2025年2月2日 礼拝説教 聖書箇所
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 ヨハネによる福音書7章38節
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの律法を楽しみとします。 詩編119編70節
はじめに・主の贖いの故に、まことの神礼拝へと招かれていることを感謝し、御言葉に聞く。
1・「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とは、当時の仮庵の祭り(仮庵祭)の終わりの日(9~10月)。モーセの律法、とくにレビ記(23章)において、「あなたたちは七日の間、仮庵に住まなければならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である。」(42,43節)と命じられるとおり、主の過越と除酵祭(種を入れないパンの祭り)とともに、出エジプトの御業を覚えるように定められた、収穫祭であり、贖いの日(贖罪日)の規定。贖いは、神との会見であり、大祭司が、神殿で、聖別の犠牲をささげること。礼拝の中心的奉仕。この日、「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』」。その声は、神に敵対する罪の世において叫ばれた。形骸化した礼拝のあり方に罪が最もよくあらわれた。事実、モーセ律法にはない、シロアムの池から黄金の器で水を汲んで、祭壇の西側の銀のたらいに水が注がれた。聖書の言葉を儀式的に付加した(イザヤ12章3節)。しかし、主イエス自ら、イザヤの預言を身をもって実現された。その招きは、「渇いている人」に向かう。「わたしの魂はあなたを渇き求めます」(詩編63編2節)、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」(イザヤ55章1節)、「主は常にあなたを導き、焼きつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる」(同58章11節)と、嘆願の祈りに応えるように、命の源でいます「主」なる神、契約の神ご自身が、招き、永遠の祝福を約束しておられる。
2・さらに、主イエスは、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内(おなか)から生きた(現に生きている)水が(いくつもの)川となって流れ出るようになる」と言われた。主イエスを、信じるとき、その人たちの魂との底から、キリストの命が汲めども尽きない泉のようにあふれ出る。それは、すべての人を潤す、救いと癒やしと慰めの水。イエス・キリストは、十字架の上で、「すべてのことが今や成し遂げられのを知り、『渇く』と言われ」た。「こうして、聖書の言葉が実現した」(ヨハネ19章28節)。主イエスは、ヤコブの井戸で、サマリアの女にも、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(同4章13,14節)と約束された。今、わたしたちは、霊と真理のうちに、自ら十字架の上にご自身をいけにえとしてささげられた、主イエス(御子)を遣わされた御父を知り、聖霊の恵みによって、まことの神、父(御父)と子(御子)と聖霊なる神を礼拝する日を与えられている。
3・「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」。じつに、主イエスの十字架は「栄光を受けること」であり、約束の“霊”、聖霊が降ったとき、主イエスの十字架の栄光が、使徒たちによって、証しされた(使徒2,3章)。
おわりに・今日、主キリストのための「卑しめ」「苦しみ」は、わたしのために良いことと告白され得る。それは、ただ、主イエスの永遠の祝福の中で、自らを明け渡す、神の栄光の道。
2025年1月26日 礼拝説教 聖書箇所
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 ヨハネによる福音書8章12節
太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず 月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり あなたの神があなたの輝きとなられる。 イザヤ書60章19節
はじめに・今日、キリストの血によって贖われた者たちの信仰と愛の道を、共に確認したい。
1・「イエスは再び言われた」。主イエスは、繰り返して、御自身のことを証しされる。福音書自身、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1章4,5節)と告げるとおり、繰り返して、永遠の御子、イエスの命と光を証しする。福音の光のもとに招かれるとき、わたしたちは、心の目を開かれ、「闇から光に、サタン(悪魔)の支配から神に立ち帰」り、イエスを主と信じる「信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになる」(使徒26章18節)。じつに、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださ」(コリント二4章6節)った。主イエス御自身、「わたしが、世の光である」と言われるとき、創造主なる神、契約の神でいます「主」として、同時に、始祖アダムにおいて堕落した全人類の罪と汚れを負う「世」における「光」であるとの自己啓示。
2・さらに、主イエスは「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず」と言う。それは、「主」イエスと共に歩む道のあり方。それは、光の中を歩む道。「世」は「暗闇」。「罪が支払う報酬は死」「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」(ローマ6章23節)。主イエスの十字架は、全地の闇の中でささげられた「光」。降誕の日、天上の賛美の声は、全地に響いた。乳飲み子イエスも、十字架の上のイエスも、人の目には輝いていない。しかし、信仰の光によって、イエスの栄光を見るとき、わたしたちは、皆共に、「主」イエスに従う。「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われた」。同じように、「私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こう」(ヘブライ13章12,13節)と奨励される。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」と叫ぶ時、「「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いているとおり」(ローマ8章35,36節)と添えられる程に、主イエスに従う道は、絶えざる霊的危険と隣り合わせ。
3・そして、主イエスは、「命の光を持つ」と結ぶ。それは、わたしたちが、主イエスと共に歩むだけでなく、主イエスの中にいることを証しする。主イエスは、山上の説教において、「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ5章14節)と言われた。わたしたちにとって、「立派な行い」「良い行い」とは何か。それは、主の律法と預言者に適う、救いの喜びに生きる、まことの信仰と愛の業。「あなたがたの義が律法学者やファイサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(同5章20節)と、主イエスが言われるとおり、まことの光は、罪に死んだ人を、まことの救いと命に導く光。ファリサイ派の人々は、主イエスの証しを「肉に従って裁いた」。今日、わたしたちの目は、何をもって事柄を判断しようとしているか。
おわりに・キリストの光が、輝き出るとき、「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず」「主があなたのとこしえの光となり」「あなたの神があなたの輝きとなられる」。「初めであり、終わりである」お方、イエスの栄光が輝く日を待ち望みたい(ヨハネ黙示録22章13節)。
2025年1月19日 礼拝説教 聖書朗読箇所
マタイによる福音書 16章 13~20節
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
2025年1月12日 礼拝説教 聖書朗読箇所
マタイによる福音書 26章 6~13節
6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
詩編 20編 7~10節
7 今、わたしは知った 主は油注がれた方に勝利を授け
聖なる天から彼に答えて 右の御手による救いの力を示されることを。
8 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。
9 彼らは力を失って倒れるが 我らは力に満ちて立ち上がる。
10 主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください。
2025年1月5日 礼拝説教 聖書箇所
それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。 ヘブライ人への手紙6章18節
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。 詩編30編4節
はじめに・「深い淵の底から」(詩編130)主のもとにある罪の赦しと望みを祈り求めつつ。
1・「神は、アブラハムに約束する際に」と、主の望みに生きた一人の人を思い起こす。「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たち」(6章12節)の一人。神は、「御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓」う方。その約束は、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」(創世記17章2節,22章16,17節)。「こうして、アブラハムは根気よく(長い間気落ちしないで)待って、約束のものを得た」。事実、アブラハム百歳、サラ九十歳の時、約束の子イサクが与えられた。御子の降誕の時、老ザカリアとエリサベトに洗礼者ヨハネが与えられ、聖霊によって処女マリアの胎にイエスが宿られたように、主は時を定め、信仰の忍耐において、その実現の日を見ること良しとされる。「死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれた」(11章12節)。その告白は「地上ではよそ者」「仮住まいの者」。
2・「たしかに、人間(人びと)は、自分より大いなるものを指して誓い」(新共同訳「そもそも人間は」と訳出)と、誓いが重要である理由が説明される。それは「誓いはすべての反対論に終止符を打つ(けりをつける、遠く地の果てに追いやる)保証となるから」。反対論が無力化すること。この誓いは、“聖なる誓い”であって、決して、うそ偽りが入り混む余地のないもの。主イエスは、「天、神の王座にかけて、地、神の足台、エルサレム、大王の都」に加えて「頭」にかけて誓うな(マタイ5章34~37節)、と言われたほどに、世の宗教は、神を畏れず、人の知恵によって、神の名と業を都合よくあしらうことを明るみに出された。「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子」「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告」(ガラテヤ3章7,8節)したと言われるとおりに、真の救いは、ただ、神の約束と誓いという神の御意志の実現による。わたしたちは、血縁、民族、宗教等の枠を越えて、キリストの恵みを増し加えられる。そそれは、世のただ中で、神の約束と誓いの真実を証しする道(ヨハネ1章13,17,16節)。じつに「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさった」。
3・「という事は、変わることのない二つの事柄があり、これを神が偽って言うに能わず、前におかれた希望をしっかりとつかもうと(神のもとに)逃れてきたわたしたちは、大きな励ましを持ちます」神は、ご意志において、決して誓いと約束を、捨て置かれたりはしない。「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの」「至聖所の垂れ幕の内側に入っていくもの」。ここに、わたしたちは、主の恵みによって罪赦された者たちの希望は、どのような試練の中でも、揺るぐことのないものであり、確かな礼拝に至る道であることを認める。「イエス」こそ、「わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられた」。十字架の死のとき、「神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた」(マルコ15章38節)。ここに、ただ、キリストの贖いのゆえに、真心から神に近づく真の礼拝の道が開かれた。キリストは永遠の大祭司として、今日、わたしたちを祝福し、キリストの日(再臨)に備え、信仰と忍耐と希望を与えられる。
おわりに・詩編30編は、深い悲しみと絶望から確かな希望と喜びを歌う。復活の主を、望み。
2024年12月29日 礼拝説教 聖書箇所
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。 イザヤ書42章6節
「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」 ルカによる福音書2章32節
はじめに・主の降誕の恵みを覚えつつ、僕となられたイエス・キリストを「主」と認めたい。
1・「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。」ここに、わたしたちは、一人の人、「主の僕」の召命を見る。それは、「わたし」主が、「選び、喜び迎える者」。「彼の上に」「わたし」主の「霊は置かれ」、彼、一人の僕は、「国々の裁きを導き出す」。この一人の僕とは誰か。「インマヌエル(神我らと共にいます)」(マタイ1章23節、イザヤ7章14節)との御名を現された、主イエスが、安息日に、手の萎えた人をいやされた時、この「預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(マタイ12章17節)と、神の真実が、証しされる。そこでは、「国々の裁きを導き出す」が、「異邦人に正義を知らせる」、「裁きを導き出して、確かなものとする」が、「異邦人は彼の名に望みをかける」と改めて言い表される(七十人訳聖書とは異なる)。つまり、福音書は、主イエスの到来は、はじめから、決して、一宗教の、一地域の、一時代のものではなく、その限定、区分、隔てを越えて、世界の、国々の、全時代の、全歴史の、支配者であるお方が、神と人に仕える僕として来られたことを告げる。
2・「彼は叫ばす、呼ばわらず、声を巷に響かせない」。「大勢の群衆が従った」時、「イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」(マタイ12章16節)。また、ペトロが「あなたは、メシア[キリスト]です」と呼んだ時にも、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(マルコ8章30節)。御使いによる救い主誕生の知らせとは異なり、主の十字架に至る道は、世のただ中で、一つの召命を明らかにする。それは、ただ、主の僕であることに尽きる。「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁き(正義)を導き出して、確かなものとする」とは、世の権力者(上に立つ者)からすれば、絶えず、社会の周辺(下)に置かれた者たちを蔑むことなく、かえって、自ら、周辺(下)に置かれた者として、その命を守り、正義を明らかにすること。「暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」。
3・「神(真に力ある全能者)は天を創造して、これを広げ 地とそこに生ずるものを繰り広げ その上に住む人々に息を与え そこを歩く者に霊を与えられる」と、「主である神(神なる主)は(主の僕に)言われる」。主イエス・キリストは、「アブラハムの子、ダビデの子」(マタイ1章1節)と証される。主なる神は、息子イサクを献げた、アブラハムに「あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがたわたしの声に聞き従ったからである」(創世記22章18節)と約束された。アブラハムは、始めから特定宗教の父祖に相当させるための者ではなく、主なる神の約束において召された、一人の僕。「主であるわたしは、恵み(正義)をもってあなたを呼び あなたの手を取った(握った)。民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた」「見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む者をその牢獄から救い出すために」主の預言は、まことの神が、そのはじめ、そして、過去、現在、将来の主であり、導き手であり、救う力のある方であることを証しする。偶像の神々は無力。真の新しさは、命の更新にある。
おわりに・シメオンは、死期を前に、救いの命をイエスに見た。死後の命にまさって、「万民のために備えた救い」「異邦人を照らす光」、民の栄光を。真の正義と平和の実現がここに。
※12月22日の「礼拝説教」動画はありません。
2024年12月22日 礼拝説教 聖書箇所
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 ルカによる福音書1章13,14節
ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。 イザヤ書9章5節
はじめに・主の備えの中で燭火礼拝を共にし、今日、更に主の良きおとずれ(福音)に聞く。
