十字架にかけることを企てた「エルサレムのユダヤ人たち」が捕らえに来るのではとの恐れも抱いていた。「十一人(その中にトマスはいないが)とその仲間が集まって」(ルカ24章33節)、互いの安否を気遣いながら、見たこと、報告されたことについて話し合っていた。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。エマオの家では、「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24章31節)こともあった。「最後のアダム(イエス・キリスト)は命を与える霊となった」「自然の命の体があり、次いで霊の体がある」(コリント一15章45,46節)。主イエスは「天に属する者」(同15章47節)として、ご自身の姿を証しされた(同15章50節)。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」。十字架の傷跡は、絶望の中にあった弟子たちの心と霊を慰め、復活を確信する道を備えた。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。弟子たちは、その心に「復活の」主を受け入れた。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』
3・そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』。命の源でいますお方イエスは、弟子たちに「命の息」を吹き入れられ、「聖霊を取りなさい」と命じられる。それは、聖餐制定において、「パンを取れ」と命じれらる言葉と同様、キリストの体と命を取ること。今、わたしたちは、聖霊の恵みによって、イエスと結び合わされ、その血と体にあずかる。それは、ただ、生けるキリストの臨在において契約の祝福を享受すること。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」とは、神が、御子の福音において、罪を赦されることに仕える権威を託されること。聞く者を裁くのは、神ご自身。
おわりに・主イエスは、世界の国々、諸国の主権者であり、真の王。絶望と不信で閉ざされた、心の扉の内側から、聖霊によって心が開かれる時、どの国の人びとも、「主を喜ぶ」。
2024年3月24日 礼拝説教 中心聖句
そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」 ルカによる福音書22章70節
あなたの民は進んであなたを迎える 聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ 曙の胎から若さの露があなたに降るとき。 詩編110編3節
はじめに・主の受難をとくに覚える今日、御名によって御心を求め祈ることに導かれたい。
1・「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。」人が集まるとき、その目的が問われる。問題は合議であれば正しいのではなく、その心。悪魔は、執拗なまでに、人心を動かし、悪事に向かうことを求める。それは、救いの道に反する行動。他の福音書では、夜中の裁判も記される。しかし、裁判自体をこのように性急に昼夜を問わず行うこと自体が違反行為。その夜明けは、イエスを十字架にかける企ての中でその実行を待つ時。彼らは「イエスを最高法院に連れ出して、『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』と言った」。はじめからイエスをメシアと認めるつもりのない尋問。彼らにとってイエスがメシアであることは神への冒涜の罪であり、皇帝の敵として訴える口実。『わたしが言っても、あなたたちは決して信じない』『わたしが尋ねても、決して答えない』」と応答された、イエスご自身、彼らの敵意が、ご自身への不信仰の根本にあることを知っておられた。同時に、ご自身の再び来られることと、ご自身の着座を告げる。それは、自ら、まことの統治者にして裁き主であることを示す。しかし、聞く者たちの応答は、「では、お前は神の子か」。イエスの応答も、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と言われ、事の本質はまったく相容れないことを明らかにする。これ見よがしに「人々は、『これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ』」と言った。それは、裁判の正当性を保証するものではなく、あくまでも、自分たちが得たかった口実を得たこと。
2・「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」。当時、最高法院には、死刑の権限はなく、ローマ総督に訴えた。それは、イエスを処刑するため。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と、宗教的理由ではなく、政治的理由で訴える。しかも偽証を重ねることによって。真実は、「民衆は皆、話しを聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(21章38節)のであり、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(20章25節)と命じられ、政治的王ではなく、永遠の神の独り子でいますまことの王、「主メシア」(2章11節)であった。「ピラトはイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』とお答えになった」。先の最高法院同様、事の本質は相容れいないゆえに、言葉を相手に返す。
「ピラトは祭司長たちと群衆に、『わたしはこの男に何の罪をみいださない』」と言うも、「彼らは、『この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです』と言い張った」。これを聞いたピラトは敵対していたヘロデのもとに送る。しかし、そこで、イエスは愚弄される。「この日」ピラトとヘロデは「仲がよくなった」。ピラトは、「祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて」イエスに罪を認められず、「鞭で懲らしめて釈放」することを提案するが、人々の「十字架につけろ、十字架につけろ」との「要求を入れる決定を下し」、イエスは十字架に引き渡された。
おわりに・イエスの死は、人の目にはただの人の死。しかし、神の御前には「罪なき神の小羊」であり、神の義を満たす唯一完全な犠牲。この唯一のお方のもとに多くの人々が来て救われる。主の召し集められる群れである「教会」は、今日、死から命に至る道を共に進む。
2024年3月17日 礼拝説教 中心聖句
「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するから…」ルカによる福音書22章37節
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき わたしの腕を待ち臨む。 イザヤ書51章5節
はじめに・世界の国々の平和を祈り求める今日、受難の主ご自身の言葉と忠実に聞き従う。
1・「それから、イエスは使徒たち(彼ら)に言われた。『財布も袋も履物も持たせずに』とは、十字架を前にする受難の時、弟子たちから離れることへの注意を払う言葉。以前、主ご自身がすべてを満たすので、何も持たずに行くように命じ、遣わすどこかの家の人から必要なものをすべて与えることを約束された(10章4,5節)。しかし、今や、多くの困難に直面する時、多くの人と同じように、その場で役立つものを備えるように命じられた。それは、後、奇跡的なことが起こることに期待したり依存したししないように注意を促す。使徒たちは、「何も(不足は)ありませんでした」を答えた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい」と主イエスは命じられる。以前と異なるのは、「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」との命令。悪しき時代の中、「剣を買う」とは、第一に、霊的な武具を指すが、物的手段も無視されない。「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰符の鍵を持って」(ヨハネ黙示録1章18節)おられる主は、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っている者に、主は「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(同3章17節)と警告される。そこで勧められることは「裕福になるように火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(同18節)ということ。使徒たちも、十字架を前に、敵の手に主が捕らえられた時には、皆主を見捨てて逃げ、ペトロも三度となく主を否む。彼らは「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言い、主の真意を理解していない。
2・「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていること」とは、預言者によってあらかじめ告げられた言葉(イザヤ53章17節)。主イエスは、このことが、「わたしの身に必ず実現する」「わたしにかかわることは実現するから」と言われ、ご自身が、「犯罪人の一人に数えられる」ことによって、「罪人たちの身代わりの死を遂げることを予告された。それは、法的に確定された事件であり、公然と執行される。事実、そのようになった(ルカ23章32,33節)。「犯罪人」の多くは「剣」に相当するものを持つ。また、官憲も「剣」に相当するものを持つ。処刑もまた、ある道具・手段によって執行される。十字架刑は、生身の人間を木の上にはりつけにして吊るし上げる酷い処刑。主イエスは、実に、油注がれたお方、キリスト(まことの王)でありながら、その御力によって敵を滅ぼすことを良しとされず、かえって、ご自身自ら「犯罪人の一人に数えられた」ほどに、罪人の身代わりの死を遂げ、ただ一度唯一完全な犠牲をささげることによって、完全な贖いとなられ、神の義を満たされた(ウェストミンスター小教理問25)。
3・「誘惑に陥らないように祈りなさい」との、主の警告は、神の武具を身に就けよ、ということ(エフェソ6章13節)。主イエスご自身は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と、ご自身に与えられた苦難を負われた。主のための苦難は恵み。
おわりに・「わたしの正義(義)は近い」と言われる「主」は、ご自身の「救い」を現し、ご自身の「腕」といういわば「道具」をもって「諸国の民を裁く」。十字架刑をもって、「主の裁き」とされた、まことの神、主のもとに来て罪赦され、神と和解する人は、幸い。
2024年3月10日 礼拝説教 聖書箇所
テサロニケの信徒への手紙一 5章12~24節
12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。
14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
19 “霊”の火を消してはいけません。20 預言を軽んじてはいけません。21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。22 あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
2024年3月3日 礼拝説教 中心聖句
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
ルカによる福音書21章27節
夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。 ダニエル書7章13,14節
はじめに・パレスチナの人びとのため、平和の祈りをささげた今日、主の終末の声に聞く。
1・「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい」とは、A.D.70年ローマのティトス帝によるユダヤ戦争におけるエルサレム滅亡の警告。主イエスは、ご自身の十字架刑の後、40年後の出来事を予告された。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」と命じる。それは、「書かれていることがことごとく実現する報復の日だから」。主イエスはすでに、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」(ルカ21章10,11節)と警告された。エルサレム滅亡の予告は、律法と預言者の実現(成就)、「報復(復讐)」とは「神の怒り」(23節)。そこでは、信仰の内実と忍耐の目的が問われる。「敵を愛し、自分を迫害する者ために祈りなさい」(マタイ5章44節)との祈りは、戦争の渦中においてどのように求められるのか。第一に求められる祈りの態度は何か。目に見える現実を読み解く眼差しをわたしたちは誰に求めるのか。もし、神に求めるのなら、わたしたちが信じている信仰はどのように吟味されるのか。これらの問いは必然的に真剣な当事となる。主は「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(ルカ21章19節)と命じられた。
2・「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ」とは、今時の戦争においても繰り返される嘆き。当時において、100万人のユダヤ人が殺され、10万人が捕虜になったと伝えられる(ヨセフス)。葬る人のない墓場と化するほど悲惨なことはない。歴史は繰り返される。が、「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」。「それから、太陽と月と星に徴が現れ」「地上では海がどよめき荒れ狂」い、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」。さらには、「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失う」。「天体が揺り動かされるから」と告げられる。だれが、この神の怒りと裁きに耐えられようか。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」とのあざけりは、「終わりの時」に現れる、「欲望の赴くままに生活してあざける者たち」の声(ペトロ二3章4節)。神が裁かれる時、自ら滅びを招くのは、神をおそれず、かえって、神を非難する、「不信心な者たち」。しかし、当時の戦禍の中にでも、今時の戦禍の中にも、神の憐れみによって、神の約束とその実現を待ち望む、「聖なる信心深い生活(聖なる態度と敬虔)」に生きなければならない者たち(同3章11節)が残されている。
3・「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」
このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放(贖い)の時が近いからだ」とは、世の政治的支配が終わり、神の王国が完全に現れる日。ただ、神の憐れみによって、贖われた民は、キリストの栄光を見て、完全な贖いを知る。
おわりに・受難の後、復活・昇天された主は、今日、すべての人、国々を治めておられる真の王。イエスを主とあがめる教会の礼拝は、終末の時、世の光として主の栄光をたたえる。
2024年2月25日 礼拝説教 聖書箇所
ヨハネによる福音書3章16,17節
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
2024年2月18日 礼拝説教 聖書箇所
マタイによる福音書5章1~12節
1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
10 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
2024年2月11日 礼拝説教 中心聖句
パウロは会堂に入って、三ヶ月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。 使徒言行録19章8節
堅固な思いを、あなたは平和に守られる あなたに信頼するゆえに、平和に。どこまでも主に信頼せよ、主はとこしえの岩。 イザヤ書26章3,4節
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はじめに・教会と国家の主イエス・キリストの支配の中に、主の言葉が語られた事を学ぶ。
1・「(それから、)パウロは(その)会堂に入っ」た。エフェソに来て、初めて入ったというよりも、これまで同様、ユダヤ人の会堂から始めて、落ち着いて、福音を語り出したと言う事。使徒パウロは、聖霊が降る結果を十二人の弟子たちに見、「三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした」。「神の国のこと」とは、「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは「異言」にしろ、「預言」にしろ、実際に、十字架に上げられた、イエスについての福音を告げる者が起こされたことと重なる。主イエスご自身、洗礼者ヨハネについて「預言者以上の者」と言い、「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」と言われ、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大」である」(ルカ7章26~28節)と言われた。「神の国」とは、じつに、キリストの王国の実現であり、そこでは、最も小さな者が、洗礼者ヨハネより偉大な者とされる。それは、十字架に上げられた、主キリスト、御子の福音に生きる故。「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」(同35節)
あるユダヤ人たちは、洗礼者ヨハネにも、イエスの宣教にも、心の耳を傾けなかった。
2・「しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難した」。「この道」とは、たんなる教えではなく、主イエスを信じ、主に従う道を歩む者たち。使徒ペトロは、「多くの人が彼ら(偽預言者たち)のみだらな楽しみ(放縦)を見倣っています。彼らのために真理の道はそしられる」(二ペトロ2章2節)と戒めた。結局のところ、彼らは「わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え」「唯一の支配者であり、わたしたちの主イエス・キリストを否定」(ユダ4節)する、罪を自覚していない者たち。使徒パウロ自身、かつては「この道に従う者」を迫害した。それは、十字架に上げられた、キリストを否定し、迫害する事(使徒9章2,4節)。主を信じ「真理の道」を歩む者こそ、真の弟子。
「会衆の前で」あしざまに悪口を言うことに現れたとき、使徒は、「彼らのもとから離れ、弟子たちをも退かせ」た。それは、彼らの悪い影響から弟子たちを引き離したということ。
3・「(パウロは)ティラノという講堂で毎日論じていた」。それは、公に、神の国のこと、その到来について、主キリストの、御子の福音を教えたということ。「ティラノ」は、ギリシャ名。しかし、ユダヤ人がギリシャ名を名乗ることもあった。多分、よく知られた講堂の所有者で哲学者たちに講堂を貸していた人、あるいは、彼自身講演者であったか、ユダヤ人の学校で教えていた人か。「このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」。こうして、福音は遠くにも近くにも広まった。福音は、神の国の到来を告げ、真理の道、命、主キリストに生きることによって証しされ、主の言葉を伝える。復活の主は、聖霊によって、絶えず使徒パウロと聞く者たちを励まし、ご自身の栄光をたたえる道を備えられた。
おわりに・真の預言者イザヤは、「堅固な都」の「平和」を告げる。実に、真理を守る事こそ、正しい人の態度。「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」と歌う人こそ。
2024年2月4日 礼拝説教 中心聖句
彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかとどうか、聞いたこともありません」と言った。 使徒言行録19章2節
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。 ヨエル書2章12,13節
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はじめに・信教の自由を守る日を前にし、今日を生きる教会の、信仰の基礎を確かめたい。
1・「アポロがコリントにいたとき(いるようになったとき)のこと」とは、以前、アレクからエフェソに来たとき、その望みのとおり、アカイア州のコリントにいるようになったときのこと。アポロは、「ヨハネの洗礼のことしか知らなかった」が、アポロの教えを聞いたプリスキラとアキラが、「彼を招いて、もっと正確に(より注意深く)神の道を説明した」。それは、彼が、「ヨハネの洗礼のことしか知らなかった」から。アポロは、兄弟の励ましと配慮の中、コリントに行き、「彼が聖書に基づいて、メシア[キリスト]はイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人を説き伏せた。
このとき、「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの(ある)弟子(たち)に出会」った。パウロ自身、アポロが来る前に、プリスキラとアキラと来て、エフェソに滞在し、「ユダヤ人と論じ合った」(18章)。このように、「キリストはイエスである」との論証は、ユダヤ人に向き合う時の必須事項。再びエフェソに来た、パウロが、「彼らに『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と問うとき、パウロは、ある者たちを信仰者として受け入れながら、聖霊の賜物を受けることの大切さに心を向ける。
2・あらためて、「パウロが、『それなら、どんな洗礼を受けたのですか』と、問いかけたた。それは、先に受けた洗礼を儀式的に意味づけようとしているのではなく、むしろ、その内実を問うもの。「そこで、パウロは言った。『ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けた』」。これは、洗礼者ヨハネ自身が、証したお方、イエスと同じ(ヨハネ1章)。このお方が、十字架に上げられ、その死から三日目に復活し、弟子たちに現れ、天に上げられたお方。このお方の約束のとおり、エルサレムにいて祈りの心を合わせていた、使徒たちと兄弟姉妹たちの上に、聖霊が降った(2章)。「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた」。この洗礼は、いわゆる再洗礼ではなく、むしろ、一度の主イエスの命じる洗礼を受けた、ということ。聖書において、浸礼と滴礼の区別は、浸礼のみを正しい洗礼と正当化する理由はない。洗礼の効力は、執行者自身にも、洗礼の様式にも、帰されるものでなく、あくまでも、主キリストと真の神の主権的な召命(選び)にある。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり」「わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえる」(エフェソ1章14節)。洗礼は、祈りと献身に至る道であり、そこで問われることは、誠実な信仰であり、また、敬虔な礼拝生活(ペトロ一3章21節、ローマ6章3,4節)。
3・「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り」とは、パウロの手に何かの力があったのではなく、祈りの心を表した時、聖霊が降ったのを見た。それは、「その人たちが異言を話したり、預言をしたりした」から。「この人たちは、皆で十二人ほどであった」。この人数は、「十二人」から想起される弟子の数も何かの規準を示すものではなく、あくまで、結果の人数「約十二人」であったことを知る。つまり、新たな一団の形成を強調していない。
おわりに・主の復活と昇天において洗礼が命じられた(マタイ28章)。預言者ヨエルの声も、心からの悔い改めを叫ぶ。聖霊の結ぶ実りを、聖餐の時、今日、改めて、確かめたい。
2024年1月28日 礼拝説教 中心聖句
なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。 コリントの信徒への手紙二1章7節
あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。 出エジプト記23章9節
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はじめに・苦難の中で、悲しみを負う人のため、愛の奉仕(ディアコニア)の原則を学ぶ。
1・「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように(祝福あれ)。」とは、ありとあらゆる苦難に遭いながらも、そのただ中で、感謝の賛美。「わたしたちの」とは、慈愛に満ち、慰めを豊かにくださる神が、わたしたちと共におられる(インマヌエル)の神であること。神は、神と罪人との間の唯一の仲保者(仲介者)でいます、独り子(御子)、主イエス・キリストの恵みによって、ご自身の契約と誓いを果たされた。わたしたちが、皆、こぞって、主イエス・キリストの御名の中に、神を「父よ」と呼ぶとき、真実の神をはじめから呼び求めている。
2・「神は、あらゆる苦難(艱難辛苦)に際してわたしたちを慰めてくださる」と、使徒パウロは、苦難に直面しても、そこで、神の慰めを共に学ぶと言う。それは、そこで負うべき痛みや悲しみへの深い同情であり、良き励まし、また、わたしたちの主イエス・キリストの中にある救いと希望の確信。ここで、わたしたちは、主イエス・キリストの中にある神の慰めを与えられることが、一つの目的であることを知る。そして、「わたしたちも神からいただくことの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができ」る。あらゆる苦難のもとにあることは、人間の数々の罪であり、聖なる苦難の僕(イエス・キリスト)へのなんらかの態度(反対、軽蔑、迫害等)から生じた事柄(試練、欠乏等)。続いて「キリストの苦しみが満ち溢れてわたしたちにも及んでいる」とは、外面的な教えではなく、使徒パウロたちの内面的な実感であり、告白的証言。それと「同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れている」。このように、わたしたちはあらゆる苦難に直面して、真の慰めに満ち溢れる機会を備えられる。それは、ただ、キリストの臨在において、あるいは、キリストの下支え(サポート)、そして、キリストの心(愛)を心(愛)とすることによって、心と魂から溢れ出る慰めと深い喜び。
3・「わたしたちが悩み苦しむとき(苦難に遭うなら)、それはあなたがたの慰めと救いになります(とのため)」。じっさいに、使徒パウロは、エフェソの教会で受けた苦しみが、コリントの教会の兄弟姉妹たちにとっても「慰めと救いのため」と伝える。「また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができる(力となる)」。忍耐(その行為と性質)とは、「つぶやかず、不平をもたずに、災厄(悪しき事)に耐える穏やかな(落ち着いた)気性」であり、「不満をもたずに、正義や期待される善を長く待つ」こと(ウェブスター)。じつに「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5章,3節)。「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません」「なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているから」と、使徒パウロは、苦難において、一層、キリストにある一つの絆が強められたことを証しする。
おわりに・出エジプトの時代、荒野の中を生きる共同体において「法廷」「敵対」「訴訟」が定められ、同時に、「あなたたちは寄留者の気持を知っている」という深い同情が認められた。部外者、少数者、小さくされた者への態度を冷静に問う事に今日の教会の道がある。
2024年1月21日 礼拝説教 中心聖句
慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。 イザヤ書40章1.2節
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 ヨハネによる福音書1章23節
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はじめに・内外の苦難の中にある人びとを覚えつつ、今日、主の慰めの声に聞き従いたい。
1・「慰めよ」とは、悲しみと患難の中で、事を悔やみ、新たな平安に至る道を備える「悔い改めさせよ」と同じ言葉。かつてノアの物語において、主なる神は、深く「後悔し(「慰め」と同じ言葉、悲しみ)、心を痛められた」。「しかし、ノア(慰め、休息という名)は主の好意を得た」(創世記6章5,6,8節)。このように、神の裁きから赦しに至る道には、主の深い後悔と憐れみがある。患難の日、それは、静かな日、否、真の静けさを知る機会でもある。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46編10節(口語訳))と命じられる主は、神の言葉を告げる者たちに、神の御前に静まって、まったき平安の中に憩う道をここに備えられた。「慰めと、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる」。ここに繰り返される慰めは、神がご自身のものとして愛された人びとに向かう。慰めの根拠は、神自らご自身の民の間に立てられた契約と誓い。ノアが主のために祭壇を築いたとき、「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい』」(創世記8章21節)。ならば、今日の患難をどう理解するのか、それは、神の民にとっては、主の名を証しする機会であり、忍耐の時、終末的警告(ルカ21章7~19節)。そこで、必要不可欠なことは、慰めの言葉、真の福音を語り続けること。
2・「エルサレムの心に語りかけ」よ、とは、慰めの言葉は、「心の深み、内奥、内なる権威」に呼びかけるものであることを示す。主の慰めは、今日、わたしたちへの恵みと平安、真の癒やしとして語りかけられねばならない。「エルサレムの心」とは、捕囚の民にとっては、嘆き、悲しみ、憂い、失望、落胆した心。ならば、その心の癒やしと回復は、契約の神でいます、「主」への礼拝を回復(エズラ記3章、ネヘミヤ記8章)。「彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」神自ら、今日、礼拝を回復する、ご自身の召し集められた群れでいます(エクレシア)「教会」の心に、福音によって慰めを与えてくださる。それは、罪の赦しの福音であり、神への礼拝の心を回復する、命に至る悔い改め。ここに、真の平和と静けさがある。
3・「呼びかける声がある」「呼びかけよと、声は言う」と、主の声が告げられる日の到来がここに預言さえる。それは、「主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と命じられる主を証しする声。洗礼者ヨハネは、この預言者イザヤの言葉を用いて、自ら「呼びかける声」として、主の召命を果たした。「あなたはメシアでも、エリヤでも、また、あの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」とファリサイ派に属していた人たちは、いぶかった。それは、ユダヤ人への洗礼は、不要とされていたから。しかし、彼らは、エルサレムの汚れを忘れていた。神の裁きを忘れ、それを軽んじ、神殿礼拝をむなしいものとしていた。ならば、洗礼者ヨハネの声は、当然ながら、「悔い改めよ」との、「慰め」の声でなければならなかった。異邦人同様、罪を悔い改めねばならない、ユダヤ人への洗礼は、罪の赦しの福音を告げる日の到来を告げた。
おわりに・主イエス・キリストが、十字架の上で負われた「神の裁き」を認めるとき、わたしたちは、真の慰めと癒やしの道を歩み始める。その心をもって常に礼拝生活に励みたい。
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2024年1月14日 礼拝説教 中心聖句
神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。 創世記 8 章 1節
人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥される…。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。 ルカによる福音書17章25,26節
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はじめに・戦争、地震、飢饉、疫病等、試練の中、主の慰めと救いをノアの物語から学ぶ。
1・「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め」とは、洪水の日に、箱舟が百五十日の間、水の上に浮かびつづけた試練の日を物語る。ノアにとって、それは、いつ晴れるともわからない不安の毎日が五ヶ月続いた。水は高い山を15アンマ(キュビト)[7,8メートル]超えた。ノアにとって、自分たちは神から見捨てられたのではないか、との非常な緊張と動揺と誘惑の思いにさらされた。「御心に留め」とは、神が、そのようなノアたちの思いを深く憐れんでくださったこと。神は、「地の上に風を吹かせられた」。神は、ノアの命を思いやり、「風を伝令とし」(詩編104編4節)、救いの日の近いことを示された。「水が減り始め」「天からの雨は降りやみ」「水は地上からひいて行った」。「百五十日の後」「箱舟はアララト山の上に止まった」。さらに二ヶ月半、そし、ノアは、はじめて、外に出るしるしを、一羽の鳥にゆだねて求める。
2・「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した」。「烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした」。烏は死骸を食べたのか等の疑問には、深入りしない方が良い。ノアの主目的は、鳩と同様。「ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした」。「しかし、鳩は足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。水がまだ全地のおもてにあったからである。彼は手を伸べて、これを捕らえ、箱舟の中の彼のもとに引き入れた」(口語訳)。「更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した」「鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た」「見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた」「ノアは水が地上からひいたことを知った」。しかし、ノアは、これで箱舟から出ることをせず、神の命令を待つ。じつに、「雨が四十日四十夜地上に降り続いた日」(7章12節)以来、一年三ヶ月程の間、箱舟にとどまり続けた。「神はノアに仰せになった。『さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい』」「そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た」。また、「すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地の上で子を産み、増えるようにしなさい」とも、命じられ、そのとおりに「獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た」、神の造られた大地で、人間とすべての命あるものの新しい出発、再生の日となった。
3・「ノアは主のために祭壇を築いた」。ノアの従順と忍耐は、主への感謝において証しされた。ノアは、神に命じられなくても、否、神への清い恐れ(礼拝の真心)から、自ら、神へのささげものをささげた。ここに、ノアの内にある深い恐れと感動を覚える。「すべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた」。ノアは神が清いとされた家畜と鳥を取り、献げ物とした。ここに、わたしたちは、礼拝の原点を見ることができる。復活の主による全き救いを証しする「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心(内奥の意識)を願い求めること」(ペトロ一3章21節)。
おわりに・今日、わたしたちは、苦難を忍ばれた主を証する群れの一人とされたなら、世に出ていくことは、礼拝に立ち帰ること、悔い改めと献身と一つ。終わりの日に忍耐したい。
2024年1月7日 礼拝説教 中心聖句
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。ローマの信徒への手紙 8 章 32節
あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。申命記26章5節
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はじめに・主の定められた年の始め、「ただ一つの慰め」を、命の言葉から共に学びたい。
1・「わたしたちのただ一つの慰め」は何か、と、ハイデルベルク信仰問答は問う。この「慰め」とは、一時の気休めではなく、主イエス・キリストの内に、罪と悲惨からの救いにあずかり、救いの恵みへの感謝の応答を、真実に表すこと。信仰と生活のすべて。その中心的な教えは、「わたしが生きるにも死ぬにも、体も魂も、自分自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである、ということ」(ハイデルベルク信仰問答コンペンディウム問1)。主イエスは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と問い、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るときに、その者は恥じる」と預言された(マルコ8章35,38節)。十字架の言葉を恥じることなく、自分の十字架を負って主に従うことを求めること、それは、ただ一つの信仰による自己奉献(献身)。