1・「その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた」。天からのみ使いによって、ベツレヘムにおけるイエス誕生の知らせは、この羊飼いたちのみ。羊飼いたちへの知らせは、時と場所を越えて、告げられた。天と地を造られた神は、神殿礼拝の時ではなく、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、イエスの誕生を告げられた。イエスの誕生は、はじめから危険と隣り合わせ(マタイ2章:ヘロデ王による二歳以下の男の子殺戮)。しかし、主は最善の時と場所と人を選ばれた。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘムの事)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア[キリスト]である』」。「この子は自分の民を罪から救う」「その名はインマヌエル、『神は我々と共におられる』(マタイ1章21,23節)。ここにある宣言は、この子こそ、まことの神にして、まことの王であり、救い主であること。当時、皇帝も、主と呼ばれ、神格化されていた。神の約束のメシア[キリスト]の到来は、世のただ中で実現した。救い主は、実に、疎外された羊飼いたち、また、そのような人々のために、「あなたがために」「生まれた」「救い主」。
2・「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」。「これがあなたがたへのしるし」。イエスの生まれた場所は、家畜小屋(もしくは洞窟)の中。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」聖書における「平和」の登場は、同盟を結ぶ四人の王たちと五人の王たちの戦いの中で、ロトを救出したアブラム(後のアブラハム)を祝福した、「サレム(平和)の王メルキゼデク」(創世記14章)まで遡る。実に、この王は、大祭司にしてまことの王イエスの予表(ヘブライ5章~7章、詩編110編)。平和は、人々と国々の戦いが、静められることであった。「いと高きところには栄光、神にあれ」と、偶像礼拝の世のただ中で、真の神、キリストの栄光が、讃えられ、同時に、「地には平和、御心に適う人にあれ」と、圧政の世のただ中で、主キリストを「平和の君」として迎える者たちへの永遠の平和、大いなる赦しと和解が宣言される。
3・「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」羊飼いたちは、み告げを受け入れる用意を与えられてた。わたしたちは、今、ここで、同じように、福音の知らせを聞くなら、即座に、喜びの知らせを伝える器とされる。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」。
おわりに・キリストの王国は、今、ここに。恵みの支配の中に、罪赦され、救われる喜びを。
2024年12月15日 礼拝説教 聖書箇所
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。 イザヤ書9章5節
この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」 ルカによる福音書1章78,79節
はじめに・諸々の歌に彩られる今日、わたしたちの心に「主」を迎え、真の賛美を献げたい。
1・「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と、これから起こることが、すでに起こったことのように預言される。主の契約の民(イスラエル)が、二王国に分裂していた時代。アッシリアの大軍が、「(南)ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す」(8章8節、以下同章)。この時、主なる神は、「その広げた翼は インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす」(9節)と、主の民を「インマヌエル(神我らと共にいます)」と呼ばれる。そして「戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから」(10節)と伝える。「主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた」こと、それは、「この民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない」「彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。」(13節)「主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき」(新改訳2017 13節)。著しい圧迫と不安の中、「主」が、人々の「つまずきの石」となった時、「この地で彼らは苦しみ、飢えてさまよう」。「顔を天に向けて王と神を呪う」。「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」(22節)。「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」(23節)時、外敵に征服された「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる地にもたらされる、希望の預言が、公言される。実に、「インマヌエル」である「主」イエス御自身が、ガリラヤにおける、悔い改めと神の国の宣教において、確かに果たされる(マタイ4章13~17節)。
2・「あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり人々は御前に喜び祝った」と、さらに、希望の預言が続く。ここにある喜びは、「刈り入れの時を祝うように」「戦利品を分け合って楽しむように」「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を」「あなたはミディアンの日のように」(士師7章:300人の精兵による135000人のミディアン軍への「主の勝利」)「折ってくださった」と言われるように、大きな収穫とあり得ない戦勝において形容される。
じつに「地を踏みならした兵士の靴」「血にまみれた軍服はことごとく」「火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。「その日が来れば」(ミカ5章9節)、軍隊の装備は不要となる。
3・「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」との預言のとおり、主なる神は、「インマヌエル」の名を、御子の降誕において実現された。地上の戦勝、捕囚の地からの帰還にまさって、一人の「恵みの契約の仲保者」「大祭司」でいますお方が、ここに与えられる。
「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者(弱き者をいたわる王(ミカ4章7節))、力ある神(雄々しく戦われる(詩編24編8節))、永遠の父(慈愛に満ちた贖い主(イザヤ63章16節))、平和の君(正義と公平と贖いのもたらす永遠の繁栄と祝福(イザヤ11章)』と唱えられる」。「ダビデの王座とその王国に権威は増し」(サムエル下7章)「平和は絶えることがない。王国は正義(裁き)と恵みの業(正義)によって今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。「インマヌエル」の名は、主イエスをまことの預言者、王、大祭司として知る名。
おわりに・約束の地カナンに住むこと、神殿礼拝を特定とすることにまさって、「主キリストの民」とされ、霊と真理による礼拝(霊的従順における神賛美)こそ、霊的生活の本質。
2024年12月8日 礼拝説教 聖書朗読箇所
ローマの信徒への手紙 3章 19~25節
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。 それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
2024年12月1日 礼拝説教 聖書箇所
それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。 イザヤ書7章14節
このすべてのことが起こったのは、主は預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 マタイによる福音書1章22節
はじめに・主の待降節「静まって」主こそ神であることをを知る備えの時(詩編46編10節)。
1・「主は更にアハズに向かって言われた」。時の南ユダ王国の王アハズへの主の言葉。この時、「アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家(南ユダ王国)に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺し」ていた(2節)。主はイザヤに「あなたは息子のシェアル・ヤシュブ(残りの者が帰って来る)と共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子(イスラエルの王ペカ)が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株(アラムと北イスラエル王国)のゆえに心を弱くしてはならない」(4節)と伝え、アハズを警告する。また、アラムがエフライムとレマルヤの子(北イスラエル王国)とともに悪事を企て、「ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアル(トブの地[ヨルダン川東側]にまつわるアラム語の名)の子をそこに王として即位させよう」(7節)と言っても、決して生じ得ないことを伝える。「アラムの頭は(王国の首都)ダマスコ、ダマスコの頭は(その王)レティン。(65年たてば[B.C.670年アッシリアによって](北イスラエル王国)エフライムの民は消滅する」(8節)。「エフライムの頭は(王国の首都)サマリア サマリアの頭はレマルヤの子(王)。信じなければ、あなたがたは確かにされない」(9節)。更に主はアハズに「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」と告げて言う。
2・「しかし、アハズは言った。『わたしは求めません。主を試みません』[新改訳]」。アハズは新興国アッシリアの王ティグラト・ピクセルのもとに使者を遣わし、助けを求めた。アハズの使者はアッシリアの王の前に「わたしはあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを救い出してください」(列王記下16章7節)の王の言葉を伝えた。「アハズ(使者をとおして)は主の神殿と王宮(主の家)の宝物庫にある銀と金を取り出し、アッシリアの王に贈り物として送った」(同8節)。アハズの願いを聞き入れたアッシリアの王は、ダマスコを攻め、王レティンを殺した。しかもこの時、アハズは、ダマスコにあったアッシリアの祭壇を主の神殿に持ち込み、祭司ウリアに命じて諸々の献げ物をささげる等、偶像礼拝の諸々の罪を重ねた(同10~18節)。
3・「イザヤは言った。『ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間(弱い者たち、一人一人)に、もどかしい思い(辟易する疲れ)をさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思い(辟易する疲れ)をさせるのか。』それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエル(神我らと共にいます)と呼ぶ。災い(悪事)を避け、幸い(御心)を選ぶことを知るようになるまで彼は(荒廃と飢饉の中で)凝乳と蜂蜜を食べ物とする。」アハズにとってインマヌエルとは「神の全き救い」であったが、アハズはそれを捨て、異教の神々に仕え、不信を極めた。「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」(イザヤ8章13節)。
おわりに・主イエス・キリストの系図に「アハズ」の名を認める(マタイ1章9節)。この子、イエスは「自分の民を罪から救うから」。今日、罪を罪、救いを救いと認める者こそ、幸い。
2024年11月24日 礼拝説教 聖書箇所
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。エレミヤ書31章33節
神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。 コリントの信徒への手紙二3章6節
はじめに・主を待ち望む今日、福音の光の輝きとその豊かに心を留め、祈りを新たにしたい。
1・「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」。出エジプト後、イスラエルの民は、王国建設を実現しながら、二王国分裂を経て、バビロン捕囚によりエルサレム陥落を見る。真の預言者エレミヤは、主が「イスラエルの家とユダの家」、全イスラエルを回復するメッセージを時代のただ中で預言する。それは、歴史の主である真の神、主の言葉が臨んだ預言者のみが伝えることのできる“主の約束”。それは異教の地から帰還する日を望む、一つの希望を与えるもの。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29章11節)。「あなたたちの未来には希望がある」「息子たちは自分の国に帰ってくる」(31章17節)。「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」と言われるとき、アブラハム契約(神の国のはじまり)、シナイ契約(民の契約と律法の授与)に取って代わるものというよりも、その実現を、全イスラエル(主キリストの民)に新しい形で示すということ。「わたしが彼らの主人(夫)であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った」との主の熱情的責めは、「新しい契約」が、決して、主の契約と律法(神の義)と切り離せないことを明らかにする。
2・「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」主イエスは「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(マタイ8章11節)と言われた。御子の贖いと聖霊による新生(再生)と聖化における実現。キリストを知る教会は、キリストの花嫁としてキリストの再臨を待ち望む。キリストの心を心とする謙遜と従順こそ、主がわたしたち一人一人の心に「書きつけられた(霊の)手紙」(コリント二3章3節)。手紙は文字によるが、霊の手紙は、主の思いを知る者として霊の人を福音の光へ導く。
3・「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」福音の光に心を照らされ、主の救いの恵みによって養われるとき、わたしたちは、もはや、人の見える、隣人関係・近親関係・主従関係・師弟関係から解放される。「あなたの子らは皆、主について教えを受け あなたの子らには平和が豊かにある」(イザヤ54章13節)との預言が実現する。主キリストの贖いと和解における全イスラエルの神との和解は、世のただ中で、福音の光を明らかにし、永遠の祝福と安息を証しする、「教会教育」は、この意味で、御言葉の光を明らかにすること(開示)であり、教える者も、聴く者も、等しく、聖霊の導きにおいて、啓示の主キリストを認めること。
おわりに・新しい契約の預言は、キリストの王国を告げるもの。今や、聖霊によって、キリストの贖いと和解が、福音の光に照らされる者たちに心の変革が与えられる時。それは、律法の終わりとなられたキリストの内にある生ける信仰とまことの従順において果たされる。霊的安息を共にする者たちの祈りと交わりを、心を尽くして求めたい。「霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか」との励ましの言葉に応え祈りを新たにしたい。
2024年11月17日 礼拝説教 聖書箇所
「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」 サムエル記下7章12節
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」 マタイによる福音書16章17節
はじめに・ダビデ契約において、「イスラエルの子たち」に与えられた、契約の希望を学ぶ。
1・「わたしの僕ダビデに告げよ」とは、主の言葉が臨んだ預言者ナタンに命じられた“主の命令”。「王」ダビデは、「主の僕(しもべ)」。ダビデはこの時、サウルに代わって二代目の王となり、エルサレムの「王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった」。ダビデは、イスラエルがエジプトの奴隷下から救い出された主の御業とその臨在を証しする「神の箱」について「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」といい、「神の箱」にふさわしい安置の場所を求める。ナタンは王に一度は、「心にあることは何にでも実行なさるとよいでしょう。主があなたと共におられます」と言う。「しかし、その夜、ナタンに臨んだ主の言葉」は、「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた」であった。主は「神の箱」、「わたしのために」「レバノン杉の家を建てないのか」と言われる方ではなく、かえって、ここで、ご自身の「僕」ダビデに、ご自身の名のために、永遠の家と王国を建てる約束をされる。次の王ソロモンの神殿等は、キリスト到来前の期間限定(列王記上6章12節)。
2・「わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って」とは、王ダビデに与えられた召命が、主のものであることを謙遜に物語る。人の目に大きな栄誉を与えられた者は、かえって、小さな出発を思い起こすことが大切。神の目にダビデは、小さな者であり、なお「僕」。「わたしの民イスラエルの指導者にした」のは、主であり、主が、「敵」を「すべて退けて」「安らぎを与え」「あなたのために家を興す」。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものにする」。この王国とは、地上においては、一時、(ダビデがウリヤの妻によってもうけた(マタイ1章6節)ソロモンの栄華にその結果を見るが、主イエス・キリストの到来において、この約束が、キリストにおける永遠の神の国の実現を指すことを認めることができる。事実、御使いは、マリアに「その子(イエス)は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」(ルカ1章32節)と告げた。まことの王は、地上の政治的支配者としてではなく、永遠の神の主権を、真の謙遜と従順において果たされる「僕」として来られる。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座をとこしえに堅く据えられる」とは、実に、キリストの王国(神の国)が、永遠で堅固であることを告げるもの。