2・「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方」とは、目に見える苦難の中で、御子を与えてくださった、唯一まことの神において、将来の希望を望む思いと考えを抱く、使徒の眼差しの中心にあるお方。そして、このお方が、「御子の一緒にすべてのものをわたしたちに恵みとして与えてくださる」。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるのか」。決してできない。それは、唯一の審判者である神ご自身が、「彼らを義とする」方であるから。「だれがわたしたちを罪に定めることができるか」。だれもできない。それは、復活の主が、敵を足台とされるほどに、固く、義の守りの中に留めておられるから。「だれが、わたしたちをキリストの愛から引き離すのか」。「艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」。いずれもあり得ない。「キリストの愛」とは、キリストへの愛か、キリストからの愛か、いずれにも解される。いずれにしても、このキリストの愛が、公然と証しされるとき、わたしたちは、必ず苦難に直面する。それは、世の小羊となられたお方と同様に、キリストの群れ、選ばれた民、召し集められた者たち(エクレシア)
である教会の負うべき苦難そのもの。「あなたのためにわたしたちは一日中死にさらされ、屠られる羊のようにみなされている」と書いているとおり(詩編44編23節)。今、わたしたちが、苦難に遭っているなら、それは、信仰を捨てていないから。しかし、本来的に、信仰を与え、奪うお方は、ただ唯一の神のみ。むしろ「信仰の薄い」「無きに等しい」ほどの者をも、主は、憐れんでくださって、ご自身の民として、わたしたちに将来の栄光を約束する。
3・「にもかかわらず、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方のゆえに、これらすべてにおいて勝利してなお余りがある」。「なぜなら、わたしはこう確信するから」「死も、生命も、御使いたちも、支配者たちも、現在のものも、将来のものも、力あるものも、崇高なものも、深淵なものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」。これほどまでに、キリストのものとされた者たちの愛と生と祈りは、常時、たしかな、この慰めと希望の中にある。
おわりに・主が与えてくださった初物をささげる時、求められた信仰告白は、出エジプトと約束の地カナンでの祝福。キリストの贖いと祝福を告白する、今日、献身の誓いを新たに。
2023年12月31日 礼拝説教 中心聖句
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」 ルカによる福音書 2 章 28,29節
見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。 イザヤ60章2節
はじめに・主の降誕の恵みを覚えつつ、新しい年に備える今日、命の言葉に共に聞きたい。
1・「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間」とは、割礼に続き、「血のきよめのために、三十三日間こもる」(レビ12章4節)こと。男の子を産んだ女は、犠牲(いけにえ)の食事や、過越祭に参加することができなかった。この期間が「過ぎたとき、両親(彼ら)はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて」のぼった。「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者ととなえられねばならない」(口語訳:出エジプト13章12節)との「主の律法」を守った。受胎告知において、御使いは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(1章35節)と約束した。実に、主の律法は、「聖なる者と呼ばれる」お方の誕生を、服従と謙遜において証しすることとなった。主の律法に言われていることに従って、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」(レビ12章8節)であった。「貧しくて小羊に手が届かない場合」の規定。祭司が、いけにえを献げた女のためにあがないをし、清められた。「彼ら」の従順において、幼子イエスは、主の律法に服する道を歩み始められた。
2・「すると見よ、エルサレムにシメオンという名の人がいた」。「この人は正しく、敬虔で、イスラエルの慰めを待ち望み(受け取り)、聖霊が彼の上にあった」。「慰め」とは、呼び寄せることで、主の召しに適って、イスラエルが救われる日を待ち望んでいたこと。「彼は、主のキリストを見るまでは死を見ることがない、と聖霊からみ告げを受けていた」。「彼は、霊の中で神殿にやって来た」。「すると、幼子イエスの両親が、律法の慣習とするところに従って彼に関することを行うために、彼を連れて入って来た」。「すると彼自ら、幼子を両腕に受け取り、賛美(祈り、祝福)をささげて言った」「主(ご主人様)よ、今こそ、あなたは、あなたの奴隷を去らせてくださいます。あなたの言葉どおり、平安のうちに」「わたしの目(両目)が(今)あなたの救いをしかと見たのですから」「それは、あなたがもろもろの民の面前に備えられたもので、異邦人たちを明るみに出す光、あなたの民イスラエルの栄光です」。「彼の父と母とは、彼について語られてことに驚いていた」「するとシメオンは、彼らを祝福し、彼の母マリアに向かって言った」「見よ、この者(御子)は、イスラエルの中の多くの者たちを倒れさせ、起き上がらせる」「そして反対を受けるしるしとなるよう、すえられている」「そして、あなた自身のたましいも、剣が刺し貫く」「多くの者の心からさまざまな思いが明らかにされるため」。じつに、シメオンの証言は、十字架の主を指し示す。それは、異邦人とイスラエルの民の別を超えて、一つの救いが実現することを証しする。人々の罪の思いは、真に、十字架の前に明らかになる。
3・「また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた」。「非常に年をとっていて、若いときから七年間夫と共に暮らしたが、寡婦となり、八十四歳になっていた。昼夜を問わず断食と祈りをもって奉仕し、神殿から離れようとはしなかった」。「まさにその時、彼女は近づいて来て神への感謝を公に唱え、エルサレムの贖いを待ち望んでいる者たちすべてに、幼子のことを語った」。
おわりに・堕落以来、全人類の世は暗い。真の栄光を主キリストの中に共に待ち望みたい。
2023年12月24日 礼拝説教 中心聖句
ところが(そして)、彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて、初めての子(男子)を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。 ルカによる福音書 2 章 6,7 節
権威が彼(わたしたちに与えられた、ひとりのみどりご、男の子)の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。 イザヤ9章5節
はじめに・2023年クリスマス礼拝日を迎えた。「命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る」(詩編36編10節)を添えて、ハンガリーからクリスマスカードが届いた。「ベツレヘムの星は、ゴルコタの十字架と空の墓に導く」とのメッセージと共に。
1・「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」時、当時のローマ世界の人々が、徴税と軍隊のために、一つにされる命令。年若いマリア(十代前半)とヨセフ(二十代?)は、「(住民)登録するために」「自分の町」「ユダヤのベツレヘム」という「ダビデの町へ上って行った」。ヨセフは、「ダビデの家に属し、その血筋」でありながら、特別扱いは受けていない。人々から忘れられた王の子孫として生きていた。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するため」。先に、主の知らせ(受胎告知)を受けた、ヨセフとマリアは婚約を解消することなく、すべてを守られて、ベツレヘムに到着した。ついに「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子(男子)を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」。「主」の時が、満ちた。
2・「(一方)その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた」。
貧しい場所で生まれた救い主の誕生は、貧しい羊飼いたちに伝えられる。ここに、もう一つの「主」の備えを見る。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア[キリスト]である。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」「ダビデの町」も「救い主」も、「主キリスト」も、言わば、その真価を発揮するのは、聞く人の心にその意味が理解されることにまさって、聖霊による新しい命が与えられ、キリストを結びつくこと。その鍵は、「罪からの救い」と「神我らと共にいます」との約束(マタイ1章21,23)。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」ここに、わたしたちは、天と地をつなぐ、唯一のはしごが、御子の謙卑においてかけられたのを見る(ヨハネ1章51節)。謙卑の道は、十字架の死に至る。そして、復活と昇天の高挙において、主の栄光を見る。
3・「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った」。羊飼いたちの協議は、実行の過程を証しする。主の命令に従う時、聞く者たちの相互の謙遜と一致が求められる。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。「羊飼いたちの話は不思議に思」われた。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。
おわりに・「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエス(主は救い)と名付けられた。これは胎内に宿る前に天使から示された名である」(ルカ1章31節)。この名のとおり、イエスは、ただお一人の救い主、まことの王、キリスト。今日この主を共に喜びたい。
2023年12月17日 礼拝説教 中心聖句
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 マタイによる福音書 2 章 9 節
エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 ミカ書 5 章 1節
はじめに・主の待降節、第三週の今日、占星術の学者たちの期待と信頼、従順に学ぶ。
1・「(さて、)イエスは、ヘロデ王の時代に」とは、「皇帝アウグストゥス」(ルカ2章1節)の統治下においてユダヤの王であった「ヘロデ(大)王」の時代(B.C.37-A.D.4)。ヘロデは皇帝の信任を得て、領土を拡張し、ユダヤにおいては絶対的な権力を奮う「王」であった。大祭司と最高法院から政治的権力を剥奪し、民衆の歓心を買うために神殿を拡張した。多妻(10人)で、ヘロデは、中傷からその妻の一人を、疑心暗鬼から、二人の王子と長男も処刑したこともあった。この「ヘロデ王の時代に」「イエスは」「ユダヤのベツレヘムで生まれた」。「彼ら(ヨセフとマリア)がベツレヘムにいるうちに、マリアが月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2章6節)。「そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』。」占星術の学者たちは、星を拝まず、「ユダヤ人の王としてお生まれ担った方」を「拝みに来た」。それは、「神として」拝むというよりも、「王として」敬う(敬意)を払おうとした。しかし、「礼拝」(ワーシップ)の語源も「尊敬する、敬う、礼節を重んじる」ことにある。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」。先の背景から察しても、王の思いは、かき乱され、非常な恐れを抱いたに違いない。人々の「不安」は、ヘロデの悪意を案じる思いと、新たな王の誕生による変化。「同様」の人々の不安の背景にも、失望と落胆、絶望的不信仰がある。
2・「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて」とは、ヘロデ王の不安から出た召集と調査の公言。「メシア[キリスト]はどこに生まれることになっているのか」と、その場所を問い、「占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた」。「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあった学者たちは、「自分の国へ帰」り一方、ヘロデは、「占星術の学者たちにだまされた」と見ると、「学者たちに確かめておいた時期に基づいて、二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」。「二歳以下」から、イエスが時を起点とすれば、生まれてから、一年以上が経過したと推測される。しかし、占星術の学者たちが、生まれたばかりの幼子を訪ねたことを否定する必要はない。ヘロデは、この実行に2年を費やしたと考えることもできる(カルヴァン)。既に「主の天使が夢でヨセフに現れ」ヘロデの殺意を告げ、ヨセフとマリアは幼子イエスを抱き、エジプトへ逃げ、難を逃れた。
3・「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています』と、民の祭司長たちや律法学者たちは、キリストの誕生地を伝える。それは、真の預言者ミカによって告げられた地。ベツレヘムは、「ボアズ」が「ルツによってオベド」を産んだ地であった。また、「オベドはエッサイ(エサイ)を」産んだ地も、「エッサイはダビデ王を」産んだ」地もベツレヘムであった(サムエル記上16章1節、17章12節)。主の預言の実現(成就)。
おわりに・「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。「彼らはひれ付して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。ここに、わたしたちは、礼拝と献身の原型を見る。ただ主の深い憐れみの中で(ローマ12章1節)。
2023年12月17日 礼拝説教 中心聖句
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 マタイによる福音書 2 章 9 節
エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 ミカ書 5 章 1節
はじめに・主の待降節、第三週の今日、占星術の学者たちの期待と信頼、従順に学ぶ。
1・「(さて、)イエスは、ヘロデ王の時代に」とは、「皇帝アウグストゥス」(ルカ2章1節)の統治下においてユダヤの王であった「ヘロデ(大)王」の時代(B.C.37-A.D.4)。ヘロデは皇帝の信任を得て、領土を拡張し、ユダヤにおいては絶対的な権力を奮う「王」であった。大祭司と最高法院から政治的権力を剥奪し、民衆の歓心を買うために神殿を拡張した。多妻(10人)で、ヘロデは、中傷からその妻の一人を、疑心暗鬼から、二人の王子と長男も処刑したこともあった。この「ヘロデ王の時代に」「イエスは」「ユダヤのベツレヘムで生まれた」。「彼ら(ヨセフとマリア)がベツレヘムにいるうちに、マリアが月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2章6節)。「そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』。」占星術の学者たちは、星を拝まず、「ユダヤ人の王としてお生まれ担った方」を「拝みに来た」。それは、「神として」拝むというよりも、「王として」敬う(敬意)を払おうとした。しかし、「礼拝」(ワーシップ)の語源も「尊敬する、敬う、礼節を重んじる」ことにある。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」。先の背景から察しても、王の思いは、かき乱され、非常な恐れを抱いたに違いない。人々の「不安」は、ヘロデの悪意を案じる思いと、新たな王の誕生による変化。「同様」の人々の不安の背景にも、失望と落胆、絶望的不信仰がある。
2・「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて」とは、ヘロデ王の不安から出た召集と調査の公言。「メシア[キリスト]はどこに生まれることになっているのか」と、その場所を問い、「占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた」。「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあった学者たちは、「自分の国へ帰」り一方、ヘロデは、「占星術の学者たちにだまされた」と見ると、「学者たちに確かめておいた時期に基づいて、二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」。「二歳以下」から、イエスが時を起点とすれば、生まれてから、一年以上が経過したと推測される。しかし、占星術の学者たちが、生まれたばかりの幼子を訪ねたことを否定する必要はない。ヘロデは、この実行に2年を費やしたと考えることもできる(カルヴァン)。既に「主の天使が夢でヨセフに現れ」ヘロデの殺意を告げ、ヨセフとマリアは幼子イエスを抱き、エジプトへ逃げ、難を逃れた。
3・「彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています』と、民の祭司長たちや律法学者たちは、キリストの誕生地を伝える。それは、真の預言者ミカによって告げられた地。ベツレヘムは、「ボアズ」が「ルツによってオベド」を産んだ地であった。また、「オベドはエッサイ(エサイ)を」産んだ地も、「エッサイはダビデ王を」産んだ」地もベツレヘムであった(サムエル記上16章1節、17章12節)。主の預言の実現(成就)。
おわりに・「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。「彼らはひれ付して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。ここに、わたしたちは、礼拝と献身の原型を見る。ただ主の深い憐れみの中で(ローマ12章1節)。
2023年12月10日 礼拝説教 中心聖句
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 マタイによる福音書 1 章 23 節
主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰符のように、あるいは高く天の方に。」 イザヤ書 7 章 11 節
はじめに・主の待降節第二週。主の御告げが臨んだ「聖なる日」の二人を思い巡らしたい。
1・「イエス・キリストの誕生の次第」と、イエス・キリストの系図から、「誕生の次第」に移行する。「母マリアはヨセフと婚約していた」との「母」が添えられていることは、はじめから、この婚約が、神の定めにおいて祝福されたものであることを物語る。当の「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。結婚は、神の定めによる聖なる誓いをもって成立する。二人の同意(真の願い)は、神の御前にあるものとして、その誠実さが問われる。当時、婚約は結婚までの準備期間であり、神の御前にある約束の期間。ヨセフが、この時、決心したことは、二人の証人の前で、自分の理由を伝える必要のない書簡をマリアに渡すこと。そのことによって、マリアは、ヨセフの知らない「夫」と結婚生活を始め、ヨセフは、身の純潔を証しする。聖なる神の御前にあって、ヨセフのマリアへの誠実な愛と清さの証でもあった。
2・「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った」。「主の天使」によって、ザカリアに「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」と洗礼者ヨハネの誕生が予告され(ルカ1章13節)、救い主誕生の日には、羊飼いたちに「民全体に与えられる大きな喜び」と「主キリスト」の御名が、告げられたように(ルカ2章10節)、聖霊によるマリアの受胎が告げられる。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と。先の系図で証しされたとおり、「胎の子」は、「肉によればダビデの子孫から生まれ」(ローマ1章3節)た、神の約束された救い主(キリスト)。マリアは、先に、御告げを受け、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1章32,33節)との約束と、聖霊による受胎が告げられたとき、御心を受け入れていた。ヨセフはマリアのことは知らずとも、主なる神は、ご自身の定めの中で、イエスの母であり、ヨセフの妻マリアと夫ヨセフを、聖なる結婚に導いておられた。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うから」と告げられる。主の深い憐れみと慰めの中に、ヨセフは、神の御前に一度断念した、マリアとの結婚を受け入れ、婚約とイエス誕生までの期間、身を謹んで、清く歩む(24,25節)。マリアとヨセフ共に、主の御告げが臨んだことに、主の深い配慮と慰めを覚えることができる。
3・「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するため」。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。ここに、わたしたちは、イエスのもう一つの名を認める。それは、「わたしたちを御自身に従わせ」「わたしたちを治め、守り」「わたしたちのすべての敵を抑え、征服される」ことによって、まことの王として働いておられるということ(ウェストミンスター小教理問答26「王の職務」)。
おわりに・イザヤに臨んだ預言は、遠い先の御心の実現を証しする。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のよう」(ペトロ二3章8節)。世の原因にまさる主の原因を。
2023年12月3日 礼拝説教 中心聖句
アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。 マタイによる福音書 1 章 17 節
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え この国に正義と恵みの業を行う。 エレミヤ書 23 章 5 節
はじめに・主の待降節を迎えた、今日、神の約束の救い主、イエス・キリストの福音を学ぶ。
1・「アブラハムの子」とは。旧約聖書によれば、その子は「イサク、イシュマエル」(歴代誌上1章28節)。イシュマエルは「(エジプト人の女奴隷)ハガルが男の子」(創世記16章15節、「息子たち」創世記25章13~16節)。マタイ福音書が「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」と教示する目的は、神の召命に従ったアブラハム(アブラム)に立てられた、神の約束(創世記12章,15章,17章)。「しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる」(創世記17章21節、「誕生」21章、「奉献」22章)。このように、「アブラハムの子」とは、その子孫(血統)にまさって、「神の約束」(契約)の子。「ダビデの子」も同様。「主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ」(サムエル記下12章15節)、「七日目にその子は死んだ」(12章18節)。マタイ福音書が「エッサイはダビデ王をもうけた」「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを」と教示するのも、「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(サムエル下7章12節)との「神の約束」の実現。このように、マタイ福音書が、各書が書かれた順序とは別に、新約聖書の筆頭に置かれる理由がここにある。実に、旧約聖書の全体が、神の召命と選びと救いの土台であることを予表する。
2・「イエス・キリストの系図」は、このように、「アブラハムの子ダビデの子」という、神の約束の子として生まれたイエスを、神の約束の実現として生まれた、救い主として証する。それは、「アブラハムからダビデまで十四代」「ダビデからバビロンまで十四代」「バビロンへ移されてからキリストまでが十四代」とまとめられるように、神の備えられた完全な系図として証しされる。しかし、その完全さは、血統の純粋さに帰されるものでなく、神の契約の民、イスラエルの諸々の罪(心と言葉と行動)を覆って余りある、神の憐れみによるもの。じつに、神の民の待望した「キリスト(メシヤ)」は、永遠の御子でありながら、罪をほかにしては、人間として、ヨセフの子として生まれ、世の罪を負う、贖い主となられたお方。
3・「バビロンへ移住させられた後」と言い、その後の「帰還」を記さない。離散民の多くは、各地にとどまり、律法の規定を守り続けた。イエスの十字架の上に掲げられた罪状書は「ユダヤ人の王」。しかし、イエスは、永遠の神の御子、まことの王。わたしたちの主となられた「贖い主」。「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13章8節)。
おわりに・真の預言者エレミヤは、新しい出エジプトとして、「ダビデのために正しい若枝を起こす」との神の約束において、救いの日の到来を告げた。この「到来」こそ、わたしたちが、今日、待ち望む「主の到来」。世界のすべての人々が、主のもとに来る日を、切に待ち望みたい。
2023年12月3日 礼拝説教 中心聖句
アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。 マタイによる福音書 1 章 17 節
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え この国に正義と恵みの業を行う。 エレミヤ書 23 章 5 節
はじめに・主の待降節を迎えた、今日、神の約束の救い主、イエス・キリストの福音を学ぶ。
1・「アブラハムの子」とは。旧約聖書によれば、その子は「イサク、イシュマエル」(歴代誌上1章28節)。イシュマエルは「(エジプト人の女奴隷)ハガルが男の子」(創世記16章15節、「息子たち」創世記25章13~16節)。マタイ福音書が「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」と教示する目的は、神の召命に従ったアブラハム(アブラム)に立てられた、神の約束(創世記12章,15章,17章)。「しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる」(創世記17章21節、「誕生」21章、「奉献」22章)。このように、「アブラハムの子」とは、その子孫(血統)にまさって、「神の約束」(契約)の子。「ダビデの子」も同様。「主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ」(サムエル記下12章15節)、「七日目にその子は死んだ」(12章18節)。マタイ福音書が「エッサイはダビデ王をもうけた」「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを」と教示するのも、「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(サムエル下7章12節)との「神の約束」の実現。このように、マタイ福音書が、各書が書かれた順序とは別に、新約聖書の筆頭に置かれる理由がここにある。実に、旧約聖書の全体が、神の召命と選びと救いの土台であることを予表する。
2・「イエス・キリストの系図」は、このように、「アブラハムの子ダビデの子」という、神の約束の子として生まれたイエスを、神の約束の実現として生まれた、救い主として証する。それは、「アブラハムからダビデまで十四代」「ダビデからバビロンまで十四代」「バビロンへ移されてからキリストまでが十四代」とまとめられるように、神の備えられた完全な系図として証しされる。しかし、その完全さは、血統の純粋さに帰されるものでなく、神の契約の民、イスラエルの諸々の罪(心と言葉と行動)を覆って余りある、神の憐れみによるもの。じつに、神の民の待望した「キリスト(メシヤ)」は、永遠の御子でありながら、罪をほかにしては、人間として、ヨセフの子として生まれ、世の罪を負う、贖い主となられたお方。
3・「バビロンへ移住させられた後」と言い、その後の「帰還」を記さない。離散民の多くは、各地にとどまり、律法の規定を守り続けた。イエスの十字架の上に掲げられた罪状書は「ユダヤ人の王」。しかし、イエスは、永遠の神の御子、まことの王。わたしたちの主となられた「贖い主」。「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13章8節)。
おわりに・真の預言者エレミヤは、新しい出エジプトとして、「ダビデのために正しい若枝を起こす」との神の約束において、救いの日の到来を告げた。この「到来」こそ、わたしたちが、今日、待ち望む「主の到来」。世界のすべての人々が、主のもとに来る日を、切に待ち望みたい。
2023年11月26日 礼拝説教 中心聖句
このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。 使徒言行録18章26節
万軍の主は言われる。平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び 大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。 ゼカリヤ書8章11,12節
はじめに・来週からアドベント(主の待降節)に入る今日、主の福音に思いを向ける。
1・「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人」「アポロ(アポロース)」とは、北アフリカの港町で、当時、世界で最も多くのユダヤ人離散民が住んでいたアレクサンドリア生まれのユダヤ人のギリシャ名(元は太陽神の名)。ちなみに、ユダヤ人哲学者のフィロンも「アレクサンドリアのフィロン」と呼ばれる。フィロンは、旧約聖書注解において、ギリシャ思想哲学から出た「ロゴス(語りうるもの)」「イデア(見える形)論」を適用した。アポロは、「聖書(旧約聖書)に詳しく」「雄弁家(ロギオス)」であった。このアポロが、「エフェソに来た」。すでにパウロは、第二回伝道旅行を終え、第三回伝道旅行で「ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけ」(23節)ていた。エフェソはガラテヤ、フリギアの東側、アジア州の通商港。アポロは、アレクサンドリアからエフェソへ地中海を渡って来た。「彼(この人)は主の道を受け入れており(広め)、イエス(主)のことについて熱心に語り、正確に教えていた(沸き立つ思いで詳しく語り教えていた)」。しかし、「ヨハネの洗礼のことしか知らなかった」(「預言者と呼ばれたイエス」ルカ24章19節、「洗礼者ヨハネ」ルカ3章1~20節)。アポロは、主の教師としてエフェソで働きを開始する。
2・「このアポロ(人)が会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に(より注意深く)神の道を説明した」。アポロは、「ヨハネの洗礼のことしか知らなかった」とは、イエスの受難(死)と復活、昇天と聖霊降臨を知らなかったとも言える。プリスキラとアキラは、ローマを追われ、パウロとともにコリント伝道に励み、エフェソに滞在し、北アフリカから来たアポロに、聖書の証しするキリスト・イエスを伝えた。洗礼者ヨハネは「悔い改めと罪の赦し」のしるしとして洗礼を施したが、復活の主イエスが、弟子たちに命じられた福音宣教における、洗礼は「父(御父)と子(御子)と聖霊の御名の中に」施される(マタイ28章19節)。
3・「それから、アポロ(彼自身)がアカイア州に渡ることを望んで」、「兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた」「彼が聖書に基づいて、メシア[キリスト]はイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである」。アカイア州のコリント教会へ手紙をエフェソから書き送った使徒パウロは、ある者たちの党派心を戒め、「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか」(コリント第一2章16節)と問い、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神」(同3章6節)と伝え、「イエス・キリストという既に吸えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(同3章11節)と諭した(福音の「所有者」は神御自身、同3章21~23節)。
おわりに・万軍の主の激しい熱情により、神の所有(もの)とされた民の[残りの者」に「平和の種が蒔かれ」「ぶどうの木は実を結び」「大地は収穫をもたらし」「天は露をくだす」。世の激動の中でも、主の民として、平和の福音を、互いに、証ししたい。
2023年11月19日 礼拝説教 中心聖句
パウロはそれを断り、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。 使徒言行録18章20,21節
「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださる」 サムエル記下15章25節
はじめに・主の御心を求めること、過去、今日、生涯、そして、終わりの日に、共に。
1・「パウロは、なおしばらくの間(多くの日数)ここに滞在した」とは、主の幻のとおりに、コリントにとどまって宣教を続けたことを証しする(18章9節)。総督ガリオンの裁定が、「一年六か月」(18章11節)の滞在のいつ頃であったかは定かではない。仮に、地中海の航海の終わる前の9月に出発したとすれば、在任期間(A.D.51.7.1-52.6.30)の後、もしくは初期、二、三ヶ月後。いずれにしても、パウロは、主の御心の時に、「やがて(コリントの)兄弟たちに別れを告げ、船でシリア州で旅立った」。「プリスキラ(プリスカ)とアキラも同行した」(18章1節)。パウロは、後のコリント教会への手紙で「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者としてくださいます」(コリント一1章4,7節)と伝えた。当時、ユダヤ人たちは、とくにアッシリア強制連行とバビロン捕囚等以降、捕囚からの帰還民もいながら、多くの者たちは、世界の各地に住み、安息日と律法遵守を重んじた。その中、エルサレム巡礼者もいたが、多くは各地における生活に慣れ、ユダヤに再び集められる希望は薄まっていた。パウロたちの伝道旅行は、教会設立と成長にとどまらず、真の希望を証しした。
2・「パウロは誓願を立てていた」とは、パウロが、「特別の誓願を立て、主に献身する」、ナザレ人(ささげられた者、聖別された者)として聖別したことを証しする。民数記6章に基づいて詳細な規定があり、誓願の期間、ぶどう酒も濃い強い酒も断ち、主に献身している期間が満ちるまで、髪は長く伸ばしておく、主に献身している期間中、死体に近づいてならない、等を守った。つまり、「ケンクレアイで髪を切った」とは、誓約期間の終了、「献身のしるし」(民数記6章18節)。パウロは、これから向かう、アンティオキアとエルサレムのユダヤ人たちに対して、聖別の意志を表した(コリント一9章20節)。あるいは、コリント滞在が、主によって守られたことを感謝して、誓約期間をささげた。パウロは、主の召命によって、全生涯を主にささげながら、特別の意志と誠実に表した。
3・「一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して」とは、プリスキラとアキラは、ローマ、コリント、エフェソに仕事の拠点があり、多分、ここで旅を終えた。パウロは、「自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合」い、聖書から、イエスの十字架と復活において、キリストはイエスであることを論証した。「人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、『神の御心ならば、また戻ってきます』と言って別れを告げ、エフェソから船出し」「カイサリアに到着し」「教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った」。パウロが常に求めたもとは、「神の御心」であり、「御心を行い」その実現(終末の希望)を望んだ。
おわりに・都を追われたダビデは、神の箱を担いてきた者たちに「都に戻す」ように命じた。主の御心は、都エルサレムに戻るか、王を退くか。謙遜に、御心を求めたい。
2023年11月12日 礼拝説教 中心聖句
「問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」 使徒言行録18章15節
主は人ひとりいないのを見 執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により 主を支えるのは主の恵みの御業。 イザヤ書 59章16節
はじめに・混沌とした世の中で、諸「宗教」も乱立状態?。真の「宗教」はどこに?