3・「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました」と、主の僕ダビデは祈りをささげる。アブラハム契約、シナイ契約同様、ダビデ契約においても、主の約束に謙遜と従順をもって応答する時、契約の基が据えられる。主は、民の背信と罪にもかかわらず、ご自身の真実と誓いにかけて、果たされる。ただ、主の深い憐れみによる、恵みの契約の実現。
おわりに・十字架と復活の主イエスを「メシア[キリスト]、生ける神の子」と、神の啓示とその実現を告白する教会(エクレシア)は、主の僕たちの「祈りの家」、主の契約の実現を証しする「契約の子たち」(共同体)。主キリストの到来と、救いの希望を人びとに伝えつつ。
2024年11月10日 礼拝説教 聖書箇所
「今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちは鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。」 出エジプト記19章5節
しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、 ヘブライ人への手紙12章22節
はじめに・混沌とした時代の中で、主キリストの救いの歴史における恵みの契約の制定を学ぶ
1・「イスラエルの人々(子たち)は、」とは、主なる神自ら、歴史の主であり、御自身の誓いと契約において、救いの約束と希望を与えられた《契約の子たち》。かつてヨセフは、エジプトに来た兄弟たちに、自身の死を前にして、「しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」(創世記50章24節)と伝えた後にエジプトの地で増え広がった民(創世記17章2節)。神は、先にはアブラム(アブラハム)に伝えた「あなたの子孫は異邦の国で四百年の間奴隷として仕え、苦しめられる」(創世記15章13節)と伝えた。そして、御自身の契約を思い起こされ(出エジプト2章24節)、ご自身の名をモーセに示された(同3章16節)。ついに、主の御業によって、エジプトの苦難の中から脱出(出エジプト)した《契約の子たち》は、「エジプトの国を出て三ヶ月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」。「彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野で天幕を張った」。「イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した(単数)」。イスラエルは一つの群れとして、ここに、神の契約の制定に備える。
2・「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた」。モーセは、山ではなく、「神のもとに上がった」。すると「主はその山から彼を呼ばれた」。「ヤコブの家に言い」「イスラエルの子たちに告げなさい」。貧しさと苦難、そして、脱出と導きの歴史を思い起こす。モーセの思いにまさって、神からの言葉と命令は、神の契約の更新を告げる特別な愛と真実の言葉。「あなたたちは見た」「わたしがエジプト人にしたこと」「また、あなたたちを鷲の翼に乗せて」「わたしのもとに連れて来たことを」。地における、出エジプト(脱出)は、先には「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き」「御力をもって聖なる住まいに伴われた」(15章13節)と歌われ、後には「いと高き神が国々に嗣業の土地を分け 人の子らを割りふられた」(申命記32章8節)と証しされたとおりに、真の神の力強い御業と御守りと御救いにおいて実現し、御自身の民において証言され、告白される、礼拝的出来事。そして、命と契約の神でいます、「主」は、「今、もしわたしの声に聞き従い」「わたしの契約を守るならば」「あなたたちはすべての民の間にあって」「わたしの宝となる」「世界はすべてわたしのものである」との約束される。「宝」とは、特別な宝であり、高く尊ばれ、傷つけられることから注意深く守られる貴重な所有物(イザヤ43章4節)。民は応えて「わたしは確かに知った」「主は大いなる方」「わたしたちの主は、どの神にもまさって大いなる方」と告白する(詩編135編5節)。「あなたたちは、わたしにとって」「祭司の王国、聖なる国民となる」(ペトロ一2章9節)、「これが、イスラエルの人々(子たち)に語るべき言葉である」。
3・「モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った」。主の宣言を民が受け入れたこと。わたしたちは、ここに、主の恵みの契約における基礎が据えられたのと見る。「モーセが民の言葉を主に取り次ぐと」。十戒の授与と一つ。
おわりに・わたしたちのささげる礼拝の基礎は、神の御業と新しい契約の仲介者キリストにおける贖いの御業の実現にある。受難と復活、御国の王、栄光の主において、わたしたちは、今日、自ら、契約の民の一人とされた者として、無数の聖徒たちと共に、神の栄光をたたえる。
2024年11月3日 礼拝説教 聖書箇所
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」 創世記12章1節
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くようにと召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。ヘブライ人への手紙11章8節
はじめに・宗教改革記念日から待降節に向かう今日、主の憐れみによる、召命と従順を学ぶ。
1・「主はアブラムに言われた。」とは、後に、出エジプトにおいて「主」と言う名をモーセに啓示された契約の神にして至高の神、「主」(出エジプト3章15節)が、アブラム(後、アブラハム)に一つの召命を、御自身の言葉によって命じられる歴史的出来事。それは、人類の歴史のはじまりにおいて堕落したアダム(全人類)の罪を贖う道を、神の御意志において新しく開かれる事。主はアブラムに何を命じられたのか。「あなたは生まれ故郷(国を出て、親族に別れ)、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。使徒言行録7章のステファノの説教では、「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました」(2,3節)とあるとおり、主の召命は、ハランに移る前に与えられた。父テラは、偶像礼拝の地ハランに安住した。しかし、父の死後、アブラムはそこから離れ主の召しに従う。
ここに、わたしたちは、主イエスの告げた、神の国のはじまりを見る。それは、主の召しを与えられた者たちが、主の召しに従うことにおいて実現していく「命の道」(ルカ9章62節)。
2・「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める(大いなるものとする)。祝福の源となるように」。ここに、わたしたちは、主の召命とともに、祝福の契約を見る。それは、アダムの堕落ゆえに、原福音(創世記3章15節)において明らかとなった、神の「敵意」と「呪い」を身に負う者となった全人類の罪を覆って余りある、主なる神の深い憐れみによる。「大いなる国民にし」「名を大いなるものとする」とは、神の王的支配が、アブラムとその子孫において、ついには、全世界に広がること。主は重ねてこう約束される。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。使徒パウロは、「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」と命じ、こう神の祝福を証しした。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(ガラテヤ3章7~9節)。わたしたちは、十字架の上にささげられた、御子の贖いを今や、神の契約の祝福として知る道をいただいた。この神の祝福は、闇の世のただ中で、ただ、神の憐れみにより「良き知らせ(福音)」として伝えられる。
3・「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」ここに、わたしたちは、信仰による従順を見る。それは、「七十五歳」にして「行き先も知らずに(ハランを)出発した」ほどに、主の道を行く事。「ロトも共に行った」ことを更に説明して「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った」と言う。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所(立ち所)、モレの樫の木(力の象徴)まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた」「主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』。」実に、約束の地カナンは、キリストにおいて全世界に広がった(ガラテヤ3章16節「一人の人」「子孫」=キリスト)。
おわりに・今や、キリストにおいて、神の恵みの支配(国)は、信仰によって生きる人々の中に実現している。信仰によって、神の約束を望み、地上の生涯を主のものとして告白したい。
2024年10月27日 礼拝説教 聖書箇所
この主のもとに来なさい。主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 ペトロの手紙一2章4節
「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信じる者は慌てることはない。」 イザヤ書28章16節
はじめに・宗教改革記念日を覚え、キリストを土台とする教会の使命を再確認し、祈りたい。
1・「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」とは、堕落した全人類の中から、「父である神があらかじめ立てられたご計画に基づいて」(1章2節)、復活の主イエス・キリストの内にある信仰によって救い出され、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」(1章8節)、「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(1章22節)との奨励を受けての言葉(マルコ7章20~23節)。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)との新しい掟を与えられた。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と命じられるとき、「霊の乳」とは、生きた言葉、命の言葉、主の言葉、福音(喜びの知らせ)。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられた」。しかし、「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石」。詩編34編「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。ほんとうに生けるまことの神が共におられると実感するとき、神の恵みの現実、神の臨在が告白される。
2・「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」。《教会》とは、キリストとその教え(真理)を土台とし、生けるキリストにつながって生きる者たち自身(マタイ16章18節,エフェソ2章20節)。「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」。主にある兄弟姉妹は皆、大祭司イエス・キリストにおいて「聖なる祭司」(万人祭司)。まことの信仰に生きるすべてのキリスト者(教会)が、神と直接交わり、神と隣人に仕える者とされる。わたしたちのささげる礼拝と交わりは、ただ、生けるキリストの内にあって、聖霊の恵みによってささげられる感謝の応答(献身)。使徒ペトロはここでイザヤ書(28章16節)の「主の言葉」によって、十字架と復活の主イエスにおいて、闇の支配が打ち破られた恵みと救いの力における、永遠の神の御心とご計画の実現を証しする。「見よ、わたしは選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない」。「この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないもの」。しかし今や、「信じない者たちにとっては『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」。さらには「『つまずきの石、妨げの岩』」。「彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められている」。
3・「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」。キリストの到来において、わたしたちは、今日、《教会》は、はじめから、神の定められた歴史の中で、神の約束と誓いという「二つの不変の事柄」(ヘブライ6章18節)においてこの世に現れた「聖なる国民」であることを認める。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため」「あなたがたは、『かつては神の民ではなかっただ、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』」。その使命は、神の憐れみにおいて、人々のために執り成して祈り、キリストの福音を伝え続け、真の信仰において、教会建設に仕えること。
おわりに・混沌とした世のただ中で、生けるキリストの光を輝かす希望の祈りをささげたい。
2024年10月20日 礼拝説教 聖書箇所
アダムと女が、主なる神を顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 創世記3章8,9節
サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 使徒言行録9章4節
はじめに・神との交わりを失った人間に問いかけ、語りかける、神の声を聞く(学びつつ)。
1・命の祝福 祝福された状態からの堕落(堕罪)
神のご意志により、人間は、「神にかたどって」造られた(「神のかたち」)。神は霊である。霊を見える形にすることはできない。つまり、人間が「神のかたち」であるとは、人間は神と応答する魂(命の息)あっての人間(霊的存在)。命のあるものを治める者。大いなる神の安息(憩い)の中にある勤労と結婚(社会生活の基礎)。人間関係の基本(互いに、対等に、向き合える、よきパートナー、「裸」体も心も通い合うもの)。聖書は、はじめから、神と人間との交わり、人間同士の交わりとその祝福を証ししている(伝説ではなく神の歴史)。
2・罪の実相 神との交わりの喪失(罪の方向)
主なる神は、人間に最初の約束を与えられた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2章16,17節)。「蛇(悪魔)は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』」。わたしたちは、ここに、神の命令を知りながら、その言葉を聞く人に疑いを起こすように、しかも、神ではなく、悪に引きつけるように誘う。「女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んでもいけないから、と神様はおっしゃいました。』」神の命令は、人間を永遠の安息と祝福の中に守るもの。それを破る時、人間は、自分の思いのままに善悪を判断し、聖なる神との交わりを疎んじる者となる。主イエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2章27節)と言われた。安息日とは、神のご意志による天地創造(人間の目的)と永遠の安息を覚える日。「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。』主イエスが、悪魔の誘惑を受けられた時、悪魔は同じように、神の言葉を利用し、「非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った」(マタイ4章8,9節)。女は自分の目の見るままに、それを食べ、男にも渡し彼も食べた。
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とは、互いに恥じを隠し合ったこと。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」」神の呼びかけは、「なぜ隠れるのか、出て来い」と命じるのではなく、二人を捜し求める声として呼びかけられた。「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」羊飼いのように(ルカによる福音書15章4節)。
3・救の希望 十字架の主イエスからの声(使徒パウロ(サウロ)の場合)
人間の堕落は、人間同士の責任転嫁に表れる。不和と争いの根源に、神との交わりを失った人間の深い闇がある。原福音(創世記3章15節)は、「敵意」を砕くお方の到来を告げる。このお方こそ、イエス・キリスト。使徒パウロ(サウロ)は、十字架の主の声の聞き回心した。
おわりに・「今日、御声を聞いたなら、心をかたくなにしてはならない」。「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう」。
2024年10月13日 礼拝説教 聖書箇所
マタイによる福音書 9 章 9~13 節
9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ホセア書 6 章 1~6 節
1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。2 二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ 降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」
4 エフライムよ わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。5 それゆえ、わたしは彼らを 預言者たちによって切り倒し わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。6 わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。
2024年10月6日 礼拝説教 中心聖句
いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します。 詩編101編2節
しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。 エフェソの信徒への手紙5章,14節
はじめに・「神の国」を求めるとは、神の王的支配を求めること。主キリストの支配を学ぶ。
1・「慈しみと裁きをわたしは歌い」との「わたし」とは、ダビデ(表題のとおり)。イスラエル王国の二代目の王であった、ダビデはもともと羊飼いであった(詩編23編)。エッサイの八人の息子の末の子であったが、サムエルにより油を注がれる(サムエル上16章)。しかし、最初の王サウルから命を狙われ、荒野を逃亡した時にも、主が油を注がれた王として尊敬し、サウルの上着の端をひそかに切り取った時にも後悔した(同上24,26章)。また、サウルの死の時にも尊重し、サウルとその子ヨナタンを悼む歌を詠んだ(同下1章)。ダビデは全イスラエルの王として統治した時、都をヘブロンからエルサレムへ移す(同下5章)。この詩編は、ダビデが、都へ「主(神)の箱」[契約の箱]を迎えた時(同下6章)、その備えの歌。ここで、「慈しみと裁きをわたしは歌う」とは、主の臨在の中で、治める者は「公平を求め、正義を速やかにもたらす」(イザヤ16章5節)ものであることを個人的に証しする。それは、神の怒りと苦悩(憤り)が静められ、民の罪が赦され、救われる道を歌う(詩編85編)。「主よ、あなたに向かって、ほめ歌います」と、ただ、王の職務が、主の任命であることを告白する。
2・「完全な道について解き明かします」とは、王の職務の実行は、「完全な道」を求める用心にあることを証しする。「いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。」と問う。それは王の職務を果たす時まで、「わたしは家にあって 無垢な心(直き、清い心)をもって行き来します。卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み まつわりつくことを許さず 曲がった心を退け 悪を知ることはありません。 隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません」と決意することに通じる。「完全な道」とは、主の憎まれる道を捨てること。「あらゆる悪徳から身を守るため努力する」(カルヴァン)道。
3・「わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め」とは、王の職務が共同的に果たされる時、そこでは、まず、「信頼のおける人々」、つまりは、「真実な者」を求めること。彼らこそ、「わたしと共に座に着かせ 完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。」「わたしの家においては 人を欺く者を座に着かせず 偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。」「朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」使徒パウロはコリントの教会に「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。」(コリント一4章7節)と問いかけた。また、主イエスは「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20章25~28節)と言われた。「耐え忍ぶなら、キリスト共に支配するようになる」(テモテ二2章12節)との真実は、今、わたしたちのどこに見られるであろうか。
おわりに・「明らかにされるものはみな、光となる」とは、「実を結ばない暗闇の業」が消えて光となる事。それは、まことの王にして祭司でいます主キリストのもとに来る者たちの栄光。「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」。試練の中「光の子として歩」もう。
2024年9月29日 礼拝説教 中心聖句
この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。 使徒言行録20章32節
いかに幸いなことか 主を神とする国 主が嗣業として選ばれた民は。
詩編33編12節
はじめに・主イエスの御国は、福音の前進とともに証しされる。今日、その御業を信じたい。
1・「そして今、神とその[御自身の]恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」と、別れの時、使徒パウロは、エフェソの長老たちに、最も近くあるお方は神であり、恵みの言葉を近くに生きるように激励する。「ゆだねる」とは近くに置くこと。さらに、「この言葉は、あなたがたを建て上げ、聖別されたすべての者たちの中で、あなたがたに嗣業を与えることができる」と言う。この「嗣業」とは、キリストにおいて約束された、御国の完成に至る永遠の祝福(エフェソ1章10~12節、2章19~22節)。「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らには知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が(も)福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる(共に参与する者である)ということ」(エフェソ3章5,6節)。
2・続けて、「金も銀も衣服も望まなかった」と、使徒パウロは、言う。使徒ペトロは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と言い、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と足の不自由な人に命じ、主の恵みの業を見た(使徒3章6節)「あなたがたも知っているとおり、わたしのもろもろの必要(義務)とわたしといっしょにいた人たちのために、(漕ぎ手のように)この手(両手)で働いてきた」と証しする。パウロの働きは、いわば、物心両面にわたって、謙遜に群れと働き人を下支えするもの。
さらに、「万事についてわたしがあなたがたに示してきたことは、あなたがたもこのように働いて弱い(力の無い)者を助けるように」「主イエス御自身が言われた言葉、『受ける(入手する)よりは与える方が幸い(一層祝福されたもの)』を思い出すように、ということ」と伝える。この主イエスの言葉は、福音書に字句どおりの言葉は見当たらないが、主の言葉とその業が証したこと(たとえば、マルコ10章23~25,42~45節、51,52節)。
3・「このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った」。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まし根気よく(忍耐して)祈り続けなさい」(エフェソ6章18節)。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しいに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(ペトロ一5章9節)。「人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した」「特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った」。わたしたちは、ここに、主の深い憐れみと慰めを共にすることの感情の表出を見る。信仰の生活は、心からなる祈りにとどまらず、それが分かち合われるとき、深い慰めと希望を共にする。
おわりに・「いかに幸いなことか 主を神とする国 主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し 人の子らをひとりひとり御覧になり 御座を置かれた所から 地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は 彼らの業をことごとく見分けられる」ことを心して覚えつつ、まことの王にして力あるお方、主と御言葉にゆだねつつ、福音を伝え続けたい。今日、主イエスは、わたしたちの内に、主の嗣業を見る備えと希望を与えてくださる。
2024年9月22日 礼拝説教 中心聖句
しかしあながたたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。 エフェソの信徒への手紙2章13節
「聖なる山シオンで わたしは自ら、王を即位させた。」主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。 詩編2編6,7節
はじめに・「戦争の時代」と呼ばれる今日、わたしたちの心は、何を注意するものであるか。
1・ 「だから、心に留めておきなさい」と、使徒パウロは、偶像に引かれるままであったかつての生活を見つめるように奨励する。「以前には肉によれば(の中の)異邦人」「手(肉)による割礼を身に受けている人々から割礼のない者」と呼ばれた(ローマ2章29節)ことを。それは、人の目ではなく、神の目を知ること。続いて「また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民(国籍、国)に属さず、約束[約束の諸契約]と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」と言う。ここで「キリスト」とは、十字架と復活・昇天の主イエス・キリスト。このお方の中に生きる信仰こそ、救いの恵みによる信仰。「イスラエル」とは、キリストにある選びの民、契約の民のこと(ローマ9章4節)。「希望」とは「神(キリスト)を知る」ことにおける永遠の命に至る確かな約束を信じる信仰による。
2・「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが」と、それまでのことを一つの言葉でまとめる。事実、「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近いものとなった」。ここで、パウロは、明確に「キリスト・イエス」と言い、十字架のイエスを指し示す。十字架の上にささげられた「キリストの血」は、ユダヤ人と異邦人の別なく、すべての国々の人々が、神に近づくただ一つのあがない(ヘブライ10章19~22節、9章11~14節)。かつての儀式律法は今や、新しい契約の仲介者にして、ご自身の犠牲をささげられた、あがない主、キリストにおいて廃止された。大祭司イエス・キリストの執り成しにより、わたしたちは、ただ一つのあがないゆえに、神に近づく者として聖別される。「実に、キリストはわたしたちの平和」。「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、(さまざまな)規則と戒律ずくめの律法を廃棄され」た。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。ここに、わたしたちは、驚くべき、主のの和解を見る。それは、敵意を滅ぼし、互いに、キリストの体とする主の深い憐れみによる。
3・「キリスト(彼)はおいでになり(来られ)」「告げ知らせられた」とは、今や、聖霊の恵みによって、福音が伝えられる時代が到来したこと。主は、「遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせら」れた。「それで、このキリスト(彼)によってわたしたち両者の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができる」(兄弟の和解と礼拝 マタイ5章23,24節、同6章12節[主の祈り:第五の祈り]。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています」。「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり」このお方において、「建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となり」、このお方において、「あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」。世界の人々、国々の和解の土台は、すでに据えられている。このお方のもとに来て、神と人との和解を求める時、神礼拝と隣人愛のすべてにおいて、神の栄光をたたえることを求める。
おわりに・「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか」と問い掛ける声の中、永遠の御子がまことの王として即位される預言が告げられた。今日、大祭司イエス・キリストの執り成しの中で、キリスト教会(者たち)の祈りと実践が、神の御前に問われている。
2024年9月15日 礼拝説教 中心聖句
わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。 使徒言行録20章27,28節
主は正義を愛される。主の慈しみに生きる人を見捨てることなく とこしえに見守り 主に逆らう者の子孫を断たれる。 詩編37編28節
はじめに・主の教会は、主の召された羊の群れ。今日も、主の御言葉に、共に、養われたい。
1・「そして今、(見よ、)あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがない」とは、使徒パウロのさらなるエフェソの長老たちへの激励のことば(フィリピ2章24節,フィレモン22節,エフェソ書)。パウロは、患難と最期の日に備えつつ、別れの言葉を告げる。つまり、そのことが「わたしには分かって」いるとは、先の患難を予期しながら、たとえ再び会えなくても牧会における注意を促す。最期の言葉は、主の恵みの中に、深い記憶となり深く心に遺る。さらに「わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えた」と言う。「巡回」からエフェソ教会が、その多くが、幾つかの“家の集会“から成っていたことが伺える。「御国(王国)」とは、主イエス・キリストと一つ。地域教会の祈りと献身における“宣教の証”。
2・「だから、特に今日はっきり言います」と、パウロ自身、“霊”に縛られ、エフェソ伝道においても、主の言葉を語り続けた者として一つの証を伝える。それは、「だれの血についても、わたしには責任が」ないと言う。「責任がない」とは、「清い」、つまり、罪を問われないということ。この証は、人の証ではなく、“主”の証。つまり、御国の福音が宣べ伝えられても、心を向けず、福音に聞かないままに、魂の滅びに至ることには、御言葉の奉仕者の責任はない。言わば、パウロは、主の任務を忠実に果たしたことを、このように言い換えて、明らかにする。主イエスが十字架に引き渡された時、ピラトの声に答えて、全民衆はこぞって、「その血の責任は、我々と子孫にある」と答えた(マタイ27章25節)。キリストを拒絶する世のただ中で、「血の責任」の有無を証することは、御自身の血を贖いの血とされた「主」を証しすること。「たとえわたしの血が注がれるとしても」(フィリピ2章17節)と証したとおりに、パウロは自らを霊のいけにえとしてささげた。さらに、パウロは、「わたしは、神の御計画(慰め、熟慮、意志、目的)をすべて、ひるむことなく(引き下がることなく)あなたがたに伝えたから」と伝える(エフェソ1章9~11節「秘められた計画」=「神の御心によるキリストにおいて実現した救い」それは「キリストを希望の基とし、神の栄光をたたえるため」。)
3・「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。」と、パウロはさらに、
長老たちに注意を促す。今日、牧師長老の役割も同様(テモテ一4章16節)。「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話(牧する、養う)をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者(見張る者)に任命なさったのです。」主イエスこそ、「良い羊飼い」(ヨハネ10章)。牧師長老たちは、主の群れの中において「わたしの小羊を飼う」(同21章15節)。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」(エフェソ6章10~20節)。使徒パウロの不在の間、長老たちには、忠実に、群れを養う任務を果たすことが求められた。パウロは後の群れにおける危険を警告する。ここで、「狼」とは「あるユダヤ人たち」。かつてのパウロがそうであったように、教会への敵意はキリストへのもの。
おわりに・「主の慈しみ生きる人」とは「清い人」。世のただ中で、キリストの血によって罪を清められた者たちを、主が守り、養い、教え、導かれることに、共に仕え、祈り合いたい。
2024年9月8日 礼拝説教 中心聖句
主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。 使徒言行録20章24節
彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。彼の心は堅固で恐れることなく ついに彼は敵を支配する。 詩編112編7,8節
はじめに・伝道の秋。わたしたちに託された神の恵みの福音に生き、信じつつ、証ししたい。
1・「そして今、わたしは“霊”に促されて」とは、「そして今や、見なさい、わたしは霊に縛れたまま」という励ましの言葉。パウロ自身、これまでも、今も、これからも、神の霊につながれて絶えず生涯を主にささげる者であることを証しする。エルサレムからローマを経て、最晩年の時にも、投獄されながら、「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(テモテ二2章9節)と手紙をテモテへ書き送った。また、同様に、「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」(フィリピ1章14節)と伝えた。パウロは「エルサレムへの旅を続けようとしている」と言い、「かの地で、何がわたしにふりかかるか、知るよしもありません」と伝える。しかし、パウロは、そこでふりかかるであろう艱難についてこう証しする。
2・「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けている」と。「むしろ、聖霊が、都(もしくはすべての町(二通りの写本有))について証言し、告げているのは、縄目と圧迫とが、わたしを離れることはないことです」(逐語訳)。聖霊は、パウロはエルサレムもしくは行く町々における艱難を告げる。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさせ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りとするようになりました」(コリント二1章9節)。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益」「肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきが、わたしには分かりません」(フィリピ1章21,22節)。パウロはすでに生きることを断念するほどの艱難を経験しながら、復活の主により頼む信仰を新たにした。それは、「死ぬ」ことが、キリストと共に生きることであることを、十字架と復活の主において、追体験するような思いから出た、真実の証し。