1・「ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのこと」とは、パウロのコリント伝道における一年六ヶ月の間の出来事(ガリオンの在任期間A.D.51.7.1-52.6.30.)。主の幻において、身の安全が約束されながら、あるユダヤ人たちの告発が起こった。ガリオン(ルキウス・ユニウス・ガッリオー・アンナエウス)は、ストア派の哲学者セネカの兄で、ローマ帝国の元老院議員の一人。その性格は、愛想がよく、親しみやすい人物であったと言われる。総督ガリオンのもとに、「ユダヤ人たちは一心にパウロに向かって立ち上がり、法廷に連れて来た」。多分、パウロに敵対していたユダヤ人たちは、有罪判決を期待し、着任次第、時を待たずに告発したと思われる。約20年前には、ナザレの人イエス(まことの、神の独り子)が、ユダヤ州の総督「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」(使徒信条)、十字架刑に引き渡されたことを思い起こす。ローマ帝国における法の裁きと宗教裁判、あるいは、国家と宗教を見る。
2・「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と、パウロに敵対するユダヤ人の一団は、総督に訴えた。「パウロが話し始めようとしたとき」、総督はこれを制して、「ユダヤ人に向かって言った」。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とであるならば、当然諸君の訴えを受理する」と。ガリオンは、全ユダヤ人をローマから退去させる命令も承知の上で、事の判断をユダヤ人の内部問題として対処する。さらに、この「律法」について、「問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい」、別訳「しかし、これは教えや名前、あなたがたの律法に関する論争の問題ですから、あなたがた自身で考えてください」と言い、冷静に、性急な告発者を諭す。ガリオンは、これは法廷で扱う問題ではなく、宗教論争とみなしている。それは、コリント伝道が、敵対するユダヤ人によって妨害されることなく、継続されることに、ローマの権能において、一定の保障を与えることになった。多分に、敵対するユダヤ人からすれば、十字架刑は呪われた死であり、従来の割礼や慣習を求めずに、異邦人が、ユダヤ人会堂に招かれることは、許しがたい暴挙に映りながらも。
3・「わたしは、そんなこと(これらのこと)の審判者になるつもりはない」と、ガリオンは、訴え(同時に審理)を却下する。「すると、(ギリシャ人の)群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった」。ソステネは、先の会堂長クリスポの後継者、この時、多分、パウロに敵対するユダヤ人を代表しながら、告発が却下された事で、逆恨みを負った。ソステネは、後に、キリスト者となり、パウロとともに働く(コリント一1章1節「パウロと、兄弟ソステネ」)。総督の態度は、ローマのユダヤ人排斥の態度と重なる。
おわりに・主は、まことが失われ、正義が行われていない世に、「執り成す人がいないのを驚かれた」。ただ、「主の救いは主の御腕により」「主を支えるのは主の恵みの業(義)」。主の義を知る者こそ、神の義務を行う者でなければ、だれが行うか。
2023年11月5日 礼拝説教 中心聖句
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」 使徒言行録18章9,10節
主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。 詩編 126編1節
はじめに・宣教51年10月歓迎礼拝・合同夕礼拝の恵みを覚え、新たな幻を共に。
1・「(すると、)ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた」とは、この主が語られた時に、たしかに、パウロの心の中に一つの勇気と方向づけを与えられたことを物語る。先に、トロアスで見た幻は、マケドニア人への伝道を確信する分岐点となった(16章9節)。迫害から逃れて、マケドニア州(べレア)から、アカイア州(アテネ[アテナイ])に渡り、コリントに「行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と、後の手紙で伝える。それは、弱さに同情をしてもらいたいと願った言葉ではなく、むしろ、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言うほどに、世から見れば宣教の愚かさに仕えながら、身体的な弱さを心細い気持ちを負っていたことを告白するもの。かえって、パウロの「言葉も」「宣教も」「知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるもの」であった(コリント第一2章2~4節、「わたしは弱いときにこそ強い」コリント第二12章7~10節)。
2・「恐れるな、語り続けよ、黙っているな、わたしがあなたと共にいるから」と、主は、パウロに命じ、約束された。「だれひとりとして、あなたを襲って危害を加える者はない」と、主は、これまで幾度となく危害を加えられたパウロを激励する。かつて、主の言葉が臨んだ時、真の預言者の召命を与えられながら、若さを口実にしてためらうエレミヤにも、「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と命じ、約束された(エレミヤ1章8節)。また、バビロンの地において、主の幻を示された時、大きな苦しみと無力さを覚えたダニエルには、「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい」(ダニエル10章19節)と命じ、力づけた。エレミヤも、ダニエルも、新たな力を与えられ、主の召しに応えた。
3・「この町には、わたしの民が大勢いるから」と、さらに、主は、一つの理由を伝える。主イエスは、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われ、同時に、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(ルカ10章2,3節)と言われる。主は、危害から解放を約束しているのではなく、どのような暴力も、伝道の妨げにならないことを約束される(かつてのサウロ、ステファノ等)。パウロは、シラスとテモテたちとともに、ティティオ・ユストの家(会堂の隣)を拠点しながら、「一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた」。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだった」(ローマ11章32節)と、パウロは、同胞イスラエルの不従順において、主の憐れみを認めたほどに、神の予定の教理は、慰めと希望を与えた。
おわりに・有り得なかった「シオンの復興」を見た時、「私たちは夢を見ている者のようであった」と言う。不可能を可能とされる御方は、ただお一人、全能の神。その大いなる御業は、主の深い憐れみと慰めによるから、今日の伝道を、共に尽したい。
2023年10月29日 礼拝説教 中心聖句
あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 ガラテヤの信徒への手紙1章6節
彼ら(イスラエルの子孫)は皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し 形づくり、完成した者。 イザヤ書 43章7節
はじめに・プロテスタント宗教改革を覚え、今、福音に生きる教会を信じ求めたい。
1・「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い」と、キリストとその働きが語りだされる。わたしたちは、キリストにおいて、神を「わたしたちの神」また「父」と知る。「御心」とは、人の意志、知恵ではなく、神の御意志。主イエス御自身「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくだることです」(ヨハネ17章15節)と御父に祈った。「信仰者の霊魂は、彼らの死のとき、完全に聖くせられ、直ちに栄光に入り、信仰者の体(からだ)は、なおキリストに結びつけられたまま、墓の中で休みます」(ウェストミンスター小教理問答問37)と教えられるとおり、完全な解放は「死のとき」を待たねばならない。それは、ただ、キリストが、「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」ゆえ。この意味で、世の言う、死は苦しみからの単なる解放ではなく、キリストの負われた死と苦しみを信じるゆえに、神の怒りと呪いという刑罰としての死を免れる、真実の救いとして信じなければならない。「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン」との賛美の告白は、キリストの命と真理が、心に与えられた再生者による、確信の表明。キリストと神の栄光と贖われた者の礼拝こそ、永遠に続くもの。
2・「キリストの恵みへ招いてくださった方から」と、使徒パウロは、ただ一つの福音に反する「ほかの福音に乗り換えようしている」者について、「わたしはあきれ果てています」という。しかし、「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があながたがを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎない」と言う。主イエスが、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と言われたとき、弟子たちは、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と応答した。しかし、主の言葉のとおり、弟子たちは「散らされて自分の家に帰ってしま」う。かえって、主イエスは、「あなたがたがわたしによって平和を得るため」と言われ、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と約束される。主の真実は、世のただ中で、あらゆる苦難を超える歩みを与える(ヨハネ16章28~33節)。
3・ならば、使徒パウロの「呪われるがよい」との言葉は、神とキリストの福音(真理の言葉)に真っ向から反抗する偽りの教え(信仰によらず、行いによる救いを教える、もう一つの福音)の断罪。「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」とは、十字架の上に死んだ侮辱されるべき罪人イエスが、ダマスコ途上でサウロの名を呼び、また、福音を異邦人に伝える召命を与えられたこと(使徒9章4節、22章21節)。
おわりに・主イエスは、契約の民をその名「ヤコブ、イスラエル」をもって呼ばれるお方。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」との約束を信じる。現代のプロテスタント教会の歩みはいかに。恵みの日に今日、主の名を正しく呼びたい。
2023年10月22日 礼拝説教 聖書箇所
新約聖書 マタイによる福音書15章21~28節
21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
2023年10月15日 礼拝説教 聖書箇所
新約聖書 ヨハネによる福音書3章16~21節
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
2023年10月8日 礼拝説教 中心聖句
パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してはメシアはイエスであると力強く証しした。 使徒言行録18章5節
「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う。」 サムエル記上 2章 1節
はじめに・伝道の主はキリスト、収穫の主に祈りつつ、共に、収穫を刈り取りたい。
1・「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行」く。哲学の地アテネ(アテナイ)伝道からアカイア州のもうひとつの都市コリントへ移動する。「ここで、ポントス州(黒海沿岸)出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会」う。「クラウディウス帝が(多分、キリスト信者との軋轢が生じたため)全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来た」。アキラ・プリスキラ夫妻も迫害を逃れてきた人たち。「パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事を」する。「その職業はテント(天幕)造り(もしくは、革職人)」。やぎの毛から織られた布地や、革によって製作した。日除けや、旅行者のための移動式住居(テント)等に用いた(使徒9,10章「皮なめし職人シモン」)。「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努め」た。ユダヤ人会堂に、ギリシャ人も集い、主の言葉(福音)を聞いた。
2・「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し[(別訳)霊に捉えられて]、ユダヤ人に対してメシアはイエス[イエスはキリスト、キリスト・イエスを]であると力強く証しした」とは、パウロは、大いに二人に励まされ、また、必要な支援を得て、主の霊に促され、御言葉を語った。後に「わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき,もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」「あなたがたの益となる豊かな実を望んでいる」(フィリピ4章15~20節)と感謝を、フィリピのすべての聖徒たちに伝え、神の栄光をほめたたえた。この時、「しかし、彼らが反抗(敵対)し、口汚くののしった(冒涜した)ので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血(負うべき結果としての破滅のこと)は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く』」と、主を証しする言葉(福音)に反抗する、あるユダヤ人たちと決別する。
3・「パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった」。伝道の拠点が、会堂から会堂の隣(異邦人の家)に移る。しかし、「会堂長の(ユダヤ人の)クリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた」。多くのユダヤ人が、パウロの告げた福音、つまり、キリストに敵対しながら、クリスポは、「一家をあげて主を信じる」ように導かれた。後に、パウロは、クリスポとガイオ以外にコリントのだれにも洗礼を授けなかったことを「神に感謝している」と言い、「福音を告げ知らせるために」、キリストから派遣された者と証しする(コリント一1章14~17節)。コリントの教会も、異邦人だけではなく、ユダヤ人の回心者も与えられたが、すべては、神の恵みによる救いの実(同15章10節)。
おわりに・ハンナは、主が願いを聞かれた時、「この子(サムエル)を主にゆだねる」ことを告白し、祈りをささげた。伝道の目的は、人数献金増加ではなく、主の栄光のため。そのすべてにおいて、十字架の言葉を、告げしらせることに、徹したい。
2023年10月1日 礼拝説教 中心聖句
それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。 使徒言行録17章31節
いかに幸いなことか 神に逆らう者のは計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 詩編 1編 1節
はじめに・いろいろな試練に悩むとき、より頼むべきは、人の哲学か、真の信仰か。
1・「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と、使徒パウロは、神の命じているところを明らかにする。「無知な時代」とは、哲学的知識において誇り高いアテネ(アテナイ)の人たちからすれば、「何を指して言っているのか」と心探られる言葉。先に「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えて造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」と諭したように、目に見える偶像の存続そのものを、神の許容とする。しかし、ユダヤ人のみならず、ギリシャ人も、「どこにいる人でも」「今は皆悔い改める」ようにと、神が命じておられる。「悔い改め」る時、わたしたちは、神の悲しまれる罪を自覚し、「清い心求め」、(詩編51編12節)、「生涯の日を正しく数える」(詩編90編12節)ことを求めて祈る。ガリラヤの地で叫ばれた、悔い改めは、すべての人への招き(マタイ3,4章)。
2・「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです」と、使徒パウロは、「一人の方」、イエス・キリストによる裁きの日を告げる。さらに「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになった」と告げる。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来る」(コリント一15章21節、ローマ5章12,15,19節)。「主は乏しい人の右に立ち 死に定められる裁き[死罪にさだめようとする者、死を宣告する者たち]から救ってくださいます」(詩編109編31節)と告白されるように、主なる神は、貧しい者、弱い者を正しく弁護してくださるまことの権威者。不当な死罪から救われる。じつに、神は、御子を不当な死罪から救われた。神は、ご自身の憐れみのゆえに、ご自身の裁き(義)ゆえの死を、独り子(御子)に負わせられた「わたしたちの贖い主」(63章16節)。「あなたはわたしたちの父」と告白される神こそ、御子をこの世に遣わされた、まことの神。すべての人は、御子において、このお方を求めて祈る民(神の教会と聖徒の交わり)の一人とされることへと招かれている。「アッバ、父よ」と叫ぶ「御子の霊」を、「わたしたちの心に」、「キリストを死者の中から復活させた父である神」が与えてくださる(ガラテヤ1章1節,4章6節)。
3・「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」。当時、死後の世界について「死は無であり、永遠の眠り」と信じられ、墓石にも「私はいなかった、私はいない、私は心配しない」と略語(n.f.n.s.n.c.)を刻んだ。「それで、パウロはその場を立ち去った」。「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」。アテネ伝道において、「主」は、ご自身の一つの枝、教会を与えられた。
おわりに・詩編第一編は、幸いな道への招き。それは、「主に知られている人」たちの「集い」とその祝福を明らかにする。御子の命において、神を知る道を求めたい。
2023年10月1日 礼拝説教 中心聖句
それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。 使徒言行録17章31節
いかに幸いなことか 神に逆らう者のは計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 詩編 1編 1節
はじめに・いろいろな試練に悩むとき、より頼むべきは、人の哲学か、真の信仰か。
1・「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と、使徒パウロは、神の命じているところを明らかにする。「無知な時代」とは、哲学的知識において誇り高いアテネ(アテナイ)の人たちからすれば、「何を指して言っているのか」と心探られる言葉。先に「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えて造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」と諭したように、目に見える偶像の存続そのものを、神の許容とする。しかし、ユダヤ人のみならず、ギリシャ人も、「どこにいる人でも」「今は皆悔い改める」ようにと、神が命じておられる。「悔い改め」る時、わたしたちは、神の悲しまれる罪を自覚し、「清い心求め」、(詩編51編12節)、「生涯の日を正しく数える」(詩編90編12節)ことを求めて祈る。ガリラヤの地で叫ばれた、悔い改めは、すべての人への招き(マタイ3,4章)。
2・「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです」と、使徒パウロは、「一人の方」、イエス・キリストによる裁きの日を告げる。さらに「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになった」と告げる。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来る」(コリント一15章21節、ローマ5章12,15,19節)。「主は乏しい人の右に立ち 死に定められる裁き[死罪にさだめようとする者、死を宣告する者たち]から救ってくださいます」(詩編109編31節)と告白されるように、主なる神は、貧しい者、弱い者を正しく弁護してくださるまことの権威者。不当な死罪から救われる。じつに、神は、御子を不当な死罪から救われた。神は、ご自身の憐れみのゆえに、ご自身の裁き(義)ゆえの死を、独り子(御子)に負わせられた「わたしたちの贖い主」(63章16節)。「あなたはわたしたちの父」と告白される神こそ、御子をこの世に遣わされた、まことの神。すべての人は、御子において、このお方を求めて祈る民(神の教会と聖徒の交わり)の一人とされることへと招かれている。「アッバ、父よ」と叫ぶ「御子の霊」を、「わたしたちの心に」、「キリストを死者の中から復活させた父である神」が与えてくださる(ガラテヤ1章1節,4章6節)。
3・「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」。当時、死後の世界について「死は無であり、永遠の眠り」と信じられ、墓石にも「私はいなかった、私はいない、私は心配しない」と略語(n.f.n.s.n.c.)を刻んだ。「それで、パウロはその場を立ち去った」。「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」。アテネ伝道において、「主」は、ご自身の一つの枝、教会を与えられた。
おわりに・詩編第一編は、幸いな道への招き。それは、「主に知られている人」たちの「集い」とその祝福を明らかにする。御子の命において、神を知る道を求めたい。
2023年9月24日 礼拝説教 中心聖句
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。 使徒言行録17章29節
「イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕ダビデに約束なさったことを守り続けてください。」 列王記上8章25節
はじめに・聖書の神は、創造と摂理の神、啓示の神。この神の声に聞き、応えたい。
1・「神は、一人の人(血=命)からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」とパウロは全人類の祖先は「一人の人」(アダム:創世記1章26~30節,2章7~25節、社会的生命体)であることを告げ、神の定めにおいて、全世界は一つであることを明らかにする。このように、「天地の主」である神は、ただお一人であり、世界と人類の創造主のおられることを告げる。そして、「これは、人に神[主]を求めさせるためであり、また、彼らが(本当に)探し求め(触れ、感じるようにはっきりと確実に知り)さえすれば、神(このお方)を見出すことができるようにということなのです」と伝える。それは、「知られざる神に」との祭壇に証しされた神ではなく、現実に人間社会に住んでおられる摂理の神を提示するもの。「実際(確かに)、神(このお方)はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と、パウロは、神は最も身近におられるお方であることを諭す。「忘れられた神」は、創造主なる神であった。
2・「皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』(クレタ人の詩人エピメニデスより)『我らもその子孫である』(キリキア人の詩人アラトス[アラトゥス]等より)と、言っているとおりです」と、パウロは、さらに、当時の二人の詩人の格言を引用する。ちなみに、エピクロス派は、「神々についての大勢の人々の発言は、真の先入観ではなく、誤った思い込み」と言い、神の普遍性を否定したことからすれば、この引用は、これに反する「神の真理」を伝えようとするもの。ストア派哲学者のセネカ[小セネカ]も、「神はあなたの近くに、あなたと共に、あなたの中にいる」と言った。使徒ヨハネは、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(ヨハネ一4章7,8節)と言った。つまり、人間社会を創造され、全人類と国々の歴史を支配し、時至って、約束(恵みの契約)の御子をこの世に使わされた、ただお一人の神に仕える教えかどうかで、その神の向かうところ、真理の内実は、確実に吟味され得る。
3・「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」と、パウロは、頭から偶像を否定するのではく、人間の存在そのものが、神の存在を肯定する(真の証拠)のであり、偶像は、天地の主なる神を源とするものではないことを告げ、アテネの人々の無理解について理由を明確にしながら戒める。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」(コリント一8章3節)ように、知的探求の結果、神への忘恩を不明とするか、神に栄光を帰する知恵(キリスト)かが、人々の礼拝のあり方を規定する。
おわりに・ソロモンは、神殿完成の時、契約の箱を運び入れて、祈りを「イスラエルの神、主」にささげた。神の誠実において、イスラエルの民に慈しみが注がれた。主イエスは「求めよ」と命じられる、祈りと交わりの主。祈りのあり方を吟味したい。
2023年9月17日 礼拝説教 中心聖句
「道を歩きながら、あなたがたの拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。」 使徒言行録17章23節
神である方、天を創造し、地を形づくり 造り上げて、固く据えられた方…人の住む所として形づくられた方 主はこう言われる。わたしが主、ほかにはいない。イザヤ書45章18節
はじめに・神を知ることは、愛すること。偶像が満ちるところに、愛を伝える今日。
1・「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。」とは、パウロの伝えた「福音」を聞きながらも「新しい教え」「奇妙なこと」と聞こえた「幾人かの哲学者」たちを含む者たちによってアテネ(アテナイ)のアレオパゴス(評議会場)で、公式に弁明する機会を与えられたことを証言する。当時、アレオパゴスの会議は祭日を除いて毎日開かれ、神々について表決する場でもあった。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい(とても神々に恐れ深い)方であることを、わたしは認めます」とパウロは語りだす。それは当時の慣習でもあったが、聴衆への敬意を表明する挨拶。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」と添える。これは、これから語る内容を方向づける導入と言える。この祭壇の詳細は不明。「知られざる神」とは、偶像の神々以外の「未知の神」というよりも、多分、歴史上祭壇は残ったが、その信仰が「不明となった神」「忘れられた神」と思われる。
2・「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」とは、歴史上の神こそ、実は、天地を造られた唯一の「神」、「主」であると、パウロは告げる。「世界とその中の万物とを造られた神は、天地の主であり、手で造った神殿には住まわれることもなく、何かを足して、人の手によって仕えてもらう必要もなく、すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる」お方と。「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」(ローマ1章23,25節)と言うとおりに、偶像礼拝の実態は、無感覚なままに、神の真理を偽りに替え、霊的不潔を重ねる悪事。しかし、パウロは、ここでは、目に見える偶像撤廃を叫ばず、まず、天地の主である神の存在を告げ、正しい礼拝のあり方へと導こうとする。
3・まことの預言者イザヤは、「天をつくったお方、主はこう言われる」と、イスラエルの神の偉大さを告げた。「この神が地を定め、それをつくられた、このお方が地を区分された。このお方はむなしく地をつくられたのではなく、人の住む場所とされた─「わたしがそこにいる(居る、エゴー・エイミー)、わたしのほかにはいない」(イザヤ書45章18節七十人訳ギリシャ語 逐語訳)。パウロ一人が、アテネで「イエスと復活」と「天地の主である神」を告げ、偶像が満ちていたアテネの町も、まことの神が、人びとを生かし、治めておられることを明らかにする。真に、主イエス・キリストは、創造と摂理の主、永遠の神(ヘブライ13章8節、ヨハネ8章28,58節)。聖霊の内住「聖なる神殿」として真の神とキリストを礼拝する(エフェソ2章22節)
おわりに・「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(コリント一8章1節)とパウロはのちにコリント教会へ警告した。それは、何を知るか、だけでなく、知る態度を問うもの。まことの神を知り、目に見える偶像を廃しても、その心はいかなる態度を取るか。正しい知り方は、神との愛から出ることを心に留め、祈りたい。
2023年9月10日 礼拝説教 中心聖句
その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。 使徒言行録17章18節
地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。 詩編22編28,29節
はじめに・人生と道徳を哲学的に探求していたアテネ伝道から、経過の一端を知る。
1・「パウロはアテネ(アテナイ)で二人を待っている間に」とは、べレアでもテサロニケのユダヤ人たちに追われたパウロが、べレアに残ったシラスとテモテを、一人で待っていた時。パウロは、港から通り沿いに数々の祭壇や偶像があるのを目の当たりした。実に、「この町に偶像が満ちているのを(注意深く)見たとき」、パウロは、自身の内に憤りを感じた(エレミヤ20章9節、エゼキエル36章18節)。聖なる霊によって、偶像の支配する町の不潔を認め、パウロは、清い熱情を抱いた。「会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場(アゴラ)では居合わせた人々と毎日論じあっていた」。アテネはマケドニアの総督の監督下に置かれていながら、地方の独立が認められていた。パウロは、安息日における会堂では、聖書(モーセの律法・預言者・詩編:ルカ24章44節)に基づいて話すこと(説教)以外に、広場で毎日福音を語り続けることができた。それは、「論じ合う」との言葉のとおり、居合わせた人びとの質問を受けながらの、パウロからすれば、弁証的な説得であったと思われる。
2・「また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論した」。エピクロス派は「肉体に苦痛がなく、魂に悩みのない」快楽の一種を追求し、ストア派は、世界のすべては神とし、「自然に従え」「理性に従え」と教えながら、恐れや悲しみのない平静の心を哲学的に追求した。この点、偶像を見て、パウロの憤りも、パウロの伝えた「イエスの苦しみ」は、蔑視され得る理由となる。後に、パウロ自身、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とコリント教会へ書き送ったように、「十字架につけられたキリスト」を伝えることに徹した(コリント一1章18~23節)。「パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせてい」ながら、その哲学者たちの「中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろう』と言う者もいれば、『彼は外国(異国の)神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた」。一部の者たちは、取り合わなかった。
3・「そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。『あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なこと(なんだか珍しいこと)をわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味(なんの事)なのか知りたいのだ。』」多分、パウロと討論した者たちの中に議員もいた。パウロを議会に連れて行った理由は、「すべてのアテネ人やそこに在留する外国(異国)人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」からであった。パウロは、逮捕されたのではなく、公式の会議の場で弁明の機会を与えられた。それは、暇をもてあましていたとも、好機を得たとも言える、会議の者たちにとっては、絶好の福音を聞く機会を備えることになった。
おわりに・詩編22編は、全人類が主を礼拝する時が来ることを預言する。十字架の苦しみと死と、復活において成し遂げられた、キリストの御業。「塵に下った者」たちが、心揺さぶられるような感動の中で、主をほめたたえる日を共に待ち望みたい。
2023年9月3日 礼拝説教 中心聖句
ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 使徒言行録17章2節
わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。 詩編119編109節
はじめに・主の言葉を聞くことから、信仰が始まり、信仰から信仰へと導かれる。
1・「兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをべレアへ送り出した」とは、テサロニケからべレアへ(西に約100Kmの内陸の地)、隠密に移動したことを物語る。「二人はそこへ到着すると、(次の)ユダヤ人の会堂に入った」。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直」であった。この「素直」とは、素性というよりも、むしろ、聖書に向かう態度において、「偏見のない」「公平な」姿勢であったこと。「非常に熱心に御言葉を受け入れ」とは、「自ら進んで」「心をこめて」、パウロたちの「言う事」(主張、教え、証し、根拠)を、率直に受け取ったこと。「そのとおりかどうか」とは、その「言う事」が、本当に正しいかどうか、を確かめたこと。「毎日、聖書を調べていた」とは、当時、会衆が皆、自分の聖書を持っていた訳ではなく、会堂に備えられていた、ヘブライ語とギリシャ語の聖書(内容:律法と預言者と詩編、形態:巻物)を、安息日以外の週日も、パウロたちに教えられながら、調べたということ。ならば、そこで、教えられたことは、これまでの伝道地同様、十字架の苦しみを受けられ、死者の中から復活された、イエスこそ、神の約束された、まことの王、救い主、主、キリストであること(ヨハネ福音書5章39節)。
2・「そこで、そのうちの多くの人が信じ」とは、多くのユダヤ人が、回心したこと。そして、「ギリシャ人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」とは、パウロの伝えた「ことば」を「神の言葉」として受け入れたのと同時に、自分たちも、当時のユダヤ人の中で、罪人が救われるためには、ただ(神の契約と律法の要求を満たされた)キリストの福音を信じるのみであり、旧来の律法と神殿を不要する福音の特質からして、旧来の教えに反する教えではないか、との疑義を負う危険を負う身になったことを物語る。「ところが、」その時、「テサロニケのユダヤ人たちは、べレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた」。
3・かつてのパウロ(サウロ)(使徒8章1節)、ステファノが弁明した最高法院の者たち(使徒7章57,58節)がそうであったように、最も激しい迫害は、一定のユダヤ人から。「神の言葉」が宣べ伝えられ、ある者たちは、更に教えに導かれ、聖書を調べつつ、信仰も深まっていくのに対して、ある者たちは、真っ向からキリストに反抗する(マタイ福音書13章41~43節)。「それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはべレアに残った」。それは、ある者たちの迫害の中でも、主に守られ、べレアの兄弟姉妹たちが、引き続き、良い手引きを与えられて、聖書を調べ、キリスト信仰と主にある交わりを深めたことを物語る(使徒8章31~35節「フィリポの手引きを受けたエチオピア人の宦官」)。
おわりに・「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています」とは、「私はいつもいのちがけでです」(新改訳2017)のとおり、身の危険を告白する。「神に属する者は神の言葉を聞く」(ヨハネ8章47節)。真の信仰者たちは、日々、自分を「よく確かめたうえ」(コリント一11章28節)で聖餐式(主の晩餐)にあずからねばならない。
2023年8月27日 礼拝説教 中心聖句
パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、 使徒言行録17章2節
彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。 詩編112編7節
はじめに・福音は、罪の世のただ中で伝えられつつ、復活の主に生きる道を証する。