3・「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と、パウロはさらに、自分の行く道における義務を確かめる。写本によっては、「喜びと共に」を入れ「喜んでわたしの道を走り終える」とする。ここで、パウロは、福音について、「神の恵みの福音」と言い、それを「主イエスから受けた」もの、「一貫して証するもの」として伝える。「任務」とは「主の奉仕」。「この命すら決して惜しいとは思いません」とは、パウロ自身、自分の命を自分にとって最も大切なものと思っていないことを証しする。それは、ただ、キリストの命ゆえに。元の語順は、文頭からのもので、「しかし、これらのこと(責任を負う関係)は、何一つわたしを動かさず、命をすら、わたし自身値高いものして持ち得ない」。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5章13節)。キリストに結ばれた者の自由は、命よりも召しと愛、主の奉仕と義務を尊ぶ。
おわりに・わたしたちをご自身のものとして召し出してくださった、主イエスは、今日、わたしたちをご自身の器として用いられる。主の心を心とする僕として「固く主に信頼」したい。
2024年9月1日 礼拝説教 中心聖句
パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。 使徒言行録20章17,18節
わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。 エゼキエル書34章23節
はじめに・キリストの任職を与えられた牧師と長老の共同的責任を担う牧会の心を学びたい。
1・「パウロはミレトスからエフェソに人をやって」とは、あえて回避したエフェソ訪問のため、伝令を送ったこと。パウロは、エフェソ「教会の長老たちを呼び寄せ」、勧告(別れの説教)し、祈りを共にした。「長老たち」とは、「群れの監督者」(28節)。「長老たちが(そばに寄り)集まって来たとき」「こう話した」。過去の事を述懐して語り出した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあながたたと共にどのように過ごしてきたかは、(あなたがたも)よく存じ(のとおり)です」と言う。パウロは、キリストの再び来られる日を覚え、お互いに離れていても、一つ一つの群れを覚えて、キリストの体である教会の健全な成長と神の栄光をたたえて祈り、書簡でその思いを伝えた(フィリピ1章5,7節、エフェソ1章22節)。
つまり、「よく存じのとおり」とは、ただ、一方的に、長老たちが受けとめた事を指しているではなく、絶えず、主の御前にある祈りと献身において、苦しみを共にして来た同労者として、長老たち自身も、共に、牧会における責任を共に担ってきた、キリストのための苦しみと霊的戦いを恵みとして思い起こすもの(同1章29節)。
2・続く「すなわち、自分を全く取るに足りないものと思い」とは、「謙遜の限りを尽くし」(口語訳、新改訳)とも訳される。パウロは、キリスト・イエスの僕として、「涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかってきた試練に遭いながらも、主に」仕えてきた。それは、パウロ自身が、使徒としての権威を誇ることなく、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」(ローマ12章15節)く者として、キリストの体である教会の一致と平和を世のただ中で証し続けた。じつに、イエス・キリストご自身、「肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられ」、「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれ」た(ヘブライ5章7,8節)。「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました」。教会の礼拝における説教も、諸集会、家庭集会における聖書の学びも、その本質は同じ。それは、福音の真理(キリスト)を学ぶことだり、キリストの教会を建て上げるにふさわしい学びを重ねること。
3・「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」とは、パウロが伝え、教えてきたことの具体的な内容の要点。それを、「ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証してきた」。悔い改めは、単なる反省ではなく、罪と悲惨を自覚し、キリストにある神の恵みを理解し、神に立ち帰ること。信仰も、単なる信心ではなく、主イエスを「わたしたちの主」と告白し、信じ、従うこと。使徒パウロは、同胞ユダヤ人にも、異邦人であるギリシャ人にも、分けけ隔てすることなく、命に至る悔い改めと主イエス・キリストの内にあるまことの信仰を証し続けた。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリスト)のほか、人間には与えられていない」(使徒4章12節)、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとり」(テモテ一2章5節)との福音を、パウロも、使徒たちの一人として、教え、証しした。
おわりに・主は自ら、「彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる」。「わが僕ダビデ」こそ、キリスト。大牧者キリストを謙遜かつ忠実に証しする、福音に生きる教会をこそ。
2024年8月25日 主日公同礼拝説教 聖書箇所
マタイによる福音書5章3~7節
3 「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
5 柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
2024年8月18日 礼拝説教 中心聖句
露のようにわたしはイスラエルに臨み 彼はゆりのように花咲き レバノンの杉のように根を張る。 ホセア書14章6節
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。ヨハネによる福音書17章21節
はじめに・被造物(世界)の中で人間(アダム)の応答責任を考えつつ、御言葉に聞きたい。
1・「わたしは背く彼らをいやし」とは、歴史的には、北イスラエル王国が背景にある。そこで、神に立ち帰った者たちの誓いは、①大国(アッシリア)に頼らず、②軍馬に乗らず、③偶像を神としない、こと。しかし、これらは皆、反対に、その時代に犯された罪そのもの。つまい、ここにある誓いは、主の憐れみによって、果たされる預言的誓い。始原的には、人間の罪は、始祖アダム(人間)から転嫁されたもの。人間(アダム:土)は、エデンの園を耕すことを主なる神から命じられた。人間の仕事とは、土を耕すこと、園を管理することから始まった(創世記2章15節)。堕落ゆえに被造物は「虚無に服し」「同時に希望も持って」いる。それは、「自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志による」。被造物と人間は共にうめき、共に産みの苦しみを味わいながら、「“霊”の初穂をいただいている」キリストの内に生かされている者たちは、「神の子とされ」「体の贖われること」を「心の中でうめきながら待ち望んで」いる(ローマ8章20,22,23節)。この希望の実現する日こそ、主が「喜んで彼らを愛する」「まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った」日。キリスト者は、今、この前味をいただきながら、なお、うめき、苦しみつつ、その日を待ち望む。
2・「露のようにわたしはイスラエルに臨み」とは、荒野の中で、マナが露のように毎日、40年にわたってイスラエルの民に与えられたように、天からの露が民に望むこと。「彼はゆりのように花咲き レバノンの杉のように根を張る」との約束は、実に、命の源でいます御方、イエス・キリストの到来と贖いの御業において、聖霊の満たしの中で実現する民の回復。ここにある回復の源にあるのは、命の祝福であり、神の愛と罪の赦しの豊かさ。人間は、この愛が指し示されていながら、なおも、それを完全に受け入れることをせず、かえって、先に贖われた者たちも、被造物から遊離しようとする高慢を重ねている。科学的技術は、戦争においては大量殺戮兵器に技術転用され、甚大な被害をもたらし、原爆では黒い雨、津波では黒い波をもって、被造物のうめきが明らかになった。造成地に住む都市の住民として具体的に何を求めることが大切なのか。「その陰に宿る人々は再び 麦のように育ち ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる」。「その陰」とは、回復した民の陰、キリストの陰。つまり、新たな息吹と命を与えられた人々は、罪の赦しと永遠の命の祝福の中で、清められた者として、霊の実である「愛」を結ぶ(ガラテヤ5章22節)。上質の生活とは、被造世界の中で、人間(アダム)として倫理的生活における聖なる愛の実践(神礼拝と隣人愛)。
3・「ああエフライム(ヨセフの子:神がわたしの苦しみの地でわたしを実り多い者とされた) なおも、わたしを偶像と比べるのか」との問いかけは、今、だれよりも、主なる神ご自身が、民の罪を悲しみ、有り得ない背信を負いながら、民の回心を待つもの。「彼の求めにこたえ 彼を見守るのはわたしではないか。わたしは命に満ちた糸杉。あなたは、わたしによって実を結ぶ」。主の命令は「知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。」主の約束は「主の道は正しい。神に従う者はその道に歩み 神に背く者はその道につまずく」。つまずきの石となった主の救いを知る者たちの歩みは、信仰による従順と祈り。
おわりに・主イエスの祈りは、御子と御父の一致のように、すべての人を一つにすることを求める。人間(アダム)の罪ゆえの被造物のうめきの中、ただ一つの救いと命を信じ求めたい。
2024年8月11日 礼拝説教 中心聖句
パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。 使徒言行録20章16節
主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。
詩編102編1節
はじめに・巨大地震注意の緊張の時、主の準備された伝道の旅路と一生涯を思い起こしたい。
1・「さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した」とは、パウロと一時分かれて、ルカたち一行が、トロアスからアソス行きの船に乗船したこと。ちょうど、トロアスとアソスは、海路で、70キロ、陸路で50キロほどで、2日程で相前後して到着する距離。「パウロをそこから乗船させる予定で」「パウロ自身が徒歩(あるいは陸路)で旅行するつもりで、そう指示しておいたから」であった。時間的に考えれば、パウロは馬車で陸路で二日の道の方が自然。なぜ、パウロは一人陸路を選んだか。「健康、休息のため」「他の兄弟たちに会うため」「岬で吹く風を避けるため」などが考えられる。主イエスが弟子たちを強いて舟に乗せられたとき、ご自身は、「祈りために山へ行かれた」(マルコ6章46節)。パウロも体を休めることだけでなく、霊的休息も必要であったか。エルサレムからの帰り道、エチオピアの宦官は「馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたように(使徒8章28節)。
2・「アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた」。北エーゲ海のレスポス島の南東にあった当時小アジアの島々最大の都市。「翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ」とは、狭い海峡ではなく島の西側のことか。「その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した」。キオス島沖からサモス島、サモス島からミレトス間が、それぞれ一日ずつから勘定すれば、トロアスからミレトスまで五泊六日(200~240キロ程)の船旅(移動中の船中泊2回、パウロは船中泊1回)。このミレトスは、エフェソから70,80キロの所の都市。「パウロは、アジア州で時を費やさないために、エフェソには寄らないで航海することに決めていたから」。先のエフェソ伝道において多くの者たちがエフェソ教会の群れとされた。騒動も心配された。この時、パウロはエルサレムへの旅を急ぎ、エフェソ教会の配慮は、ミレトスでエフェソの長老たちと会って勧告し、祈りを共にすることの中でなされた。
3・「できれば五旬祭にはエルサレムには着いていたかったので、旅を急いだ」。過越祭の後に守られた「除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスの来て」「七日間そこに滞在した」(20章6節)ことから、時は、五旬祭までは、四週間足らず。ミレトスからエルサレムまでは、沿岸を離れ、沖合の船旅。移動だけで三週間程。この先、ティルスで七日間宿泊した(21章4節)ことからほとんど日程に余裕がないことが分かる。聖霊降臨の日、それは、「五旬祭の日」週の初めの日)(2章1節)であった。その日から二十年程。パウロは、エルサレムでの艱難を覚悟しながら、しかし、エルサレム教会へマケドニア州、アカイア州、アジア州で集めた献金を届け、また、異邦人の救いを証しし、ユダヤ人、ギリシャ人の別なく、神の国について、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える備えをした。パウロは、エルサレムの神殿に多くの人々が巡礼するこの日を覚えつつ、日程を考慮しながら移動した。主イエスの贖いのゆえに、儀式律法は廃止されながら、なお残る習慣を尊重しながら、主の恵みのときの備えた。
おわりに・「主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように」との祈りを、パウロの陸路における孤独の祈りに重ねる。孤独の中、同じ祈りを主にささげたヨブは「わたしがむなしいものとして共に歩き この足が欺きの道を急いだことは、決してない」(ヨブ31章5節)と告白した。今日、主のもとに留まる者の足の緩急はどこに向かうか。
2024年8月4日 礼拝説教 中心聖句
週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた 使徒言行録20章7節
そしてエリシャは寝台に上がって、子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込むと、子供の体は暖かくなった。 列王記下4章34節
はじめに・肉体の弱さを覚える中で、主の霊によって新たな力を与えられ、賛美を捧げたい。
1・「週の初めの日」とは、トロアスに合流した集会の最終日。聖霊降臨の日以来、その日がいつであったかの記録。もっとも、パウロは、週日、絶えず「神の国について」福音を語り続けていた。特に、「週の初めの日」(マタイ28章1節,マルコ16章2節,ルカ24章1節,ヨハネ20章1節)に復活された、主イエスの復活の日が強く覚えられている。「わたしたち」パウロとルカたち一行は、「パンを裂くために集まって」いた。多分、皆の仕事が終わって夕方、夜の時間からの集会。真の預言者イザヤは「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことどく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと」を「わたし(主)の選ぶ断食」(イザヤ58章6,7節)について、それが、外面的な行いではなく、主が、第一に求めておられる御心を、その心構えと本当の隣人愛において告げた。「パンを裂く」とは、聖餐のみならず食事も共にし、皆で、主の命と恵みを分かち合った。
2・「パウロは翌日出発する予定(つもり)で人々に話した(自ら徹底的に説いた)」。ついには、「その話は夜中まで続いた(延びた)」。トロアスはかつてマケドニア州へ向けて出発することになった「主の幻」をパウロが見た分岐点。この時も滞在期間は長くはなかった。パウロは十分に話すために寝る間を惜しんで語り続けて、聞く者たちを熱心に夜を徹して話を聞いた。「わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた」。そこに集まって人たちはごく少人数ではなく、部屋いっぱいの人がいた。その一人「エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた」。医師ルカ自身がそのことを確認した。
3・「(しかし、)パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。『騒ぐな。まだ生きている(彼の命は彼の中にある)。』パウロの祈りは、復活と昇天の主の御手の中にある。転落死となれば一大事。また敵の目からすれば何らかの誹謗中傷の口実を与えかねなかった。「そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。」ここで「パンを裂いて食べ」と繰り返す。ここでは明らかに聖餐とは別の食事。また、話も、イエスを主キリストと論証することの外、パウロの手紙のように、奨励と慰めを与える言葉を伝えたと思われる。パウロの熱心は、主の熱情による。「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」。生き返った青年は、再び、階上の部屋に連れて帰り、大きな力添えを与えた。それは、パウロが伝え続けた「主は生きておられること」を証しする機会となった。
おわりに・土の塵から人間を創造された「主なる神」は、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人(アダム)はこうして生きる者(魂)となった」(創世記2章7節)。人間は神の霊の息吹によって生きる存在を与えられた者。エリシャの祈りは、主に聞かれた。エリシャの口と目と手が、その子供に重ねられた時、子供の体に生気が回復したように、主の霊が働くとき、罪人の口と目と手が、主の熱情を証しするものに変えられる。ただ、復活の主の霊の働きにより、祈りと信仰による従順の道において証されることを覚えたい(ローマ1章5節,16章26節)。