1・「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた」とは、マケドニアの地に渡って来た時と同様、主の召命と導きの中に、二つの都市を通過し、マケドニアの首都テサロニケを訪れた(フィリピから約160キロ)。それは「ここにはユダヤ人の会堂があった」から。「(ところで)パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して(に基いて)論じ合」った。とくに「(待望の)メシア[キリスト]は必ず苦しみを受け、死者の中から復活すべきこと」「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」(口語訳)を説明、論証した。復活の日、主イエス御自身、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24章27節)との同様、聖書に基づく説明。
2・「それで、彼らのうちのある者は信じて(説明を受け入れ)、パウロとシラスに従った(加えられた)」」。パウロの伝えた説き明かし(福音)を聞いて、復活のイエスを主キリストと受け入れたユダヤ人は少数で、かえって「神をあがめる多くのギリシア人」と「かなりの数のおもだった婦人たち」が、キリスト告白に導かれた。
使徒パウロは、半年後に、コリントからテサロニケに手紙を送り「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったから」「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者」「主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」と伝えた(テサロニケ一1章5,6節)。
3・「しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ」とは、嫉妬心から動かされた敵対的な熱情。それは、強烈で意志的な行動に表れる。「広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ」た。さらには、パウロとシラスが宿泊していた「ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した」。「しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った」。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまって(客として受け入れて)いるのです。(そして)彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」と。ピラトの尋問の時も、同様の偽証によって、イエス御自身も告発された(ルカ23章2節)。「これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した」。しかし、ここで、「当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保釈金を取ったうえて彼ら釈放した」。ここに、ヤソンと兄弟たちの無抵抗でありながら、勇気ある行動を見る。それは、パウロとシラスを無用な争いから遠ざける盾となることでもあった。
おわりに・キリストは、地上の政治的権威と対立する御方ではなく、すべての権威を立て、治めておられる「主の主、王の王」(ヨハネ黙示録17章14節)。テサロニケの兄弟たちの信仰を知るとき、「その心は、固く主に信頼している」「清い心をもって神に仕える者」(カルヴァン)であることを認める。日々この心を求めて祈りたい。
2023年8月20日 礼拝説教 中心聖句
「今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」 使徒言行録16章37節
あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい あなたの慈しみに生きる人々は 喜びの叫びをげるでしょう。 詩編132編9節
はじめに・男山教会最初期の姉妹召天の日、主の喜びと祈りと感謝を新たにしたい。 1・「朝になると」とは、ついに、主イエスの福音を聞く機会を与えられた、看守と その家族が救われた、その夜明け。当時、看守の多くは、退役軍人であり、年金生活 者。しかし、家族との時間が乏しい。「看守とその家の人たち全部に主の言葉を語っ た」機会を与えられたことは、全く、主の恵み。主は、人の目には、最も救い難いと 思われた看守とその家族全部を救われた。一方、大地震の中、牢の戸が開きながら、 一人の囚人の逃げなかった事実は重い。看守はパウロの制止により一命を取りとめた ばかりでなく、その責任を全うできた。事態は高官たちに伝わり、「高官たちは下役 たちを差し向けて、『あの者どもを釈放せよ』」とも命令となった。「それで、看守 はパウロにこの言葉(命令)を伝えた。『高官たちが、あながたがを釈放するように と、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい』」。看守は、命 令実行の責務を喜んで果たす。もはや、自害しようとした時の看守ではなく、キリス トの解放を知る者としての平安の祈りの中で、パウロたちを、牢から送り出そうとす る。
2・「ところが、パウロは下役たちに言った」とは、パウロの訴え。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってか ら投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか」「いや、それはいけない。高官 たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ」との訴えは、パウロがロー マ法に従うことを求めるもの。パウロは「生まれながらローマ帝国の市民」(22章28 節)であった。パウロは、自由都市タルソスで生まれた(9章11節)。自由都市で は、独自の法律、習慣、統治者を用いることが許され、ローマ人の権威を認め、戦争 に協力することが義務づけられた。パウロは、自分の特権を、とくにフィリピ教会 (集会)の公的な信用と権利の回復、将来の安全のために公然と主張した。「下役た ちは、この(これらの)言葉(数々の主張)を高官たちに報告した。高官たちは、二 人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来てわびを言い、二 人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ」。高官たちにとって、法を犯し たことは、自分たちの身も裁かれること。自己保身と群衆の目がある。「町から出て 行くように」とは、「わびを言った」ことは、懇願であって、悔い改めではなく、キ リストのもとに来ようとしなったことの反証でもある。
3・「牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い」とは、不当な辱めを 受けながらも、公然と、主に固く立つ者としての証し。「彼らを励ましてから出発し た」。後に、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(フィ リピ1章5節)と、パウロは獄中から感謝と喜びの手紙をフィリピ教会へ書き送った。
おわりに・一連の出来事をとおして、主の守りと導きを認める。まことの祭司的王キ リストの支配の中で、福音が語られ聞かれるところに、主の教会が建て上げられ、成 長していく。世界の国々、人々に遣わされる福音の奉仕者たちの使命を、共に、担う とき、キリストの「王冠(支配)はダビデ(まことの契約と祝福)の上に花開く」。
2023年8月13日 礼拝説教 中心聖句
「このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。」 エレミヤ書24章5節
「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 ルカによる福音書21章29,30節
はじめに・8・15集会で、沖縄の現状と歴史と宣教を負う証を聞いた、「今日」。
1・「主がわたしに示された」とは、主からの幻を見たこと。主からの召命を受けたときにも、主の言葉とともにアーモンドと煮えたぎる鍋の幻を見た(1章11節)。主自ら「わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」御方。「わが民の甚だしい悪に対して裁きを告げ」「北から災い」を告げた。それは、バビロンによるエルサレム崩壊と捕囚。ここで見た幻は「いちじくを盛った二つの籠」。それが「見よ、」「主の神殿の前に」「置いてあった」。この「置く」とは、「会う」こと。礼拝へのささげものであり、神と民との会見と献身の幻。時は、「バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨヤキム(ヨヤキン、エホヤキムと同じ)の子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のこと」。「残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった」(列王記下24章14節)。
2・「一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた」。主から、「エレミヤよ、何が見えるか」と聞かれた、エレミヤは、「いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くてたべられません」と答えた。「そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ」。それは、主自ら幻を説き明かされた言葉。「イスラエルの神、主」は言われるとは、アブラハム、イサク、ヤコブの神と同じく「契約の神」であること。「良いいちじく」とは、「カルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民」。「非常に悪くて食べられないいちじく」とは、「エルサレムの残りの者」。人の目には、捕囚とされた民に災いが臨んだと思われるが、災いが臨むのは、「残りの者」。捕囚とされた民は、バビロンで、主を畏れることを学び、祝福を与えられる。しかし、それは、捕囚とされた民が、品行方正で、敬虔であったからではなく、いずれも、かつては、同じ悪事(偶像礼拝と不品行)を繰り返した。残りの民のうち、カレアの子ヨハナンたちは「主の声に聞き従わず」(43章7節)、エジプトへ逃亡した。この時も、エレミヤは、「主はあなたたちに対して、『エジプトへ行ってはならない』と語られた。今日、わたしがこの警告を伝えたことを、しっかり心に留めなさい」(42章19節)と伝えたが、拒絶した民は、エジプトへ行く。主の言葉が臨んだエレミヤは、タフパンネスで、エジプトの神殿の滅びを告げた(43章)。
3・「彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す」「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える」「彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る」とは、主の憐れみによって、契約の民の帰還と回心の約束。新しい契約(31章)は、希望を約束し、イスラエルの家と結ぶ「主の契約」の実現。今日、契約の民は、主イエス・キリストの贖いを命に至る悔い改めに導かれる、神礼拝を準備された。
おわりに・主イエスは、「いちじくの木」や「ほかのすべての木」を見よ、と命じる。その葉が出始める時、夏の近づくことが分かるから。同様に「神の国が近づいている」と悟れ、と命じる。国々の歴史は、神の支配の中にある。「今こそ、神の家から裁きが始める時」(ペトロ一4章17節)。主の霊によって事の真偽を見分けたい。
2023年8月6日 礼拝説教 中心聖句
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。 使徒言行録16章31、32節
ヤコブのために…諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。「主よ、あなたの民をお救いください。イスラエルの残りの者を。」エレミヤ書31章7節
はじめに・諸国の平和を祈り求める時、わたしたちは主キリストの贖いの業を歌う。
1・「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると」とは、不当な裁きのもとで何度も鞭打たれ牢に投げ込まれた二人の賛美と祈り。二人は、多分、打ち傷と痛みを負い、死刑をも覚悟していた。大地震が起こり、看守が囚人が逃げたと思い自害した時、当時のローマの掟で、看守は囚人への刑罰が死に値するものと自覚していたから。極限の思いの中で、聖霊に導かれ、真夜中の賛美の歌がうたわれ、神に祈りがささげられた。「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5章18,19節)と命じるとおり、パウロ自身、聖霊に満たされ、詩編(詩編30編8,9節参照)とキリスト讃歌(フィリピ2章8節)を歌った。「自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられた」(イザヤ53章12節)ことを、身をもって知ることは、主への賛美に至る道。
2・「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」とは、賛美と祈りの声を、患いに思い人がいなかったこと。神の守り。ここに、牢獄が、まことの神が共におられることを証しする場所となった。場所が人を聖別するのではなく、人が場所を聖別する。わたしたちのささげる礼拝は、礼拝室(堂)、家庭、職場、個人であれ、キリストの霊と魂と心の歌の一致のあるところに、本当の聖別がある。囚人たちの心も、主の霊が支配していることを知る。現役の盲人賛美伝道者の時田直成さんは、「歌うことは希望を語ること」と証する。「心の内に隠していたことが明らかにされ、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表す」(コリント一14章25節)。「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」。神の救いの業。
3・「パウロは大声で叫んだ。」、その言葉は、『自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。』」。先のとおり、看守は、ローマの掟によって、責任を取ろうとした。しかし、パウロはそれを制止した。死を覚悟した看守にとって、パウロの言葉は、死からの救い。「看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方(ご主人様)、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中だったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者となったことを家族ともども喜んだ」。わたしたちは、ここに、リディアとその家族同様、看守とその家族の救いを見る。フィリピ教会の礎がここにある。職業・貧富等の差別なく、等しく、主の御前に救いが証される。
おわりに・真の預言者エレミヤは、神の民に向かって賛美を命じた。それは、「諸国民の頭のため」。賛美は、諸国の上にあって、主なる神にのみささげられる。捕囚の地のただ中で、ダニエルの証しにより王が神を賛美した(ダニエル6章28節)ように、主に贖われた民の歌が、主を賛美する時、主の救いを見る。主の喜びをいつも。
2023年7月30日 礼拝説教 聖書箇所
詩 編16編 1~11節
1 神よ、守ってください
あなたを避けどころとするわたしを。
2 主に申します。
「あなたはわたしの主。
あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3 この地の聖なる人々 わたしの愛する尊い人々に申します。
4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。
わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず
彼らの神の名を唇に上らせません。」
5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。
主はわたしの運命を支える方。
6 測り縄は麗しい地を示し
わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7 わたしは主をたたえます。
主はわたしの思いを励まし
わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8 わたしは絶えず主に相対しています。
主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。
9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。
からだは安心して憩います。
10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11 命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。
(関連聖句 ヨハネによる福音書14章1~4節)
2023年7月23日 礼拝説教 中心聖句
パウロは…その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。 使徒言行録16章18節
災いだ、主を避けてその謀(はかりごと)を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか 誰が我らに気づくものか」と。 イザヤ書29章15節
はじめに・様々な混沌と不安の中、キリストにある確かな希望を求め、確かめたい。
1・「わたしたちは、祈りの場所に行く途中」とは、フィリピで、習慣的に「祈りの場所」で、福音を宣べ伝えたことを証しする。ここで「占いの霊に取りつかれている(持つ)女奴隷(少女)に出会った」。それは、一つの試み(悪の誘惑)。「この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」。主イエスが、カファルナウムで安息日に会堂で教え始められたときにも、汚れた霊に取りつかれた男が、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだ(マルコ1章23,24節)。悪魔(サタン)は絶えず、機会を伺い、福音の真理に対峙し、疑いと迷信に引き込もうとする。この少女も、「パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫」んだ。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」。まるで、パウロたちの良き協力者が与えられたように見える。しかし、その実態は、迷信を売りにした詐欺であり、悪徳商法。パウロたちからの直接的な金銭的な利益のみならず、パウロたちの評判の高まりに便乗し、自分たちも言わば同業者としてその名声を得ること(コリント二11章15節)。
2・「彼女(少女)がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて(困り果てて)振り向き、その霊に言った」。それは、主イエスが、「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊がその人から出て行った(マルコ1章25節)のと同様、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。パウロは、キリストの権威によって、悪霊を追放した。聖霊は、ただ、キリストの権威のもとに、御言葉によって働く。「ところが、この女(少女)の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場で引き立てて行った」。偽善的良心に火がついたとき、少女の主人たちは、パウロとシラスを捕らえ、偽証により、ローマの官憲に訴える。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております」と。しかし、その内実は、福音の真理によって、悪魔のとりことされていた者たちの方に大きな動揺が生じたため。さらに「ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されていない風習を宣伝しております」と、理由を捏造した。それは、人々の反感をあおり、「群衆も一緒になって二人を責め立てた」結果を見た(マタイ27章22,23節)。
3・「高官たちは二人の衣服をはぎ取り、『鞭で打て』と命じた」。「そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷(かせ)をはめておいた」。後に、使徒パウロは、その時、同行していたテモテへの手紙で、「しかし、神の人よ、あなたはこれらのこと(高慢から出る議論や口論、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間な言い争い、金銭の欲)を避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」(テモテ二6章11節)と命じる。
おわりに・「誰が我らを見るものか」と指導者たちは、主の預言を軽んじ、人の思いに急いだ。今日、「主の御心」を求め「なすべき善」を行いたい(ヤコブ4章15節)。
2023年7月16日 礼拝説教 中心聖句
神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。 使徒言行録16章14節
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 詩編51編19節
はじめに・福音が語られ聞かれるところに、キリストの命とその御業が証しされる。
1・「わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き」とは、あの幻(16章9節)をパウロが見たとき、すぐに、マケドニアへ向けて出発したことの船旅の経路を伝える。幻は、大勢のマケドニア人が助けを求めている印象を与えたが、実際は、パウロを歓迎する群衆はいない。「そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピにいった。そして、この町に数日間滞在した」。数日の間、何の実りもなかった。「安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした」。この時、伝道の手がかりは、ユダヤ人の集まる所。しかも川岸。静かに御言葉に聞くのに適した場所(習慣的に水も用いた)。ここで、一行の話を聞いたのは、「集まっていた婦人たち」であった。
2・「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていた」。ここに、一つの婦人の名が伝えられる。リディアは多分、ユダヤ教への改宗者。神を畏れる信仰を与えられていた。ティアィラ市は、アジア州の町。ヨハネ黙示録2、3章にある7つの教会の一つ(2章18~29節)。この時、「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」。この「開く」という言葉は、主が、彼女の思いを内から開かれたこと。つまり、ただ、打ち解けて話し出した様なことではなく、主自ら、彼女に、ご自身の命を与えられたこと。新しい命は、ほんとうの回心によって現われる。そして、ほんとうの回心は、罪を心から悲しみ、救い主であり、主であるキリストに誠実に立ち帰っていくこと(ハイデルベルクコンペンディウム問52,53)。一回心者と一家族が、フィリピ教会の礎となった。使徒パウロは後にフィリピの教会に手紙を書き送り、キリストの日に備え、キリストにある生と死を証しし、天国の希望を伝え、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」(フィリピ4章1節)と命じた。エボディア、シンティケという二人の婦人の名も認められる(同4章2節)。リディアも多分、婦人たちの交わりの中にいた。
3・「そして、彼女も家族の者も洗礼を受けた」。それは、ユダヤ教の儀式的洗礼ではなく、キリストの命を証しする固い誓い。最初アブラハムに命じられた割礼も家のもの全員(男子のみ)であった。今日、一兄弟・姉妹の救い即、全家族の救いに見えないかもしれない。しかし、少なくとも幼児洗礼において証しされるように、信仰によって、霊の家族とされる者たちは皆救われる。信仰による忍耐と従順を求めたい。
「そのとき、『私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ私の家に来てお泊りください』と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた」。リディアの施しは、主の賜物。パウロの話は、ただの教えにとどまらず、主の慈しみ深い愛を証しした。
おわりに・わたしたちのささげる礼拝の本質は、体面によっては取り繕えない。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」であるから。「神よ、わたしの内に清い心を創造し」「主よ、わたしの唇を開いてください」との祈りを。日々、新たに捧げたい。
2023年7月9日 礼拝説教 聖書箇所
コロサイの信徒への手紙2章11~15節
11 あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、12 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
13 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。
神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 14 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
15 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
2023年7月2日 礼拝説教 聖書箇所
マタイによる福音書5章4,5節
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
2023年6月25日 礼拝説教 聖書箇所
テサロニケの信徒への手紙二 1章1~12節
1 パウロ、シルワノ、テモテから、わたしたちの父である神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ。
2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
3 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。
4 それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。
5 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。
6 神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
7 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
9 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。
10 かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。
11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。
12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
2023年6月18日 礼拝説教 中心聖句
その(幻の)中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。 使徒言行録16章9節
あなたの慈しみに生きる人々にかつて、あなたは幻によってお告げになりました。「わたしは一人の勇士に助けを約束する。わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。詩編89章20節
はじめに・主の召命によって一つされた教会の使命である福音宣教を求めつつ学ぶ。
1・「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とは、パウロとシラス、リストラで加わった、テモテたちが、リストラから進んで、さらに、現在のトルコ西部にあたるローマの属州である「アジア州」の内陸部に向かっていくことを、聖霊によって禁じられたこと。「フリギア・ガラテヤ地方」とは、リストラから見て北進することになる。「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとした」とは、途中、西方に進み、右手の「ビティニア州に入ろう」としたこと。このときも、「イエスの霊(その霊:聖霊と同じ)がそれを許さなかった」。どうして、聖霊は、二度も、その道を閉ざされたのであろうか。それは、宣教の主であるまことの神とキリストが、その先の目的地を定めておられたから。第二回伝道旅行において、海を渡って、マケドニア、アカイアを経て、再び、海を渡ってアジア州のエフェソに戻ってくる。神の備えられたアジア州伝道は、エフェソに向かうことにあった。それは人間的に言えば、内陸(高地が続く)を通る労力(徒歩か馬車)からしても、むしろ、海岸沿いの都市で、海からの方がアクセスしやすい。限られた時間(召された宣教の生涯)の中で、最善の実りを見る道とも言える(旅行期間1年半:A.D.49年半ばから51年の終わり頃)。結果として、第一回伝道旅行で迫害を受けたピシディア州のアンティオキア(13章45節)を再訪しなかった。
2・「その夜、パウロは幻を見た」。それは、新たな伝道地を示す、神からの目に見える啓示(コルネリウスの時「神の天使」10章3節)。「その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った(懇願した)」。伝道の荒野はいつの時代においても広がっている。ならば、我々はどこに向かって出ていくのか。それは同時に「だれに」である。昨年新たな戦禍の中5月にハンガリー宣教も「ハンガリー人への伝道」を召しとして宣教師一家が遣わされた。また、当時なおアパルトヘイト政策下にあった南アフリカから日本への宣教師派遣も、1978年に滋賀の地で開始された。それらは、人の思いとあらゆる障壁を超えてなされる、聖霊なる神による派遣であり、福音宣教と教会建設の道。
3・「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐに(まっすぐに)マケドニアへ向けて出発する(を求めて行く)ことにした」。「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたち(同行のルカたちのただ中で)を召されている(一つに結びつけておられる)のだと、確信するに至ったからである」。マケドニア州への派遣は、アカイア州へとつながっていく。後に、パウロは、フィリピ、テサロニケ、コリントへの手紙を書く。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」(テサロニケ一1章6節)と。
おわりに・かつて、「主の言葉」「幻」は、「その夜」預言者ナタンをとおしてダビデに告げられた(サムエル下7章4-17節)。ダビデに立てられた契約は、御子の到来と聖霊降臨日にその実現を見る。「一人の勇士」たる主の召しを共に求め行きたい。
2023年6月11日 礼拝説教 中心聖句
パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。 使徒言行録16章1節
主は諸国の民を数え、書き記される この都で生まれた者、と。歌う者も踊る者も共に言う 「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。 詩編87編6,7節
はじめに・キリストの恵みの支配(神の国)と、教会(エクレシア)の証しを学ぶ。
1・「パウロは、デルベにもリストラにも行った」とは、アンティオキアから出発し、シリア州、キリキア州を回って、教会を力づけながら、最初の宣教旅行における折返し地点デルベ、先のリストラを再訪したこと。「そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた」。当時、本来ならば、ユダヤ人と異教徒との結婚は、忌避された。しかも、妻は夫の宗教に従う習わしがありながら、「祖母ロイスと母エウニケ」(テモテ二1章5節)と受け継がれた信仰の子として、テモテは養育された。テモテは無割礼でありながら、神を畏れることを学んだ。後に、パウロは、ローマの牢獄から死を覚悟しながら、テモテへの手紙で「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます」(テモテ二1章6節)と言い、按手の証をもって激励する。それは、長老(使徒も「長老の一人」(ペトロ一5章1節))の一人として、適切に事柄(対象)に対処するだけでなく、熱意をもって従事することを証する。「彼は、リストラとイコニオンの兄弟(たち)の間で、評判の良い人であった」。同じ手紙でパウロは「アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした」(テモテ二3章11節)と言い、「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(同3章14節)と言う。キリスト・イエスの中に、このお方への信仰によって、「聖書に親し」み「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練」をし、「十分に(完全に)整えられる」ため(同3章12~17節)。
2・「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた(施した)」のは、「父親がギリシア人であることを、皆が知っていたから」。たとえ母親がユダヤ人であっても、無割礼であれば、異教徒とみなされた。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切」であり、「大切なのは新しく創造されること」(ガラテヤ5章6節、6章15節)と、その救いの本質を明らかにしながら、ユダヤ人社会の中で、無用な反対と非難を避け、福音を証しするためにした。しかし、それは、強制的執行ではなく(ガラテヤ2章3節「テトス」)、「ユダヤ人を得るため」(コリント一9章20節)「福音のため」「わたしが福音に共にあずかる者となるため」(同9章23節)になされたこと。テモテは、割礼を受けたユダヤ人キリスト者の一人として、ユダヤ人に受け入れられながら、キリストの福音を伝える器として用いられた。
3・「彼らは方々の街を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた」。それは、割礼を救いの条件とする反目への会議の報告。「こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった」。キリスト・イエスにおいて、神の真実が証しされるところに、救われる人々が与えられていく。
おわりに・あらゆる国々の異教徒の救いとともに、「わたしの源はすべてあなたの中にある」との御言葉は、なお続く迫害と試練と困難の中で、実現する。今日、混沌とした世の中で、漠然とした不安を抱く中で、主の救いの確かさを真実に証ししたい。
2023年5月28日 礼拝説教 中心聖句
あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。 使徒言行録2章36節
わが主に賜った主の言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」 詩編110編1節
はじめに・今日、聖霊降臨の御業の中に、教会と宣教の働きと主の晩餐を共にする。
1・「兄弟たち、先祖(族長、父祖)ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。」とは、墓から復活されたイエスの証し人の一人として、使徒ペトロが、死の思いから解放されて、大胆に、先祖ダビデは、事実、「死んで葬られ」た、「墓は今でもわたしたちのところにある」と、告げる言葉。確かに「ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた」(列王上2章1節)。男山教会の会堂に掲げられた「白十字架」は、一つの証の教材として、葬られた墓から復活された主イエスの命とともに、上から差し込む光は、聖霊の光を表現する。ダビデ同様に、召天者たちの墓は、これから後、キリストの日に備えて、主の誓いを共にする兄弟たちにおいて、「今でもわたしたちのところ」、この地に「あると、はっきり言え」る。それは、「イエスは必ず死者の中から復活することになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」(ヨハネ20章9節)と証言されるように、かつてのペトロが、復活の主イエスと聖霊の御業によって、大胆に、福音を告げる者に変えられたことを物語る。
2・「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました」とは、ダビデ自身、民の王として油注がれた者でありながら、主の言葉を告げる「預言者」として、後の子孫から、天の王座に着く「王」が与えられるという、神の約束と誓いを告げたこと。「そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました」と、ダビデの詩(詩編16編)をもって、キリストの復活を、ダビデをとおして告げられた、主の預言の実現と証言する。実に、「神はこのイエスを復活させられた」。「わたしたちは皆、そのことの証言です」と、大胆に、ペトロは、使徒と兄弟たちの一人として、主の復活を証言する。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしている」と、各地の「自分の故郷の言葉」で、「神の偉大な業」が語られている光景を見た者たちに、天の王座に着かれた主の霊、父と子と聖霊なる神の御業によるものであることを告げる。
3・「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています」とは、受難の主イエスが、復活され、天に昇られたことの目撃証人として、ダビデの詩(詩編110編)をもって、キリストの昇天と着座を、主の預言の実現と証言する。ここに「『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』」と、かつて、地上の王(多分その子ソロモン)を指して「わたしの主」と呼び、その権威と勢力を告げた言葉をもって、御子自ら、御父の右に着かれ、死と闇の支配に打ち勝たれた、主の勝利(福音)が宣言される。
おわりに・世の権威は、ある向上と名誉を目指す。十字架の上に屠られた「小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」(ヨハネ黙示録17章14節)。この御方の名を額に記された者たちの礼拝こそ、ただ神と小羊の栄光を現す礼拝(同22章3-5節)。
2023年5月21日 礼拝説教 中心聖句
その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 ヨハネによる福音書16章8節
神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 詩編51編12,13節
はじめに・キリストの救いを「罪と義と裁き」を弁護する方、聖霊の働きから学ぶ。
1・「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」とは、主イエスが、世の憎しみと迫害の中、ご自身を遣わされた御父のもとに行こうとされていることの予告。それは、「あなたがたのためになる」と言われているとおり、その心が悲しみで満たされていた弟子たちのために言われた。それは、「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないから」。「わたしが行けば、弁護者(慰め主、助け主)をあなたがたのところに送る」と、主イエスは約束された。この弁護者こそ、父と子と聖霊なる神と呼ばれる、三位一体の神の第三位格でいます、聖霊。この「方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。聖霊は、聞く人の良心を正す(ヨハネ8章9節)。
2・①「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」とは、「世」が、「罪人たち」のことであり、それは、自らを正しいとする人たちを含むことを明らかにする。罪の本質は「イエスへの」不信仰。しかも、それは、自ら神を信じていることを自認する人を含む。イエスは、神への冒涜を口実に、ねたみと憎しみと殺意を抱く者たちにより、また、彼らに扇動された「十字架につけよ」との群衆の声の中、ポンテオピラトによって、十字架刑に引き渡された。十字架につけられたイエスを、わたしの罪からの救い主、キリストと信じることへ導いてくださるのは、弁護者でいます、聖霊の働き。聖霊は、続いて、②「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがたもはやわたしを見なくなること」と言われるとおり、キリストが成し遂げられた、十字架(贖い)と復活(新生)と昇天(栄光)の御業を明らかにされる。聖霊なる神は、事実、主イエスを信じる信仰を与え、キリストの贖いと命と栄光を与えてくださる。③「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されること」。この「この世の支配者」とは、為政者と宗教的指導者たちや、ある種の世界的流行の発信者ではなく、絶えず、真の神とキリストに真っ向から反抗する悪魔(サタン)のこと。「光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている」(ヨハネ3章19節)
3・「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解(元は、「耐えること」)できない」とは、今は、離別(死別)の悲しみが心を支配している弟子たちには無理な耐えられない事。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことどく悟らせる」。事実、復活と聖霊降臨の日には、主イエスの霊とも言える聖霊の働きによって、十字架の苦しみが、説き明かされる日が来ることを指し示す。「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるから」。聖霊は、絶えず、御父と御子の霊として、「聞いたこと」つまり、聖書の証しするキリストを語り、「これから起こること」つまり、キリストの御業を告げる。それは、神の恵みの支配における福音の宣教とキリストの教会のこと。悪魔は、偽りを言う(ヨハネ8章44節)。
おわりに・罪を、「わたしの前に」神に背くことと自覚するとき、わたしたちは、罪の赦しを全面的に願う。「清い心」「新しく確かな霊」は、真の悔い改めの心と霊。
2023年5月14日 礼拝説教 中心聖句
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、 ヘブライ人への手紙12章1節[口語訳]
あなたがわたしたちを苦しめられた日々と 苦難に遭わされた年月を思って わたしたちに喜びを返してください。 詩編90編15節
はじめに・主の復活・昇天と聖霊降臨の御業の中に、召天者記念礼拝をささげる。
1・「男山教会召天者名簿」において、わたしたちは24名の召天者のお名前を認める。イースター墓前礼拝において墓碑に刻まれたお名前との相違は、「受洗日」の記載があること。キリストの御名において洗礼を受けることによって教会員の一人となり、世の中においても一人とクリスチャンと認められる。主イエスは、十字架を前にして、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(マルコ10章38節)と弟子たちに問うた。ここで、主イエスは、ご自身の使命を「杯」と「洗礼」と言う。「杯」とは十字架とその苦しみのことを指す。と同時に、神によって分け与えられた「その人の分」。しかも、それを「洗礼」と言い表す時、それは、罪の洗い清めをしるすのみならず、罪の悔い改めを求める聖霊と火によって証しされる洗礼であり、主イエス自ら、その実を各人に結ぶために身代わりとなって、神の裁きにおける苦難の杯を負うこと。それは、だれ一人負うことのできない、神の怒りと呪いを負う、十字架の苦しみ。ゆえに、キリストの御名における洗礼とは、罪を洗い清められ、神の子とされたことをしるすのみならず、キリストのために、「自分の十字架」「義とされた者の苦しみ」を負う者とされたこと。
2・感染症禍の中でわたしたちは様々なかたちで「苦しみ」を共有する者となった。それは、一個人と一社会が、世界とつながっていることを改めて意識する機会となった。主イエスは、世の終わりについて「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」(ルカ21章11節)と言われた。同時に、キリストに従う者たちの苦難を予告し、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(同21章19節)と命じられた。キリストに従う者たちには、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(フィリピ1章29節)。それは、キリストの教会が、絶えず、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」「慈しみや憐れみの心」を絶やすことなく、十字架を負われたキリストの心と心して生きること(同2章1-5節)。主イエスは、苦難の中で、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(ヨハネ黙示録2章10節)と命じられる。召天者は、御国に凱旋した勝利者。
3・今日、キリスト到来という神の約束が成し遂げられたことを思い起こす。天の王座に着かれたキリストの支配の中に、天上の礼拝と地上の礼拝は、一つの交わりを与えられている。それは、キリスト到来以前の者たちが思いもしなかったほどに、天と地を近づける一つの道。「おびたただしい証人の群れに囲まれている」とは、「多くの証人に雲のように囲まれている」の方が原語に近い。「雲」とは、神の臨在を表し、同時に、なおも、人の目に隠されている覆いを示す。個人の死の時のみならず、キリストの再臨の日も、人の目には隠されている。しかし、この地上で、わたしたちは、天上に凱旋した者たちを、キリストの苦しみにおいて認めるとき、一人一人の負った隠れた苦しみを信じることへ導かれる。それは、キリストの慰めに至る道。
おわりに・「わたしたちに喜びを返して」と祈り、苦難の日を今後とも共にしたい。
2023年5月7日 礼拝説教 中心聖句
キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。 ヘブライ人への手紙11章26節
ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。 出エジプト記2章15節
はじめに・キリストの苦しみによって慰めを分かち合う今日、聖餐に共にあずかる。
1・「信仰によって、モーセは生まれてから三ヶ月間、両親によって隠されました」とは、神の特別な備えによって、エジプト王によるヘブライ人男児殺害の命令下で、モーセの命が守られたこと(出エジプト2章2節)。実に、レビ人の両親は「その子の美しさを見、王の命令を恐れなかった」。死を前にして、ステファノは、「この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときに、モーセが生まれた」(使徒7章19,20節)と弁明した。ヘブライ書において先には、「イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者」(3章3節)と証明された。ここでは、モーセの苦難と、同胞の人たちのエジプトからの脱出が、「信仰によって」実現したことと、その事実が、証明される。
2・「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで」とは、モーセが、「一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見て、この「エジプト人を打ち殺し」たことが同胞同士の争いを仲裁しようとした時、モーセに対する非難の口実となったばかりか、ファラオからも追われる身となって、ミディアンの地に逃れた事(出エジプト記2章11~15節)。「信仰によって」モーセは「はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝にまさる富と考え」たと、苦難の僕となられたイエスが、油注がれたまことの王、約束の救い主であった、との「信仰によって」モーセの苦難が説き明かされる。「与えられる報いに目を向けていたから」。それは、今や、苦難と死に勝利された、キリストのおられる天の祝福と喜び。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去」った。「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたから」。
3・「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけ」たとは、初子の死の災いを、小羊の血を塗ったイスラエルの家を、主が、過ぎ越された事を思い起こすもの。今や、過越の食事において、表されたことが、十字架の死と苦しみを忍ばれた、イエス・キリストにおいて、神の恵みの契約と救いの実現をしるす誓い(礼典)として制定されたこと(出エジプト12章、マタイ福音書26章28節)。この神の約束と実現の中、モーセが、「小羊の血を振りかけ」た、言わば、同胞の人々の罪を洗い清めた、と言う。それは、神の小羊となられた、イエス・キリストの恵みゆえの証明。「信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死」んだ(出エジプト14章)。わたしたちは、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(フィリピ1章29節)と信じるとき、わたしたちが求めるべきは、天の賞与(同3章14節)。
おわりに・エリコの城壁を7日間回った人々(ヨシュア6章)、娼婦ラハブ(同2章)も、モーセと同じ「信仰による」。たとえ無名の人々、異邦人であれ、キリストのゆえに、その信仰は、天の祝福を望むものとして証明される。賛美される御方は、主。
2023年4月30日 礼拝説教 中心聖句
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。ヘブライ人への手紙11章17節
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。創世記22章10,11節
はじめに・「その独り子をお与えになった」神の真実を、信仰による献身者に学ぶ。
1・「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました」とは、「約束を受けていた者が、独り子を献げようとした」一大事。その約束とは、「この独り子について」「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」との、神の約束。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(創世記17章19節)。この「試練」とは、主なる神、自ら、「主に従う人と逆らう者を調べる」(詩編11編5節)試み。この意味で、アブラハムの受けた「試練」は、初めから、主なる神、自ら、この時を定め、アブラハムの献身とその心を見られた事。主なる神は、「正しくいまし、恵みの業を愛し 御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」(詩編11編7節)お方。事実、「アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを」献げた。それは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」「信仰」による(11章1節)。アブラハムにとって「見えない事実」とは、イサクに代わって神自ら備えてくださる献げ物。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創世記22章8節)との告白こそ、その証明。神が、その手を止めたとき、なおも、「アブラハムは目を凝らして見回し」「後ろの木の茂みに」「角をとられた」「一匹の雄羊」を「息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた」(創世記22章13節)ことに、「信仰による」事のすべてが証しされている。
2・「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」「それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然」。このイサクは、「信仰によって、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈」った。先には、アブラハムは、「同じ約束されたものを共に受け継ぐ」「イサク、ヤコブと一緒に幕屋に住」んだと言われながら、ここでは、「ヤコブとエサウのために」と言う。その理由は、神の恵みの契約が、ついには、一時の障壁を超えて、実現することを見るもの。つまり、アブラハムとイサクとヤコブの間に立てられた、神の恵みの契約は、ついに、キリストの到来とその贖いにおいて、ユダヤ人と異邦人の別なく、全世界的な救いが実現することを信じ、見ること。
3・「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たち一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝し」た。この「杖の先」とは、「寝台の枕もと」「床のかしら」(口語訳)(創世記47章31節)とは異なるギリシャ語七十人訳聖書からの引用。「杖の先に寄りかかって神を礼拝」するとは、寝台の枕もとから想像されるように、死期を前にして、安静にしている状態よりも、最後の力を振り絞って、神を礼拝する姿と言える。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与え」た(創世記50章25節)。実に、主がアブラム(後のアブラハム)に約束されたことの実現の証明(創世記15章13節)。
おわりに・「生きるにも死ぬにも」ただキリストの栄光が公然と賛美されることを願う理性的礼拝は、ただ主への献げ物であり、信仰による証明(フィリピ1章20,21)。
2023年4月23日 礼拝説教 中心聖句
実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。ヘブライ人への手紙11章16節
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」 創世記12章1節
はじめに・主の恵みの約束の実現と証明を、この地における神との会合に確信する。
1・「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになっている土地に出て行くように召し出されると、」とは、神が「示す(見る、現す)地」(創世記12章1節)にただ「信仰の召命」によってのみ行動を起こしたことを表す。「これに服従し、行き先も知らずに出発した」。実にアブラハム[アブラム]は、「主の言葉に従って旅立った」(同12章4節)。時に「七十五歳」(同12章4節)。「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました」とその従順が、証明される。この「イサク、ヤコブと一緒に」とは、神の恵みによる契約の歴史において、一つの住まいを共にしたことを証しする言葉。「幕屋」とは地上においては仮住まいでありながら、神がそのすべての日に共におられたこと(臨在)を示す。実に、「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台をもつ都を待望していた」。神自ら、始め、建て上げられる。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12章2節)と同じ。この「堅固な土台」は、イエス・キリスト。その都は、キリストがおられる天の都(フィリピ3章20節、コロサイ3章1節)。
2・「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました」とは、アブラハム[アブラム]とサラ[サライ]が、約束の子であるイサク(彼は笑う)を産む力を与えられたことを証明する。「わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(創世記17章19節)との約束は、アブラハムとその家の男子皆に施された割礼によってしるされた(創世記17章23節)。イサク誕生は、「神が約束された時期(会合の時)であった」(創世記21章2節)。「それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれた」。神の約束は、アブラハム[アブラム]から「生まれる者が跡を継ぐ」(創世記15章4節)ことによって果たされた。かつて、アブラハム[アブラム]を「外に連れ出して言われた」主は、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と命じ「あなたの子孫はこのようになる」と約束された(創世記15章5節)。
3・「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」とは、アベル、エノク、ノア、アブラハムたちとその地上の生涯を指している。神の約束されたものを手に入れなくても、「はるかにそれ見て喜びの声をあげ」たとは、信仰の本質が、神の命(キリスト)にあることを物語る。「自分たちが地上ではよそ者」「仮住まいの者」「故郷を探し求めていること」は、「実際」(否、今この時=しかし、信仰の実質においては)「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していた」。「神は彼ら神と呼ばれることを恥と」せず、「彼らのために都を準備されていた」(2章10,11,16)。
おわりに・召天者記念礼拝に備える「今日」、わたしたちの信仰(その実質)は、ただ、十字架と復活の主イエス・キリストにある。神の恵みによる救いの約束の実現を、わたしたちの内に見る時、真に、天の都は、すでにここにある。「主は近い」。
2023年4月16日 礼拝説教 中心聖句
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 ヘブライ人への手紙11章1節
全地は主を畏れ 世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り 主が命じられると、そのように立つ。 詩編33編8,9節
はじめに・キリストの復活と昇天を覚え、今日、召天者記念礼拝を喜ぶ方を求める。
1・「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」とは、神の恵みによる救いの御業で、「神の御心を行って約束されたものを受けるため」「忍耐が必要」であることを言い表したもの。神の御心を行うとは、「信頼しきって、真心から神に近づ」くこと。それは、「神の家を支配する偉大な祭司」イエスによる(10章36,22,21,20,19)。「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」(3章1節)。このように、「信仰とは」、十字架にかけられ、その身をささげられた、イエスにおいて確信される事柄において認識され、告白される事 (2章3節)。「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた」(1章2節)。ゆえに、御子による啓示を告白する信仰。イエスを主キリストと告白する教会は、この信仰を共にささげる。
2・「昔の人たちは、この信仰のゆえに(この中で)神に認められました」と、イエス到来以前の時代(旧約の時代)の人たちを思い起こす。それは、神の啓示と救いの歴史における「昔の人たち」であり、真に、信実に、神に近くある者たちの物語。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かる」との認識が、神に近くある者たちを思い起こすことの神学的基礎(1章2,3節)。以下、繰り返される「信仰によって」とは、神の恵みによって、神に近づく、信仰を与えられたことによって、という事。つまり、先の「忍耐」同様、信仰者を支え、生涯を導いておられるのは、永遠の神の御子においてご自身の御名と御業を表された唯一の神ご自身。「アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明され」た。「神が彼の献げ物を認められたから」。「主がアベルとその献げ物に目を留められた」(創世記4章4節)。アベルは、「死から命へ移った」(ヨハネ一3章14節)、キリストによって、贖われた者の一人。実に、「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語ってい」る。何をか。贖い主イエスの献身と救いの実りを。
3・「信仰によって、エノクは死を経験し(見)ないように、天に移されました」とは、「エノクは神と共に住み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5章24節)との死を見ることなく、神のもとに移されたことを証しする。「移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたから」。「信仰がなければ」と、エノクの転移が、信仰の報いでありながら、人の栄誉ではなく、神の喜び、栄光であると説明される。
それは、ノアも同様。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者と」なった(創世記5章32節,6~10章)。神が、ノアにも、神に近づく信仰と従順、神の恵みによる契約における忍耐と希望を与えられた(創世記8章20節,9章12節、ローマ8章24,25節)。
おわりに・神の創造と救いによる信仰によって生き、礼拝し、献身するとき、そのすべては、「主が仰せ」「主が命じ」る所に成り立つ。ただ、神の誉と栄光のために。
2023年4月9日 礼拝説教 中心聖句
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」 ルカによる福音書24章5節
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。 詩編16編10,11節
はじめに・復活の主のもとに召し集められた「今日」、信仰告白と聖餐を共にする。
1・「さて、ヨセフという議員がいた」とは、十字架からイエスの遺体(元「体」)を降ろす任を自ら引き受けた人の存在を証しする言葉。この人は、最高法院の議員の一人で、「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」。最高法院における裁判においてその決着は、「これでもまだ証言が必要だろうか」(22章71節)との声に代表されたかのように思われる。しかし、事は、問答無用はおろか、「イエスを殺す」(22章2節)方向で事は進んでいく。言わば、ヨセフの一票はないがしろにされた。自らメシア、神の子と名乗ったことが、ローマ総督ピラトに引き渡す正当な理由。ヨセフがこれに同意しなかったとは、それだけで死刑に当たらないという理由にまさって、この御方を畏れ敬う信仰ゆえ。実に、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」(ヨハネ19章38節)。「ユダヤ人のアリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた」。「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった」(ヨハネ19章40節)。イエスの体は、ローマ式の焼却を免れ、安息日と過越の日のために延期された防腐措置に、最善の準備を与えられた(イザヤ53章9節)。
2・「イエスを一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」。「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」。主の体が行方不明となる一大事。「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』」ここに、わたしたちは、復活の事実が、主の御言葉の実現と認める。
3・かつて、主イエスは、「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」(13章33節)と言われた。エルサレムでご自身が死ぬことは、ご自身の民の罪と頑なさのゆえであり、神に定められた自己犠牲。この道から逃れる自由は一切ない。十字架の死は、罪ゆえの不当な死を忍ぶ、自ら進んで引き受けられた従順の道。しかも、単に不当な死のみならず、選びの民、罪人たちの身代わりの死、贖罪の死であった。
おわりに・今日、わたしたちは、キリスト教安息日(一週の初めの日:日曜日)を、創造と復活(贖罪と命)と聖霊降臨の「主の日」として覚える。全生涯の日々、「今日も明日も」主の慈しみに生きる者とされた者として、「命の道」を共に歩みたい。
2023年4月2日 礼拝説教 中心聖句
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。ルカによる福音書23章33節
主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。 詩編22編25節
はじめに・主の受難週を迎える今日、十字架への道をともに学び、聖餐をささげる。
1・「人々はイエス(彼)を引いて行く途中」とは、前の夜、敵の手に捕らえられ、最高法院で裁判とピラトの尋問を経て、不当な扱いを受けたイエスの有様。「そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。」「そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」とは、事実、イエスは、犯罪人同様に扱われたことを証しする。「田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」マルコ福音書は、「アレクサンドロとルフォスとの父」「兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(15章21節)と証言する。キレネは北アフリカのリビア地方(使徒2章10節)。多分、シモンは過越祭の巡礼者であり、聖霊降臨の日に回心したかはともかく、異邦人キリスト者の一人。わたしが負うべき十字架を、主が負われたことを身をもって知ったのが、キレネ人のシモン。
2・「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエス(彼)に従った」とは、ローマ当局によって禁止されなかった、あるいは、許容された、自由な行動。しかし、この大きな群れの全員が、キリストの弟子というわけではなく、本当の弟子と言える人は、婦人たちの多くの者たち。それは、「嘆き悲し」んでいたからではなく、「(まことのイスラエルの君でいます)イエスは(が、)婦人たちの方を振り向いて言われた」、主の言葉による。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々は、『子の産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房を幸いだ』という日が来る」と予告は、子孫をもつことの方が不幸というこの上ない大きな災いと神の裁きと非常な悲しみの予告。歴史的には、エルサレム崩壊(A.D.70)と幾世代にも渡るユダヤ人の悲惨。「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める」とは、揺るぎないものに縋る心情を表す。
3・「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」と、命の君でいますお方(イエスご自身)が、死ぬのなら、このお方を死に定めた(不信仰と背信の)イスラエルの行き先はどうなるのか、と問う。「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」当初、「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」バラバが釈放され、「その男を殺せ」との叫びの中で、イエスは、身代わりに、十字架につけられた。それは、神の御心においては、「わたしたちのために先駆者としてそこ(至聖所の垂れ幕の内側)へ入って行」く、永遠の大祭司キリストの道であった。この御方をわたしの身代わりに死なれた「主」と信じるか。
おわりに・詩編22編は、主の受難を告げる預言。その救いの実りは、「命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏す」全面的な救いであり、「子孫は神に仕え」「主のことを来たるべき代に語り伝える」、神の恵みによる契約の実現と信実。
2023年3月26日 礼拝説教 中心聖句
それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」 ルカによる福音書22章35節
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。 イザヤ書53章10節
はじめに・主の受難と復活の御業を感謝し、主の贖いと命を伝える使命を覚えたい。
1・「それから、イエスは使徒たちに言われた」とは、主の備えられた過越の食事の席(主の晩餐)についていた弟子たちの中から十二人を選び、使徒(主の任命によって派遣され、立ち行く者たち)と呼ばれた者たちに言われた事(6章13節)。「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」(14節)。
この時、イエスは、ご自身の体と血をしるすパンと杯を使徒たちに与えられる。同時に、イエスは、弟子の一人ユダの裏切りを予告される(21,22節)。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)と言われ、ご自身が十字架にかけられる時が近いことをご存知の上で、それが、神の許容された中でのサタン(悪魔)の仕業であることを、シモン・ペトロにとくに告げられる。「するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております』」と決意を表明する。それに対して、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(33,34節)とイエスは予告される。
2・「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき」とは、「それなしに」ということ。かつてイエスは、「財布も袋も履物も持って行くな(取り上げるな)」(10章4節)と命じられた時のこと。イエスは「何が不足したものがあったか」と問われ、「いいえ、何もありませんでした」と使徒たちは答えた。この時、イエスは、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と命じられる。かつて、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(10章17節)と七十二人の弟子たちが喜んで報告したほどの事態を経験しながら、今は、サタン(悪魔)の仕業が顕著になる事態を迎えている。この事態の変化の中で、イエスは、正反対の命令をされる。それは、世の拒絶と迫害の中で、必要な準備を命じるもの。そして、その極みは、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するから」とイエスが予告されるとおり、自ら十字架刑に処せられることの実現(成就)を見ること。
3・「そこで彼らが、『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』と言うと、イエスは、『それでよい』と言われた」とは、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(22章53節)と、闇(悪魔)の支配を知っておられる主の言葉。使徒の手にする剣は、大祭司の右の耳を切り落としながら、主はそれをいさめ、「その耳に触れていやされた」(22章51節)。主は、十二人の一人ユダの接吻によって裏切られ、人々に捕らえられ、大祭司の家に連行される。ペトロは、そこで、主の予告のとおり、鶏が鳴く前に、三度、主を否んだ。ペトロは「外に出て、激しく泣いた」。
おわりに・主は「自らを償いの献げ物とし」「自らの苦しみの実りを見」「自らをなげうち、死」なれた。人の所有は、主の贖いの代用補助に一切ならない。ただ、主に贖われた者たちは、所有の利得から自由にされ、主の言葉と、命を携えて出ていく。
2023年3月19日 礼拝説教 中心聖句
ユダとシラスは預言する者でもあった…、いろいろと話しをして兄弟たちを励まし力づけ、…自分たちを派遣した人々のところへ帰って行った。使徒言行録15章32,33節
神よ、わたしの若いときから あなた御自身が常に教えてくださるので 今に至るまでわたしは 驚くべき御業を語り伝えて来ました。 詩編71編19節
はじめに・神の言葉が語られ、聞かれる所に主の霊が臨む。今日共に御言葉に聞く。
1・「さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し」とは、当初、激しい意見の対立と論争を見たパウロとバルナバを弁護する役割を与えられたバルサバと呼ばれるユダとシラスたち一同の出発、一同は、エルサレムにある教会から送り出されて「アンティオキアに到着すると、信者全体を集めて手紙を手渡した」。この「信者全体」は、先の「全会衆」と同じ言葉で「多くの、満堂の、人々」。「彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ」。字義的どおり「その手紙が読まれると、人々は、その慰めの言葉に励まされた」とも訳される(「決定」は意訳、22節の「決定」=良しとした)。大事なことは、使徒たちと長老たちの会議において、兄弟たちも、皆共に、「主イエスの恵みによって救われる」ことを、信仰によって、これを受け入れたこと。ただ会議の決め事にならうことではなく、福音において明らかにされた神の恵みの御業を、共に認めること。
かつて、迫害者であったサウロ(パウロ)がダマスコの諸会堂あての手紙を求めたときには、「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するため」(9章2節)。しかし、この道(十字架の主イエス)を伝える手紙は、「すべての兄弟たちに読んで聞かせるように」「主によって強く命じ」(テサロニケ一5章27節)られるもの。
2・「ユダとシラスは預言する者でもあった」とは、バルナバとパウロへ、謂(いわ)れのない誤解・中傷等を解くだけでなく、神の真理を人々に告げる者であった。それは、将来起こることを告げる「預言者」という意味ではなく、神の言葉を聞いた人々が、それを理解し、その結果、教会が健全に建てあげられ(建徳)、また、人々が信仰と従順に励まされ(奨励)、そして、キリストの愛と平和と喜びにとどまるように導く(慰め)御言葉の奉仕者(コリント一14章3節)。ユダとシラスは手紙の挨拶のとおりに「同じことを口頭で説明し」「いろいろと話をして兄弟たちを励まし力づけ」た(エフェソ6章22節:パウロの手紙を携えたティキコ「心に励ましを得るため」)。手紙を携える派遣者は、主の宣教に仕える奉仕者。御言葉の奉仕者たちが伝える神の言葉に聞くとは「それを人の言葉としてではなく、(現に聞く者たちの中に働いている)神の言葉として受け入れ」ること(テサロニケ一2章13節)。
聖書が、キリストを証する手紙として朗読・理解される時、聖霊は、世界各地に十字架の言に建つ教会を、御心に適って健全に建てあげられる(ネヘミヤ8章8節)。
3・「しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた」。ユダとシラスがエルサレムに帰った後も、パウロとバルナバは、多くの働き人とともに、異邦人たちに告げ知らせ続けた。伝道は全信徒(牧師もその一人)によって推進される。
おわりに・「神よ、わたしの若いときからあなた御自身が常に教えてくださる」と、慰めと希望の源でいます神は、わたしたち一人一人の、生涯の真の教師。主の御守りを祈り求め「御腕の業を、力強い御業を」「(全)世代に」共に「語り伝え」たい。
2023年3月12日 礼拝説教 中心聖句
そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。
使徒言行録15章22節
イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。 出エジプト記14章31節
はじめに・主の救いの御業を証する者たちの、信仰と、相互の理解と、配慮に学ぶ。
1・「そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に」とは、エルサレムにおける使徒たちと長老たちの協議は、そこにいた教会全体、「全会衆」(12節)と、主の召命を一つにするものであったことを物語る。主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)と言われた。この「選び」とは、「呼び出す」こと、「任命」。相互に協議を重ねた後、ペトロ、バルナバとパウロの証言、ヤコブの補足(主の預言)と判断(とくにモーセ律法の遵守)を聞いた群れは、「自分たちの中から人」「兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たち」「バルサバと呼ばれるユダおよびシラス」を派遣するため選んだ。
ここでもペトロ、ヤコブの呼びかけ同様に、教会は、信仰によって、「兄弟たち」と呼ばれる。「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ている」(ヘブライ2章11節)。この「一つの源」こそ、主イエスは、罪贖われ、聖とされた者たちを、神の救いの恵みによる、神の家族、兄弟と呼ぶことを恥としないで、ご自身の受難においてキリストの御名を兄弟たちに知らせ、礼拝(神への賛美と信頼を共に告白する時)を備えておられる。
2・「使徒たちは、次の手紙を彼らに託した」とは、エルサレム教会(おもにユダヤ人キリスト者たち)における決定を「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たち」に、祝福の挨拶をもって、伝えたこと。そこで、「聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ(心を)動揺させたとのこと」と詫びる。「 それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました」と、この決定が、正当なものであることを伝える。教会のただ一つの土台は、主イエス・キリスト(コリント一3章11節)。意見の相違、心の動揺を含めて、すべては、復活の主の支配にゆだねて、事を、御言葉に照らして、相互のため吟味判断、教会(会議)と交わり(集会)の歴史から学ぶことを、教えられる。
3・「このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たち」とは、この手紙と派遣が、ただ、主イエス・キリストの名によるものであることを証しする。「 それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明する」「 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります」と手紙を締めくくる。
おわりに・出エジプトにおいて、主の大いなる御業を見たとき、契約の民は、主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。御言葉の奉仕者たちは、民のため、兄弟のため、教会とすべての人々のために任命されている。主の兄弟として共に使命を尽くしたい。
2023年3月5日 礼拝説教 中心聖句
「それは、…人々のうちの残った者が、わたしの名で呼ばれている異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」 使徒言行録15章17-18節
その日には わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し その破れを修復し、廃墟を復興して昔の日のように建て直す。 アモス書9章11節
はじめに・主の晩餐(聖餐)に備え、聖霊の臨在による礼拝の恵みを分かち合う。
1・「すると全会衆は静かになり」とは、エルサレムの教会における使徒たちの証言を長老たちのみならず、多くの兄弟姉妹(信徒)たちが聞いていたことを物語る。しかも、ペトロの証言は、異論をはさむ余地のないものであり、「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われる」という、ただ一つの罪人を救う恵みの教理である。それは、万民に共通であり、「彼ら異邦人も同じこと」。一度は、「激しい意見の対立と論争が生じ」ながら、全会衆に聴く用意が与えられた時、「バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いた」。ここに、福音の言葉は、第一に、神の御業の証言の伝達であることを知る。語る者聴く者に求められていることは、その事実を認め、キリストと神に立ち帰り、自分も同じく「主イエスの恵みによって救われた」と告白すること。ここに、神の御前にある、すべての人生と教会と世界における、諸問題の解決(もろもろの罪における神との和解:罪の赦し)のただ一つの道がある。
2・「二人が話を終えると、ヤコブが答えた。『兄弟たち聞いてください』」とは、ナザレの人イエスの肉の弟でありながら、十字架と復活の主と聖霊の恵みによって、主の兄弟の一人とされたヤコブの答え。ヤコブの手紙において、ヤコブは、皆を「わたしの兄弟たち」と呼ぶ(ヤコブ1章2,19節,2章1,5,14節,3章1節,5章12節)、イエスは、決して人の宗教の教祖でも、世襲的権威を求める方でもなく、永遠の神の御子のもとに、すべての救いの民を召し集められることを認める。「神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオン(ペトロのこと、シモン・[ペトロ]のギリシャ的な言い方)が話してくれました」と、ヤコブは、使徒たちと同等の立場で、聖書的証言による保証を与える。
3・「預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです」とは、使徒たちの権威は、決して、キリストの兄弟たちの上にあるものではなく、等しく、神とキリストの召命によるものであることを認める。さらには、教会の権威は、ただ、キリストを証言する聖書(新旧両約聖書)全体の権威に基づくことを知る(ヨハネ5章39節、テモテ二3章16節)。聖霊は、わたしたちの心に、神の真実と聖書の証言における一致(御子の福音)を明らかにする(ヨハネ一5章9節)。
「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す」との、主の預言は、エルサレムに建つ荘厳な神殿ではなく、真のイスラエルを復興する。それは、ただ、主の言葉と聖霊の臨在による。「人々のうち残った者」、主の「名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになる」という、ただ、まことの預言者・王・祭司である主キリストに向かう、悔い改めによる霊的復興。ヤコブの判断も、どの町でも昔からモーセの律法が安息日ごとにユダヤ人の会堂において読まれていることを踏まえながら、同じような衝突や行き違いが生じないように周知する手紙を準備する。
おわりに・主の福音は、はじめから、人を差別することない普遍的なもの。人の罪と悪と弱さゆえに、衝突分断が起こる。絶えず十字架の主にある真の和解を求めたい。
2023年2月26日 礼拝説教 中心聖句
人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。使徒言行録15章6節
人の心を造られた主は 彼ら(地に住むすべての人)の業をことごとく見分けられる。
詩編33編15節
はじめに・すべての人の業とその心を見分けられる「主」の福音の言葉に共に聞く。
1・「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった」とは、ファリサイ派から信者になった人たちにより強く主張された宗教的義務に対する慎重で賢明な態度。それは、事柄の根拠と真偽をよくたしかめ見極めるため。事は、決して、思いがけない問題ではなく、当初から問題になり得る事。しかし、使徒たちは、それをすべきか、そうでないか、の二者択一とせず、その根拠を明らからにしようとする。それは、主なる神の真実の証言であり、「ナザレのイエスのこと」(使徒10章38節)、その十字架(受難)と復活と昇天(着座)、主の約束された聖霊の賜物。この時のみならず、キリスト教会と世界の歴史における核心的主題。
2・「議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った」とは、当初「パウロとバルナバとその人たちの間」の「激しい意見の対立と論争」であったことから、使徒たちと長老たちの代表者からの応答への転換。使徒たちは決して、長老たちなしに応答しようとせず、長老たちの理解と共に、エルサレム教会の一致と平和を保つよう努める。ペトロは「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです」と言う(使徒4章27,28節)。そして、「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさった」(使徒10章34,35節)、「また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした」と言い、神自ら、ご自身の御心の実現を、幻と啓示と異邦人の救いにおいて明らかにされたことを、証言する。
3・「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛(くびき)を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか」と、ペトロは、問いかける。ファリサイ派の人たちにとって、律法を守ることは、重荷というよりも、慣習的義務。しかし問題は、その心。主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と約束された。そして、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いから」と命じられた(マタイ11章27~30節)。
ペトロは、ここで、「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」と、罪人の救いは、律法(行い)によらず、ただ、主イエスの恵みによることを証しする。
おわりに・多くのユダヤ人たちによって律法は神の恵みであった一方で、異邦人を汚れた者として区別する根拠であった。しかし、主の律法は、「主」とその「御名」を特別な恵みとして覚えるためもの。真の預言者エレミヤにおいて示された「新しい契約」において、主は、「わたしの律法」を「イスラエルの心」に記すと約束された。じつに、主イエスの恵みは、わたしたち一人一人の心に、「主」の負われた軛を示し、罪人のすべての軛を解き放つ。すべての人が「主」を知る福音理解を求めたい。
2023年2月19日 礼拝説教 聖書箇所
新約聖書 マタイによる福音書14章22~33節
◆湖の上を歩く
22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。
32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。
33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
2023年2月12日 礼拝説教 中心聖句
… 願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。 テモテへの手紙一2章1,2節
主はわたしに言われた。「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい。…」 エレミヤ書15章1節
はじめに・信教の自由を守る日に、キリストの教会の祈りと使命を皆共に覚えたい。
1・「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」とは、異なる教えを説く人々のこと、あるいは、無益な議論の中に迷い混んでいる人々のこと、正しい良心を捨てて信仰が挫折した人々のこと、など、教会内外の人々のことを覚えながら、更に、「すべての人々のために」祈ることを命じる。「願いと祈りと執り成し」とは「清い心と正しい良心と純真な信仰」(1章5節)と同じように、一つのことを三つの言葉で言い表す。それは、祈りの本質からして、心からの願いという面と、神に仕えるという面の両面から考えることを促す。神に仕えることからすれば、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)ように、その心は、すべての人が救われること。悪人が善人になること。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」(ルカ6章35節)。方や、「わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではない」(テサロニケ二3章2節)、身体的な危険を承知し、悪い者からの守りを祈る。ここに、実際に直面する危険と隣合わせの中での、真剣で、真実な祈りを求める方向がある。その最たるものが、すべての人を死と恐れと不安の危険にさらす悪(国家的戦争)。
2・「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」とは、国家的首長のためのみならず、地方地域の為政者たち、全世界の為政者たちのため。「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るため」とは、ただ平穏無事な生活を願うことではなく、わたしたちの教えと生活自体への偏見や誤解、迫害が生じないように祈ること。主イエスは「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(マルコ8章38節)と言われた。キリスト教国においても、為政者の罪が絶えず問われる。また、異教国であっても、第一に問われるべきは、教会の祈りにおける罪、キリストの福音を神の力と信じない罪。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」(コリント一1章18節)と信じる時、一層「十字架のつまずき」(ガラテヤ5章11節)以外の裁きを、他者にあてはめないで、救いを求めて祈ることが大事。
3・「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれること」「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとり」。ここに、人の願いではなく、神の望んでおられること、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)、ただ一つの「福音」を求めて祈る教会の使命と理由がある。
おわりに・真の預言者エレミヤは、執り成しの祈りが聞かれず、主によって、民が顧みられない絶望の中で、神の裁きの言葉を告げた。しかし今や、恵みの日、救いの日、災禍や国家的悪事の中でも、ローマの支配下で十字架につけられた主は、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成して」(ローマ8章34節)おられるから。
2023年2月5日 礼拝説教 中心聖句
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたは救われない」と兄弟たちに教えていた。 使徒言行録15章1節
わたしは彼の前で彼を苦しめる者を滅ぼし 彼を憎む者を倒す。わたしの真実と慈しみは彼と共にあり わたしの名にとって彼の角は高く上がる。詩編89編23,24節
はじめに・真の選民の救いは人の義(行い)によるのか、キリストの義によるのか。
1・「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」と、一つの重要な転機を見る。それは、あるユダヤ人改宗者にとっては、十字架の死から三日目に復活されたお方であり、神の約束の救い主、油注がれたお方、キリストであることを承認しても、ユダヤ人の教えの中にとどまる事であったことを物語る。そこで、仮にも信仰によってこの御方を受け入れたとしても、なおも、自分たちの慣習に従うことに固執した。その第一は、「モーセの慣習に従って割礼を受けること」であった。しかし、この「割礼」は、ステファノの説教で、「神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました」(使徒7章8節)と証されたように、聖書的原則に立ち帰るものではなく、慣習的な維持を求めたもの。それは、「パウロやバルナバとその人たち」の信仰の良心と確信に触れたとき、「その人たちとの間に激しい意見の対立と論争が生じた」。
2・「この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」。このエルサレムにおける会議は、当時の最高法院とは別の「使徒会議」。この意味では、ユダヤ人たちを代表する正規の会議とは言えない。しかし、その会議の正当性は、あくまでも、キリストから召命を与えられた使徒たちの権威におけるところの証言。それは、神の備えられた恵みの事実を、信仰の良心において証しするもの。その根拠は、神の約束とキリストご自身。「一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた」「エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した」(使徒8~10,13,14章)。
3・「ところが、ファイサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言った」。それでは、果たして、「モーセの律法を守る」とは、どういうことだろうか。使徒パウロは、おそらく、この会議以前に書かれた手紙において、「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(ガラテヤ6章12,13節)と言う。この意味では、使徒会議は、降って湧いた議論をしているのではなく、福音の本質からして、十字架のつまづきを明らかにするもの(「ほかの福音」ガラテヤ1章6節「キリストの福音」ガラテヤ1章7節)。「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった」。それは、キリストの福音に生きることと、当時の慣習的理解の対立の解消に向かう。しかし、それは、形式的にはある段階を踏みながら進む手続きととなる。
おわりに・詩編89編は、キリストの到来をダビデ契約において証しし、神の恵みと慈しみを賛美し、神の民の苦難を証しする。今日、キリストの血と肉にあずかる時、わたしたちの信仰は、キリストの義を認める。その信仰の真実を自己吟味としたい。
2023年1月29日 礼拝説教 中心聖句
また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼の望みをかける。」 ローマの信徒への手紙15章12節
主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。主の民の捕らわれ人らを 決しておろそかにされないでしょう。 詩編69編34節
はじめに・丸三年を超える感染症禍の中、わたしたちの祈りと望みを新たにしたい。
1・「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」とは、先に、食べる人と食べない人について、両者の和解をキリストに求めたことにある。使徒パウロはさらに、「わたしは言う」と、かつてユダヤ人を義人とし、異邦人を罪人として裁いていた者である、「わたし」が言うと、互いに相手を受け入れることを促す。それは、パウロ自身が負っていた重荷からの解放を意味する。「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」と、パウロは、両者の和解の土台は、ただ、キリストにあることを明らかにする。それは、第一に、契約のしるし(割礼)を施された者たちに仕える者となられたこと、第二に、キリスト自ら、救いの約束(恵みの契約)を成し遂げられたこと、第三に、神の約束の実現を見た者たちは皆(ユダヤの人々、離散の人々、異邦の国の人々、別なく、全世界の人々)、神をその憐れみのゆえに礼拝すること。
2・『そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう』(サムエル下22章50節、詩編18章50節)と書いてあるとおり」、『異邦人よ、主の民と共に喜べ』(申命記32章43節)、『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ』(詩編117編1節)、『エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。』(イザヤ11章10節)と、「エッサイの根」、ダビデの子として、生まれるお方こそ、ユダヤ人と異邦人の主であるお方、全世界の人々の、真の救い主であることが、ここに証しされる。この御方の上には「主の霊」「知恵と識別の霊」「思慮と勇気の霊」がとどまり、「目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない」方であり、この御方は、「弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する」(イザヤ11章2~4節)。「その日が来れば エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」(イザヤ11章10節)。じつに、主イエス・キリストは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15章24節)と言われながら、カナンの女の信仰を認められたほどに、また、ご自身の復活の日には、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたって、御自分について書かれていることを説明され」(ルカ24章27節,44節共)と、神の約束の実現を告げられた。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」と、恵みの祈りを絶えず願いたい。
おわりに・詩編69編は、不当な苦しみのただ中で、主とその義に自分の身をゆだね、救いを祈り求める。「命の書」に記された人の名は、十字架の上に、その身をささげられた、世の罪を取り除く神の小羊、主イエス・キリストに贖われた者たちのみ(ヨハネの黙示録21章27節参照)。今日、この一人とされたなら、その祈りは。
2023年1月22日 礼拝説教 中心聖句
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 ローマの信徒への手紙15章1節
万軍の主、わたしの神よ あなたに望みをおく人々が わたしを恥としませんように。イスラエルの神よ あなたを求める人々が わたしを屈辱としませんように。詩編69編7節
はじめに・混沌とした世界の中にある、ただ一つの慰めと希望を、今日も共に学びたい。
1・「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」とは、少なくとも使徒パウロ自身、自分を「強い者」の立場に身をおいていると言う。ここで、背景にあることは、偶像に供えた肉を食べてよいか、否か、といった信仰の良心、キリスト者の自由にかかわる問題。コリント教会への手紙でも「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(コリント一8章9節)と勧告され、「あなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対してついを犯すこと」(8章12節)言い、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(8章13節)と、弱い兄弟たちのために、弱い者たちの態度を身をもって受け入れる。大事なことは、「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え」(ガラテヤ5章13節)ることであり、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努める」こと。この「互いの向上」は、「隣り人の徳を高めるため」(口語訳)。このようにして、キリストとその教えを土台とする教会が、「聖なる神殿」「神の住まい」(エフェソ2章21,21)として、互いに建て上げられることであり、このようにして、キリストの体として教会は、「自ら愛によって造り上げられる」(同4章16節)。
2・「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおり」と、パウロは、その根拠が、キリストの真実と愛にあることを証しする。この御言葉(詩編69編10節)は、主イエスが神殿での犠牲売買を退け、その悪徳(罪)を清められたときに、ご自身の復活における新しい神殿(教会)の建設を予告することもって証しされた(ヨハネ2章17節)。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためもの」とは、かつて迫害者であったパウロにとって悔い改めの証。聖書は人を断罪するためのものではなく、ただ、キリストの福音によって、人を悔い改めに導き、罪から救うための命の書。「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」。この真の希望が、神と教会の前にある執り成しの祈りにおいて証しされる。
3・「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくだいますように」と、さらに、わたしたちの忍耐と慰めの源が神にあり、一度、十字架の上にその身をささげられながら、死者の中から三日目に復活され、天に挙げられた、救い主イエス・キリストの中に、賛美と栄光を帰するものであることを証しする。このただ一つの慰めと希望とその賛美において、わたしたちの相互の一致と自由と愛が、真に、明らかにされる。
おわりに・人々が、神とイエスを知りながら、教会の存在を認めながら、神とイエスのもとに来ようとしない時、信仰の忠実は、不当な苦しみにおいて証しされる。わたしたちのために十字架の恥辱を負われたお方は、わたしたちを恥とせず、兄弟としてくださった(ヘブライ2章11節)。信仰によって、真の、一致と愛と希望を望みたい。
2023年1月8日 礼拝説教 中心聖句
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 ヨハネによる福音書1章4,5節
愛する者も友も あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。 詩編88編19節
はじめに・世界と個人の災いの中、わたしたちの真の望みはどこにあるのかを問う。
1・「言(この方)の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とは、絶望の世のただ中にお生まれに成った「言(ことば)」であるお方、永遠の御子の命とその光。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため」(3章16節)。絶望の世のただ中に、御子が遣わされた。事実、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないから」。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれたということが、明らかになるために」(3章19,20,21節)。人となられた御子、イエス・キリストは、ポンテオ・ピラトはこう言われた。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(18章37節)。ピラトは、「真理とは何か」と問いながら、その実、キリストの声を聞こうとしなかった。「真理を行う」とは、キリストの声に聞くことからすべてを始め、行動すること。ただの善人でもなく悪人でもなく、罪の世のただ中で、キリストの声を聞くとき、キリストに属する者とされる。
2・「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とは、絶望の淵におかれている人間(全人類)が、キリストの光に照らされながら、その心の目が見えないために、その光を見ることができないことを明らかにする。人間は神にかたどって造られた。それゆえに、人間は、物事を理由を考えたり、新しい物を発明する。しかし肝心なことは、真の神を礼拝する自由と喜びを知ること。それが失われている世の実態は、堕落以来、災いの渦中にある。「万物は言によって成った(造られた)」「成った(造られた)もので、言によらず成った(造られた)ものは何一つなかった」(1章3節)。しかし、「この方の内に命があった」のである。永遠の神の御子であるお方が、創造主でありながら、被造物の一人となられた。事実、「言は肉と成った(造られた)」。「暗闇は光を理解しなかった」とは、「暗闇を光に打ち勝たなかった」とも訳される。もろもろの災いに打ち勝つ秘訣は、すでに、罪の世のただ中において、十字架の死に至る道を全うされ、死に打ち勝たれ、死者の中から復活されたお方の内に光を見ること。罪からの救いは、災いを克服して余りある大いなるもの。災いは、一時的に福音の光を覆い、人々の心を絶望、罪と死に追いやる。しかし、全能の主は、再び、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(5章25節)。ここに、世界の本当の希望がある。
3・「墓の中であなたの慈しみが 滅びの国であなたのまことが語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が忘却の地で恵みの御業(あなたの義)が告げ知らされたりするでしょうか」(詩編88編13節)と祈る時、復活の主イエス・キリストの光を仰ぎ、この御方のもとに来るとき、天の御国に凱旋する勝利の道を与えられる。
おわりに・「今、わたしに親しいのは」。暗闇を負う、「キリスト」と告白したい。
2023年1月1日 礼拝説教 中心聖句
しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 ヨハネの黙示録2章4節
若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる。 イザヤ書62章5節
はじめに・年の初めに、わたしたちの希望が、主キリストにあることを覚えたい。
1・「エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。『右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が次のように言われる。」「七つの星を持ち、七つの金の燭台の間を歩く」とは、「最初の者にして最後の者、また生きている者」「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持つ」永遠の御子、主イエス・キリスト自ら、七つの教会の天使と教会を支配しておられること(1章30節)。神の言葉である聖書の御言葉に聞くとは、聖霊の導きの中に、キリストの声に聞くこと。教会は、神の召しによって、この使命を果たす。主イエスは、ご自身の血によって贖われた教会の群れを知っておられる(ヨハネ10章14節)。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている」。教会は、キリストの教えを土台とする以上、そうではない教えを明らかにする。それは、「主に依り頼み」「悪魔の策略に対抗して立つ」ことであり、「神の武具を身に着け」「絶えず目を覚まして根気よく祈り続ける」(エフェソ6章10~18節)こと。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」と、主イエスは、エフェソにある教会の忍耐を知り、偽りの教えや反キリストに対して、ご自身の名のためであったことを受け入れる。
2・「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」との、「初めのころの愛」とは、ペトロ同様、「わたしを愛するか」と問われる主に従う思いを告白したころ(ヨハネ21章15節)。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」とは、キリストへの愛の告白をしたころに立ち戻れということ。キリストの花嫁とたとえられる教会は、聖なる花婿を迎える準備を「愛の灯火」を掲げつつ果たす(マタイ25章「十人のおとめ」)もし、その燭台が取りのけられると、教会は「世の希望」であるキリストの灯火を消すことになってしまう。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(コリント第一13章2節)。信仰の成長は、知的に測られるものでなく、むしろ、愛において確かめられるもの。しかも、教会の愛は、現世において不完全。しかし、キリストを完全に知るとき、わたしたちの信仰と希望と愛は、永遠に残る。その中で最も大いなるものは愛。
3・「だが、あなたには取り柄もある。ニコライ派の者たちの行いを憎んでいることだ。わたしもそれを憎んでいる」と、主イエスは言う。初めの愛から離れていても、偽りの教え(おそらくは、無律法主義的な自由奔放な生活)を憎むことができるとは。人間の感情は、思いの他、表向きで、主の眼差しは更に深く、愛の真実を問う。
おわりに・真の預言者イザヤは、キリストの到来において、終わりの日における教会の希望を告げる。その日、主の花嫁たる教会は、初めの愛において主の栄光を喜ぶ。
2022年12月25日 礼拝説教 中心聖句
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ。」ルカによる福音書2章13,14節 …ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。 イザヤ書9章5節
はじめに・今年のクリスマスは、年の最終の主日と同日。主の恵みと平安の中に、新年に備えたい。主イエスの降誕における「神の約束の実現」を信じ将来を望みたい。
1・「その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた」。定職とは言え、仮住まいが日常の貧しい人たち。神殿にささげるいけにえの羊を育てていたとも言われる一方、会堂に集えない者たちとして宗教的に軽蔑・差別されていた。しかし、神の目には、救い主の到来を待ち望む人たち。祭司ザカリヤ、その妻エリサベト、処女マリア、その夫ヨセフにも、神の言葉が告げられた。主の到来を告げる備えは、信仰の真心を問い、真の謙遜を問う。一方、ヨセフと身重のマリアも、宿屋に泊まれず、初子を産み、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。神の栄光が啓示された時、特別な仕方で現れ、恐れを抱かせた。アブラハムには「恐ろしい大いなる暗黒が臨んだ」(創世記15章12節)ベエル・シェバで、イサクに夜、主が現れた時、彼は「主の御名を呼んで礼拝した」(創世記26章23~25節)。ヤコブには、ある場所で夜、天の門に至るはしごを示された(創世記28章10~22節)。モーセにはホレブの山で燃え上がる柴の炎の中に、主の御使いが現れた(出エジプト3章1、2節)。
2・「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア[キリスト]である。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへとしるしである。』」。わたしたちは、ここに、神の栄光の啓示を知る。それは、人としてお生まれになった御子自身に神々しい特別なしるしがあるのではなく、かえって、貧しい仕方でお生まれになったことそのものに、当時の「救い主」「主」と称賛された「皇帝」との決定的な差異を明らかにする。エジプトで男児殺害の命令を逃れ、レビ人の母は、一人の男子をパピルスの籠に入れ、エジプト王の王女に救われた。この子がモーセ。主の守りは、モーセを、そして、イエスの誕生の日を見る。
3・「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」。天上の賛美は、地上の皇帝崇拝の歌と異なり、栄光を神に帰する。そして、御子イエスの降誕において、天がこの地に、真の神がこの罪の世に、永遠の神の御子がまことの人となられたことによって、罪を贖い、ご自身の民をされる救いの道が開かれた。シメオンは、幼子イエスを腕に抱き、神をたたえて、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たから」「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」と言った。飼い葉桶のしるしは、十字架に至る道の始まり。わたしたちは、今日、このお方の内に、まことの救いを見、信じ、生きる。
おわりに・イザヤは、まことの権威者の到来を預言する。この神の栄光は、ただ、罪の力を打ち破られたキリストにおいてのみ現れる。主の降誕を信じ将来を望みたい。
2022年12月18日 礼拝説教 中心聖句
万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 ヨハネによる福音書1章3節
その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。 ヨエル書3章1節
はじめに・主の到来を覚え、わたしたち一人一人に注がれる主の恵みを感謝したい。
1・「この言(方)は、初めに神と共にあった」とは、1節の「初めにこの言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と伝えられた「言(ことば)」であるお方について、「このお方は、初めに神と共にあった」と、その教理が明確に示される。現行の旧約聖書をそう呼べずとも、ユダヤ教においては、創世記、箴言において、神が、天地万物を造られたお方であり、その知恵と言葉と律法をとおして万物を創造された、と信じられていた。それゆえ、「初めに言があった、言は神と共にあった、言は神であった」と聞いたとき、まさか、そこで、唯一神における別人格が啓示されているとは、思ってもみなかったに違いない。キリスト教の歴史においても、異なる神(御子)観に抗して、キリストの二性一人格を告白するニケア信条(325年)に至った。ならば、ユダヤ教は、この御言葉に「同意した」と言えるだろうか?むしろそれは、自分たちが認めている創造主なる神についてのみ同意したに過ぎない。キリスト教信仰との決定的分かれ目は、やはり、この御方を三位一体の第二位格と信じるか、否か。ならば、御子は、創造主、造り主なる神であるのか?