2024年7月28日 礼拝説教 聖書箇所 ルカによる福音書17章1~10節
1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
2024年7月21日 礼拝説教 中心聖句
そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三ヶ月を過ごした。 使徒言行録20章2,3節
捕囚の地から帰って来たイスラエルの人々も、イスラエルの神なる主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆、過越のいけにえにあずかった。 エズラ記6章21節
はじめに・わたしたちの伝道は、どんな時にも、神の言葉によることを今日も共に学びたい。
1・「(さて、)この騒動が収まった後」とは、エフェソでの騒動。町の書記官による事態は収拾し、パウロも難を逃れた。また、何よりも、エフェソの教会が守られた。それは、神の守りの中で町の書記官も用いられた。神の支配は、教会のみならず、生活の全領域に及ぶ。その騒動が収まり、間もなく「パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した」。パウロは、マケドニア州とアカイア州を通ってエルサレムに行き、ローマに向かうことを、霊の中で思い定めていた(19章21節)。伝道旅行と教会の主は、聖霊なる神、キリスト。先に学んだように、パウロの目的は、献金によりエルサレムの貧しい者たちを助け、ユダヤ人と異邦人の一致を証しすること。パウロは「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務め」た。それは、「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる供え物となるため」(ローマ15章16節)。全生活において命の主を神とする聖なる生活こそ、ユダヤ人も異邦人も、福音の力によって救われる目的。
2・「そして、この地方を巡り歩き」とは、エフェソからトロアスをとってマケドニア州を通過したこと。その間「言葉を尽くして(多くの言葉で)人々を励ました」。マケドニア州にあるテサロニケの教会に宛てた手紙では、その模範的な生活を神に感謝して伝えています。「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたから」「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いている」(テサロニケ一2章13節)と。一方、「眠りについた人たちについて、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないように」励まし、「神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」(同1章10節)、この「主御自身が天から降って来られ」る、復活の日を告げ、「わたしたちはいつまでも主と共にいる」との「言葉(神の約束)によって励まし合いなさい」(同4章16~18節)と勧告するのです。「(アカイア州の)ギリシャに来て、そこで三ヶ月を過ごした」。
3・「パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき」とは、パウロがエルサレムへ急いだことを伺わせる。しかし、この時、「彼に対するユダヤ人の陰謀(待ち伏せ)があったので、マケドニア州を通って帰ることにした」。多分、船内でパウロを殺害する計画が企てられていた。「同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった」。「この人たちは、先に出発して(アジア州の)トロアスでわたしたちを待っていた」。「わたしたち」と、使徒言行録を書いたルカ自身が旅を証しする。「わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した」。パウロはキリストにおいて除酵祭が廃止しされたことを知りながらも、それを尊重する。
おわりに・神殿再建の時、捕囚の地から帰って来たイスラエルの人々も、イスラエルの神なる主を求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆、過越のいけにえにあずかり、七日間にわたって、喜び祝いつつ除酵祭を行った。主の言葉を守り行う励ましがここにもある。今日、わたしたちの伝道も、主の言葉を守り行うもの。その良き報いは、主に従う義務と従順。
2024年7月14日 礼拝説教 中心聖句
「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。」 使徒言行録19章35節
王国の諸州にいる他のユダヤ人も集合して自分たちの命を守り、敵をなくして安らぎを得、仇敵七万五千人を殺した。しかし、持ち物には手をつけなかった。 エステル記9章16節
はじめに・「神の国(キリストの王国)」は、騒動の中でも進展していく。その顛末を知る。
1・「そこで、町の書記官が群衆をなだめて(抑制し、鎮めて)」とは、ユダヤ人アレクサンドロが弁明しようとしたとき(ユダヤ人は「その道」との差別化をはかる)、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」との二時間ほども叫びつつけた(エフェソ人にとってユダヤ教もキリスト教も同じ偶像への反対者)時、「町の書記官」は、事態の沈静化を計った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ」と。「御神体」は、美しい彫像、もしくは整った形の隕石をもって、天から降ったものと信じた。「守り役」は、神々の神殿を管理する栄誉と威厳のある仕事。エフェソの町全体がそのような名誉ある町であることを誇った。「これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない」と諌めた。「無謀なこと」とは、高いところから落ちるような軽率なこと。先に、デメテリオが「女神の御威光さえも引き下ろされる」と言ったことに呼応する。「諸君がここへ連れて来た者(ガイオとアリスタルコ)たちは、神殿強盗(後、冒涜罪)でも、われわれの女神を非難する者でもない」。パウロたちは、偶像崇拝を認めながらも、むしろ、深い同情と憐れみの中で「神の国」について教えた。それは、主イエス同様、罪人を神のもとに立ち帰らせる道。
2・「デメテリオと仲間の職人が、だれかを訴えたいのなら」とは、アルテミス神殿の経済問題を解決すつための法的な手段を指す。「決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい」と命じる。むしろ、デメテリオを訴えたものは、偶像を神とすることの罪悪をとがめる良心。それが裏返って、パウロの宗教を非難することになった。法的手段に訴えても、正当な証拠を出すことはできない。「それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議(エクレシア:招集された集まり)で解決してもらうべきである。」デメテリオたちの行動に、ある正当性を認めたとしても、ただの騒動では、事態の収拾を優先するのは当然であった。「町の書記官」は、正式の告訴の手段と場所を明らかにし、騒動を鎮めた。
そして、むしろ、「本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ」と伝えた。当時、共和政ローマの支配下で、アジア州の首府エフェソは自由都市として、独自の元老院をもつような特権を与えられていた。書記官はその会議で選出され任務を果たした。また、「1世紀末の有名な修辞学者ディオン・クリュソストモスは、言論の自由を乱用する者はその権利を取り上げられると、アジア州の別の市民に警告した」(IVP聖書背景注解)と言う。「こう言って、書記官は集会を解散させた」。少数のユダヤ人に与えられた特別な免除等への不満が騒動の背景にあった。
おわりに ペルシャ帝国においてユダヤ人撲滅の危機の中、ペルシャ帝国の王妃であったユダヤ人エステルは、勇気ある行動によってその危機を救う。ユダヤ人の敵への対抗(復讐か、正当防衛か、不明)が起こり、撲滅を企てた者の息子十人他、三百人、また、仇敵七万五千人を殺した。この時、「持ち物には手をつけなかった」ことは、武器を持つ者のみを殺し、女子や幼い者たちに生活の糧を残したことを証しする。信教の自由と言論の自由等、憲法の保障という「安心」の中で、信仰の戦いは何に向かうのか。主の召命による教会(集会)を求めたい。
2024年7月7日 礼拝説教 中心聖句
さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まっているのかさえ分からなかった。 使徒言行録19章32節
「そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答えた。 列王記上18章24節
はじめに・様々な混沌と混乱の中で神の正義と真実はどこに。今日、主の眼差しを求めたい。
1・「これを聞いた人々はひどく腹を立て」とは、自分たちの仕事を失う危険を聞いた、銀細工人の全体を管理する中心人物であった、いわば、元締めのデメテリオのもとで働いていた銀細工人たちの怒りが充満したこと。彼らは、「エフェソ人のアルテミス(完全な光の意)は大いなる方」と声高に叫んだ。「神とは何か」、「宗教とは何か」、「偶像とは何か」との問いは、彼らには皆無。原理原則を問うことをしようしないとき、堕落した人間の有り様はさらに悲惨な結果を見る。さらに問うとすれば、「聖なる者とは何か」。礼拝の原則は、聖なる方にある。聖書の神は、「聖なる神」。デメテリオは、パウロが言ったこと(実際にはそのとおり言っていない)は、自分たちの手の産物が真っ向から否定された、と受け取った。しかし、「神の国」を伝えパウロの福音の中心は、イエス・キリスト。このお方が、人びとの本当の支配者であり、罪の支配にある者たちを義の支配のもとに救い出す力のあるお方。そして、自ら、「聖なる僕」(4章30節)となられたお方。罪人にとって神聖なものを人の手にゆだねるとき、礼拝の原則は、不明なまま。「そして、町全体が混乱に満ちた」。「さらには、マケドニア人のガイオとアリスタルコを捕らえて、一丸となって劇場(見せ物の公開場:シアター)へかけ急いだ」。
2・「パウロは群衆の中へ出て行こうとした」。それは、事態の収拾を急ぐとともに、キリストを弁明する機会を得たと思ったことを証言する。しかし、「弟子たちは許さなかった」。エフェソの教会において、主に従っていた者(弟子)たちは、パウロの思いよりも、行動を制した。それは、パウロを命の危険から守ること。「同時に、アジア州の祭儀(競技、宗教的祭り)をつかさどる高官たたち(一語で、アジアルケースの複数形:アジアルコーン)も、彼(パウロ)に使いを送り、劇場に入らないように懇願した」。ちなみに、5月全体がアルテミスの神聖な月で、アルテミシオンと呼ばれた祭りの月だった。仮にもその時に「この道のこと」で騒動が起こったとすれば、火に油を注ぐ事態。群衆はパウロを発見していなかったが、彼らはパウロの居場所を知っていた。「人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった」(新改訳2017)。この道か、ユダヤ人か、パウロか、弟子たちか、あるいは、アルテミスか、いずれか。「このとき、ユダヤ人たちがアレクサンドロを前に出し、好機を得た。彼は手をふって、人々に弁明しようとしたが、彼がユダヤ人だとわかると、皆が一斉に『エフェソ人のアルテミスは、偉大なり』と二時間にわたって同じことを叫び続けた」。ここで、ユダヤ人が憎んだ偶像と偶像崇拝と、パウロの伝えた「神の国」を吟味することはまったくない。あるのは、偶像を嫌う者たちへの感情的対立。ここで、アルテミスは、祭儀の中で拝まれるものですらなくなった。エフェソの街を経済的にうるおす神殿への反発とある宗教がみなされたとき、混乱の中で、無秩序に見えたある宗教の「告白」が、明るみに出ることになった。
おわりに・時の王アハブに集められた預言者たちは、主の預言者エリアの声に沈黙した。「あなたたちは大勢だから」とエリヤは預言者たちに祭儀を促したとき、主の答えはなかった。主はエリヤの応答において「主の火」として顕現した。問、真の信仰とは、真の神とは、何か。
2024年6月30日 礼拝説教 中心聖句
テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。 使徒言行録19章22.23節
バビロンの王ベルシャツァルの治世元年のことである。ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見た。 ダニエル書7章1節
はじめに・終わりの時代、何が事柄を支配しているのか。それを見極める眼差しを求めたい。
1・「このようなことがあった後」とは、エフェソにおいて、「神の国」の福音が宣べ伝えらていく中で、主の言葉が、ユダヤ人にもギリシャ人にも聞く人々が広がっていったこと。また、神が、悪霊を明るみに出し、大勢の人たちが信仰に入り、主イエスの名をあがめ、悪行を告白したこと、魔術を行っていた多くの者たちも、その書物を焼き捨てたことなどの後。「パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し」とは、「霊の中で定められた」道(20章22節「霊に縛られて」)。エルサレムの貧しい兄弟たちに、各地で集めた献金を届ける目的もあった(コリント一16章1-4節)。パウロは「人に従ってエフェソで野獣と闘ったとしたら何の益があるか」(同15章32節)と問うたほどに、霊の戦いを経験した。ここに、主の恵みによる物心両面(霊肉)の支えを見る。また、パウロは、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。それは、霊の賜物を分かち合い、信仰によって励まし合い、福音を告げ知らせるため(ローマ1章11,12,15節)。パウロは、ローマに向かって心を定めながら、「彼に仕えている二人の者、テモテとエラストを、マケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州に留まった。」。
2・「そのころ、この道について、ただならぬ騒動が起こった」。「この道」とは、敵対する者たちから、十字架の主イエスに従い、この主を証する者たちの教えを指す(9章2節,19章9節)。エフェソの人びとの誇りは、アルテミス神殿と崇拝。同時に、世界から訪れた人々が宝石や品物を奉納する経済の中心地でもあった。時の政治と経済と宗教は、渾然一体となって、社会を形成していた。まさしく「アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光」が、多くの人びとを席巻していた。「そのいきさきは次のとおり」「デメテリオという銀細工人が、アルテミス神殿の模型を銀で作り、職人たちに多大な利益を得させていた」。小さな模型は、記念品やお守りとして作られ、デメテリオが、実際に模型を作る職人を集める仕事をしていた。「彼は、この職人たちや同様の仕事をしている者たちを集めて言った。『諸君、ご存知のように、この仕事で我々は富を得ている。だが、諸君が見聞きしているとおり、エフェソのいならず、アジア州のほとんど全域で、このパウロが、手で生じたものは、神々ではない、と言って、大勢の人々を説得し、別の方に向かわせた。そして、我々の仕事に悪評が立つおそれがあるばかりか、偉大な女神アルテミスの聖域も冒涜される危険にされされており、アジア州と全世界があがめるその威厳の偉大さも取り下ろされそうとしている。』パウロならば、「手で作ったものが、神々(偶像)」と言う。デメテリオは、「手で生じたもの」といい、人の産物を強調し、それを宗教とすることが否定されたことを問題としている。しかし、パウロはそのような対立とよりも、神の真実を伝え続けた。アテネでは、「知られざる神(不明となった神、忘れられた神)」と刻まれた祭壇を契機に、天地の造り主なる神を伝えた(17章)。
おわりに・異教の地バビロンで、ダニエルは、帝国の衰退と変遷を予告する幻を見た。それは、偶像に仕える国の衰勢でもある。今日、世界の国々の衰勢においても、何を宗教としているかを問うことの中に、事の真実を知る道がある。主イエスを「わが神、主」とするなら、わたしたちの告白は、ただ、信仰と従順において、神と人に、真の愛を尽くすものでありたい。
2024年6月23日 礼拝説教 聖書箇所
フィリピの信徒への手紙 4章10~13節
4:10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
2024年6月16日 礼拝説教 中心聖句
このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。 使徒言行録19章17節
御言葉を遣わされれば、それは溶け 息を吹きかけられれば、流れる水となる。
詩編147編18節
はじめに・福音は、良き知らせ、グッド・ニュース。良き訪れ。罪人を変える、力ある言葉。
1・「神は、」とは、先に、「神の国(王国)のことについて」自ら大胆に宣べ伝え、論じ合い、説得したと言われていたように、人でも、神々でも、天使でもなく、天地を造られ、御子を遣わされ、聖霊を与えられた、生けるの真のただお一人の力ある神。使徒「パウロの手(両手)を通して」「行われた」「目覚ましい奇跡(成し得ない力)」は、永遠の王なる神、キリストの御業。「(それゆえ、人々が)彼の体(肌)から手ぬぐいや前掛けを取って病人に当てると、病気は除かれ、悪霊たちが出て行く(のだった)」。当時、エフェソは、魔術が盛んで、悪魔払いや悪霊除けで知られていた。神の業は、人の目には魔術と映った。一方、何人にかの「旅をしていたユダヤ人の祈祷師(エクソシスト:誓いを立てる者:呪術者)たち」は、「悪霊たちを持っている者たちに、主イエスの名を呼びかけようとして言った。『われわれは、パウロが宣べ伝えている主イエスの名によって誓います』」。さらには、「ユダヤ人の祭司長スケワの七人の息子たちも、このことをしていた。」「すると、悪霊が答えて言った。『おれはイエスを知っているし、パウロも承知している。だが、お前たちは何ものだ?』」
主イエスが、ガラタ人の地方に行かれた時にも、悪霊に取りつかれた者二人が、叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」(マタイ8章29節)。悪霊も、イエスを知り、伝道者たちを知っている。そして、神は、悪霊を支配し、その行ないを許容する。ただ、ご自身の栄光を人びとが見るために。