2・「万物は言によって成った」とは、御子による万物の創造が、生成として示される。さらに、「成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言い、「万物」とは、単に「すべてのもの」ではく、六日間の天地創造の時、神が造られた光と水の中で、命あるものが、そこに生成し、育ち、生きる物となったように、目に見えるもの、見えないもの、すべてを神が造られたことを示す。主イエスは言われた、「あなたの頭にかけて誓ってはならない、髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないから」(マタイ5章36節)「その(雀)の一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10章29,30節)と。ユダヤ教の教師の中には、神が天地創造の時、「神は言われた」と10回言われたことをもって、十戒(十の言葉)で万物を造ったと意味づけた人もいたと言われる。それは、自分たちの正しさを補強する教え。しかし、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(10節)。「言は肉となった、わたしたちの間に宿られた」(14節)「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(17節)。
3・主イエスは、十字架の死から三日目に復活された日、「手とわき腹(十字架の傷跡)とをお見せに」なり、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ、弟子たちに「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20章22節)。それは、ご自身が、聖霊による再生成、再創造。恵みの契約の仲保者として成し遂げられた贖いの御業による、罪の赦しの福音を告げる者(足、選びの器)とする派遣命令。
おわりに・「主の霊の降臨」を告げる、主の預言は、聖霊降臨の日に実現した。十字架の闇(災い)は、今や、御子の復活において、光に転じ、信じる者たちは、神の栄光を身をもって現す者に変えられる。ただ御子を「わが主、わが神」と告白しつつ。
2022年12月11日 礼拝説教 中心聖句
初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。 ヨハネによる福音書1章1節
わたしは隠れた所で、地の闇の所で 語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって 混沌の中にわたしを求めよ、と言ったことはない。… イザヤ書45章19節
はじめに・主の二つの到来(降誕と再臨)を覚え、御子の教理と福音を共に学ぶ。
1・「言(ことば)は神であった」とは、この(定冠詞)言(ことば)であるお方が、神(無冠詞)とその本質を同一とされているお方であることを示す。福音書は、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」お方を、「この言(ことば)」と呼び、このお方のご存在(先在)とともに、神と「共に」「向かって」「真近に」おられるお方であることを伝え、別人格でありながら、その本質が神と同一であることを明らかにする。ここに、「父の独り子としての栄光」は、神ご自身の栄光であることを認める。それは、天と地を造られた神の栄光であり、御子において、神の子とされた者たちは、このお方との交わりにおいて、永遠の喜びを享受する。
2・「この言(ことば)」が、父(御父)の独り子(御子)であることを認めるとき、このお方が、「神の知恵に満ちたお方」であることを知る。それは、神の救いの歴史からすれば、神の契約とその実現において明らかになった。「神の御子が救い主になられたのは、御自身の神性に人性をお取りになるという結びつきによって」(ハイデルベルクコンペンディウム問29)である。このキリストの人性と神性との一人格における結合のこと、この二つの本性の神秘的結合を「二性一人格」と呼ぶ。福音書は初めから、御父と御子が一つ(三位一体の教理の基礎)であり、御子の「二性一人格」を、啓示する。「この言(ことば)」であるお方の人格は、その働きにおいて認められる。その鍵になる言葉が「仲保者」。信仰問答は更に「わたしたちの仲保者が真の神でなくてはならないのは、ただ真実に神を明らかにするお方だけが、わたしたちの罪を完全に償い、神とわたしたちを結びつけることがおできになる」(同問30)、「わたしたちの仲保者が真の人でなくてはならないのは、神の正義が、罪を犯したのと同じ人間性において、罪を償うことを求めている」(同問31)と教える。さらに「わたしたちの仲保者が罪のないお方でなくてはならないのは、ただ罪のない人間性だけが、罪のための完全ないけにえを捧げることができる」(同問32)とその理由を明らかにする。「この言(ことば)」とは、人の側から理解され得る、御子の謙遜がここに明らかにされる(テモテ二2:5、ヘブライ2:14~18、同9:15)。
3・「キリストは、まことの人間でもありまことの神であられます。この方は、その人間としての御性質においては、今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊においては、片時もわたしたちから離れてはおられない」(ハイデルベルク信仰問答問47)。「神性は捉えることができず、どこにでも臨在するのですから、確かにそれが取った人間性の外(そと)にもあれば同時に人間性の内にもあって、絶えず人間性と人格的に結合している」(同問48)「本当に知恵のある者となるために愚かな者」(コリント一3:18)とならねばならない(ヨハネ3:13、コリント一2:16)。
おわりに・「この言(ことば)」であるお方のもとに、ただ一つの救いがある。聖書において啓示されている、御子の教理を知り、ここにとどまり、「地の果のすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」との、主の声に聞き従いつつ、日々、神の知恵となられたキリストの福音を宣べ伝え、証したい。
2022年12月4日 礼拝説教 中心聖句
初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。 ヨハネによる福音書1章1節
わたしは生み出されていた 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
箴言8章24節
はじめに・主の到来を待ち望み、神の聖前に近づく礼拝を求め、神の言葉に聞く。
1・「言(ことば)は神と共にあった」との、「共に」とは、元は「前に」を強調する「真近に」を意味する。つまり、「言なるお方」は、神のそば近くにおられた、ということ。「言は肉となった。わたしたちはその栄光を見た。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」から、わたしたちは、「言なるお方」と人間の隔たりを知る。それは、遠くへだっているだけでなく、聖なる方が、罪をほかにしては、わたしたちと同じ人間としての性質、「肉」とならねばならかった、もうひとつの隔たりを含む。「共に」とは、「向かって」とも訳される。つまり、「言なるお方」は「神に向かう」ことのできる、唯一のお方。そこには何の障壁もない。ヨハネの手紙一でも、同様に、「命の言」について、「この命は現れました。御父と共に(真近に、向かって)あった」「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わり」(1章1,2,3節)。罪の世においていっしょにいることは何の交わりも保障しない。むしろ、関わらない方が身のためという傾向すらある。人が人に向かう言葉すら失っている。意思疎通のために与えられた言葉を正しく用いることができない。しかし、「言なるお方」と「神」の間には、完全な交わりがある。この交わりこそ、世から見て、愛と真実に満ちた交わり。
2・「父よ、今、御前(近く、そば)でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもと(近く、そば)で持っていたあの栄光を」(ヨハネ17章5節)と、十字架にかけられる日の直前、御子イエスは、「天を仰いで(目を天に上げて)」祈られた。「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのもの(近く、そば)であることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもと(近く、そば)から出てきたことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」(ヨハネ17章7,8節)。ここに、驚くべき、罪人と神との和解の道が明らかにされている。「彼ら」とは、御父が、「世から選び出してわたし(御子)に与えてくださった人々」であり、「わたし(御子)」が「御名を現した」人々。わたしたちのささげる祈り(礼拝・賛美・交わり)は、ただ、御子と御父の交わりと御子の謙遜と贖いにおいてのみ、神のそばに近づく道を与えられる(コリント二3章16~18節)。
3・箴言8章における「知恵」は、町の人々に向かって、自分自身を受け入れるように呼ぶ女性(人格ある者)としてたとえられている。この「知恵」は、「永遠の昔、わたしは祝別(任命)されていた。太初、大地に先立って」と言う。ここに、キリスト教会は、初期の頃から、「初めに言があった」と、世の人々に啓示されるお方、「わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(コリント一1章30節)キリストを信じ、苦難の中で、主の言葉と知恵を証した(ルカ21章15節)。
おわりに・「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わり」(ヨハネ一1章3節)。わたしたちは、この永遠の神との交わりを、聖霊の恵みによって共にし、世のただ中で、まことに、神は、独り子の命を与えられたことを、証しする。
2022年11月20日 礼拝説教 聖書箇所
新約聖書 ヨハネによる福音書 13章31~35節
新 し い 掟
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32 神が 人の子によって 栄光を お受けになったのであれば、神も 御自身によって 人の子に 栄光を お与えになる。しかも、すぐに お与えになる。33 子たちよ、いましばらく、わたしは あなたがたと 共にいる。あなたがたは わたしを 捜すだろう。『わたしが行く所に あなたたちは 来ること が できない』と ユダヤ人たち に 言ったように、今、あなたがたにも 同じことを 言っておく。
34 あなたがたに 新しい掟を 与える。互いに愛し合いなさい。わたしが あなたがたを 愛したように、あなたがたも 互いに 愛し合いなさい。
35 互いに 愛し合うならば、それによって あなたがたが わたしの弟子であることを、皆が 知るようになる。」
2022年11月13日 礼拝説教 中心聖句
到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。 使徒言行録14章27節
平穏なときには、申しました。「わたしはとこしえに揺らぐことはない」と。・・・しかし、御顔を隠されると わたしはたちまち恐怖に陥りました。 詩編30編7,8節
はじめに・キリストにある恵みの中に、旅の終わりに、祈りの仲間に報告する平安。
1・「それから、二人(彼ら)はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後」とは、元来た道をたどる帰りの道で、なおも御言葉を伝え続けたことを物語る。リストラからの帰りの道には、ユダヤ人の反対や、悪意、扇動された異邦人といっしょになって、石を投げつけられた町を含む。バルナバとパウロたちは、決して、逃げるようにして、次の伝道地に向かったのではなく、帰りの道では、「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」ほどに、教会の健全な訓練と成長を求めつつ、謙虚な祈りの中で、主にゆだねつつ、出発の地、シリア州のアンティオキアへ向かう。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」との目的は、使徒たちの目指すところは、人々の辱めの中で十字架の死を負われた、復活の主イエス・キリスト(御子)が御父の右の座に着いておられる天国であることを明らかにする。「彼らは更にまさって故郷」「天の故郷を熱望していた」「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていた」(ヘブライ11章16節)
2・「アタリヤに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人(彼ら)が[今]成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された(元の言葉は「引き出された」(一つの動詞))所である」。そこでは、聖霊によって、選任された者たちに託された働きであることが、主への礼拝において証しされた(13章2節)。彼らは、「聖霊によって送り出された」(13章4節)。彼らは、何を成し遂げたのでしょうか。第一に、それは、当初計画されていた、一巡の宣教旅行を終えたこと。それは、重要で危険な働きであり、特別な召しと従順を求められた。そして、宣教のみならず、教会建設を求めたことも重要。福音は伝え放しで終わるものではなく、聞く者と同時に、キリストを告白する者たちが与えられるとき、一つの群れを形成していく。彼らは、主の群れを養う牧者(長老、監督者)の必要を求めた。このように、世界各地の教会は、はじめから、福音宣教の中心的役割をいずれの地においても担っていることを覚えたい。それは、いずれの地においても、「神の国に入る」唯一の「門」でいます、主キリストを指し示すものであるから。
3・「到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たち(彼ら)と共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」とは、すべてのことについて、「神が彼らと共にいて行われた」と言い、単に、人から見て、神が一緒におられたからと、言わず、むしろ、絶えず、宣教を任じされた、主なる神が、彼らのただ中におられて、働いておられた、と言う。「異邦人に信仰の門を開かれた」のも、唯一真の生ける神御自身。讃美歌518番「いのちのきずな」とは、原歌詞は灯火を吊るす「銀の紐」(コヘレト12章6節)。それが切れるとは、本来「暗黒の死」。しかし、御子の贖いのゆえに、天国は輝かしい所。死の克服はただ、御子の贖いの命においてのみ成し遂げられた。信仰の門は、このキリストの命に至る道。
おわりに・御国に入る日の報告は如何に。キリストの御顔を仰ぐ日を今日待ちつつ。
2022年11月6日 礼拝説教 中心聖句
また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らを信ずる主に任せた。 使徒言行録14章23節
あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの掟を教えてください。傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが、わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。詩編119編68,69節
はじめに・宣教開始50年と教会設立35年を恵みによって回顧し将来を望みたい。
1・「二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、(ピシディア州の)アンティオキアへと引き返しながら、」とは、シリア州のアンティオキアへ戻る帰り道における行動。「多くの人を弟子にして」とは、「多くを教えながら」とも訳される。主イエスご自身「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28章19節)と命じられた。「教える」とは、御言葉によって、主イエスに従う者とすること。弟子とする、とは、教会訓練のもとの言葉。教会(エクレシア)は初めから、御言葉によって、教えられ、訓練され、励まされる、「主の群れ(コングリゲーション)」。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章14節)と主イエスは、自ら、その身代わりの命を十字架の上にささげられ、ご自身の贖われた群れの「門」「良い羊飼い」として、御言葉と聖霊によって、一人一人を、偽りの教えとその結果、影響から、固く守り、養い、ご自身のもとへと導いておられる。
2・「弟子たち[の魂、心、自身]を力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」とは、第一に、弟子たちの最も大切な心(霊性)を、固く真理の土台の上に立つように仕向けること。第二に、福音信仰に絶えずとどまるように励ますこと、第三に、罪赦されて、救われ、聖き御国に凱旋するその日まで、多くの苦難の中で忍耐し、再び主の来られる日に準備すること、を教える。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っている」「それはあなたがたも知っているとおり」(ペトロ一5章9節)。「つまり、あながたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(フィリピ1章29節)。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられる」(ヘブライ12章10節)。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされてい」(コリント二4章16節)く。恵みによって与えられている信仰と苦難の中で、日々霊的鍛錬を共にしていく。
3・「また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らを信ずる主に任せた」とは、第一に、各地の教会において長老たちを選任し、群れを治める監督者とすること、第二に、教会と共に、教会のために、謙虚に祈ること、第三に、たとえ、弱く、幼く、未熟な、教会であっても、主イエスの聖なる配慮と守りに委ねること。永遠の御言葉と聖霊による霊的訓練の基本は、いずれの教会でも同じ。
おわりに・「傲慢な者は偽りの薬を塗ろう」と、うわべだけ、みせかけだけの、善行と成長を求める。かえって、復活の主と御言葉に立つ教会を信じ、完全に善なる方が、すべてを善に変え、善としてくださることを信じて、ただ神の栄光を現したい。
2022年10月30日 礼拝説教 中心聖句
福音には、神の義が啓示され…初めから終わりまで信仰を通して実現される…「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙1章17節
わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。… イザヤ書61章10節
はじめに・主の宣教50年を記念する「今日」、主の恵みの聖餐を共に感謝したい。
1・「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します」とは、使徒パウロ自身、ローマの教会に向けて、感謝の言葉を伝えるもの。主の聖餐も、過越の食事という感謝の食事の場で制定された。それは、出エジプトの御業に代えて、主の贖いの御業を感謝して覚える時とされたことを意味する。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト12章14節)と、主が、エジプトの国で、すべての初子を撃たれたとき、イスラエルの民が、過越の犠牲を屠ることによって、その災を過ぎ越すことを定められた(出エジプト12章21節)。わたしたちのささげる礼拝は、神と人の間の唯一の仲保者となられた、「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献」(ヘブライ13章15節)げるもの。
2・「あなたがたの信仰が全世界に伝えられているから」とは、ただローマ帝国の首都であるだけではなく、全世界の主、キリストの業において。パウロ自身、イスパニア訪問を望み、その途中、ローマに立ち寄ることを希望した(ローマ15章24節)。地上の教会おける伝道の働きに完成はない。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださること」こそ、パウロの祈りと希望。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいから」「互に持っている信仰によって、励まし合いたい」から。「“霊”の賜物」とは、「キリストの賜物」(エフェソ4章7節)。キリストの賜物が分け与えられることにおいて、キリストの教会を、霊的に健全に建て上げることに共に仕える。教会の諸組織(大中会、小会と執事会、伝道所委員会等)もそのためにある。
3・「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい」ことは、ローマに行くことを今日まで何回も妨げられながら、「ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任」があること、「ローマにいるあながたがにもぜひ福音を告げ知らせたい」こと。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だから」。パウロは、同胞ユダヤ人の救いを祈り(ローマ9章)、異邦人伝道者として、ローマ教会に行くことを切望する。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリスト」「ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」(コリント第一1章22,23節)。「福音には、神の義が啓示され」「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現」する。「『正しい者は信仰によって生きる』(ハバクク2章4節)と書いてあるとおり」。律法(功徳・善行等)によってはだれ一人救いに至ることはできない。キリストの満たされた義を信じるのみ。これが自己吟味の要点(コリント二13章4節)
おわりに・キリストの義と救いにあずかる信仰は、「救いの衣を着る」と譬えられる。聖餐の礼典を共にする「今日」、キリストの救いと一致と伝道を祈り求めたい。
2022年10月23日 宣教開始50周年記念礼拝 説教 聖書朗読箇所
旧約聖書 創世記12章1~9節
◆アブラムの召命と移住
12:1 主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。
2 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。
3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」
4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。5 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。 6 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」
アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
8 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。 9 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
新約聖書 ヘブライ人への手紙 10章32~39節
10:32 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。33 あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。34 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。 35 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
37 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。38 わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」
39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
2022年10月16日 宣教開始50周年記念歓迎礼拝(午前の部) 説教 聖書朗読箇所
新約聖書 ヨハネによる福音書9章1~7節
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2 弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
3 イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
2022年10月16日 宣教開始50周年記念歓迎礼拝(午後の部) 説教 聖書朗読箇所
新約聖書 ヨハネの手紙一5章13~15節
5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。
5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
2022年10月9日 礼拝説教 中心聖句
しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり…あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。使徒言行録14章17節
天が地を超えて高いように慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程 私達の背きの罪を遠ざけてくださる。 詩編103編11,12節
はじめに・宣教開始50周年を記念する今日、神の御意志に適う道を祈り求めたい。
1・「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました」と、使徒パウロは、服を裂いて飛び込んだ群衆の中で、叫んで言う。それは、身を挺して偶像礼拝の罪を押し留めたパウロにとって、時代の一線を画する言葉。使徒ペトロは聖霊降臨の日に、「邪悪なこの時代から救われなさい」(使徒2章40節)と命じた。それは、主イエスが十字架に掛けられた時、その悲惨と闇を知る者たちの中で、救いの道を明らかにする。パウロの言う「過去」も、キリスト到来以前のの過去。それは、キリスト到来の光に照らせば、「すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれた」時代。決して、神が人々の放任されていたのではなく、むしろ、その罪を悲しみつつ、時の来るまで忍耐しておられた(創世記6章5,6節)。「主の憤りの前に、誰が耐ええようか」(ナホム1章6節)と時の預言者は、全世界と歴史の主であるまことの神を恐れないアッシリアの首都ニネベの崩壊を告げた。
2・「しかし(しかも、それでも)、神は御自分のことを証しないでおられたわけではありません」とは、神の御意志と啓示についての真実を知ることへの導入(ローマ1章18節)。続けて「(神は)恵み(良きもの)をくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっている」と言う。神はどのような時代においても絶えず良きものを与えておられる。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望を持って」(ローマ8章20節)。それは、ただ、キリストの到来ゆえに、完全な聖化と栄光に至る道における「今日まで、共にうめき、「共に産みの苦しみを味わって」(同8章22節)いく時代を指す。創造主なる神は「わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむ」(イザヤ55章2節)と約束される。「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものない」(テモテ第一4章4節)。使徒パウロは、創造主なる神の恵みを明らかにし、人間が罪深い行為によって、それを汚すよりも、正しく感謝を表すこと、まことの神礼拝への道を備えようとする。
3・「こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた」とは、ともかくにも、人々が、パウロの言葉を聞き、罪深い行動を止めたことを証しする。キリストの光に照らせば、「偶像礼拝に向かう世の中の熱狂」(カルヴァン)は、何らかの代償的行動をやむことなく欲する。しかし、神の御意志を満たすことは決してできない。それほどに、堕落した罪は重く、その代償は計り知れない。「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコにオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ」た(コリント第二11章25節)。パウロはこの死の危険から弟子たちの祈りの中で「起き上がって町に入って行」き、「翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった」(コリント第二6章2,3節)。
おわりに・神の愛と慈しみは、父の子への憐れみに形容される。それは、回復された父子の姿。キリストの命と光の中で、恵みの時代を感謝して覚え、救いを求めたい。
2022年10月2日 礼拝説教 中心聖句
(パウロは、)「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩き出した。 使徒言行録14章10節
そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が涌きいで 荒れ地に川が流れる。 イザヤ書35章6節
はじめに・宣教50年の歩みを思い起こす今日、復活の主の御力を新たに信じたい。
1・「リストラに、足の不自由な男が座っていた」。この「座っていた」とは、ずっと以前からいつも、そして、これからもずっと座っているであろう人のこと。その人は、「足の不自由な人」、足に力のない、不能不具を負っていた人であった。「生まれつき(母の胎にあるときから)足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」。「わたしは咎(とが)のうちに生み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあった」(詩編51編7節)と告白されるように、罪ゆえの不能を認める道がここにある。「この人が、パウロの話すのを聞いていた」。相当の時間、復活の主を証する福音を聞いていた。それは、この人に罪の赦しと義と朽ちることのない永遠の命を与えるものである(使徒13章37~39節)。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉(福音)を聞くことによって始まる」(ローマ10章17節)。
2・「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩き出した」。聖霊降臨日の後、美しい門のそばにいた足の不自由な男がいやされたとき、ペトロは、「あなたがたの見て知っている人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(使徒3章16節)と証しした。それは、使徒たちによるいやしの奇跡が、ただ、主の御力によるものであることを証しする。ラザロが死んだ時、主イエスは、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるためである」(ヨハネ11章15節)と言われた。人の生と死は、すべて主の御手の中にある。復活の主を信じる信仰によってのみ、わたしたちは、死から命に至る道を与えられる(ヨハネ5章24節)。
3・「群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、『神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった』と言った」。人を偶像神として祭り上げる罪を露わにし、聞いていたはずの福音的説教は後退する。バルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」(ゼウスの使い、神々の伝令神)と呼び、「町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした」。「使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫び、深い悲しみと怒りの心でこれを拒否する。「『皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。このような偶像(むなしいもの)を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です』」。わたしたちの礼拝と祈りは、この神にのみ向かう(使徒4章24節)。
おわりに・福音的説教は絶えず、復活の主イエスを提示する。御子の唯一の完全な犠牲ゆえの日々の悔い改めと祈りと神礼拝を日常的に求め(ヨハネ一4章10節)、主イエスのもとに、贖われた者たちの帰還の日を共に喜び楽しみたい(イザヤ35章10節)。
2022年9月25日 礼拝説教 中心聖句
それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は…その恵みの言葉を証しされた…。 使徒言行録14章3節
しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額も硬く心も硬い。エゼキエル書3章7節
はじめに・主の言葉による伝道の恵みと証しを覚え、新たなヴィジョンを求めたい。
1・「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシャ人が信仰に入った。」との、冒頭の言葉「イコニオンでも同じことが起こった」とも訳される。この言葉は、7節の「そして、そこでも福音を告げ知らせていた」が「そこでもまた彼らは福音を宣べ伝えたのである 」と訳されるように、主の救いの御業による出来事がここでも起こった、ことが伝えられている。使徒言行録の冒頭においても、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(1章3節)とあるように、ここでも、短い句でありながら、一つの事実が的確に示される。この意味で、「同じように」「同じこと」を、ピシディア州のアンティオキア(13章)において告げられた福音がここでも告げられたことを思い起こすことが大切。先の福音宣教の結果同様に、「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果にまでも 救いをもたらすために」との預言者(イザヤ49章)の御言葉の実現をここに見る。
2・「ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」。このユダヤ人たちは、頑なに、キリストの義において示された神の恵みの御業を拒み、不信仰と不従順において、真っ向から福音を伝えることを妨害し、使徒たちと信じる者たちを迫害した。後にパウロはテモテへの手紙において、この迫害と苦難における忍耐と主の救出を証しした(テモテ二3章11節)。「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」。パウロとバルナバは、迫害されても、主の守りと支えの中で、何ものにも妨げられることなく、十分な滞在時間を与えられ、福音を語り続けた。「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされた」。主が、共におられ、その御手をもって助けられ、復活の主、まことの王、イエスにおいて、罪の赦しとキリストの義と朽ち果てることのない命を与える「恵みの言葉」を証ししてくださった。人の迷信はしばしば幻想的教え。しかし、主の言葉は、信実の言葉(コリント二2章15,16節)。
3・「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた」とは、福音から生じた分裂を証しする。この責任は使徒たちにはない。主イエスは、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている」(ヨハネ3章19節)と言われた。決して、異邦人の方が信じやすいのではなく、ある「異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとした」。その時、「二人はこれに気づき」「リカオニア州の町であるリストラとデルベ」「その近く地方に難を避け」「福音を告げ知らせた」。
おわりに・福音は、「聞き入れようと拒もうと」(エゼキエル3章11節)告げ知らされることにおいて、主の裁きを証しする。 主の召しによって、福音宣教者たちが、自分の務めを果し、皆共に、主の恵みの言葉の証し人として、互いに、励まし合おう。
2022年9月18日 礼拝説教 中心聖句
異邦人たちは…主の言葉を信じ…永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。…主の言葉はその地方全体に広まった。 使徒言行録13章48,49節
今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝…祭司の王国、聖なる国民となる。… 出エジプト記19章5,6節
はじめに・主の言葉の拡大において、神の恵みによる救いの実現を見ることを学ぶ。
1・「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。」使徒パウロとバルナバの一週間の動向は不明であるが、おそらくは、その間にも、機会を得て、主の言葉を語り続けた。あるいは、聞いた者たちが、互いに呼びかけ、「主の言葉を聞こう」という期待と願望は大いに膨らんだ。パウロの願いは、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられる」(フィリピ1章20節、同1章17節「不純な動機」)。しかし、「主の言葉を聞こう」という願いにおいて、おそらくはユダヤ人の会堂から溢れるほどの多くの人々が集まった。
2・「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」。聴衆は、ユダヤ人、異邦人の別なく、すでにキリストを信じ洗礼を受けた者(改宗者)を含む。この「ユダヤ人」は、イエスが十字架刑に引き渡されたのが、祭司長たちのねたみのため(マルコ15章10節)であったのと同様。
主イエスは、「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかった」「だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』(詩編69編5節)と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである」(ヨハネ15章25節)と言われた。先にステファノも、「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった」(使徒7章52節)と告げた。主の言葉は、罪の世で、主の正義のための苦しみを証しする。
3・「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った」「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」と。すでにパウロは、「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかった」といい、キリストによる「罪の赦し」と信仰によって「義」とされる恵みの教理を告げた。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」(ローマ6章23節)。「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちのこう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果にまでも 救いをもたらすために。』」(イザヤ49章6節、42章6節、45章22節)「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」とは、キリストにおける神の選びにおける伝道の結実(エフェソ1章3~6節、2章8~10節)。
おわりに・ユダヤ人はなおも、神をあがめる貴婦人や町のおもだった人々を扇動し、パウロとバルナバを迫害し、その地方から二人を追い出した。しかし、二人は「彼らに対して足の塵を払い落とし」イコニオンに向かった。「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」。迫害・試練・困難の中で、主を常に喜んで共に伝道しよう。
2022年9月11日 礼拝説教 中心聖句
…兄弟たち、知っていただきたい。この方(復活のイエス)による罪の赦しが告げ知らされ、…信じる者は皆、この方によって義とされるのです。 使徒言行録13章38節
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。…見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 ハバクク書2章2,4節
はじめに・「罪の赦し」と「キリストの義」に至るまことの救いの道をともに学ぶ。
1・「だから、兄弟たち、知っていただきたい」と、使徒パウロは、この説教において三度目の呼びかけの中で、復活のイエスにおいて証しされ、皆が知るべき、神の真実を明らかにする。「この方による罪の赦しが告げ知らされ」と、パウロは、復活のイエスにおいて、告げ知らされたのは、「罪の赦し」と言う。この「罪の赦し」は、洗礼者ヨハネにおいては、これを得させるたに「悔い改めの洗礼」が宣べ伝えられた(マルコ1章4節、ルカ3章3節)。また、使徒ペトロは、コルネリウスの家において、預言者たちが、イエスの名によって受けられる「罪の赦し」を証していることを伝えた(使徒10章43節)。それは、復活の主ご自身、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24章47節)と約束されたとおり、キリストの命が、福音の真理を聞く者たちに「有効召命」(ウェストミンスター信仰規準)によって適用されるとき、皆に与えられる「神に近づく道であり、私たちを神の国にとどめおき、かつ保つところの手段」。「私たちの救いが存立し、また依存する基礎がこれ(罪の赦し)である」(カルヴァン)。
2・「また、あなたがたがモーセの律法では義とさえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされる」とは、実に、「信仰義認」の教理。ここで「モーセの律法」とは十戒(道徳律法)のみならず、儀式律法を含む。むしろ、儀式律法を守ることによっては神の義を満たすことができないことが明らかにされる。それは、絶えず、ユダヤ人たちにとっては逆戻りの誘惑を自覚しなければなかった古い教え(慣習)からの脱却を意味する。それは、だだ、キリストの血による一回的で唯一完全な贖いによる(ヘブライ9章9~12節)。儀式律法が予表していたキリストの贖いが成し遂げられた今、人の側において要求されていることは、ただ、キリストの命に「有効召命」によってあずかることのみ。「罪の赦し」と「信仰義認」とは、キリストの命において一つの教理。「今や、わたしたちはキリストの血によって義とされた」(ローマ5章9節)、「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”(聖霊)は義によって(のゆえの)命」(ローマ8章10節)。
3・「それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい」とは、教理に加えられた忠告(ハバクク1章5節)。パウロは、聞く者たちの心において悔い改めの余地のあることを認め、警告をする。少なくとも、この時、この警告ゆえの反発は生じていない。パウロは当時のギリシャ語訳聖書から一語一語朗読せず、「見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明(物語)しても お前たちにはとうてい信じられない事を」と、端的に、聞く者たちの心に訴え、キリストの義と命に至る悔い改めを勧告する。
おわりに・集会の後、人々は、「同じことを話してくれるようにと頼んだ」。その動機は不明ながら、多分、学ぶ意欲と少なからず謙遜の心があり、何らかの解放の言葉を感じ取ったでのはないか。キリストの命のもとに来る道筋を絶えず神に求めたい。
2022年9月4日 礼拝説教 中心聖句
つまり、神はイエスを復活させて、わたしたちの子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編…にも、…書いてあるとおりです。使徒言行録13章33節
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り…ます。 詩編16編10,11節
はじめに・復活の主の御力により、記念礼拝を迎える今日、新たな歩みに備えたい。
1・「(そして、)わたしたち(パウロとバルナバ)も、先祖(父祖たち)に(予め)与えられた(結ばれた、立てられた)約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています」と、使徒パウロは、説教の基本的立場を明らかにする。それは、ユダヤ人にとって、本来、決して新奇な教えではなく、むしろ、油注がれたお方:メシア(キリスト)を待ち望む者たちにとって、救いの歴史において示された神の約束(恵みの契約)と誓いの実現(成就)。それは、イエスの「死者の中からの復活」とその証人たちの存在において証しされ、同時に、詩編のメシア預言において確証される。パウロは「つまり(なぜなら)、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださった(完全に満たされたから)」と、イエスの復活において成し遂げられた、神の真実を明らかにする。それは、ほかならない、「わたしたち
子孫のため」である。実に「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされる」(ローマ9章8節、ヨハネ1章13節)。
2・「それは詩編の第二編にも、『あなたはわたし子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおり」とは、パウロの告げる福音の権威は、ただ、神の言葉から来るのであり、キリストの御人格と御業(十字架と復活:謙遜と高挙:着座)は、神の約束(御言葉)の実現においてのみ、正しく認識されることを確証する。「今日」「あなたはわたしの子」(君こそわが子)として「生んだ」とは、血肉のつながりではなく(養子)、ただ、永遠の神の独り子であるお方が、この地上の「生」において、まことの神の独り子として、まことのメシア職(預言者・祭司・王)を果たされることの宣言。それは、洗礼者ヨハネからの受洗と山上の変貌における御父からの命令(預言者)において(マタイ3章17節・17章5節、マルコ1章11節・9章7節、ルカ3章22節、ペトロ二1章17節)また、十字架の上でその身を献げられたこと(祭司)において(ヘブライ4章15節、5章2,3節、7章28節)、そして、十字架の死から、三日目に復活され、天に挙げられたこと(王)において(ルカ24章51節、使徒1章9節、エフェソ2章6節)最も特別な仕方で明らかにされた(ローマ1章4節)、永遠の神の御子の受肉と臨在の中に、「わたしたちはその栄光を見た」のであり、「それは父の独り子としての栄光であって、恵みの真理に満ちていた(満ちている)」(ヨハネ1章14節)。
3・「また(さらに)、イエスを死者(死んでいる者たち)の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさった」ことについても、「わたしは、ダビデに約束した 聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える」(イザヤ55章3節)、「あなたは、あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしてはおかれない」(詩編16編10節)、ダビデの死は「朽ち果て」、イエスの復活は、「朽ち果てない」と告げられる。
終わりに・使徒ペトロも、聖霊降臨の日、詩編16編の御言葉によって、主イエスの復活を確証した。主イエスの復活を見た「今日」、わたしたちの救われた「今日」、これから救われるべき人々の「今日」があることを信じ、まことの福音を伝えたい。
2022年3月6日 礼拝説教 中心聖句
見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。…彼の姿は損なわれ、人とは見えず もはや人の子の面影はない。 イザヤ書52章13,14節
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 マタイによる福音書25章40節
はじめに・世界祈祷日礼拝(3月4日)においては、イングランド・ウェールズ・アイルランドの国々からのメッセージ:「わたしは、あなたたちのために立てた計画(思い)をよく心に留めている」「それは平和の計画(思い)」(エレミヤ29:11)とのバビロンの地に住む者たちへの“主の言葉”により、真の「将来と希望」を信じる祈りに導かれた。
1・「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」とは、
バビロンからの帰還という希望のメッセージにおいて預言される「苦難の僕」の預言。続くイザヤ書53章の御言葉について、フィリポがエチオピアの宦官に、「イエスについて福音を告げ知らせた」(使徒8章35節)とおり、イエス・キリストの謙卑と高挙についての預言の始まり。「御子(キリスト)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方」(コロサイ1章15節)「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」(フィリピ2章7節)た。つまり、「謙卑と高挙」を正しく理解するとき、エデンの園において堕落した全人類の罪を贖うために、罪をほかにしては、まことの人間となられ、十字架の死から三日目に復活された、「聖なる正しい方」(使徒3章14節)「聖なる僕イエス」(使徒4章27節)を、神の義を満たす完全な犠牲となられた、贖い主、キリスト(真の王)、真の神(御子)と信じ、この御方をとおし、この御方に祈り、この御方と共なる聖なる生活に導かれる(コロサイ3章1~17節)。
2・「かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように 彼の姿は損なわれ、人とは見えず もはや人の子の面影はない」ほどに、「彼は多くの民を驚かせる」。イエス・キリストの謙卑は、ゲツセマネの祈りでは、「悲しみもだえ」「死ぬばかりに悲し」み、「うつ伏せにな」って祈る、真実の姿に表された。最高法院での裁判においては「神を冒涜した」「死刑にすべきだ」との声の中で、「顔に唾を吐き」かけられ、「こぶしで殴」られ、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」との侮蔑の声においても証しされた(マタイ26章37~39節、マタイ26章65~68節)。この「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せにな」られたほどに、イエス・キリストは、聖なる僕としての姿を尽くされた。それはただ「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って」「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」「そのお受けになった傷によって」、わたしたちは「いやされ」た(ペトロ一2章23,24節)。贖いの結果。
3・「彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見 一度も聞かされなかったことを悟ったからだ」とは、主イエスご自身、「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」(ヨハネ13章16節)と言われたとおり、不遜な者の心が開かれ、聖なる神への深い畏れとともに、悔い改めと従順において果たされる事を示す。
おわりに・「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」。真の裁き主、王キリストの眼差しは、人の愛と謙遜に向かう。「わたしどもは取るに足りない僕です。」(ルカ17章10節)と命じられる主の声に聞く者は、幸い。
2022年2月27日 礼拝説教 中心聖句
…兄弟たち、…自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき[霊的、理性的]礼拝です。ローマの信徒への手紙12章1節
…こうして主の神殿における奉仕が復活した。ヒゼキヤとすべての民は神が民のためにしてくださったことを喜び祝った。この事が速やかに行われたからである。歴代誌下29章35,36節
はじめに・1972年2月20日の最初の主日礼拝以来、宣教開始50年。男山伝道所設立(1975年)から自立教会としての設立(1986年)された頃、1986年から1994年まで、11月第二主日もしくは第三主日に、特別に「献身奨励礼拝」がささげられた(説教題と聖書箇所年度順に、「恵みへの応答」ローマ12:1-21、「恵みの管理人」ペテロ(ペトロ)一4:7-11、「みわざへの参与」ピリピ(フィリピ)4:10-23、「恵みのわざにあずかる」コリント二9:1-15、「賜物の管理」ペテロ(ペトロ)一4:7-11、「神に仕える」ローマ12:3-8、「キリストから賜る賜物のはかり」エペソ(エフェソ)4:1-24、「奉仕のわざ」ペテロ(ペトロ)一4:7-11)。
1・「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」とは、先に、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(2章4節)と問いかけ、冒頭から、聖書において預言者を通して神の約束された「御子(死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた方)に関する」(1章3節)福音を証して伝え、ただ、「すべての異邦人を信仰による従順」(1章5節)へと導くために恵みを受けて使徒とされたパウロによる勧告。
パウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(9章1節)と告白し、「肉による同胞」(9章3節)イスラエルの民の救いを願いつつ、「自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められ」(9章11節)た神の契約における真実(信実)を物語る中で、真の神がモーセに言われた「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」との約束のとおりに、神の選びの根拠によるものであることを念入りに教える(「これは、人の意志や努力ではない」9章16節、「怒りの器」が「憐れみの器」に9章22,23節)。キリストを長子とする兄弟たちの献身は、ただ、第一に、この神の憐れみによる。
2・「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 パウロは先に、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」こと、「人の誇り」は「取り除かれた」ことを明らかにする。「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」から。割礼の有無によらず、神は「信仰によって義とされる」(3章24,28,30節)。つまり、わたしたちの献身は、ただの一片も贖いの一部とも、人の誇りともならず、ただ、神の恵みによって義とされた者の、自発的で全面的な、感謝のささげもの。
そして、この献身は「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ(犠牲)」としてささげられる全面的で「なすべき(霊的、理性的、理にかなった)礼拝(奉仕)」。そこで求められる事は、第一に、キリストの言葉に聞くこと(10章8,17節)、第二に、心を「新たにされること」(詩編51編12節)、第三に、キリストの体なる教会の一員として、キリストの義により物事をよく確かめること(自己吟味、フィリピ1章9節)。
おわりに・ユダの王ヒゼキヤによる「礼拝の回復」は、祭司たちとレビ人の忠実な奉仕と良い協力と会衆の献げ物による、「主の神殿における奉仕の復活」(歴代志下29章35節:新共同訳)。キリストの唯一完全な犠牲ゆえの礼拝と奉仕を求め続けたい。
2022年2月20日 礼拝説教 中心聖句
…女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 マタイによる福音書15章27節
その日には、エジプトの地に五つの町ができる。そこでは、カナンの言葉が語られ、万軍の主に誓いが立てられる。その町の一つは、「太陽の町」ととなえられる。イザヤ書19章18節
はじめに・この地にヴィンセント・スタブス宣教師が遣わされ、最初の主日礼拝がささげられてから、50年の節目の日を迎えた。福音宣教と教会形成という二つの使命の要は、わたしたちのささげる「礼拝」。カナンの女の信仰から、「礼拝の心」と「真の謙遜」を学びたい。
1・「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」。主イエスが、ユダヤの地域を離れたのはこの時のみ。かつて、預言者エリシャは、干ばつと飢饉の中、異教の地シドンのサレプタに遣わされ、そこで、一人のやもめの信仰を認め、この女の家族を飢餓から救い、また、この家の女主人の病死した息子も生き返る(列王記上17章)。「すると、この地に生まれたカナンの女が出てきて、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。」。この女はギリシャ人でありながら、「カナンの女」と呼ばれる。それは、イスラエル人からすれば、出エジプトの目的地であり、征服しなければならなかった地域の人々。そのような祖先をもつ女でありながら、主イエスを、イスラエル人同様に「ダビデの子」と呼ぶ。おそらくは、聞き伝えられた、神の約束の王であり、イスラエル再建の望みをかける偉大な、力ある、預言者を呼ぶこと。それは、当時のギリシャ哲学的な思考にはない、病気の原因を悪と罪に起因するものとするむしろヘブライ的な理解。
2・「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』」。 主イエスの沈黙。そこで取った弟子たちの言動は拒絶。「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」。それは、女が来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と懇願した時、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」との答えの理由に受けとめられた。つまり、「子供たち」とは、「イスラエル」であり、「小犬」とは「カナンの人」。しかし、女は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言い、主イエスの言葉に、自分の身の上を認めながら、謙遜に答えを返す。そこで、イエスは答えられた。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
3・今日、わたしたちは、このカナンの女の信仰から、三つのことを教えられたい。一つのことは、主イエスの十字架への道において、このティルスとシドンへの旅は、回り道のように思われながら、また、多くの人々にとって、主イエスは「ダビデの子」として、イスラエル再建の救世主として期待されながら、主イエスは多くの人々の方に向かわず、かえって、一人の女の信仰と、その娘のいやしをとおして、ここに、真のイスラエルの一人(存在)を証しされた。主イエスの十字架は、ご自身の贖いのもとに来るすべての人々のため。それは、神の召しと選びによる。「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなた(異邦人)は信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えて枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなた(異邦人)をも容赦されない」(ローマ11章20,21節)。二つめは、たとえ、わたしたちの生い立ちや境遇、様々な負い目や誇りがあったとしても、主にのみ助けを求めて常に祈り続けること。三つめは、その祈りが、たとえ、理屈に合わないことであっても、打算的にならないで、神のちからを信じること。
おわりに・預言者イザヤは、「終わりの日の和解」について、富と武力により頼む、エジプトの力が、万軍の主の御力の前に、無力とされる。「そこでは、カナンの言葉(主を礼拝する聖なる言葉=それは、回心、新生と悔い改めと信仰による)が語られ、万軍の主に誓いが立てられる」。宣教開始50年を覚える今日、主の御力にのみより頼みつつ、共に主を礼拝しよう。
2022年2月13日 礼拝説教 中心聖句
まして、…神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 ヘブライ人への手紙9章14節
命に溢れてこの地に住む者はことごとく 主にひれ伏し 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。… 詩編22編30節
はじめに・ わたしたちのささげる礼拝が、真心からなる礼拝であることを求めるとき、「信仰の良心」こそ、改革者ルターの良心の叫び声のみならず、礼拝の信実における共通の意識。
1・「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになった」とは、わたしたちのささげる礼拝が、キリストの執り成しの内に守られている「神の家」としての礼拝であることを明らかにする。ヘブライ人への手紙においてその最初からこの神礼拝が主題。そこで第一に宣言されることは、「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた」ことであり、「万物の相続者」であり、創造主である「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられ」「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きにな」った事(1章2,3節)。「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者(御子、イエス・キリスト)を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであった」「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ている」「それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』『わたしは神に信頼します』『ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます』(2章10~13節)と告げる。実に、創造主にして救いの創始者でいますキリストによる真の礼拝宣言がある。
2・「(キリストは)人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」。ここには、キリストの贖罪が、人造品でもなく、世に属するものでもなく、動物犠牲にもよらず、かえって、動物犠牲が予表していた完全な贖いであり、救いの完成に至る天の御国に入る道として定められたことが、明らかにされる。「実に、肉(動物、家畜)のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である」(レビ記17章11節)。キリストの「血」とは、ゴルコタの丘の上に立てられた十字架の上の処刑において流された「血」のみならず、そこでささげられた「命」。このキリストの「命」こそ、すべての罪人を贖って余りある完全な贖罪そのもの。実に、信仰によって、「キリストの血」を飲む者は、「永遠の命を得」、終わりの日には、キリスト共に復活する(ヨハネ6章53~55節)。主の晩餐(聖餐)は、キリストの「血と命」を証する、固い誓約。
3・「キリストの血」は、「永遠の霊(聖霊、神の霊)によって、御自身をきずのないものとして神に献げられ」「わたしたちの良心を死んだ業(偶像礼拝)から清めて、生ける神を礼拝するようにさせ」る。この「良心(意識)」こそ、単に自意識、罪意識の覚醒ということに留まらず、「キリストの血」において本当の罪の自覚が呼び覚まされる「心の場所」。動物犠牲のみならず、どのような人為的な儀式によっても完全にすることのできない所。「更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ10章21,22)。との呼びかけこそ、神の真実に固く立つ、真の礼拝者たちの希望。ヘブライ人への手紙は、あえて、「信仰」を語りだす前に、このように、「良心」を一つの鍵の言葉として、キリストを知りながら、その「血」の完全さを「共通の意識において」覆う、動物儀式的礼拝に逆戻りする霊的誘惑に抗して、真実の礼拝とその心を明らかにする。
おわりに・「詩編22編」は、キリストの受難の預言。その贖いの目的は、「主に栄光を帰することであること。わたしたちは、なおも様々な恐れを抱くが、キリスト「血」において、死すべき者が、礼拝の自由を回復する時、良心の声は、賛美と宣教の声となって、世に響く。
2022年2月6日 礼拝説教 中心聖句
しかし、まことの霊をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。…なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 ヨハネによる福音書4章23節
雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民が全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。 出エジプト33章10節
はじめに・主の良き備えと導きの中に、今月、わたしたち男山教会は、ヴィンセント・スタブス宣教師派遣による、この地での開拓伝道(1972年2月20日)以来、宣教開始50年を迎えた。今月は、礼拝、信仰の良心、宣教、献身を主題とし、御言葉に聞く、記念の月としたい。
1・「しかし、時が来ています。それは、今です。」と、主イエスは、サマリアの女に、「霊と真理の内に」「まことに礼拝する者たちが、父にひざまずく時」の到来を告げる。当時日常的な礼拝は、安息日律法を規則化してそのとおりに遵守することにあった。しかし、主イエスは、父(御父、父なる神)みずから、ご自身に「礼拝する」「まことに礼拝する者たち」、真の礼拝者たちを求めておられるゆえに、その時が今や到来した、と告げる。その礼拝のあり方は、「霊と真理の内に」あること。続けて、「唯一の神は、霊なる方、そして、この方にひざまずく者たちは、「霊と真理の内に必ずひざまずく」と告げる。ここにある、礼拝命令は、伝道命令(マタイ28章18~20節)と一つ。そこでは、主イエスご自身、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束し、ご自身の到来(父からの派遣)において、終わりの時が到来したことを告げられた。「見よ、今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリント第二6章2節)。このように、主イエスは、サマリアの地を選び、そこで、真の礼拝者たちの「時と場」を規定する。それは、ただ、「霊と真理」に支配される真の権威、神とキリスト、聖霊と真理の言葉(聖書の全体)に支配される礼拝を告げるもの。
2・ここで、「礼拝する」と訳される言葉は、元は「おじぎする」の意味で、「犬の忠実」という字。よくしつけられた犬が飼い主に忠実であるように、真の礼拝者は、真の飼い主でいます主からの呼びかけに対して忠実に礼拝をささげる。男山教会の主日公同礼拝の礼拝順序には、教会設立後、十戒を交唱するようになった。そこで求められているのは、単に十戒を唱えることではなく、「神の憐れみゆえに、罪の赦しを乞い求める祈り」。近年、司式者により十戒交唱への招きを添えるように、十戒の序言を、キリストの権威と恵みの中に確認することに、礼拝の具体的な備えがある。「なぜなら、キリストは、信じる者たち皆が義に至る、律法の終わり」となられたから。真の礼拝はこの意味で、単なる儀礼的儀式ではなく(少なくとも動物犠牲を規定する儀式律法はキリストの贖罪故に廃止された)、ただ、キリストの内にある完全さの中に求められる。変わらないこと、それは、礼拝の対象(唯一の神:三位一体の神)、仕方(偽りの礼拝、偶像礼拝の禁止)、態度(真の敬虔と畏怖)、時(安息日:主の日)。使徒パウロは、当時の礼拝における賛美歌詞により、キリストの謙遜と高挙を告白した。その目標は、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名のひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父ある神をたたえる」(フィリピ2章10,11節)こと。キリスト教会の礼拝の歴史において、キリストを預言する詩篇の歌と、キリストの救いを告げる賛美の歌は、日々、新しい心で歌い継がれてきた。その目的は、ただ、キリストを真実に礼拝し、この御方を、真の救い主、預言者・祭司・王と認め、この御方にのみにひざまずく真の礼拝と信仰告白。ただ主の栄光のために。
3・出エジプトの時、イスラエルの民は金の子牛を造って拝み、その罪とかたくなさのゆえに、「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」(出エジプト33章3節)と主から告げられる。それにもかからわず、主は、「直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい」と命じられ、裁きを保留される。モーセは、宿営の外に「臨在(会見)の幕屋」を定め、そこで、「主はモーセと語られた」。「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」。
おわりに・次の聖餐の日を待つ、今、「霊と真理」「キリスト」の中に、臨在(会見)において、キリストの救いのもとに人々が導かれキリスト告白に至る、真の礼拝を忠実に求めたい。
2022年1月2日 礼拝説教 中心聖句
イエスは、…聖書を朗読しようとしてお立ちになった。…「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、…告げ、…主の恵みの年を告げるためである。」
ルカによる福音書4章16~18節
…この五十年目の年を聖別し、全住民に解放を宣言する。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。 レビ記25章10節
はじめに・主の到来を待ち望みつつ、新年を迎えた。主の安息日を定められた、創造主なる神の導きと共に、宣教開始50年と教会設立35年の恵みを感謝して記念したい。
1・幼子イエスはナザレで育ち、毎年過越祭には両親たちと共にエルサレムへ旅をし、十二歳の時には、神殿でイエスご自身「自分の父の家にいるのは当たり前」と証しされた(ルカ2章49節)。洗礼者ヨハネが「悔い改めにふさわしい実を結べ」と告げ
、人々が皆洗礼を受け、イエスが洗礼を受けた時、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた(ルカ3章21,22節)。「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳」「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3章23節)。荒れ野の中で空腹を覚えた時、悪魔の誘惑を受けながら、「「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いている」(マタイ4章4節)等と、神の言葉(律法)によって、誘惑を退けられた。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスは離れた」。それは、ゲツセマネの祈りと十字架に向かう「時」。安息日のナザレで、巡回教師(ラビ)イエスの聖書朗読において、「主の恵みの年」が告げられながら、恵み深い言葉に驚きながら、その実現を物語る、「サレプタのやもめ」「シリア人ナアマン」に主の恵みの業が注がれたことを聞きながら、故郷の人々は、救われない(?)言葉に憤慨し、安息日にイエスを会堂から追放する。それほどに聖書は理解されず、(ユダヤ人・異邦人を問わず)主の憐れみが注がれている人々が、安息日に会堂で、神の言葉を聞くことから、遠ざけられていた。
2・「主の恵みの年を告げる」とは、律法の書にある「ヨベル(角笛を鳴り響かせる)の年」を思い起こす言葉。シナイ山でモーセがこの律法を与えられながら、荒れ野の40年を越えて10年目にそれを実行した記録は見当たらない。今日、わたしたちが、宣教開始50年の時、「ヨベルの年」を思い起こすなら、主イエスが告げられたとおり、律法の約束する「本当の安息」を享受させてくださる、罪の赦しと諸々の束縛からの解放の中に、皆共に喜び、まったき平安の中に憩うこと。ここにある恵みと平安の中に、分け隔てすることなく、あらゆる国籍・人種・境遇の人々が招かれる「主の恵み深い言葉を受け入れる礼拝」を求めることに尽きる。
3・ヨベルの年に「あなたたちはおのおのその先祖伝来(自分たち)の所有地に帰り、家族のもとに帰る」とは、約束の地カナンに入る前の民にとっては、これから目指すべき命令。故郷ナザレにおいて「ヨセフの子」と思われたイエスにとって、皮肉にも、それは、かつて養父ヨセフとともに暮らした故郷への帰還でありながら、神の言葉の宣教においては、かえって、その土地の人々の、霊的に荒廃した姿を反証することとなった。今、わたしたちは、罪と悲惨の結果を目の当たりにしながら、「主の恵みを受け入れることを」求めるため、何処に帰ろう(悔い改め)としているのか。
おわりに・「我らの国籍は天にあり」(共同墓碑)「天の故郷を目指す」旅をこの年も続けつつ、宣教開始50年を、主の恵みを受け入れる年として皆共にささげたい。