2・「そして、悪霊が内にいた人が、彼らに飛びかかり、彼らを抑え込み、彼らを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷つけられ、その家から飛び出した」。わたしたちは、ここに、「主イエスの名」が誓われながら、それが魔術的に用いられる時、神自ら、悪霊を宿す人をして、その悪(反キリスト)を明らかにしたのを見る。「そして、このことが、エフェソに住むすべてのユダヤ人とギリシャ人に知られたばかりでなく、畏れが、彼らすべてに臨み、主イエスの名が、大いにあがめられた」。いつも、悪霊が表に出ているとは限らない。教会内外における信仰の戦いの中で、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいる」(フィリピ1章15節)。それが牢獄にいたパウロに聞こえた時にも、「福音の前進に役立った」(同1章12節)と、パウロは伝えることができた。
3・「また、信仰に入った者たちが、大勢(パウロのもとに)来て、彼らの行ない(魔術の罪)を告白し、公にした」。「それから、魔術を行っていた多くの者たちが、その書物を持ってきて、皆の前で焼き捨てた」。「その値段を数えると、銀貨五万枚にもなった」。「このようにして、主の言葉は、力強く広まり、力強さを増していった」。福音の宣教は、主の教会の完全な建設と一つ。使徒パウロは、後にエフェソの教会へ「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられゆく」(エフェソ4章16節)と伝えた。キリストの言葉は、聞く者たちを霊的に成長させ、霊の祈りと勝利の道を備える。
おわりに・「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る」ほどに、自由に、地に勝利をもたらす。十字架と復活の主を証しする、福音という主の勝利宣言を今日、自ら伝えたい。
2024年6月9日 礼拝説教 中心聖句
このようなことが二年も続いたので、アジア州に住むものは、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。 使徒言行録19章10節
「あの日、荒れ野のメリバ(争い)やマサ(試み)でした(出エジプト17章、民数記27章)ように心を頑なにしてはならない。」 詩編95編8節
はじめに・福音の前進を覚えつつ、地域教会の使命を、今一度、初心に帰って確かめたい。
1・「(さらには、)パウロは会堂に入って(来て)」とは、「内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子たちに」出会(でくわ)したとき、「聖霊」もしくは「洗礼」を受けた事についてたずね、ヨハネの洗礼についてその奥義(福音の真実)を告げた後、「皆で十二人ほど」が「主イエスの名によって洗礼を受け」「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした」後のこと。パウロは、「三ヶ月以上、神の国(王国)についてこれらの事柄を自ら大胆に宣べ伝え、論じ合い、説得した」。この「神の国(王国)」とは、「主イエスの支配」をその御業(十字架と復活、昇天、聖霊降臨)において告げること。使徒パウロ自身、主の召命を身に帯びて、全く自由に、「平和の福音」(エフェソ2章17節)を宣べ伝えた。「論じ合う」とは、聖書:律法と詩編と預言者(書)に基づいて、神の救いの計画の実現を確かめ合うこと。「説得する」とは、キリストの恵みの支配を伝えて、最後的な決心を促すこと。異邦人の多い都市、エフェソで、ユダヤ人伝道において、パウロ自身神学的深まりを与えられたと想像される。
2・「ところが、ある者たちは、このパウロの説得を拒んだ((「信じようとはせず」は意訳)」。彼らは、心をかたくなにし、宣べ伝えられた福音を拒み、「会衆の前でこの道をあしざまに言った」(口語訳)。この「会衆」とは、必ずしもユダヤ人会堂にいる会衆ではなく、むしろ、「多くの人々」(公衆)。とすれば、ある者たちは、街の人々に、パウロの不徳を煽ったと思われる。「この道」とは、本来、命の福音。しかし、聞く者によっては、ただの道理(神とモーセへの冒涜、習慣伝統の破壊と言いつつ)。かつて、神の民が、エルサレムが、大きな苦難に陥ったとき、預言者たちによって、主の言葉が告げられながら、それが拒絶された。真の預言者イザヤは、アッシリアの進軍を見て、「大路は嘆き、荒れ果て、道行く者は絶える。人は契約を破り、証人を退け 人を人と思うこともない」(イザヤ33章8節)と言った。エフェソの片隅で起こった出来事かもしれないが、事の真実は、罪の世を一つの宗教(真理の言葉)において問うことに等しい。大国の軍隊のように、悪しき言葉は、福音の力を侮り、嫌う。しかし、主の福音は、「わざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」(エレミヤ29章11節[新改訳])。
3・「パウロは彼らから離れ、弟子たちを引き離した」(「引き連れて」[口語訳]、「退かせ」[新共同訳]は意訳(誤訳に近い?)。パウロは、ある者たちから離れ、弟子たちを守った。拠点を移し、「ティラノという人の講堂で毎日論じていた」。ティアノが異邦人であれば、哲学的議論や修辞学のための講義所を開いたか、ユダヤ人であれば、自分の家で、私塾のようなものをもち、集会を開いていたか、定かではない。とにかく、「このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」。エフェソの教会が、急速に、伝道の勢いを周辺世界に広げたことを見る。ちなみに、第三回公会議もエフェソで開かれた(431年)。
おわりに・「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ3章15節:詩編95編)。今日主の声を聞く者たちは幸い。
2024年6月2日 礼拝説教 中心聖句
パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。 使徒言行録19章3節
わたしは乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。 イザヤ書44章3節
はじめに・今日、恵みの時、救いの日、聖霊の恵みによって、洗礼の日を思い起こしたい。
1・「アポロがコリントにいたときのこと」とは、先に一度、エフェソの会堂で教えた、アレキサンドリア生まれのユダヤ人との経緯。パウロとアポロは、同時に居合わせなかった。しかし、パウロの派遣によって、主の宣教が継続される。後にパウロは、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(コリント一3章6節)とコリントの教会へ手紙を送ったように、共に、神の業に仕えた。また、プリスキラ(プリスカ)(妻)とアキラ(夫)のように、アポロに、キリストを伝え、アポロについて推薦状を送った兄弟たち、同労者として尽力した者たちもいた。「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」とは、アンティオキアから三度目の伝道旅行において、先に、福音を伝えた「ガリラヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた」(18章23節)。このように、キリストの福音は、困難の中で、主の召命と教会の励ましによって、前進していく(フィリピ1章12節参照)。
2・「何人かの弟子に会い」とは、そこで、出会(くわ)した「ある弟子たち」。彼らに、「あなたがたは信じたとき、聖霊を受けましたか」と、パウロは尋ねた。パウロは、信仰を認めながら、聖霊の賜物を受けたか、と聞く。それは、自分の霊が新しく生まれ変わったことを証明を見たか、ということ。すると、彼らは、「いいえ、(かつて聞いた)聖霊が今ここにいると聞いたことさえありません」と答えた。事実上、彼らは、救いの確信に乏しかった。そこで、パウロは、もう一つの証しといえる洗礼についてたずねる。「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と。すると、彼らは、「ヨハネの洗礼です」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けた」と言い、「ヨハネの洗礼」が証しした御方を明らかにする。じっさい、洗礼者ヨハネは、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3章11節)と伝えた。キリストの洗礼の本質は、「水」ではなく、「聖霊と火」。聖霊の賜物は、神の裁きのもとで、十字架にかけられたイエス・キリストを信じる信仰と、「怠らずに励み、霊に燃え、主に仕える」(ローマ12章11節)熱心を与え、あらゆる事柄において、主の召命に応え、御心を求め、神の栄光をたたえるように仕向ける。
3・「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた」。ヨハネの洗礼とは別(再洗礼とは言えない)。「主イエスの名によって」とは、天の王座に着かれた、生けるキリストの御名において。聖霊は、このキリストとの結合を証しする。「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言(多分、他の国の言葉)を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった」。だれもが聖霊の賜物を認める出来事が起こった。このようにして「ヨハネの洗礼」を受けた信者たちは、聖霊の賜物と、「主イエスの名による」洗礼を受け、イエスを主と証しする者(真のキリスト教徒)となった。
おわりに・真の預言者イザヤは、主の霊による祝福とその豊かさを告げた。それは、大地を潤す水のように、罪人を癒やし、キリストの救いにあずからせる。神の栄光をたたえよう。
※5月26日礼拝説教動画はありません。
2024年5月26日 礼拝説教 聖書箇所
マタイによる福音書5章6節
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
※5月19日礼拝説教の動画はありません。
2024年5月19日 礼拝説教 中心聖句
はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 ヨハネによる福音書16章20節
ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えてさせてくださる。 詩編30編6節
はじめに・聖霊の恵みによって、今日、主イエスの約束された真の喜びを、心に留めたい。
1・「しばらくすると」と、主イエスは弟子たちに語りだされた。訳語からは多少の猶予も感じるが、「わずかな、短い間に」「もう時期」。じっさいには翌日。あとで「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません」(16章29節)と弟子が答えているように、ある段階的な伝達を取る。先は、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と、「天を仰いで言われた」(ヨハネ17章1節)、祈りに向かう。「あなたがたはもうわたしを見なくなる」と言いながら、もう時期、「わたしを見るようになる」と言われ、弟子たちは困惑する。また、「『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」と首をかしげる。とくに、「もう時期」とは何のことか(?!)と当惑する。「何を話しているのか分からん(!)」と。
2・「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って」とは、弱きものに寄り添っておられるがゆえに察しておられたこと。もう時期、「あなたがたはわたしを見なくなるが」、また間近に「わたしを見るようになる」と、「わたしが言ったことについて」答えを見つけようとしているのか、と問いかける。そこで、主イエスは、「アーメン、アーメン、わたしはあながたに言います」と言われ、「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言う。それは、弟子たちからすれば、思いがけない言葉。なぜなら、不安と恐れにまさって、「悲しみ」こそ、弟子たちの深い感情そのものだったから。世の悲しみは、不義に覆わ。しかし、真の悲しみを知っておられる主イエスは、弟子から離れることによって生じる一時の悲しみにまさって、世の罪ゆえの悲しみを負う、ご自身の苦しみのゆえに、「あなたがたは悲しむが、その悲しみが喜びに変わる」と言う。それは、罪赦された者の永遠の喜びに至る道。主イエスは生みの苦しみは、人が世に生まれる喜びにおいて、思い出されることはないことのように、永遠の喜びがもたらされることを約束される。それは、同時に、今の悲しみは、忍耐の時であることを物語る。主イエスの十字架に至る道のように、今、わたしたちが負う道は、キリストのゆえに、栄光の御国に凱旋する日までの忍耐を伴う。それは、なお罪と弱さゆえに、不完全なもの。
3・「ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし」と、主イエスは、弟子たちとの「再会」の喜びの日を告げる。事実、主イエスの復活の日、弟子たちは、「主を見て喜んだ」(20章20節)。また、昇天の日には、主イエスの祝福の中に、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24章51~53節)。もはや、イエスの姿が人の目から見えなくなっても、弟子たちは、主を喜んで礼拝する者に変えられた。「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じおり、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれて」(ペトロ一1章8節)。イエスの名によって、父に願うとは、実に、復活と昇天の御業の中で、子とされて祈ること。再び来られる主を信じて。それは、弟子たち同様に、永遠の「喜びで満たされる」祈りと従順の道。
おわりに・「あなたはわたしの嘆きを喜びに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯びとしてくださいました」との声は、今日、聖霊の恵みの中に、十字架の主キリストを、礼拝する者の声。
2024年5月12日 礼拝説教 中心聖句
わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。 ヨハネの黙示録19章7節
「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」 ダニエル書12章13節
はじめに・召天者記念礼拝の今日、キリストにあって、神の栄光をたたえる礼拝を求める。
1・「また、玉座から声がして」とは、「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(1章18節)御方、イエス・キリストの声。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ」。地上の生涯において一度洗礼を授けられた召天者たちは、今、天上で、キリストの栄光にまみえ、礼拝を神とキリストにささげている。地上の教会は、キリストの霊の臨在の中に、天上の礼拝とひとつされて、礼拝をささげる。わたしたちのささげる礼拝は、天上の礼拝を証しする。キリストの声は、今日、わたしたちを礼拝へと招く。「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。』」とは、神の臨在を証しする賛美の中で、キリストが王となられたことを宣言する。キリストは、天と地の支配者にして、全能者として、すべての人の命の主。人の生涯は、この御方の恵みと定めの中にある。
2・「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう」とは、賛美への招き。じつに、まことの王でいますキリストは、十字架の上にご自身の命をささげられた、神の小羊。「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた」とは、花婿でいますキリストと花嫁できます教会の婚礼。結婚は地上の制度。永遠の契りは、キリストとの交わりにある。洗礼は、キリストとの聖なる交わり(霊的結合)を証しする。永遠の御国では、もはや、嫁いだり、娶ったりすることなく、ただ、花嫁でいます教会は、永遠に、花婿でいますキリストを御使いたちとともに、ほめたたえる。「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行ないである」。洗礼も、善行も、人を罪から救う条件ではない。「それから天使はわたしに、『書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ』と言い、また、『これは、神の真実の言葉である』とも言った」。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す」(3章5節)。じつに、キリストにあって、神の勝利を宣言された者たちは、命の書にその名を記され、聖なる交わりは、永遠に保証される。
3・「わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した」とは、天使から良い知らせを聞いたヨハネの大きな反応。しかし、この行動は、御心に適うものではなかった。天使はヨハネに言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である神を礼拝せよ」と即座に制する。なぜなら、「イエスの証しは預言の霊」だから。ここで「イエスの証し」とは、キリストのために命を捨てるほどの献身。「預言の霊」とは、それがどれほど尊いものであっても、礼拝の対象ではないことを明らかにする。つまり、わたしたちが礼拝をささげるお方は、神とキリストのみ。神の賜物は、人の栄誉よりも、神の栄光をたたえるにふさわしいもの。偶像礼拝は、人を神とする罪。
おわりに・少年のとき異国バビロンに連れて来られたダニエルは年老いた日、主の幻を見た。それは、ダニエルの生涯を終わり、永遠の憩いとともに立上がる日を告げる。イエス・キリストの復活は、新しいからだを与えられる復活の日の保証、それは今日を生きる希望。
2024年5月5日 礼拝説教 中心聖句
主よ、あなただけは わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ 今すぐにわたしを助けてください。 詩編22編20節
だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。 ヘブライ人への手紙3章1節
はじめに・キリストの昇天の御業を覚え、あすの召天者記念礼拝・聖霊降臨日に備えたい。
1・「主よ、あなただけは」とは、キリストにおいて成就された預言的詩編と理解すれば、御父への孤独な祈りと信じられる。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(ヨハネ17章1,5節)と祈られた、イエス・キリストは、ご自身の栄光をむなしくされて、祈りをささげられた。わたしたちが、神の栄光をたたえて生きるために不可欠なことは、神との交わりを失った「罪人」にとって、祈りとは、たとえ一人であっても、神に近づいて祈る道を、ただ、唯一の仲保者イエス・キリストにおいて開かれたことを信じること。「主よ、あなただけは わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ 今すぐにわたしを助けてください」とは、「剣」「犬ども」「獅子の口」「雄牛の角」という、渦中に置かれている試練と苦難、霊肉における苦痛からの救いを求める危急の祈り。「わたしに答えてください(くださる)」とは、その思いの底には、全能の御父(主なる神)への深い確信と信頼がある。
2・「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え」とは、救われた喜びと感謝を歌い始めるもの。ダビデは、姦通の罪を犯した時に与えられた子が死んだとき、「断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに戻ってくることはない」(サムエル下12章23節)と言った。命の主である神に、子と自分の生涯をゆだねた者としての告白。イエス・キリストは、ゲツセマネの園で祈られ、弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りによって敵の手に引き渡された。キリストご自身、その身に、罪と死と断絶の思いを引き受けられた。受難の言葉が、御名を伝える言葉に転じる奥義は、ただ、主にすべてをゆだねた、神の小羊でいます、御子の十字架と復活、昇天:着座にある。ヘブライ人への手紙2章において、「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ている」と言われる時、この「一つの源」とは、地においてはアダムであり、天においては神である。実に「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされる」(コリント第二15章22節)道が、開かれた。ここに、本当の贖罪と罪の赦し、命の道がある。「集会の中であなたを賛美します」とは、キリストの贖いのゆえに、神の家族とされた者たちの告白。礼拝において、命の言葉でいますキリストの御名が、証しされる。伝道の最高の機会。
3・「地の果てまですべての人が主を認め」とは、キリストに贖われた者たちの執り成し。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」への奨励は、「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」。地から天へ、死から命へ、思いを向けるとき、わたしたちは、「キリスト」が「御子として神の家を忠実に治められる」ことを信じ、この「確信と希望に満ちた誇りを持ち続ける」「神の家」として献身する。
おわりに・「万物を造られたのは神」。万人の救いを望んでおられるまことの神は、御子の命をもって罪人を救う道を備えられた。今日、わたしたちがささげる礼拝の備えは、救いの備えの中におかれた恵み。天の召しにあずかる者たち皆、共に、主にのみ栄光を帰したい。
2024年4月28日 礼拝説教 中心聖句
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。 ヨハネによる福音書21章24節
わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。 詩編119編109節
はじめに・聖書による訓育は、主イエスの言葉を聞くことから。親しく主の愛を求めたい。
1・「ペトロが振り向くと」とは、イエスとペトロが、他の弟子たちと少し離れたところにいたことを証しする。そこに「イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」。もちろん、ペトロも「イエスの愛しておられた弟子」の一人。あえて名を伏せて書く理由は、ペトロにイエスがとくに向き合われて「わたしを愛しているか」と問われたことについて、この弟子も無関係ではないことを証しするため。つまり、それは、特定の弟子への問いというよりも、イエスの愛しておられた弟子、皆に妥当する問い。ここで、「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」と言われる(ヨハネ13章25節)。この弟子は、イエスのそばで重いことを尋ねた。主イエスの召天の後、ペトロは、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」(使徒1章17節)と言う。「めいめいが、自分の重荷を担うべき」(ガラテヤ6章5節)。ペトロの再献身は、一使徒の、主の教会の一人の献身。
2・「ペトロは彼を見て」とは、彼の心境から出る言葉をつなぐ。ペトロは、この弟子に何を言うことなく、イエスに「主よ、この人はどうなるのでしょうか」とたずねた。「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい。』」先に、主イエスご自身、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたの互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13章14節)と言われた。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになる」(ガラテヤ6章2節)。わたしたちは、めいめいが、自分の重荷を担う。それは、主が分け与えられた重荷ゆえに、互いに担い合うもの。自分の責務を果たすことを、独善的に果たすことはあり得ない。また、他者の責務について、無関心であることもあり得ない。それは、はじめから共同的な責務であり、主の召命に共に応えていくこと(ヨハネ13章8節「わたしとのかかわり」=「わたしの部分」)。主イエスはこのとき、ペトロが問う心を知っておられ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われた。主のものとされた者たち、一人一人に与えられた召命と生涯がある。「わたしの目にあなたは価高く、貴」い。(イザヤ43章4節)。ただ、主の贖いの尊さゆえ。
3・「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子」。「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。先の、この書物(福音書)についての言及は、その目的を明らかにした(20章30,31節)。ここでは、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」と言う。「わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」。人の目は、今、膨大な情報に向かう。しかし、肝心の情報、否、命の言葉に聞く者はだれか。今、福音書、聖書全体の証しする、イエスの名により命を受ける者はさいわい。それは、ほかでもない、あなた自身が、信じる御方。
おわりに・聖書の真価は、救い主キリストにある。「わたしの魂は常にわたしの手」に。苦難の時、「私の心をあなたにささげます。主よ、即座に、まごころから」(カルヴァン)。
2024年4月21日 礼拝説教 中心聖句
ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです」 ヨハネによる福音書21章17節
主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。 詩編23編2,3節
はじめに・事が起こった時、主が共におられると信じるか、否か、その後の道は、いかに。
1・「食事が終わると」とは、復活の後三度目に弟子たちに現れた主イエスが備えられた朝の食事の時間。主イエスは、日々の糧を備えられるお方。「主の祈り」においても、わたしたちは「罪の赦し」を乞い求める前に、「日々の糧」を求めて祈るように教えられる。「聖名の賛美」「御国の到来」「御心の実現」は、日々の生活において、神の栄光をたたえること。「イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」。この問答が、二度繰り返される。受難の時、三度となくイエスを否認したペトロにとって、イエスの問いは、自身の心を疑うものように受けとめられたかもしれない。しかし、主イエスの問いは、疑いから出たものというよりも、ご自身の愛における再献身を促すものであり、ペトロ自身の献身を根底から支えるもの。ペトロ自身を愛し、養い、導いておられるのは、主ご自身である。とくに、群れを養うために、主の召しを与えられた、牧師たち、長老たちにおいて、大切なことは、絶えず、この主キリストの愛からすべてを始めること。
2・「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』」このとき、ペトロはこれまでも違う感情を表す。『ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」。三度聞かれから、悲しくなった、というよりも、ペトロの心情においては、受難の時の痛みは、今日の痛み。主イエスは、否認の前に「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22章32節)と言われた。主イエスは、二度は、「愛するか(アガペー:無償の愛)」と言われ、三度目は、ペトロと同じ言葉で、「愛するか(フィレオ―:友なる愛)」と言われた。ペトロの負い目か、イエスの譲歩か、いずれにしても、わたしたちは、主イエスがわたしたちを愛されたように、愛することが求められている。主イエスご自身が「まことのパン」(ヨハネ6章32節)である。そして、「良い羊飼い」(ヨハネ10章11節)である。じつに、ご自身の群れを養うお方が、ご自身の命を与えてくださったほどに、無条件の愛をもって、愛しておられる。「イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい』」。
3・「はっきり言っておく(アーメン、わたしは言う)」と、主イエスは、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして言われた」。主イエスは、ペトロの否認を予告された時、すでに、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(ヨハネ13章36節)と言われた。十字架の死についていくことのできる人は一人もいない。しかし、死ぬことはキリストと信じる者たちは、主のために自分の十字架を負う道を進むことはできる。それは、聖霊の恵みによる、悔い改めと、日々、新たな献身の道であり、御国に凱旋する道。自分に頼らず、主にすべてを明け渡して歩むとき、わたしたちの献身は、ただ、主の愛と真実のゆえに、確かなものとされる。
おわりに・「主はわたしの羊飼い」への深い信頼を告白し、共に、主の栄光をたたえたい。
2024年4月14日 礼拝説教 中心聖句
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。 ヨハネによる福音書21章12節
あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
詩編104編28節
はじめに・情報洪水の中で、今日、復活の主キリストの平安の中に、神の言葉に聞きたい。
1・「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさった」とは、まぎれもなく弟子たちが見たことの証言はたくさんあることを証しする。「弟子たちの前で」とは、弟子たちが本当に見、聞いたことがどれほどの深い記憶と慰めに満ちているかを物語る。「多くのしるし」とは、いわゆる奇跡に限らず、イエスご自身が、神の子にして安息日の主であり、当時の神殿にまさって、三日目に復活されたお方であることを告げる御業。「それはこの書物に書かれていない」とは、福音書自体がもつ目的を示唆する。それでは、福音書の目的は何か、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシア[キリスト]であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」。福音書は、単なる伝記・証言集ではなく、神自ら、「受肉」された、永遠の「言」、神の独り子イエスを啓示する「神の言葉」。その目的は、神とキリストの栄光(1章14節)。聖書信仰は、その栄光を見、復活のイエス・キリストを「わが主、わが神」と告白する。
2・「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された」。それは、「死者の中から復活た後」「三度目」のこと。そこには、「 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル(多分バルトロマイと同じ)、ゼベダイの子たち(ヨハネとヤコブ)」「ほかの二人の弟子が一緒にいた」。
シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」弟子たちは日常の働きで糧を求めて生きる。夜明けで、霧か何かで、岸に立っておられたイエスの姿を確認できなかった。岸から「イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』」と呼びかけると、「彼らは、「ありません」と答えた」「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキス(約90m)ばかりしか離れていなかった」。ペトロの、主への愛は、不器用ながらも、誠実に示された(!?)。
3.「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった」。「その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた」。「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』」と尋ねようよしなかった。「主であることを知っていたから」。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与え」「魚も同じようにされた」。弟子たちは大きな感動の中、主イエスの備えられた朝の食事の時をともにした。主の全面的な愛は、その日の糧を与え、今日の生活に備える。
おわりに・神に造られた生き物は、神に自分の食物を求める。人は自分の仕事をし、生き物にまさって、食卓を整える。主の御手が開かれているなら、今日、その中で共に憩いたい。
2024年4月7日 礼拝説教 中心聖句
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 ヨハネによる福音書20章29節
「シオンについて、人々は言うであろう この人もかの人もこの都で生まれた、と。」いと高き神御自身がこれを固く定められる。 詩編87編5節
はじめに・主の復活節第二週の今日、「八日目」の復活の主との顕現から真の信仰を問う。
1・「十二人の一人」とは、人数としては、イスカリオテのユダ一人を欠く11人。十二使徒の一人「ディディモ(双子)と呼ばれるトマス」とは、トマス自身が双子の一人であったのか、あるいは、その性格が、だれかと瓜二つであったのか。相反する性格を顕にする人とも。このトマスが、「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。 そこで、他の弟子たちは、「わたしたちは主を見た」と言った。この時、トマスが言ったことばは、しばしば、「疑い」として理解される。あの十字架から十日、他の弟子たち同様、トマスには不安と恐れ、痛みと絶望があった。トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。ならば、わたしたちの信仰は「疑い」のないものか。そうではないのでは。
2・「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」 詩編133編において「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と賛美される。主が、「祝福と、とこしえの命」を告げられる日、一人ももれなく、皆(全教会員、地上の全教会のそれぞれの群れ、ときに一同が集うこと)が、一つの礼拝の交わりをささげることは、このうえない喜び。この時、十字架において離散した弟子が再び相集う恵み。また、堕落した全人類からすれば、礼拝は、苦難と試練の中、神の憐れみによる集会。最初に主イエスが弟子たちに現れた日同様、「戸にみな鍵がかけてあった」。そこにイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和』」と言われた」。その時、イエスはトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。
3.「トマスは彼に答えて言った、『わたしの主、わたしの神』」と。トマスは、あなたを見たので信じます、とは言っていない。むしろ、深い畏れと感動の中で、ただ、イエスを「わたしの主、わたしの神」と呼ぶ。それは、イエスご自身が、まことの神、主であることを信じ、告白する。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中から復活によって力ある神の子と定められた」「この方が、わたしたちの主イエス・キリスト」(ローマ1章3,4節)。じつに、イエスは、永遠の神の御子でありつつ、罪をほかにしては、まことの人間となられ、復活によって、力ある神の子であると宣言された。神がイエスに与えてくださった子らと同様に、「血と肉を備えられた」イエスは、「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」(ヘブライ2章15節)された。トマスの信仰告白は、その場限りのものではなく、復活の主、勝利の主、生けるキリストにおいてゆるぎないものとされた確信。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。ただ、主の恵みの中に「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれ」る(ペトロ一1章8節)。
おわりに・詩編87編は、かつての敵が、神から生まれる民に変えられることを預言する。今日続く種々の争いを鎮め、本当の平和が実現する日、この日こそ、復活の主の再臨の日。